雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

三島由紀夫の言葉 「明日死んでも……」

2024-05-28 06:30:00 | ことばのちから

                

三島由紀夫の言葉
 「明日死んでも……」1968年茨城大討論会

  「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。今日は死ぬかもしれないという気持ちだったら、どれだけ人間は全身的な表現を毎日繰り返せるかわからない」
 1968年、56年も前の話になるが、茨城大学の学友会が主催する学園祭に作家の三島由紀夫が
招へいされた。1968年11月16日のことだ。
1968年の世相
この年の1月には、東大医学部無期限ストに突入・東大紛争が始まり、
 2月には成田空港阻止・三里塚闘争集会等社会不安が募り始め、
 学生運動が活発になり、デモ行進が頻繁に行われ、学生間のイデオロギー対立に基ずく、
 暴力事件も頻繁に起こり、警官隊との衝突も頻繁に起こった。
  新進気鋭の小説家石原慎太郎は政治家としてのスタートを切り、
 青島幸雄、横山ノック等タレント議員が出現した。
  文学の世界でも、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、
 三島、石原、大江の若い作家たちの間で、
 「文学で何ができるか」といった、文学の役割論が戦わされた。
 三人のうち最後まで文学のみちを維持したのは大江健三郎のみだった。
  年末には未解決現金強奪事件「三億円事件」も起きている。

楯の会設立

茨城大学文化祭の討論会(1968年11月16日)に三島が出席する少し前の同年10月5日、
三島は「楯の会」を設立している。
 設立目的: 日本の伝統と文化の死守
 活動内容: 左翼革命勢力の関節侵略に対する防備
  日本の文化と伝統を「剣」で死守する有志市民の戦士共同体として組織された。
                              (ウィキペディア参照)
 当時、三島は小説家として人気を博していたが、
論客として一橋大や早稲田大で学生との討論会に積極的に出席し、持論を語った。
「守るべきものは何か」「未来は存在するか」という論旨のもと、三島は、
「明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん」
と三島は熱く自分の人生に裏打ちされた「論」を、学生に向かって語り掛け、
学生の言うことにも真摯に耳を傾けた。
  (eiga.com)
(1969年5月13日、東京大学駒場キャンパス)
この討論会の一年半後に、三島は自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決します。
茨城大討論会に三島を招いた学生・小野瀬さん
 小野瀬さんによれば、当時の学生運動の真っただ中、反政府・反体制を訴える組織もある中、
学友会は政治活動を持ち込まず、学内の正常化を求める立場だったと言う。
 三島は学生からの質問を正面から受け止め、答えた。3時間半があっという間に過ぎた。
それから二年余り経った1970年11月
25日、三島は陸上自衛隊の市谷駐屯地で自決した。
社会人として活躍していた小野瀬さんは、出張先でこのことを知り、
「こころの中に空白ができ、力が抜ける思いだった」と語る。
あの日、母校茨大の討論会で三島は何を我々に伝えたかったのか。
 小野瀬さんは、国際協力活動など、喜寿を迎えた今でも続けているという。
その背景には、あの日の三島の言葉がある。
明日死んでも十分な生き方をしなきゃならん。……
 最後に三島の言葉に大きな影響を受けた小野瀬さんの生き方を紹介します。
「私は命ある限り、一生懸命に生き、その命を使って社会に貢献したい」。
情熱をかけて毎日を過ごせば、よりよい社会につながると信じる。
                               (朝日新聞2024.5.16記事を参照し構成・編集した)
マルチン・ルター(ドイツの宗教改革者)の言葉
 たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える

 生きる力を情熱に変えて、真摯に生きていこうとする心情は三島の言葉と通じるものがある。

「世界滅亡」の危機に晒されても、

希望を失わず決してブレることのない強靭な精神がこの言葉にはある。

いずれにしても、三島の言葉にもルターの言葉にも、

私たちを引き付けてやまない言葉に託した強い思いがある。

それは、「いま自分にできることを精一杯やっていこうという決意」が

この言葉の中に潜んでいるからに違いないと思う。

      (ことばのちから№15)                    (2024.05.07記)

 

 

 

 


 


 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (13) 二次避難所から一次避難所へ戻る

2024-04-06 06:30:00 | ことばのちから

「やっぱり地元で…」戻る一次避難所 朝日新聞2024.03.06

ホテルなどの二次避難所から、
「一次避難所」に戻りたいと希望する被災者が増えている。(リード文より抜粋)


 能登半島地震の被災地では、一次避難所の小学校の空き教室や体育館、
公民館などに避難した人などのうち、高齢者や病気療養中の患者、
プライバシーに制限のある集団生活を送るのが難しい被災者を中心に、
二次避難所としてホテルなどの比較的生活環境の落ち着ける場所を、
希望者に提供してきた。しかし……

住めば都にはならなかった

 珠洲市のMさん(85歳)は、被災後金沢市の姉の元に身を寄せた。
しかし、2月末には一次避難所の小学校に戻ってしまった。

 「金沢は水もトイレも使えるし、あったかい寝床もあった。
 でも、知り合いも話し相手もいない。珠洲なら知った人ばかりだもの」

 珠洲市は人口減少により、過疎の進行が進む町である。
若い人たちは珠洲の町を出ていき、高齢者比率が高い町になってしまった。
でも、そのような街だからこそ、人と人とのつながりが深く、
近所づきあいの中に、助け合いの精神が色濃く残っている。
残った者同士、幼なじみの気心の知れた仲間たちの集まる地域だった。

 震災の被災者になり一次避難所に生活の場を移したが、
集団生活になじめず、金沢の姉の家に移った。
住み慣れた珠洲と違って、Mさんにとって見慣れぬ風景の街で暮らすことは、
一歩外に出れば、知らない人ばかりのご近所さんに、故郷珠洲の風景が思い出される。
「帰りたい。珠洲の街に」。
望郷の思いに耐えがたく、Mは故郷珠洲に帰ってきた。

 被災した家に住むことはできないから、
また一次避難所での集団生活が始まった。
ここの生活には、規則があり、気疲れもする。
だが、ここには震災で激変してしまった故郷の風景だが、
それでも生活の匂いがあり、この土地に根っこを下ろした安心感があった。

 避難所での朝食が終わると、傾いた自宅に戻り、
瓦礫の片付けや、畑の野菜の世話をする。
自宅は傾いてしまったけれど、やらなければならない仕事があり、
それが何より生活の張りになり、生きがい対策にもなる。

 「明日の自分もわからない。でも、わたしは珠洲にいたい」

珠洲市のTさん(69歳)は、親族のいる大阪府に避難した。
3月上旬には、大谷小中学校の体育館の一次避難所に戻ってきた。
自宅の荷物整理や罹災証明の再申請が目的だという。

「近所では家が倒壊し、亡くなった人もいた。
 そんな中で、大阪での不自由ない暮らしはうしろめたい」

珠洲市長
は、二次避難所から一次避難所へ戻ってくる被災者を、
「お戻りいただけるのはありがたい」
と収容人数に比較的余裕のある一次避難所への斡旋をしている。

石川県輪島市の場合
 震災から3カ月経過して、最も多い時で167ヵ所あった一次避難所は、今50ヵ所に減少している。
4月からは倒壊家屋などの公費解体の手続きが始まる。
 市職員の避難所への通しが付き、
解体作業に関連する職務に職員を配置する段階にきている。
「そこでまた一次避難所に人が増えると対応が必要になる。
戻りたいという人を受け入れたらきりがない。心苦しいが断るしかない」
(担当職員)
 対応職員の不足がまねく、苦渋の選択なのだろう。
だが、住み慣れた故郷の避難所に戻りたいという被災者を戻ってくるな、
と言わないまでも、対応職員が不足しているから一次避難所に戻るのはご遠慮願いたい、
という方針がよいのかどうか疑問は残る。

一次避難所になっているある公民館の現状
「輪島に戻りたい」
「家が倒れて、帰るところがない」
 いずれも、切実な問題だ。
 一次避難所から、二次避難所に移ったものの故郷から離れ、
 知らない人達の中で暮らすのに疲れ、故郷帰還の願望が高まる。
「家が倒れて、帰るところがない」という表現のなかにも、
二次避難所に移った生活がうまくいかなかったための
故郷願望の切実な願いがあるに違いない。

県はどう考えているか
 県の担当者は、「(二次避難から一次避難への逆流を)断る想定はしていなかった」
と想定外であったことを明かす。
一次避難の運営は各市町村の対応で、判断の統一は難しい。
従って、避難所の開設に期限などの決まりはなく、
仮設住宅の促進など支援を急ぐ必要があると、歯切れの悪い回答が返ってくる。

遠くの避難所、能登特有の地形
 県はいち早くホテルや旅館などを二次避難所として確保した。
能登半島の被災地では、
二次避難所とするみなし仮設として活用できる住宅が少ないという事情もあり、
二次避難所は県内の別の自治体や県外が採用された。
住み慣れた土地を離れ、見知らぬ人たちとの生活に疲れ、
望郷の念に駆られた人も少なくはない。
「一次避難所に戻るということを念頭に置いた避難、
生活再建の計画づくりを進めることが重要」(京都大学教授・矢守克也 防災心理学)
と指摘する。
 能登半島の復興は、日本の半島や離島などの地域づくりに関わる重要な課題を示している。
地震災害の教訓を、今後検討されるであろう「創造的復興プラン」に反映し、未来への教訓としたい。


            (ことばのちから№13)              (2024.4.5記)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




                     









 

 

被災の奥能登4市町、人口減に拍車 前年比3倍超
産経新聞2024.4.1

支援活動で福岡県から訪れ、「輪島朝市」付近で手を合わせる男性=1日午後1時53分、石川県輪島市(渡辺恭晃撮影)

市町別の減少数は珠洲市が227人で前年同時期(24人)の9・46倍に達した。輪島市336人(前年同時期150人)、能登町129人(同20人)、穴水町71人(同28人)だった。

2月の転出者数は珠洲市が115人で前年(11人)の10・45倍となった。輪島市は239人(前年132人)で、能登町79人(同15人)、穴水町55人(同16人)。県人口は前月比0・15%減の110万4587人。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (12) 公衆電話に列

2024-03-26 06:30:00 | ことばのちから

   能登半島地震 (12) 公衆電話に列
    能登の避難所 公衆電話に列
      孤立集落唯一の連絡手段(朝日新聞2024.3/22)
 能登半島の被災地では携帯電話が数日間繋がららず、
公衆電話が外部との唯一の連絡手段になった地域になった。(リード文)

 石川県輪島市の粟倉(あわぐら)地区は周辺道路の寸断により、一時孤立状態になった。
携帯電話は不通になり、被災者たちは身の安否を知らせる手段を失った。
公民館には、地区で唯一の公衆電話があった。
みんながこれに殺到した。電話を待つ行列ができた。

「とりあえず大丈夫だ」。そう伝えると、「よかった、心配していたよ」と安堵の声が返ってきた。
少しでも多くの人が使えるように、みんなと同様に1分ほどで電話を切った。

 発災後の数日間は停電などの影響で、携帯電話も固定電話も使えず、
公衆電話に40人ほどの列がて来たこともあったと記事は伝える。

公衆電話が激減
上野駅前の公衆電話は難題も並んでいて、
目の前の車道を走る自動車の騒音と電話で話す隣の人の声が邪魔をして、こちらの電話の声も大きくなる。
片側の耳に受話器を抑え、反対側の開いた手で耳の穴をふさぐシーンが風物詩になっていた。
 右も左もわからないお上りさんが到着の連絡を取り、相手の迎えを待つ姿がたくさんあった。
十円玉が時間の経過とともに、コトリ、コトリと落ちていく音が、今でも懐かしく耳の奥に残っている。
饒舌な話は時間とお金の無駄遣いになり、
たいがいは、簡潔に要件を話して電話を終わり、後ろで待つ人に電話を回す。

 いたるところに公衆電話があった。
駅のホーム、校門の前、スナックのカウンターの片隅、病院の待合室など。
ホテルのロビーにはボックス型のしゃれたデザインのも公衆電話が並んでいる。
格式を重んじるホテルほど個性的な電話ボックスが並ぶ。

 携帯電話の時代が来ることを誰が予想していただろう。
携帯電話が普及し、いまでは小学生まで持っている時代だ。
携帯電話の普及で公衆電話の利用は激減し、採算も合わなくなっていった。
それに反比例するように公衆電話の数が激減していった。

 1984(昭和59)年、最盛時の台数は全国に約93万4千台あった公衆電話。
 2022年度は約12万1千台となった。最盛時の8割減である。
さらに、NTTは1931年度までに約3万台まで削減する予定である。

「災害時用公衆電話」
 公衆電話激減の対策として、「災害時用公衆電話」の設置が計画されている。
このシステムは、東日本大震災以降に普及が促進されている。

避難所となる公民館や小中学校などに回線を敷き、、小型の電話機も建物内で保管。
災害時は施設の管理者が電話機と回線をつなぎ、無料で利用できるシステムだ。
全国で約8万8千台が配備されている。

「災害時用公衆電話」は今回使われたか

記事によると、2ヵ所に設置された「災害時公衆電話」はいずれも使用されなかった。
市の担当者は
「存在自体を認識しておらず、何処にしまわれているかもわからない。
 いざという時に活用できるようねまずは市職員内での周知に努めたい」
と話している。
 
責任の所在を明らかに 
 周知徹底を図ることは当然のことだが、今回災害時に利用できなかったことの責任はどの部署の誰にあるのか、調査が必要だ。能登地方では2年も前から頻繁に地震が発生していた。この2年間市はどのような対応をとっていたのか検証を行ってほしい。それが、今後の貴重な教訓になる事を願っています。

  能登地震を歌う 二題(朝日歌壇から)
  
    軒ごとの「危険倒壊」見やりつつ水貰(もら)はむと地割れの路ゆく 
                                   (田中伸一)

    
駅前の広場に能登の牡蠣小屋が臨時に出来てラッシュの賑わい 
                              (木村義熙)

    (ことばのちから№12)      (2024.3/25記)                      
               

   

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (11) 奥能登4病院医療維持に危機感

2024-03-21 06:30:00 | ことばのちから

能登半島地震 (11) 奥能登4病院医療維持に危機感

奥能登の4病院、
 看護師60人以上が退職・意向 医療維持に危機感
                                 2024/03/04 06:00

 看護師総数の約15%
石川県奥能登地域には四つの公立病院がある。
この医療機関で働く看護師にも疲労が蓄積している。これらの医療機関に所属する看護師の
60人以上の看護師が退職したり、退職の意向を示したりしている。
看護師の総数約400人のうち約15%にあたる。
看護師自身が被災し、生活再建の見通しが立っていない。
退職者が看護師の2割に上る病院もあり、
病院関係者は医療体制が維持できなくなるのではと危機感を募らせている。

市立輪島病院の場合
 
 輪島市唯一の総合病院。
医療機器が損壊し、一時断水したこともあって、100人近くいた入院患者の大半は別の病院へ転院した。
今も20人が入院している。
自分の家は倒壊。時間外勤務をしなければ病院の運営が成り立たない。
疲労感で気力もそがれてくる。
子育てもむずかしい。

1月下旬から外来診療を再開。震災前の3割ほどに減ったものの1日に
約150人が訪れる。 

他の医療機関から看護師の応援を受けなんとか患者さんへの対応はできているが、

約25%が退
職を希望し、10人以上が退職届を提出しているという。

道路の寸断で通勤が難しく、空き病棟で寝泊まりする看護師。

発災当時は、使命感に燃えて、自己犠牲を伴う業務を続けることもできたが、

過度の労働は勤労意識の減退につながり、進退を考えるようになってくると、

それ以上の無理はできなくなってくる。

高齢者率が50%に迫る過疎の町で、市や町の医療機関は危機を迎えている。

地方の医療機関の抱える共通の問題でもある。

だから、「子供が集中して学べる環境が整う金沢で職場を探したい」という希望も
「これから病院がどうなるのか、将来への不安もある」
という考えも当然のことと思える。



 珠洲市総合病院の場合

 約125人の看護師のうち22人(18%) が退職を希望している。
どの病院でも同じように、医療業務に疲れてしまったわけではなく、
地震災害という緊急事態に、自らも被災しながら、
地域医療を支えることの難しさに心身ともに疲弊している状況が見えてくる。
「家を失った人も多く、目に見えない負担は相当ある」 (I事務局長)
さらに、医療の前線で頑張る医師や看護師を支える裏方の医療事務者や調理師にも退職希望者が出ている。
「病院はチームワークで成り立っている。先が全く見通せず、
患者数が増えたときに看護体制が厳しくなるかもしれない」という。(同)

退職の意向を示す看護師数と退職後に運用可能な病床 (読売新聞)
市立輪島病院       約120人の看護師のうち退職希望者約30人
                175床のベッド数は30~40床に減少

珠洲市総合病院             126人のうち約20人が退職を希望
                 163床のベッド数は40床に減少

公立穴水総合病院     約70人のうち約10人が退職を希望 
                 100床のベッド数は35床に減少

公立宇出津総合病院   95人のうち約10人が退職を希望
       (能登町)    100床のベッド数は30床に減少

   奥能登は高齢化が進み、震災前から看護師不足が生じており、
 生活基盤が復旧しても、一度流失した看護師が戻ってくるかは不透明だ。

  県看護協会は、4病院に勤務できる看護師や助産婦の募集を始めた。
 しかし、被災地では断水が続き、家屋倒壊も広範囲にわたり、派遣は思うように進んでいないという。
 「生活拠点がなければ長く続けてもらうことはできない。最低でも住まいを確保することが重要だ」
                                                     (県看護協会会長)
 

  厚生労働省はこれまでに4病院に延べ1264人の看護師を派遣。
 しかし、住環境を整えなければ、長期にわたる派遣は難しく、受け入れ体制の強化が必要と思われる。
 

石川 被災した病院の看護師 離職防止へ 在籍出向を検討 厚労相
                    (NHK NEWS 2024.2.20)

     能登地震潰れた家の傍らに椿咲くのが一入(ひとしお)悲し   森田光子

     古老云う「雪の深さは情けの深さ助け合わねば生きられない」と  柳村光寛

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (10) 疲弊する支援員

2024-03-10 06:30:00 | ことばのちから

能登半島地震 (10) 疲弊する支援員
   
もう辞めたい…自治体職員も被災者 悲鳴あげる心身 

能登半島地震の発生からまもなく1カ月半。住民の支援や復旧の業務にあたる被災自治体の職員から「このままでは倒れてしまう」と悲鳴が上がっている。職員の多くは自らも被災しており、心身の負担を減らすための対策が急がれる。

住宅約5000棟(2/9日現在)の損壊が判明した石川県能登町。
カップ麺や飲料水、消毒液など支援物資がうずたかく積まれている。
各避難所にこれらの支援物質を、各都道府県から派遣された応援職員に指示し仕分けをしていく。
支援物資を行政区域の避難所へ仕分けする作業に、避難所運営の仕事も交代で回ってくる。
「2月に入って週1日だけ休めるようになりました。
 自宅に帰っても片付ける気が起きず、地震発生当時のまま散らかっています」

「避難所から出勤したり、役場に寝泊まりしたりする職員もいる。自分はまだ良い方」
                                 (能登町支援員)
子どもを祖父母宅に預け、食器が倒れたままの自宅から職場に通う職員もいる。

震災直後は気持ちも高ぶっていたが、最近では先行きが見えないことに落ち込むこともある。
「生活環境や子どもの教育を考えると、家族で転居した方がいいのかもしれない」。
退職という選択肢が頭をよぎっている。(女性職員40歳)
 
被災地職員 過労死ライン
       輪島市 残業月100時間超え8割
                     (朝日新聞2024.03.03)
能登半島地震から2カ月が経ち、元旦から災害対応を続ける自治体職員の過酷な長時間労働の実態が明らかになってきた。1月の時間外勤務(残業)が「過労死ライン」とされる100時間を超えた職員が、約8割に達した市町もある。(リード記事)

輪島市の場合 
      管理職を除く事務職の正規職員全部で218人のうち
    1月の時間外勤務が100時間を超えた職員が167人(約77%)、
    時間外の平均……約148時間

    この数字は過労死ラインの100時間をはるかに上回っている。
    災害対応の中軸を担うのは防災対策課だが、
    震災前の昨年1月の
時間外勤務が超えた職員はゼロだった。
    発災直後、多くの職員は多くの職員が家に帰れず、庁舎の床に寝袋を敷いて寝たり、
      机に突っ伏して仮眠をとる職員も少なくなかった。
穴水町の場合
    集計中だが、1月の時間外労働が過労死ライン100時間を超えた職員……8~9割
七尾市の場合
    職員471人中128人が
過労死ライン100時間を超えた職員(約27%)
珠洲市の場合
  
 1月中旬まで全員がほぼ休めていない。
    時間外労務が増えた理由の一つに「支援物資の受け入れ」を挙げている。
道路事情が悪く物資の到着が深夜や未明にずれ込むことが頻発した。
   また、安否確認の電話への応答、避難所運営など、
   24時間対応を迫られる業務が多かった。

   被災後2ケ月を経て、避難者が2次避難場所に移動したり、
   自主避難に切り替えた人、仮設住宅に移動した人などで、
   各市町とも避難者が当初の混乱期から比べると少なくなってきている。
   また、応援職員などの作業効率なども向上し、
   2月の時間外勤務は1月より減少している、と記事は伝える。

珠洲市職員Kさんの場合
   対応に忙殺 12日間連続勤務
「母が無事か確認してくれ」
「親族と連絡が取れない」
震災当所、安否確認の電話が鳴りやまず、電話口で怒鳴られたこともしばしば。
   倒壊を免れた彼の家は、市役所まで車で15分の道のりにあったが、
   通勤路は亀裂が激しく危険な状態だったので、市役所に近い避難所に移った。
   仕事が終われば、避難者と支給された食事を一緒に食べ、
  段ボールのベッドで横になる。
  そんな生活が1カ月ほど続いた。
  3月3日に2カ月ぶりに自宅に戻ったKさんは次のように当時の心境を振り返る。
「この2カ月、本当に大変だった。でも、少しは珠洲の力になれたかなと思っている」

 災害の規模や混乱ぶりを報道するのは、ジャーナリストの第一の目的だが、
 震災から2カ月以上を経た現地で、市町の職員や避難者どのような行動をし、
 考えたかを掘り起こすのも非常に大切な職務だと思う。
 今私が参考にしている記事は、朝日新聞3月3日付の記者により著名入りで報道された
 ルポルタージュ記事である。

過労死ラインの時間外労働100時間を超える先に見えて来るもの
 「燃え尽き症候群」
 人の体力や精神力には個人差があり、過労死ラインの100時間は一つの目安である。
人によっては無理な勤務が続けば、危険ラインを超える前に、体力の限界を感じ、
精神のバランスを欠くことは十分に予測される。
ある日、仕事に対する意欲が急になくなるような症状が現れた場合は、「燃え咲症候群」の可能性もある。
対応が遅れてしまうと、「うつ病」や「アルコール依存症」などを併発し、
快癒するのに時間がかかってしまう。

「災害派遣精神医療チーム(DPAT)」
被災自治体の職員の心のケアをする専門チームが被災地に派遣されている。
また、産業医科大の支援チームは、スマホなどで疲労度を自己評価する健康管理システムを使い、
リスクの高い人への聞き取りなどの取り組みもしている。
業務でのミスが増えたり、怒りやイライラが仕事中になったりすれば、
肉体的疲労と精神的疲労の蓄積を疑い、適切な医療の措置が必要になる。
      (ことばのちから№10)                     (2024.03.09記)

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (9) 輪島朝市大火②

2024-03-07 06:30:00 | ことばのちから

能登半島地震 (9) 輪島朝市大火② 
輪島朝市の大火は地震の直後に起き、テレビ画面に映された映像は、
 小さな火災ですぐに消えるだろうと私は思っていた。
 それよりも、テレビの緊急速報は「津波の恐れがあります。すぐに避難してください」
 と繰り返しアナウンスし、NHKの定点カメラは人気の途絶えた街並みを映すことと、
 避難勧告を繰り返すばかりだった。
 次の火災の放映では4~5軒の火災に広がっている場面だった。
 放映する側も視聴者もこのような大火になる事を予想できなかったように思う。


 東日本大震災の火災
  東日本大震災の火災は、津波で流された家屋の瓦礫が集まった場所からの出火で、
  能登の大火のように火元が一か所からの延焼ではなく、火災発生個所が何か所もあり、
  しかも津波で流された家屋などの瓦礫が漂って広範囲にわたって集積しているような火災現場で、
  消防車が近づけるような状況ではなかった。


さて、輪島朝市の火災だが、地震の直後に起きた火災は、一晩中延焼を続けた。
 大津波警報が発令され、住民らは避難するさなかだった。
 消火栓や防火水槽は倒壊家屋や断水などで使用できず、
 消防車は寸断された道路に阻まれなかなか現場に到着できなかった。 (ここまで前回の概要)

輪島の地震火災、電気配線原因か 
         溶けた痕跡、焼損240棟(共同通信2024.2.15)

<picture>  </picture>
ほぼ全域が焼失した石川県輪島市の「輪島朝市」周辺=1月

 総務省消防庁は15日発表。屋内の電気配線が地震で傷つきショートするなど、電気に起因した可能性があるとの見方を示した。
 火災に被災した家は240棟で、東京ドームより広い地域が焼失した。急速に燃え広がった原因は、
防火性能が低い古い木造の建物が密集していたためと分析している。

電気火災について
 電気配線がが傷つき、ショウトして発火し、火災を引き起こす現象。
阪神・淡路大震災(1995.1.17)や東日本大震災(2011.3.11)でも、
火災原因の6~7割占めたと言はれている。
 過去に発生した災害を研究・分析し教訓とすることは、災害予防の鉄則だ。
南海トラフと巨大地震ゃ首都圏直下型地震が起きれば、倒壊した家屋の下敷きになり、
救助を待ってる間に火焔に襲われ焼死する恐れも予測できる。
多数の罹災者の命をどのように守ったらいいのか。

「感電ブレーカー」
 政府は、揺れを感知して電気を遮断する「感電ブレーカー」の普及などの対策を進めるという。
 「感電ブレーカ」の設置にどのくらいの費用が掛かるのか、どの程度の地震で作動させるのか。
 地域全体が実施の方向で取り組まなければ大災害時の電気火災を防ぐことはできない。

輪島 朝市通り火災は1か所から拡大した 重なった想定外と誤算
                     (
NHK NEWS WEB2024.2.1) 
1か所から出た火の手は瞬く間に広がり、多くの住民が犠牲になった。
なぜ火災は拡大し、住民たちの命を救うことはできなかったのか。
火災に
ついて取材を進めると、消火活動を阻むいくつもの想定外と誤算が重なっていたことがわかった。
                                                                                                                                (金沢放送局 記者 竹村雅志)

 倒壊した家屋に閉じ込められた両親              
          迫る炎「悪いけども逃げるよ」

  午後4時すぎ、輪島市で震度4と震度7の地震が相次いで発生。
1回目の揺れのあと、清水さんは「津波がくるかもしれない」と思い、
駐車場に止めてある車のもとへ向かった。
そのとき、2回目の大きな揺れが発生し、実家の1階部分が完全につぶれて倒壊した。
両親の姿が見えない。
倒壊した家屋に向かって両親に呼びかけると、母親の声が聞こえた。
「無事だよ」
という声が1階部分の瓦礫の中から聞こえてきた。
「助け出したいが、姿の見えない母親を自力で助け出すことは不可能な状況だった」
近くで発生した火災の炎が迫ってきた。両親を助け出すためにその場に残るか、逃げるか。
葛藤の末、清水さんは母親にこう告げる。
「悪いけども逃げるよ」母親からは「わかったよ」と、返事があったという。
これが母親との最後のやりとりだった。
両親の行方はわかっておらず、実家があった場所からは人の骨が見つかり、
警察のDNA鑑定が進められている。

1か所から次々と延焼 大規模火災に
 
何名かの輪島市消防団の団員が救助活動に向かう途中、火が出ているのを発見している。
地震発生から約1時間後の5時23分頃だった。
この時、火災は隣接する2棟の1か所だけだった。
火はここから延焼を拡大し、大火災へと広がっていった。

 初期消火が可能な段階で、消防団に発見されながら、
火災は沈下されることなく大火災に発展してしまった。
何故なのだろう。
 
 第1の原因 消火栓が使用不能
 
 最初に到着した消防署員は、消火栓までホースをつないだが、
 水道管が地震で破砕し、断水して使用不能。

 第2の原因 川に水がなかった
 近くを流れる河原田川に消火水の水源をもとめたが、地震による地盤の隆起が影響したのか、
 あるいは津波による引き浪の影響か、川にはほとんど水が流れておらず、
 消火に十分な水をくみ上げることはできなかった。

 第3の
原因 防火水槽に近づけない
 初期消火に失敗し、火災は延焼し拡大していった。
 延焼を延焼をくい止めるには、火元を複数の所から囲うようにして放水するのが有効だとされている。
 駆け付けた消防車はそれぞれ、消火栓や川の水に消火水を求めたがどの車も同じ理由で、
 消火活動が思うように活動できなかった。
 結局、最初に到着した消防車がかろうじて残っていた河原田川の水を放水できたにとどまつた。
 その川の水もすぐになくなり、初期消火に失敗してしまう。

 第4の原因 
海水による消火もできない
 消火栓は断水で使用不能、川の水は渇水、最後の手段は防火数層からの消火だ。
 だが、倒壊した家屋の瓦礫や、道路の陥没と隆起で消防車は行く手を阻まれ、
 火災現場に到着することに、非情な困難を要した。
 消火作業を妨げる様々な要因が、初期消火の原則を逃してしまった。
 最後の消火活動は海水放出による消火だ。
 だが、火災当時、輪島市では地震発生直後に1㍍20㌢をこえる津波が観測され、
 地震発生直後から大津波警報や津波警報が出されていたために、
 海に近づくことが出なかった。

 第5の原因 
 朝市通りには、古い木造家屋が多いのも、火災が短時間で広がる一因にもなっていた。
 その後現着した消防は、ホースを何十本もつなぎ、
    離れた場所にある防火水槽や小学校のプールの水を使用して放水した。
   しかし、ホースが長くなった分、水の勢いがなかった。
 火はすでに町全体を飲み込むように広がり、消火活動は思うに任せなかった。

 海水を使って消火活動が可能になった
 地震直後に発生した輪島朝市の火災は、いくつもの誤算や想定外が重なり、
 火勢は衰えることなく一日元旦の夜を燃え続け、2日の朝が訪れた。
 津波警報が注意報に変わった。
   消防は海水をくみ上げ、やっと本来の消火活動ができるようになった。
 午前7時半ごろ、輪島朝市通りの火災は鎮圧された。
 一帯の建物は焼け落ち、かつてのにぎやかな通りは黒く焼け落ち、
 あちこちから聞こえる売り手と買い手の元気な声や町並みは灰燼に帰した。

東京理科大学 小林恭一教授は、今度の輪島火災を次のように話している。
 
「阪神・淡路大震災では、消火栓が断水で使用できず火災が広がった教訓から、
 断水が起きても利用できる防火水槽の整備が進められた。
 しかし今回、その防火水槽が使用できなかったことを教訓にしなければならない。
 防火水槽の取水口を離れた場所にも複数設けて、
 1か所に障害物があっても他の所を使える対策をとるべきだ。
   木造家屋密集地が全国各地にあって、地震で火災が起きると、
   消防隊が活動できない場合があるので、
   木造家屋の不燃率を上げていくことも継続的にやっていかなければならない」
   (…略…)
 さまざまな想定外が重なり、被害が広がった輪島市の朝市通りでの火災。
 想定外を減らし、被害を拡大させないための取り組みを進めなければならない。
                                                                                                    (2月1日「NHKウオッチ9」を参照)

          (ことばのちから№9)        (2024.03.06記)


 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (8) 輪島朝市大火①

2024-03-03 06:30:00 | ことばのちから

能登半島地震 (8) 輪島朝市大火①
輪島の火災なぜ拡大 消火栓が使えれば
        元消防団員「初期消火で消せたはず」
(朝日新聞2024年1月25日 社会面)
           能登半島地震に伴う大規模火災で、地元の海産物や野菜が並ぶ観光名所「輪島朝市」
           (石川県輪島市)は壊滅状態となった。なぜ炎は燃え広がったのか。
(リード文抜粋)

がれきでぺしゃんこ 
(朝日新聞2024年1月25日 社会面)

 1月1日午後4時10分 (初期消火ができなかった)
  輪島市を震度6強の揺れが襲った。
  元消防団員のKさんは、近くのお寺に備えられてる消火栓を使おうとホースを延ばした。
  だが、消火栓は瓦礫でぺしゃんこになっていた。
  最初家屋から白い煙が立ち上り、きな臭いにおいが風に乗って流れてきた。
  炎が上がり始め、やがて蒼白い炎が舞うようになり、「バーン」という音が響いた。
  ガスボンベの爆発だ。
       「最初は火が小さかった。消火栓が使えれば初期消火で消せたはず」(元消防団員のKさん)

放水で使う川の水枯渇 (朝日新聞2024年1月25日 社会面)
 1日午後6時前
  避難先の高台に次々とやってくる住民を誘導していた輪島市消防団分団長Hさんの目に映った光景。
 約1.5㌔の朝市通り周辺の家屋から赤い炎が上がっているのが見えた。
 出動要請にもとづきあちこち崩れた道路を走り、現場に辿りついたとき、
 火災は道路両脇の
家屋数棟に比が広がっていた。
  大津波警報が出ていたため、消火の水源は海岸を避け、川沿いに消防車を付けた。
 想定外のことが起きた。
 川から水を吸い上げたが、ホースから出る水はまもなく泥になり、ついには砂になった。
 「津波の引き潮かと思ったが、今考えると地面が隆起して水が流れてこなかったのでは」
(分団長Hさん)

倒壊した家屋が行く手を遮る 道路の寸断、隆起、陥没 延焼する火災  
1日午後7時ごろ
 別の消防車は火元付近から500㍍にある河井
 積んでいたホースを出し、プールから水をくみ取って放水を始めた
 この時点で時間は火災発生からおよそ3時間が経過していた。
 火災は延焼し、消防車は少ない。同時に何か所もの放水を可能にするのに、ホースを分岐した。
 その結果水圧が弱くなる。近くの消火栓をひねるが、
給水管が破断しているためか水は出ない。
 熱気が強くなり、熱気を避けるように顔を背ける。
 消火活動の限界に後退
を迫られる団員達。
                    当初、火災現場に到着できた消防車は6台だった。
                    記事によると、輪島市内には一つの消防署と二つの消防分署、
                    16の消防団で計23台の消防車がある。
                     ほかの自治体や県にも応援を頼んだが、道路の分断は多岐に
                    わたり、駆け付けることが困難だった。

2日午前2時ごろ 少しだけ先が見えてきた
 この頃大津波警報は津波警報に切り替わっていた。火災の状況は深刻だった。
輪島朝市の最も北側に位置する、海に面した家屋にも火が迫っていたと記事は伝える。
津波警報に替わり、消防隊は海水のくみ上げ指示を出した。
海水の放水が始まり、水の勢いが強まった。(朝日新聞2024年1月25日 社会面)

2日午前7時半ごろ 火の勢いが弱くなったが……
 海水による放水が始まって放出される水が放水口から勢いよく出るようになり、少しずつだが、火の勢いが弱くなってきた。だが、新聞は輪島火災の容易ならざる状況を次のように表現した。
鎮火に至るまでにさらに100時間以上の時間を要した。
 
 日本三大朝市である輪島朝市が灰燼に帰した。日本最古の朝市で、奈良時代後期か平安時代の初めごろと言われている。物々交換の時代に、神社の祭日に行っていた市が交換の物が多くなり1000年の時を経て現在のような形になったといわれている。
 また、明治初期むのむ発祥という輪島塗も伝統工芸となり、輪島を代表する産業に成長したが、地震のために工房や住まいが倒壊し、職人の高齢化のなか、存在が危惧されている。
「輪島塗の職人たちが築いてきたものとか、大事な思い出も全部燃えてしまった気がします。悔しいですね」
                                                (40年漆塗りに従事した職人)
                    

【今日のことば】『また行こう、能登へ』
 一月に金沢へ旅をしたMさんの話。能登半島地震の被災で、深刻な状況にある被災地「能登」へ訪れるのも申し訳ない気がしたが、「今だからこそ行こう」とうご主人に背中を押されての再訪である。
終末の東京から金沢に向かう北陸新幹線は割合混んでいたが、終点の金沢駅では降りる人はわずかだった。
 過去の能登方面の旅を振り返るMさん。
  珠洲の塩づくり体験、輪島の朝市ではあめがふり寒い中、おばさんに魚を選んでもらったことなど。
 親切で温かみのある人ばかりと過去の旅の思い出を述べる。
  「地震のため、もう造られないかもしれない能登の貴重なお酒を大事に大事に味わった。
   一日も早く元の生活に戻れますように。また行こう。ぜひ行こう」
                                                                                                            (朝日新聞2024.02.28ひととき欄)
   何度行っても、能登訪問は日常生活からの一時の脱出に、心癒される旅になります。
  訪れるたびに「能登は優しや土までも」という言葉を思い出します。
  特に能登言葉というのでしょうか、語尾を息を抜いて、
  「○○してぇーぇー」「○○だからぁーぁー」というイントネーションの響きに、
  能登人の優しさを感じます。

      (ことばのちから№8)                    (2024.03.02記)
           

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (7) 災害廃棄物

2024-02-22 06:30:00 | ことばのちから

 能登半島地震 (7) 災害廃棄物
   災害廃棄物 244万㌧ 石川県内ごみ排出量7年分
                      (朝日新聞2024.2.7 1面)
石川県全体の全体の年間ごみ排出量の約7年分に相当に相当するという。
当然石川県だけで処分できる量ではない。
県外も含めて広域での処分、海上輸送もを検討している。
処理完了の目標を2025年度末としている。
 記者会見での馳浩知事の話。
「ぞっとする数。大変なハードルだ。復旧復興のあらゆる足かせになると想定される」
  危機感をもろに出した発言である。内容的にはその通り、間違いではないが
  健の最高責任者としての発言としてはどうかと思う。
  危機感が前面に出ており、被災者の感情を煽りかねない発言は控えるべきでしょう。
  自分に課せられた責任の重さを、回避するなと言われても仕方のない内容だ。
   馳知事のテレビ記者会見にもこのことが表れている。
  発表内容をあらかじめ画像入りでボードに張り付け、それを指示棒でなぞるだけ。
  ワイドショウのコメンテーターが視聴者に向かって説明を連想してしまう。
  よく整理された情報で、視聴者には理解しやすい反面、
  右から左へ情報が素通りしてしまう危険がある。
  石川県の被災者は知事の肉声を聞きたいと思うのは私だけではないと思う。

 ごみ132年分 片付くのか 珠洲 回収も家屋撤去も見通せず  (同 社会面)
奥能登(輪島、珠洲、能登、穴水)の被害甚大地域
 この地域では、151.8万㌧の廃棄物が予測されている。
 この地域の年間ごみ排出量の59年分に相当する。
 珠洲市は全半壊の棟数も多く57.6万㌧で、この市の年間のごみ排出量の132年相当する。
  (8年前の熊本地震では311万㌧の廃棄物が出て、完了までに2年を要した)



 道路の寸断が激しいため、奥能登の四つの港からの積み込みも視野に置いて検討している。

 処理費用について
  補助金と地方財政措置を合わせて国が全体の97.5%を負担する。
   罹災証明書
  家屋の解体撤去は、被害状況を示す罹災証明書が発行されなければできない。
  市町が所有者からの申請を受けて出すが、現地調査が必要で、ここでも人手が不足しているので、
  災害廃棄物処理のボトルネックになっている。

【声】
 「片付けたいが、どうしたらいいのかわからない」(84歳・男性)
   「昨年の地震でも災害ごみはすごい量だった。地区の家の倒壊具合を見ると、それくらいは相当だろう」
                                                                                                  ( 同・132年分の震災ごみについてと問われて)
    「周りは全部ごみいつになったら持って行ってくれるのか」(52歳・女性
)
 「(住民は)おじいちゃんやおばあちゃんばかり。どこから手を付けていいのかわからない」(住職・39歳)

東日本大震災の時にも、膨大な量の災害廃棄物が出た。
1年後に現地を訪れたとき、仕分けされた廃棄物が山のように積み上げられ、
大型ダンプが砂埃をあげて廃棄物を運ぶ景色を見て災害の大きさを改めて感じた。
堤防のコンクリートは破壊され、防砂林の松林は根こそぎさらわれ、
自然の暴威で破壊された痛々しい風景が忘れられない。
津波で押し流された船が民家の屋根の上に押し上げられ、あるいは海岸からかなり離れた田んぼまで流され、行き場を失くして放置された風景が忘れられない。
 いかに大きな津波であったか。
平野部に在っては民家はほぼ土台だけを残して根こそぎ津波にさらわて跡形もない。
たまに残った民家があっても、柱と屋根が残っているだけで、
家の内部は根こそぎ津波に持っていかれている。
 被災地だけでは処理できない廃棄物を、他県が協力を申し出たが、問題が起きた。
福島の廃棄物は受け入れられない、と民間からごみ受け入れに反対の声が上がった。
放射能で汚染されたごみを懸念する声が上がったのだ。
    
                   余談だが、半年前に福島県の原発被災地を訪れた。
                  原発の立地する大熊町では、2011年3月に発生した東日本大震災およ
                  び原子力災害により、一時全町避難を経験した。
                   その後8年後の2019年に一部避難指示が解除される。
                  その3年後、震災から11年後に町の中心地の避難指示が解除された。
                   しかし、解除されたとはいえ、町全体の面積のほんの一部分であ
                  り、12年後の2023年の私の訪れた、大熊町や浪江町、双葉町など、
                  まだまだ立ち入り禁止区域が多く、草に覆われた家や田畑が多く散在
                  する。
                  例えば、大熊町を例にとってみよう。
                  2023年12月1日現在の人口状況を見てみると、
                  全町民の人口 9960人(住民登録済み
) 
                        県内 7,741人 3,709世帯 
                        県外 2,219人 1,144世帯  
                  町内移住者  612人 475世帯 
                  復興の道遠しである。
                  12年経ち仙台、女川、三陸地方など災害の大きなところでも、
                  ほぼ整備が終了し災害記念公園ができ、新しい街は活気にあふれてい
                    る印象だった。 

  久々の学校「やっぱりいい」 公立小中校が登校再開 (同 社会面)
   輪島市内の市立小中学校が7校が、県立輪島高校の校舎を借りての再開である。
   対象児童・生徒は計159人。
   【声】
   「オンラインで話すより、直接会った方がやっぱりいい。クラスの再編で話したことない人とも同じク
    ラスになったので、これから仲良くなりたい」(中学一年)
                          引率される子供たちの笑顔がまぶしい報道写真だ。

    (ことばのちから№7)      (2024.02.22記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (6) 2次避難

2024-02-17 06:30:00 | ことばのちから

 能登半島地震 (6) 2次避難
  2次避難 新幹線延伸で迫る退去
   来月16日開業 被災者に戸惑い
    観光地の宿泊施設 期限延長できず
              (朝日新聞2024.02.10社会面)

  能登半島地震の被災者たちが2次避難先のホテルや旅館から出るよう決断を迫られている。
  背景にあるのは、3月16日の
北陸新幹線の開業があるからだ。
 それに加えて3月から4月ゴールデンウィークを直前までを対象に、
 『北陸応援割』が始まることも影響している。
  応援割は石川、福井、富山、新潟の4県全域を対象範囲とするが、開始日決まっていない。
 観光庁は「各県の状況を踏まえて検討する」としている。
 しかも、開始時に予約済みの分が対象になるかも未定である。
 東日本大震災の時には、「いったん予約を取り消して、すぐに予約を入れなおす」
 というような措置がとられた。
  「いつまでも自粛しているわけにはいかない。支援が起爆剤となってムードが変わればうれしい」
                           (富山県宇奈月温泉旅館協同組合代表者)
  一日でも早く、観光地としての賑わいを取り戻したい。これが観光被災地の願いでもある。
 石川県では「コロナ禍から立ち直り、借金を返すメドがついてきたのに、温泉旅館はほぼ9割キャンセル
 だ」(石川県議)。

  地域により被災の状況はそれぞれ異なり、復興に対する考え方も異なる。
 「地域の実情に応じて、生活再建と観光を同時並行で進めることが重要」とはなす。

  石川県旅行業協会発表キャンセル被害状況
   1月25日現在、宿泊予約の取り消しはのべ約2万5千人、金額に換算すると5億8千万円分になり、
  概算ではすでに10億円分を超えている。
 
 主な観光拠点の宿泊施設の状況 (朝日新聞記事から引用)
  石川県  和倉温泉  組合加盟の全22県が休業中
       金沢市内  一部休業があるが、ほぼ通常営業(市観光政策課)
       加賀温泉郷 ほぼ通常営業(加賀市観光交流機構) 
  富山県  富山市内  一部休業であるが、ほぼすべて通常営業(市観光協会)
       宇奈月温泉 通常営業(温泉旅館協同組合)
  福井県  芦原温泉  同温泉旅館協同組合の全15軒は通常営業

                  石川県では2次避難の機嫌を2月から3月末までとしているが、
                3月16日の北陸新幹線の開業や北陸応援割の支援が始まるから
               といつて出ていってほしいという身勝手はどうしたものか。

   2次避難所を担当する石川県観光戦略推進部は「基本的には、
   1人1日1万円の範囲内で3食つけて宿泊を提供してください、
   とお願いしていると話す
    だが、実際には2次避難斡旋に、業者に委託している場合もあり、
    県のホームページには、
   「滞在費用は無料です(食事の提供については、施設によって取り扱いが異なります)」
   と書かれている。また、自己負担となるものとして「売店での買い物、洗濯機の利用代、
   ご提供する食事以外の食事、お酒類、電話代、 駐車場代(有料の場合)など」を挙げている。
    食事付きに空きがなく、食事なしの施設を案内された場合の食費が自己負担となるのは
   「仕方がない」という。駐車場代に関しては「災害救助法の対象外なので」と説明した。

    二次避難の提供も、地方自治体によって異なっている。
   例えば富山県黒部市の2次避難を生活ニュースコモンの阿久沢悦子氏は次のように記事にしている。

   富山県黒部市は宇名月温泉旅館協同組合と調整の上、3食付きで2次避難を引き受けた。
  さらに、2次避難中に市が家財を用意して、市営住宅への入居準備を進め、
  市営住宅の水光熱費も入居後1年間は「避難中」とみなして無料にする、
  という手厚い支援パッケージを発表している。
  
   斡旋業者に二次避難の選定を丸投げしてしまうのか、地域に根差した自治体がきめ細かく、
  2次避難提供者とき詰めの話をするのでは、結果に差が出てくる。
  被災者の立場に立ち、被災者が何を望んでいるのか、施策の目的を最大限活用できるように、
  そして、被災者たちの自己負担ができるだけ少なくなるように調整するのが自治体の役目と
  思います。

   能登半島地震で、政府は2次避難の利用額の基準を1日7000円から1万円に引き上げが、
  なにがなんでも一万円以内に収めるということではない、自治体によっては食費に自己負
  担が生じないように差額を負担しているところもある。利用額の規定を超えた場合、
  いくらまでだったらいいのか、煩雑な問題も出てくるからと言って、紋切り型に1万円以上は
  しこ負担と言うのも、情がない。

最後に2次避難の具体的な例をいくつか紹介します。
二次避難所は一時避難所での生活が困難な方のために開設されます。

 1.災害時の避難所から一時的にホテルへの避難:
  被災地の一次避難所で過ごしていた住民が、避難所の状況や生活環境の制約から、
 ホテルや旅館などの宿泊施設に移動することがあります。
 これは、より快適な環境で過ごすための措置です。

 2.避難所から親戚や友人の家への避難:
  一次避難所で過ごしていた住民が、自宅に戻れない状況である場合、
 親戚や友人の家に避難することがあります。
 これは、避難所での生活が長期化したり、避難所の混雑を緩和するための手段です。

 3.福祉避難所への避難:
  福祉避難所は、高齢者や障害者、妊娠中の女性など、
 特定のニーズを持つ人々のために設けられた避難所です。

 

【能登半島珠洲市 伝統産業を詠う】

おにぎりに静かにしみ込む珠洲の塩鈍色の海の味をかみしむ 
     
 … 唐崎安子  (朝日歌壇)
                                                          

 
能登半島沖の日本海は暖流と寒流が混ざり合うポイントで、能登の海には多くの種類豊富なミネラルが含まれます。
珠洲の塩は海水100%で作った塩です。江戸時代は加賀前田家の「塩手米制度」により、奥能登では塩づくりが発展・発達しました。塩の製法にこだわり、奥能登の綺麗な海から塩を製造しています。
                                     (能登観光課ホームページ)
 製造方法には「揚げ浜式」「流下式」「平釜式」の三種類があり、写真は500年前から続く「揚げ浜式製塩」だが、現在これを継承しているのは一軒だと言われている。

 (ことばのちから№6)         (2024.2.16記)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

能登半島地震 (5) 失われた命

2024-02-13 06:30:00 | ことばのちから

 能登半島地震(5) 失われた命
  仲良かった妻と子の思い出を
   輪島ビル倒壊 翌々日まで寄り添い続けた現場で
(朝日新聞2024.1.29)
 
(倒壊したビル・輪島塗「五島屋」)         (ビルの下敷きになった居酒屋「わじまんま」)

 倒壊した7階建ての五島屋に押しつぶされてしまった居酒屋「わじまんま」。
神奈川県川崎市から6年前に移り住んだ。
1、2階が居酒屋で3階が住居になっていたが、真横に倒れたビルの下になってしまった。
 夫のKさんと次男、次女は難を逃れ無事だったが、
妻のUさんと長女のYさんが押しつぶされた家の下敷きになってしまった。二人は瓦礫に挟まれ身動きができなかった。
 
 『引っ張っても動かない。近くにあったのこぎりで瓦礫を切り、ジャッキで持ち上げても駄目だった。妻Uさんの顔はすでにうっ血し、長女は「痛い、痛い」「のどが渇いた」と言っていた。Kさんは水を飲ませ続けたが、二人の反応は徐々に消えていった』(記事の引用)

 Kさんはその後も現場にとどまった。
冷たくなった二人の体が消防によって助け出される3日まで、よりそいつづけた。
どうしても見つけたい品がある。4月の誕生日に妻から贈られた腕時計だ。 

倒壊ビルに押し潰された家 妻からの誕生日プレゼント見つかる
                       (朝日新聞デジタル2月8日)
 居酒屋「わじまんま」は倒壊ビルの下敷きになったまま一カ月と数日が経過する、
 2024年2月7日、亡き妻U子さんに送られた誕生日プレゼントの腕時計を、
下敷きになった自宅兼店舗の瓦礫の中から見つけることができた。
「あったよ! 時計!」と叫ぶ夫のKさんのうれしそうな声が響き、
捜索隊員たちがその声を聴いて思わず笑顔で振り向いている写真に、
その場の雰囲気が一瞬なごむような瞬間をとらえた写真である。

「大人として、ちゃんと時間を守ってね」という言葉とともに贈られた誕生日のプレゼント。Kさんは「時間を守れなくて、妻に怒られてばかり。
それを楽しんでたのかもしれないけど」と懐かしむ。
いつもテレビの上に飾り、特別なときだけ身につけていた。
 Kさんは今、川崎市内に避難している(1月の末)。
地震の影響で電気を消して寝られず、次男と一緒に寝ているそうです。
「仲のよい家族だった。ビルが倒れてくるまでは……」あとは言葉にならない。


  「助けたかった」問い続ける母
     能登地震 やけど負った5歳が4日後に
                      (朝日新聞2024.2.5)
   
石川県志賀町で5歳の男児が亡くなった。
  正月で同じ町の祖父母宅で、落ちてきたやかんのお湯で火傷を負った。
  搬送された大学病院では、重症ではなく入院は不要と診断。家に帰ったFちゃん。
  だが、容態は急変した。
  お母さんは「助けられた命ではないか」と1カ月たった今、問いかけている。

   1月元旦、午後4時10分、震度7の地震が襲った。
  ストーブの上に置いていたやかんがひっくり返り、
  Fちゃんのお尻や両足の太もも、ふくらはぎにかかった。
  お母さんは我が子をかばいFちゃんに覆いかぶさり自身も左足をやけどした。
  断水のため、水で冷やすこともできなかったという。
   「痛い」を繰り返すFちゃん
   救急車で50㌔以上離れた大学病院に搬送されたが、
  「軽傷ではないが、重症でもないⅡ度の火傷。皮膚移植をするほどではない。皮膚移植をするほどではな
  い」と言われた。
             火傷は深さにより、Ⅰ度、Ⅱ度、Ⅲ度に分類され、それぞれ症状が異なる。
             皮膚農水子供や老人では損傷レベルは深くなる。浅い火傷は痛みなどの症状
             が強く、深くなるに従い痛みは少なくなっていきます。
                  (日本形成外科学会の「火傷」の項目から関連部分を抜き書きした)
    3日になり、Fちゃんは高熱にうなされ、41.2度の熱に襲われた。大学病院に電話すると、
   
「外来に来た人と同じく、だいぶ待ってもらわないといけない」といわれ、
   それでは高熱でつらいだろうから朝まで待つことにした。
   4日になった。
   午前の予約を初診の時とっていたので、病院へ。
   救急外来で診察室に入り、うつ伏せから仰向けに体位を変えたところ、
   Fちゃんの呼吸は止まっていた。
   集中治療室へ移されたFちゃんだったが、5日昼前5歳の短い命を閉じた。
   
    死因は「敗血症による心不全」と説明された。
   敗血症とは、細菌やウイルスによる感染症が原因になる。

    Fちゃんのお母さんは「何で亡くなったのかわからないし、入院できていたら違っていたかもしれな
   い」と考えている。
     大学病院は朝日新聞の取材に「経過を検証中であり、それ以上は答えられない」と言っている。

 


     能登半島地震から6週間 今もなお2万人余の厳しい避難生活続く
                   (NHK NEWS WEB 2024.02.12)

      石川県 死亡者 241人  行方不明11人
    また、能登地方を中心に ▽6万棟以上の住宅に被害が確認されているほか
            ▽3万4000戸以上で断水が続いていて
            被害の全容確認やインフラの復旧にはまだ時間がかかる見通し。
   避難生活を続けている人は、少なくとも2万3000人にのぼるとみられ
      ▽避難所で1万3000人余り
      ▽親戚の家などで6000人余り
      ▽自宅でおよそ4000人
      ▽車中泊で120人余りなど
  
【声・今日の言葉】
  黙っていることの危険性
   「力を持つ人に都合がよかったり、多くの人が心地よかったりする価値観は、
   美しい言葉で飾られ、大義名分が付き、『潮流』になってゆく。それが時に、
   誤った方向へ流れたり、異なる意見や物の味方を抑圧したりすることは歴史が証明しています。
   現実に私も今、黙っていることで、その潮流を作る一員になっているかもしれない。
     その危険性はいつも意識するようにしています」
        ※長田育恵(脚本家・劇作家)NHK連続テレビ小説「らんまん」の作者
              朝日新聞2024.1.5 脚本では何を大切にしていますかと言う問いに答えて

    会議でよくある話で「声の大きい意見」が採用されやすいという。うっかり反対の意思を表明
   すると、会議の終わった後で、つるし上げに会う。あるいは、うっかり意見を言おうものなら、
   「あな
たこの会に入って何年になるの」と、意見の内容に触れることなく無視されてしまう。
   「だから会議では発言しない。ただひたすら会議終了の時間を耐えて待つ」と言うことがよく聞かれ
   る。それは、大きな項に負けることを意味し、『潮流』に負けたということだ。結果的には、会議に参
   加しなかったと同じことになると長田氏は言い、だからこそ、潮流を作る一員にならないために、物事
   に同調する危険性を意識したいとインタビューに答えている。
    『沈黙は銀』というが、こういう場合これは間違いだ。

 

 

 


   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする