元特攻隊員・沖松信夫氏(90歳)の証言
1945年8月15日、その日が私の特攻出撃の日だった。
沖松氏は「命が軽く扱われるのが戦争だとという意識が、多くの人から薄れてきた」と、感じるから
重い腰を上げて、講演で語り始めた。
「日本国民として生まれたからには、死にたくないと言えば非国民とみなされた。
特攻隊員は、命を惜しんではいけなかった」
「平穏な生活が一番幸せなんだと、特攻を命じられて初めて分かった」
命のや家族の大切さよりも、如何にしてお国のために、天皇陛下のために命を捨てて
立派にご奉公ができるかが、最も大切な国民としての男子の責務だったようです。
進路の選択の余地などまったくなかった。「志願兵」という言葉がありますが、
「志願」ではなく、拒否できない状況があるにもかかわらず、「志願」という美名に
潔く兵士になり、特攻になり、お国のためにつくすことを当然のこととした愚かな
国策が多くの悲劇を引き起こした。
「怖くはなかったが、お袋が泣くだろうなと思うと眠れなかった」と振り返る沖松氏は、
8人乗りの重爆撃機に、800㌔の爆弾を積み、4人が乗り、米艦船に見立てた船に体当たりする
訓練をしていた。
死ぬための訓練が、どんなに神経をすり減らし、精神のバランスを崩壊させていくか、
誰も言及する人は居なかったのでしょうか。
平和のために生きて戦う戦争ではなく、「死ぬための訓練」を異常だとはだれも思わなかったのでしょうか。
「戦中は食料がなくても攻撃を続け、万歳と叫んで銃剣で相手に突っ込んだ。
特攻ばかりでなく、死んで当然という考え方がはびこっていた」と沖松氏は言う。
「お国のため」という大義名分のもと、どんな理不尽なことでも黙って耐えなければならなかった
暗い時代。
再び沖松氏の言葉。
「あの日生き延びたから今の私はある。命が続く限り、反戦を訴える」
「朝日新聞2015.7.22夕刊 戦後70年今だから私は語る 1945年8月15日 特攻出撃の日だった」より抜粋