雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

松本清張の『誤差』 原作からかけ離れてしまうドラマ化

2017-05-16 09:42:21 | 映画と小説

松本清張の「誤差」
原作からかけ離れてしまうドラマ化

 最近、清張歿後25年特別企画としてテレビ東京で放映された、松本清張の『誤差』。
原作は1960(昭和35)年頃が舞台になっているミステリー短編。
従って、原作をそのままドラマに仕立てるのに無理があるから、
現代に話を置き換えて脚本を書くことになる。

 携帯がない時代に、相手の連絡をただひたすらまちこがれる。
現代ならスマホがあるから容易に動向を知ることができる。
昭和35年頃から現代に時代設定変えることに大きな無理があるが、仕方のないことなのだろう。


 原作では、鄙びた温泉宿に洗練された美貌の女が現れる。
冒頭の描写は女の容姿や旅館の状況など実に丁寧に書き込まれているのだが、
ドラマではサラリと流されてしまう。
やがて殺人現場となる舞台を清張は丁寧に書き込んでいる。
ドラマでは、原作にはない登場人物まで設定し、第2の殺人まで起きてしまう。
原作には登場しない犯人と思われる密会の宿に現れた男の妻まで登場させる。

 原作は清張独特の暗くて重い雰囲気の漂う中で描かれているが、
ドラマは流行のサスペンスドラマ風に見どころを作り、
原作からどんどん離れていく。

 この原作を2時間ドラマに仕立てようとするところに無理がある。


 現場に到着した警察嘱託医と病院長の解剖所見には、
推定死亡時間に2時間の差がある。
この2時間の差が事件に決定的な影響を与えるのだが、
病院長は嘱託医の見解を『誤差』として処理してしまう。
捜査は『誤差』という見解の重大なミスを犯しまう。
病院長の見解の方が犯人を推定するのに捜査上に合理性があるように思えた。
事件は容疑者の自殺で幕を閉じたかに思われた。ところが…。

 テレビドラマによくある傾向だが、
タイトルの頭に松本清張の「〇○○」と有名作家の名前を付けるやり方である。
松本清張や森村誠一の小説のドラマ化によく使用される手法である。
視聴率という枷を嵌められた製作者としてはやむを得ないことなのだろう。
しかし、小説の内容(原作)からあまりにかけ離れてしまうドラマだったら、
「原作」ではなく、「原案」とすべきではなかろうか。

 
松本清張の小説のドラマ化は原作から逸脱してしまうドラマが多く、
これは、原作者にとっても失礼なことではないか。


  短編小説「誤差」は傑作短編集(六)・駅路に収録されています。新潮文庫刊行
 昭和30年代に発表された10篇の短編が収められ、、高度成長期の昭和を彷彿とさせる作品です。
 一読の価値があります。
          (映画と小説 №6)                   (2017.5.15記)

コメント (4)
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映画「フューリー」なぜ今戦争映画なのか

2014-12-11 23:05:07 | 映画と小説

映画「フューリー」なぜ今戦争映画なのか

キャッチコピー 1945年4月…………たった5人で、300人のドイツ軍に挑んだ男たち

        「理想は平和だが、歴史は残酷だ」

主演、ブラッド・ピット。

 映画は、第二次世界大戦末期、戦車を駆使してナチスドイツ軍に立ち向かう5人の兵士たちの過酷な戦争の一場面を描く。ハリウッド映画得意の男性路線戦争アクション映画そのものである。

 1945年4月。第二次世界大戦末期、たった一台の戦車でナチス・ドイツ軍の兵士300人と死闘を繰り広げた、アメリカ兵士5人の姿を描いた映画「フューリー」。上映時間135分は音響効果と共に、臨場感にあふれ一気に結末へと運んでくれる。

 欠員補充で18歳の新兵ノーマンが加わり、5人となったが、「フューリー」と名付けられた戦車に乗って、ドイツ前線、ナチ政権の最後の抵抗が展開される戦場に進行していく。

 主演のブラット・ピツトが存在感あふれる演技で、観客を惹きつけていく。また、異人種多民族国家のアメリカらしく、この映画でも、メキシコ系アメリカ人、敬虔なクリスチャンなど個性的なキャラクターの設定が物語の奥行きを深くしている。

 また、人を殺すこと(殺るか殺られるかの戦場では、日常の出来事なのだが)新兵ノーマンは、人を殺すことを頑なに拒否するのだが、時を経るにしたがい、「兵士」として変貌し、何の躊躇もなくドイツ兵に照準を合わせていく過程が、私には不気味に思えた。

 「極限状況に生きる人間の逞しさ」という見方もできるが、「戦争が人間を変えてしまう」という見方もできる。ベトナム戦争で多くのアメリカ兵が、精神的疾患にかかり、社会的問題になったことも記憶に新しい。   

   映画「ランボー たった一人の戦場」。主演・シルベスター・スタローンがべトナム帰還兵として描かれるが、戦場の英雄が、アメリカ社会で生きて行けず、次第に社会から孤立していく様を描いている。これなども、「戦争が人間を変えてしまう」例えとして見ることができる。

 戦車が壊れ、300人のドイツ兵が迫ってくる。この状況下でも「退却」を考えず、5人の兵士に向かってただひたすら敵に向かって戦いを命じる小隊長はまさに「ウォーダディー」(「戦争のプロフェショナル」という意味か)という異名にふさわしい。壊れて動かない戦車・「フューリー」を盾に戦いが開始され、映画は最終章を迎える。結果は見てのお楽しみ。

 全編、火薬の爆発とすざましい銃器の発射音。泥だらけの兵隊。ドイツ兵の死体をキャタビラで踏み潰していく戦車。爆裂で穴が開き、雨の中、泥濘と化した前線でブルトーザーが泥と死体を穴のなかに押し込んでいく。命乞いする捕虜となったドイツ兵の背中に打ち込まれる銃弾。炎に包まれ絶叫する兵士。道端に吊るされた戦争拒否者の死体、戦争が決して国と国だけの戦いではなく、一般人まで巻き込んでしまう愚かしい行為であることをさりげなく訴えているのだろう。戦車はそのような風景のなかを淡々と走っていく。

 血と汗と暴力にあふれた映画たが、多くの戦争アクション映画と異なり、不思議と「嫌悪感」や「違和感」がなかったのは、底流に流れている、「生きるとは」、「戦争とは」というもう一つのテーマがあるからだろう。

 タイトルでもあり、小隊長・ウォーダディー率いる戦車の名前でもある「フューリー」とは、「激しい怒り」という意味らしいが、敵兵に対する怒りなのか、過酷な戦争に対する怒りなのか。映画は意思表示していない。

 帰れるかどうかわからない戦場で、任務を全うすることに全力を尽くし、生き抜こうとする兵士たち。それが、極限状況にいる兵士たちにとって、最も正直で誠実な生き方なのでしょう。戦場でたくましく生きるとは、そういうことなんだと、映画は観客に語りかけているのだろうか。

 それにしても、なぜ今戦争映画なのか                   

                                                                                                                                (終)

       2014.12.11記

 

 

 

 

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映画と小説 「小川の辺」(4)・決然として生きる

2011-08-27 15:57:15 | 映画と小説

 

  「それは卑怯な言い方です。私がいれば、佐久間は討たせはしませんでした。たとえ兄上であっても」。

 田鶴は眼を光らせ、気合いを発して斬りこんでくる。

 激しい斬りあいのさなか、

 「若旦那様。斬ってはなりませんぞ」新蔵が叫んだのが聞こえた。

 切迫した声だった。

 

 勝負の結末を述べるのは、

 無粋であり、興味をそぐことになるので控えます。(観て、読んで、お楽しみ)。

 

 ……朔之助は橋を渡り、来た道を戻っていく。

 藤沢周平の原作は最後に、

 『橋の下で豊かな川水が軽やかな音を立てていた』と述べて終わっている。

 象徴的な終わり方です。

 豊かな川水が軽やかな音を立てている状況を、イメージして欲しい。

 このイメージは、朔之助たちの幼い日のイメージに繋がっています。

 

 「義」を貫いた朔之助であったが、最後の場面で一転し、

 「情」の世界へと導く手法に読者は安堵し、観客も救われる。

 映画ではさらに、

 両親が朔之助の帰りを待つ庭の木に、白い花を一斉に咲かせて、

 結末のさわやかさを暗示する。

 小説にはこの部分はない。

 

 「なりゆきを、決然と生きる」芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久の言葉であるが、

菅総理の座右の銘でもある。

 混迷の時代を生きる私たちには、

 重く、そして、勇気づけられる言葉であり、

 朔之助の武士としての生き方にも通じる言葉である。

 

   大地震、津波、原発と東日本大災害の中で被災者が失ったものは大きい。

  しかし、支援の輪が広がり、この悲劇を教訓として、コミュニティの中で養われた、

  人と人の絆がどんなに大切であるかを、私たちはあらためて知らされました。

   どんなに打ちのめされようとも、厳しい現実に立たされようとも

  「なりゆきを、決然と生きる」強い意志を持っているのだと、

  朔之助や忠左衛門の生き方に共感を覚えました。

                      原作:藤沢周平著「闇の穴」所収「小川の辺」新潮文庫

                                   (おわり) 

 

 

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映画と小説「小川の辺」③・「義」と「情」の対比

2011-08-19 17:28:08 | 映画と小説

 朔之助、田鶴、新蔵ら3人の幼い日のエピソードなどが、

 回想シーンとして描かれ、映画のタイトル「小川の辺」のキーワードとなっていることに気づかされる。

 小川の辺は幼き日の朔之助と田鶴、そして若党の新蔵が遊んだ思い出の場所であり、

身分を超えて過ごした楽しい場所として描かれている。

 佐久間森衛とその妻田鶴が脱藩者として隠れ住む場所も、小さな丸木橋を渡った川の辺にあり、

二人がつつましく暮らすには静かで、ひっそりとした景色の中に溶け込んでいるような場所である。

 

この隠れ家に、朔之助と新蔵は討手として乗り込んでいく。

 

 剣の盟友・森衛との関係や妹・田鶴との兄妹の関係を、「義」のために断つこともいとわず、

朔之助は丸木橋を渡り、森衛と対決する。

 

 小川の辺のイメージは、「情」の世界であり、

その「情」の世界を断ち切って、橋を渡り、「義」を押し通す朔之助。

「義」と「情」の世界が対照的に見事に描かれている。

 

 『斬りあいは長かったが、朔之助はついに佐久間を倒した…』と、

映画では大きな盛り上がりの場面であるが、原作ではあっけないほど簡単に述べられる。

 留守にしていた田鶴が帰ってきた。

田鶴は予想した通り、白刃をふるって、兄・佐久間に挑んでくる。

「…佐久間は尋常に戦って死んだのだ。女子供が手出しすべきことではない」

                                         (つづく)

 

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映画と小説「小川の辺」・決然として生きる②

2011-08-11 21:29:38 | 映画と小説

 

 「上意討ちの討手をなぜ断れなかったのか」と、

母の以瀬(松原智恵子)は、朔之助をなじり、

兄妹が刀を交えるかもしれない不運を激しく嘆く。

 

 「藩命じゃ。朔之助が申す通り、もはや拒むことはできん」

父・忠左衛門(藤竜也)は、静かに言う。

のっぴきならない状況を目前にして、忠左衛門も朔之助も藩命を受け止め、武士の道を、「義」に生きようとする。

 しかし、以瀬は執拗に言う。

「妹の田鶴が斬りかかってきたときは、どうするつもりなのか」と、

朔之助を詰問する。

 理不尽な「藩命」から、以瀬は我が娘を守ろうとする。

 森衛も剣客だが、女とはいえ田鶴にも剣の心得がある。

 「そのときは斬れ」

我が娘を斬れと、こんな激しい思いが、この静かな老人のどこん潜んでいるのか。家長として、藩公に仕え、家を守ってきた武士としての矜持が、忠左衛門を意思の強い人間にしているのでしょう。

 情に流され息子朔之助を責める母・以瀬。

 決然と「斬れ」と言葉少なに父・忠左衛門は言う。

 家を守るためには理不尽でも主命に従うざるを得ない。

 家長としてのこの言葉は重い。

 「義」に生きざるを得ない忠左衛門と朔之助、

 「情」に翻弄される以瀬と田鶴。

 以瀬と忠左衛門を演じる松原智恵子、藤竜也が深みのある演技で物語に厚みを加えている。

 

 映画は朔之助と子飼いの若党・新蔵が討手として下総に向かう旅の部分に多くの時間を割いている。

 道中の美しい風景を、朔之助の「義」に生きる生き方と対比して描いている。

 何事もなかったように淡々と旅を続ける二人の背景に、自然あふれる景色が流れていく。

 「急ぐこともあるまい、ゆるりと参ろうではないか」。

朔之助の心情を、たった一言の台詞(せりふ)で表現してしまう原作者・藤沢周平はさすがです。

                                      (つづく)

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映画と小説「小川の辺」・決然として生きる①

2011-08-09 22:18:32 | 映画と小説

 

  豊かな自然を背景に、淡々と描かれる映像が美しい。

前作「山桜」もまた、美しい日本の風景の中で、

若い男女のほのかな心の移ろいを描いて見事である。

 さらに、監督は異なるが「花のあと」(監督・中西健二)も同じような視点で、快い余韻が残る作品である。

 これらは皆、藤沢周平の短編小説の映画化であるが、

「山桜」「花のあと」は若く美しい女性が主人公である。

 

 さて、「山桜」も「小川の辺」も東山紀之を起用しての映画であるが、

端正な顔立ちの中に、どこか凛とした気品を漂わせ、

劇中多くを語らず、表情も抑え気味の演出が、

作品の質を高めているようです。

 

 藩命とはいえ、

朔之助(東山)が妹・田鶴の夫であり剣の盟友でもある、

佐久間森衛を討たなければならない心情は心苦しい。

 だが映画ではこのへんの朔之助の辛い思いも極力抑え、さらりと流す。

 妻をともなって脱藩した森衛であるが、郷村役人として、

藩の悪政を糾弾し、政道を正すために、疲弊する農民の窮状を、

重臣を飛び越え、藩公に上訴するという非常手段に訴える。

御法度の規則破りである。

 

 信念を曲げず、真っすぐにしか生きられない不器用な男は、

謹慎処分中に「脱藩」。

藩命に逆らう、これは重罪である。

 

 「藩命」により森衛を討つ。

朔之助に課せられた命題もまた重く、苛酷である。

                                (つづく)

 

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