雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「逝きて還らぬ人」を詠う ④ 父が逝き母も逝きたる秋の日の…

2019-10-27 06:00:00 | 人生を謳う

「逝きて還らぬ人」を詠う ④ 父が逝き母も逝きたる秋の日の……   

  
    大切な人が逝ってしまう。
    
人の世の宿命とは言え、余りに辛い体験はいつまでたっても心が癒されない。       
    悲しいことではあるけれど、
   
人間(ひと)はいつかはこの試練を乗り越えて生きていかなければならない。          
    死は予測された時間の中をゆっくり訪れる場合もあり、突然訪れる場合もある。
      
  
どちらの場合も、無常観と切り離すことはできない』

 

 「俺に出来ることはないか」と問えば「見舞いに来るな」と癌の友逝く
                                                                    
   ……(高槻市)東谷直司 朝日歌壇2019.08.25
        
     ※ 生涯の友っていいなぁ。「見舞いに来るな」といってベッドの上で寝返りを打つ。
      見せた背中の震えが、「ありがとう」と言っていた。

 

   今生の汗を語らず母逝けり 
                
……(長崎市) 下道信雄 朝日俳壇2019.07.21
      ※ たくさんの苦労をのり越え、悲しみに耐えて、母は黙して語らず。
        小さくつぶやいた最後の言葉。ありがとう……

 

   われ老いて頼みゐし子は先立ちぬ静かに墓石を貴方を洗う
                      ……(横浜市) 坪沼 稔 朝日歌壇2019.07.21
      ※ 親が子に先立たれる。「どうして…なぜ…」思いは逡巡し、愛しい子どもの背中を
        なでるように墓石を洗う。一輪の花、かすかな香の匂いにも目頭が熱くなる。

 
 

  

 去年共に洗ひし墓に夫(つま)眠る
               
……
(香川県琴平町) 三宅久美子 朝日俳壇2019.07.21
       「あなた、どうして私を置いて先に逝ってしまったの」。
        いまはただ夫の眠る墓を洗う。「去年共に」という表現に残された妻の無念さが伝わってきます。


  父が逝き母も逝きたる秋の日のただに明るしこの世にひとり  
                             ……(羽咋市) 北野みや子 朝日歌壇2019.10.22
       ふりそそぐ優しく明るい秋の日差しつつまれて、独りぼっちになってしまった自分を慈しむ。
        季節の秋と人生の秋が心の中で溶け合ってきます。


 

「おなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」と書きし母と子餓えて死ににき 
                               ……(静岡県) 半田 豊 朝日歌壇2019.07.21 
       戦時下の食糧難の時代に、十分食べ物を確保できずに逝ってしまった親子が哀れ。
        二度とこんなことは起こしてはならない。悔恨と戒めがただよっている。 


     参考ブログ

      「逝きて還らぬ人」を詠う ① 永遠に座る人なき椅子ひとつ……  (つれづれに…心もよう)201811.04   
      「逝きて還らぬ人」を詠う ② 悲しみは深爪に似て……      (つれづれに…心もよう)2019.02.28
       「逝きて還らぬ人」 を詠う    ③   逝く者に見送るものに……       (つれづれに…心もよう)2019.06.04

        (2019.10.27記)        (人生を謳う)

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縄文最古の人骨

2019-10-23 10:27:20 | つれづれに……

縄文最古の人骨が語るもの
  この人骨から種々のことが判明した。

 栃木県宇都宮市の大谷寺(大谷観音)

 写真でお分かりのように、
 大谷石凝灰岩(吸湿性に富み、柔らかく加工しやすいために蔵の外壁や屋敷を囲む塀などに利用される)が、
 風化し浸食してできた洞窟内に建てられた洞窟寺院である。
 凝灰岩の岸壁に掘られた4.5メートルの千手観音が本尊であるところから大谷観音とも称される。

     

 
伝承であるが、この磨崖仏の千手観音は、
平安時代初期の弘仁元年(810年)弘法大師の作と伝えられています。
千手観音を含む、伝釈迦三尊像、伝薬師三尊像、伝阿弥陀三尊像の10体は学術的にも貴重なものといわれ、
国の特別史跡と重要文化財に指定され、日本最初の二重指定を受けています。

 最初は、岩の面に直接彫刻した表面に赤い朱を塗り、粘土で細かな化粧を施し、
更に漆を塗り、一番表には金箔が押され金色に輝いていたが、長い年月を経て風化し、
現在は写真のように当時の光り輝く神々しさは失われている。
最新の研究では、バ―ミヤン石仏との共通点が見られることから、
実際はアフガニスタンの僧侶が彫刻した、日本のシルクロ―ドと考えられています。(大谷寺・ホームページより抜粋)

 
 これらの石仏群のある洞窟は、古代人の住居だったようです。
新聞記事を紹介しましょう。
読売新聞1998(平成10)年5月29日の新聞記事で、33年前に出土の人骨としてあるので、
1955年に発見、今から64年前の発見ということになります。
 



  
 記事の概略
   最初は縄文時代早期の約7,000年前の人骨とみなされていた
  がその後の研究で縄文時代最古の草創期にあたる1万7000年前の人骨と判明。
  この人骨は、完全な形で出土した人骨としては縄文最古の人骨ということが判明。
  年齢は二十歳前後の男性で手足を折り曲げた屈葬の状態で出土した。
  身長は154センチ、痩せ型。

  



     大谷寺岩陰遺跡刻まれた先に紹介した磨崖仏10体が刻まれる遥か昔にこの岩窟に、
  縄文人の生活の場があったという。
  人骨の発見は、磨崖仏の保存工事の過程で発見された。
  なんと、感慨深いことか。
  「磨崖仏のお導き?」などと、古の昔に思いを馳せ、想像力を広げるのも楽しい。

 

  
   
  縄文草創期から人間を襲う感染症があった。


  
  大谷寺洞穴遺跡 病んだ人骨の語るもの。
  

  2000年3月。
  栃木県立博物館が次のような研究結果を発表した。
  1998年に出土した17000年前の草創期に属する二十歳前後の男性の骨に、
  本来対称性である上肢骨と鎖骨に非対称性病変があり、
  末梢神経損傷、脊髄性小児麻痺(ポリオ)等の筋疾患が考えられるというのだ。

  
  この遺跡では縄文前期(縄文草創期・男性人骨が生きていた時代の次の時代)の成人女性の人骨も
  出土している。
  しかも、この女性の下肢骨にも同様の病変のあることが分かった。
  
  脊髄性小児麻痺(ポリオ)はウィルスの伝染によって、
  全身性感染を起こす病気で、身体の一部に麻痺を残す。
  死亡率も高い。
  これらの病気がポリオだとすれば、
  この地域では長い間にわたって生命を脅かす感染症に悩まされていたことになる。
  縄文人を悩ませた病気に虫歯があり、地域によっては抜歯の風習も確認されているが、
  この習慣は虫歯予防の呪術的な意味もあったのかもしれないですね。

  脊髄性小児麻痺(ポリオ)に罹り、運動能力の著しい低下を招いた縄文最古の成人男性は
  手厚く葬られていたことに古代人の死者に対する思いやりが感じられます。

  大谷寺の屈葬された縄文最古の人骨は、同寺の資料館の片隅で
  17000年の時を今も眠り続けている。

          参考資料:     大谷寺パンフレット
                  列島の考古学 縄文時代 能登 健著 河出書房新社2011刊 
                                                  
                                                  ポリオ ポリオウィルスによる感染症で、脊髄神経の灰白質が侵され、
                  夏かぜのような症状が現れたのち、急に足や腕が麻痺し動かなくなる
                                                   疾患・指定伝染病(ニッポニカより要約)


    
      (2019.10.23記)     (つれづれに…心もよう№94)
                
                                     メモ№1362
  


  
  

 

 

 
  

 

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最後の供養花火

2019-10-05 06:00:00 | つれづれ日記

                       最後の供養花火 (同窓会通信)
 令和元年8月3日。
私たちが遊んだ「思い川」の花火大会が開催されました。
数えて第15回になります。

私たち同窓会の供養花火の打ち上げは、
広沢琢也の発案で、有志のみなさんの協力の下に長い間続けてまいりましたが、
残念なことに花火大会もいろいろの事情があり今年で最後となりました。
そんなわけで私たちの供養花火も終わりを迎えることになりました。

ここ数年私は雑踏の喧騒を離れた場所から、
遠花火を眺めながら、
遠い昔、
今は無くなってしまった旧川原小学校の学び舎の小使いさんが鳴らすカネの音や、
汚れた足をポンプの水で洗った時の気持ちよさなどを思い出していました。

近くには文房具などを売っているお店が二件ありました。
中山敦子さんのお母さんが切り盛りする小さなお店でした。
親一人子一人のお店に、
学校が終わると私たちはこのお店で遊んでいくのが一つの楽しみでもありました。
学校から少し離れたところには「醬油屋」という屋号を持ったお店がありました。
村の中では昔からの軒構えの大きな家でした。
伊坂雅子さんが生まれた家です。
この二人は、私たち悪ガキの間ではマドンナとしての輝きを持っていました。

懐かしい思い出が打ち上げ花火の音と一緒に湧き上り消えていきます。
遠花火を見るのもこれが最後と思うと一層、懐かしさがこみ上げてきました。

       仮の世のはかなきものに遠花火…………細川コマエ
   遠花火今宵は逝きし人のこと …………中嶋昌子
   悔いなしと言へぬ半生遠花火
 …………久保田雪枝

 

 ここに「逝きて還らぬ人」となった人たちの名を挙げてご冥福を祈りたいと思います。
(原文ではすでに彼岸に旅立った32名の名前をあげましたが、ここではカットさせていただきました)
………

ついに私たちも後期高齢者の仲間入りをする年になりました。

一日一日を健康に生きたいと誰もが願います。

 最後の人生行路を慈しみ、
 豊かに生きていくことを願いがら、
 残りの人生に繋げていきましょう。

           (同窓会通信をブログ用にアレンジしました。個人の名は仮名としました)

      (2019.10.4記)    (つれづれ日記№79)

コメント (2)
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