雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

秋は夕暮れ

2023-09-16 06:30:00 | 季節の香り

 今年の夏の暑さは尋常でなかった。
寝苦しい夜が続き寝不足気味の朝を迎える。
寝汗をかいた体を幾分冷たくしたシャワーで体温を下げ、
すっきりした状態で朝食をとる。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、今年の夏はどうなのでしょう。
朝晩、幾分涼しく感じられますが、日中はまだまだ暑く、
麦わら帽子をかぶっての畑作業は老いの身にはかなり応えます。

 やがて田んぼのあぜ道や、河川の土手に彼岸花が咲き始めるでしょう。
秋がひそやかに忍び寄ってくる残暑の一日が暮れていく。
  
 清少納言は「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」がいいと、
また「夏は夜」、「秋は夕暮れ」「冬はつとめて(早朝)」と日本の四季の美しさを見事に表現しています。「枕草子」

 待ち遠しい秋の作品を集めてみました。
 
 

 秋は夕暮れ
    秋は夕暮れ。
    夕日のさして山の端いと近うなりたるに
    烏のねどころへ行くとて
    三つ四つ、二つ三つなど、
    飛びいそぐさへあわれなり
    まいて雁などのつらねたるが
          いと小さく見ゆるはいとおかし。
    
    日入り果てて風の音など
    はた言ふべきにあらず
                枕草子  清少納言
                       
            現代語超意訳
             秋は夕暮れの黄昏どきがいいね。夕日が差してきて、西の山端におちか
             かるころ、カラスがねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽と、急
             いで飛んでいく様子は、しみじみとして、心にしみる。まして、雁など
             が連なって飛んでいくのが、とっても小さく見えるのは、これまたとっ
             てもおもむきがある。
             日が沈んで、風の音がさやさやと聞こえ、虫の音などが草むらから鈴虫、
             クツワムシ、マツムシなどの声が聞こえてくる。
             そんな秋の夕暮れは、言葉では言い表せない風情がある。
             ススキ、女郎花、吾亦紅、萩などが、決して華やかではないが、秋の夕
             暮れを彩る風情は、「さみしい」というのではなく、その一歩手前にある
             こころの琴線に触れて来る感情のひだが揺れている状態。それが秋。人生
             の黄昏どきと重なる秋の夕暮れである。
             
 与謝蕪村   戸を叩く狸と秋を惜しみけり
            ひとざと離れたわび住まい。傾いた屋根の上には草が生えている。
            「秋を惜し」むと歌っているので、晩秋のおそらくは黄昏時が過ぎ
            て夜のとばりが下りるころは、何となく寂しさを感じる季節である。
            咲き誇った花たちも、その使命を終え葉を落とし冬ごもりの準備が
            始まる。萩の花も、吾亦紅もささやかな彩の使命を終了する。
            ススキがさやさやと風に鳴る。かすかに冬の予感を孕んだ風の足音
            が戸を叩く。まるで人恋しさに山から里山に下りてきた狸が、隙間
            風の吹きこむ荒れ屋の戸を叩いているような時雨でも降りそうな晩
            秋の里の風景だ。
            去年より 又さびしひぞ 秋の暮
             老いの身にはこれから冬を迎える秋の暮は、一層寂しさが募ってく
             る。「去年より」という言葉に込められた老年の孤独が感じられる。

     松尾芭蕉   この道や行く人なしに秋の暮

              妻子も持たず、人生を旅になぞらえ孤高の俳諧道を歩み、「わび さび」
            の境地を極め俳聖といわれた芭蕉翁の孤独がじんじんと伝わってくる秀
            句だ。
            思えば長い旅であり、「わび さび」の道もまた先の見えない厳しく、寂
            しく思えるときもある。旅の行く先々で句会を開き、主(あるじ)の歓待を受
            け、やがて宴の時もおわり、
師と仰ぐたくさんの人から解放され、用意
            された床に横になれば、よる年のせいか疲労も重なり、すぐに眠りが訪れ
            る。
            旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 
            旅の途中で病んで床に伏しても、夢に現れるのは枯野を歩んでいく自分の
            姿だ。4日後、俳聖芭蕉翁は帰らぬ人となった。享年50歳。元禄七年10月
            12日。遺骸は去来、其角ら門人が船に乗せて淀川を上り、13日午後滋賀県・
            近江の義仲寺に運ばれた。14日葬儀、遺言により木曽義仲の墓の隣に葬ら
            れた。焼香に駆け付けた門人80名、300余名が会葬に来たという。
                                       (ウィキペディア参照)

            (季節の香り№40)        (2023.9.15記)

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

2023-09-07 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

  太平洋戦争の末期、
 
本土の長崎港に向けて出港した学童疎開船・対馬丸は、
 吐噶喇列島の一つ、悪石島沖で米潜水艦・ボウフィン号の魚雷攻撃によって沈没した。

 対馬丸は沖縄から出向した最初の学童疎開船だった。
このことが公になってしまうと、
10万人の非戦闘員の疎開に支障をきたしてしまう。
もう一つ、この学童疎開船には別の目的がありました。

 前述したが、『本土防衛の要となる沖縄決戦』を敢行するために、
人口40万の沖縄に、各地の戦地から10万人の兵士たちが、
続々と沖縄に上陸してきました。
その食料調達には足手まどいになる児童を含む非戦闘員の本土輸送だったのだ。

 最初の学童疎開船対馬丸が撃沈されたことが島民に知れると、
輸送作戦に支障をきたすことを危惧し、
沈没の事実は『箝口令』によって、長い間隠されていました。

箝口令
 見たことは誰にも言うな
 聞いたことは胸にしまっておけ
 絶対に誰にも言うな

 おおよそ280名の人が助かりました。
このうち学童は59名という記録もあり、正確な人数は分かりません。
海の藻屑と消えた人たちの悲劇もさることながら、
助かった280名の人全員にさらなる試練が待ち受けていました。
友達を失い、親を失い、茫然自失の遭難者たちを追い詰めたのは、
箝口令でした。

「対馬丸のことは誰にも言うな」。
苦しく、辛い体験は人に話すことによって、和らいでいきます。
心のしこりを言えない辛さを抱かえ、
戦後沖縄に帰ってきた児童たちは、
対馬丸沈没の事実を親にも語ることはなかったという証言がある。
戦後のある時期を、
「箝口令」の呪縛に縛られたまま生きてきた生存者の苦しみはいかばかりだったでしょう。

  中学三年の夏休み、中野さんは祖父から対馬丸の話を聞いた。
その祖父の体験談。

 船から投げ出され、おぼれて顔をゆがめる人、人、人。沈み始めた船の底のほうから、悲鳴と船体のきしむ音が重なるように湧き上がってきた。
 海に飛び込んだ祖父はいかだで約三日間漂流。海軍の船に救助されたが、乗っていた人たちを救えなかった後悔にさいなまれた。
 事件後、沈没について話したら死刑だと憲兵から脅され、口を閉ざす。
 対馬丸の三十三回忌の慰霊祭に参加したとき、多くの人が体験を語っていることを知り、ようやく自らも語り始めた。(2023.8.22朝日新聞記事)

 中野さんの祖父が「箝口令」の呪縛から解かれ、体験談を人に語れるようになってから、33年の苦しい月日があったのだ。
那覇市にある対馬丸記念館によれば判明しているだけで、
 1778人が乗船、1484人の犠牲者を出し、そのうち学童784人がなくなった。
 当時、軍や警察によって箝口令が敷かれ、そのため被害の全容はわかっていない。 
    おおよそ280名の人が助かりました。
 このうち学童は59名という記録もあります。実に生存率6%でした。

  疎開先から来るはずの手紙が来ないことなどから、
  たちまち対馬丸の沈没は島民の知るところとなった。
  このため一時は疎開に対する反発があったが、
  1944(昭和19)年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
  厚生省の調査では、
  1945(昭和20)年3月までの沖縄から187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の
  事例だ。(ウイキペディア)

   疎開した民間人の多くは疎開先の九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県や台湾で終戦を迎えて
  いる。1950(昭和25)年10月、遺族会が発足し、
  当時占領下の沖縄で、対馬丸事件の悲劇を伝え始めた。
  1953(昭和28)年、「
小桜之塔」が建立された。
   
              碑文
               
昭和十九年八月二十二日夜半 学童疎開
                  船対馬丸は 米潜水艦の魚雷攻撃を受け
                  て 悪石島沖で轟沈し いたいけな学童
                  と付き添いの人・一四八四人の尊い生命が
                  ひと時に奪われてしまいました
                  これらのみたまを弔い慰め 世界の恒久
                  平和を念ずるために 多くの人々の善意
                  で 小桜の塔 は建立されました

           参考文献  対馬丸事件 沖縄の悲劇          石野啓一郎著 講談社文庫
        海に沈んだ対馬丸 子供たちの沖縄戦    早乙女 愛著 岩波ジュニア新書
          対馬丸                  大城立裕著  理論社
        対馬丸 さよなら沖縄(アニメ絵本)       大城立裕原作
        海なりのレクイエム(対馬丸遭難の友と生きる)  平良圭子著  民衆者
          私たちの戦争体験6 沖縄対馬丸の沈没
         他人の城(短編集「脱出」に収録)       吉村昭著   新潮文庫
                                おわり
           
       (語り継ぐ戦争の証言№34)         (2023.09.06記)


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