雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

能登半島災害を謳う (2)

2024-07-29 06:30:00 | 人生を謳う

能登半島災害を謳う (2)
   能登半島地震災害から7カ月が経とうとしている。
    新聞やテレビなどのニュースの能登関連記事も最近では見られなくなってしまった。
   パリオリンピックや大谷選手のニュースが毎日のように報道され、
   復旧半ばの被災地の人々はままにならない生活環境の不便さを続けながら、
   ときには、取り残されていく淋しさにくじけそうになる時がある。
   人口流出は能登半島地域の震災以前からの課題だったが、
   震災がそれに拍車をかけ、多くの業種が人手不足に苦しんでいる。
   人口流出と経済復興の停滞する中で、地元の建設会社のK氏は
   「復旧工事は10年以上続くだろう。全く先が見通せない」と将来の不安を述べる。

   以下の歌は、能登地震から2~3カ月過ぎた頃の歌で、朝日歌壇、俳壇に掲載された歌である。
   震災の記憶が時間の経過とともに薄れていく現在、
   震災被害のなまなましい風景がよみがえってくる。
 

  「はがやしい」朝市あつた焼け跡に両手を合はすひとりの女性   大熊佳世子

    「はがやしい」とは、石川県金沢あたりの方言で、「思い通りにいかない心のありよう」を
    表現する。ここでは「誰にもわかってもらえない悔しい思い」という意味を含んでいる。
    標準語では表現することが難しい、その土地で培われた素晴らしい言葉。
     被災5カ月を経てやっと6月4日に公費解体が始まった。
    公費解体には、建物の所有権を持つ全員の同意が必要で、復旧の遅れの原因になっていた。
    
そこで、法務省は5月末、輪島朝市の264棟が建物としての価値がなくなったとして、
    「減失登記」をして、建物の解体を進めやすいようにした。
    しかし、崩壊建物の中に放置された物品の破壊や撤去には、物品の所有者の同意が必要になり、
    その同意も得られたとして解体に着手した。
    
     「はがしい」と輪島朝市の焼失した現場に立ち、両手を合わせる女性の姿が目に浮かぶ。

    

 

  珠洲原発を造らせなかった闘いは正しかったといま胸を刺す     十亀弘史

   珠洲原発は1975年に計画された。その計画は住民の反対運動と、
   それを切り崩す電力会社との28年に及ぶ闘争になった。原発設置は珠洲の高屋地区だったが、
   当初住民のほとんどが反対していた。
   関電側の住民の切り崩し運動はえげつない懐柔策だった。
   「原発視察名目の視察旅行」、「芸能人のコンサート」など、
   いずれも無料の大盤振る舞いだったという。
   数え上げたらきりのない寄付ゃ接待というカネの力に、
   一人二人と反対派の住民が切り崩され、地域は分断されて行った。
   説明会はいいことずくめの話で、住民の心を揺さぶり続けた28年間であったという。
   激しい原発反対運動に電力会社は2003年12月計画凍結を発表し、計画は頓挫した。

    今回の能登半島地震で、珠洲原発予定地の高屋地区の海岸線は数メートルも隆起した。
   「もし、あの時珠洲原発が高屋地域に建設されていたら」と隆起した海岸線を眺めながら、
   当時を振り返る。
   

臓物のはみ出すごとく家具吐きし家屋の呻くこゑする通り      北野みや子

    慣れ親しんだ住まいが倒壊し、雨ざらしになっている思い出のある品々が散乱している。
    色あせ、汚れ破壊された大切な品々が、倒壊現場の哀しさがこみ上げ、
    家屋の呻き声が生き物の叫びのように聞こえてくる。臨場感に溢れた被災者の叫びだ。

 

無事だった船四隻で水揚げす甚大被害の蛸島漁港      瀧上裕幸

  一体何隻の船が被害に遭ったのかニュースからはわからない。漁港岸壁には隆起や地割れがあり、
 被害に遭わなかった船は片手にも足りない。漁師にとっては手足を奪われたような甚大な被災だ。
 海に生きる漁師たちは、代々船を受け継ぎ家業として続ける人が多い。

 東日本大震災で被害を受けた漁師の言葉を思い出す。
 愛する者を津波に奪われ、船も無くなった。だが「俺は海を恨まない」。
 代々海で暮らしを立ててきた漁師の意地が、
 くじけそうになる自分を鼓舞するようにつぶやいた言葉が耳に残っている。

 1月21日深夜定置網漁が再開された。自宅も事務所も漁港も損壊したが、
 残った船を操業し、年末に仕掛けた定置網漁を再開した。水揚げは寒ブリ約600匹。
 タイ、フクラギなど15トンを揚げた。(参考:北国新聞)
                              蛸島漁港=石川県輪島市にある漁港。

海が好き漁はやめぬと若者の見つめる先に隆起せし浜    阿久津利江
  
漁師の仕事は過酷な仕事だ。親から子へと家業として受け継ぐ人が多い。
  海にどんな仕打ちを受けようと、海は母の懐のように優しい。
  浜が隆起しようが、地割れしようが海への希望と感謝を忘れない。
  その心意気が上の瀧上さん歌にも通じるものがある。


 能登の
地震(ナイ)海苔(のり)(か)く岩場隆起して     内田幸子
   能登の岩のリは、長い海岸線を持つ能登半島の外浦が産地として知られている。
   毎年12月から3月にかけて、自然が育てた海の幸である岩ノリ採りが行われる。
   能登では収穫したばかりの収穫したばかりの岩ノリが海水を含み「ぼたぼた」した状態なので
   「ぼたのり」ともいわれている。生産地であるだけに、多種多様あるようだが、
   珠洲や輪島では、正月の雑煮に香ばしく焼いた岩ノリを入れた「ぼたのり雑煮」を食べるのが習わし
   で、初春を彩る具材として用いられます。
    磯の香りのする「ぼたのり雑煮」を食べてみたい能登の正月です。
   過疎化が進む能登では、半島を離れ、金沢や都市圏で生活する人も多いが、
   暮れから正月にかけて里帰りをし、家族が一堂に会して「郷土料理」を食べ、
   正月を祝う習慣があります。その一家だんらんの日を地震と津波と火事が襲った。


「珠洲の塩使っています」とメモのあるバゲット一本トレーにのせる    平野野里子

    能登の塩づくりは、能登の伝統産業です。昔ながらの製法で「能登塩」には人気があります。
    地方への出店があり、震災地の店があれば必ず被災地の名産を購入する。
    夏東日本大震災時には宮城県・女川市の出店などで少しばかりの援助をしていました。
    「珠洲の塩」を使ってバゲットを作る。それを客が買っていく。小さな支援の輪が広がっていく。

 

(人生を謳う№120)         (2024.07.28記)

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松のある風景 ② 随筆の書かれた時代はいつ 

2024-07-20 06:30:00 | つれづれに……

 ①で紹介した随筆「松のある風景」を再掲します。
 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。
   (随筆に添えられた絵)
   画面左奥に江ノ電の車両が描かれていますが、
   随筆の内容から推しておそらく終点「小町」駅ではなかろうか。

そこで、江ノ電の歴史を調べてみた。
 江ノ電の最初の路線は、1902(明治35)年9月1日に、藤沢ー片瀬(現江の島)間の約3㎞
開業時には、湘南随一の商工都市藤沢を起点に片瀬までの3㎞の区間でした。
この時点で江の島駅はまだ認知されておらず、片瀬駅として表示されています。
 片瀬駅から江の島駅に名称変更があったのは、昭和4(1929)年3月になってからで、
開業から27年の時間を要しました。

 明治43(1910)年、全線開通した時の駅名です。

 図で示したように

開業以来存続している駅もほとんどが移転や改称を経ており、
100年の歴史の中で変化が見られないのは、「鵠沼」「稲村ヶ崎」「極楽寺」「長谷」の4駅に限られます。ちなみに、もっとも知られている駅名の改称は、
昭和4年3月に「片瀬」を「江ノ島」に変更した
ことでしょう。
主眼は観光客の誘致に置かれていました。
こうした中で、「七里ヶ浜」が現在の位置に落ち着くまでに数次の移転を繰り返したほか、
昭和初期には、海水浴客やバンガローの宿泊客の利便を図るために臨時駅「西浜」「七里ヶ浜キャンプ村前」が開設されるなど、
短距離路線ながら駅の変遷には複雑な経過が見られます。
町の発展と共に
 江ノ電の歴史が地方の町から町へ乗客を運ぶ生活路線鉄道から観光鉄道として、
観光客の移動手段としてその目的へ変遷していったことが理解できます。

「小町駅」から「鎌倉駅へ」 
明治43(1910)年には、図で示したように全線が開通されました。
全線が開通され、随筆に書かれた終点「小町駅」は登場しましたが、
現在の駅名に終点の「小町駅」は存在しません。
手掛かりは二つある。
 「町役場前の小町終点」とある。
そこで、現在の地図を検索してみるとあった。
鎌倉駅のそばには、鎌倉市庁舎があり、その近くには「小町商店街」が存在する。
おそらくここが終点「小町」駅で間違いないだろう。

 現在の江ノ電は始発「藤沢」駅から終点「鎌倉」駅まで上図のように、
全線10㎞で時代の流れと共に駅名変更があったり、廃駅になった駅が多くあり、
前述したように全線開通した時に39駅あった駅名は、15駅に淘汰された。

小町駅開業と駅名変更「鎌倉駅」へ
 江ノ電の歴史を見ると、全線開業したのは1910(明治43)年11月4日で、
この時終点「小町駅」が開業しています。
 その5年後、1915(大正4)年には「小町駅」は「鎌倉駅」に改称され、
歴史の時の中に消えていきました。

随筆に書かれた時代はいつ頃
随筆の最後の行には次のような記述があります。

江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

鎌倉町役場前の終点「小町駅」は、
前述のように1910(明治43)からたった5年間の1915(大正4)の短い期間の駅名でした。
 「松のある風景」は、小町終点駅を実際にながめ、
「陰影がたくさんあった時代」がなつかしくなると述べてこの随筆を結んでいます。

 随筆の作者は小町駅が存在したたった5年間のときに、何歳であったのか、
更に時を経て「松のある風景」の随筆を当時のことを懐かしく思い出し、
古き良き時代の鎌倉描いたのは何歳のときだったのか。
 随筆に添えられた墨絵を書いた画家は誰なのか。
 厚紙に印刷された箱、(と言っても私の手元にあるのは手でむしり取ったような一枚の厚紙)は、
 何の箱(?)だったのか。
                                        (つづく)

(つれづれに…№118)  (2024.7.19記)

 

 

 

 

 

 



 
 
 
 
 

 

 

 

 

 

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松のある風景 ① 随筆に描写された古き鎌倉

2024-07-13 06:30:00 | つれづれに……

松のある風景 ①随筆に描写された古き鎌倉

 鎌倉の景観をつくりなしているものに松がある、あったという方が正解かもしれぬ。
 そのせいか、ここには昔から名ある老松が多かった。
  ゆるぎの松、琴弾松、諏訪の松、弓立松などなど数えたてればきりがない。
 若宮大路の松並木を海岸へたどると、木漏れ日の散らばる道の彼方にぽっかり白く、低い砂山が見え、
 そのまた向こうに海が、波が眩しく光っていた。
  海岸に出ると、砂丘の後ろにつづく松林は防砂林だったのだろう、
 一様にかしいで低く枝を伸ばしていた。
 初夏の雨後など松の花粉が砂地に淡黄いろく不規則な模様や縞を描いた。
  町の背後を囲う山並みの尾根にも松が目立つ。細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、
 ともすれば足を取られる。
  それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい。
  赤煉瓦のガードをくぐって江ノ電が、若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、
 町役場前の小町終点ごとごと走っていた頃の、どこかしつとりとした陰影がたくさんあった時代が、
 ふとなつかしくなる。

 一カ月もブログ投稿を休んでしまった。
特に理由があったわけではないが、畑作業がいそがしく、
午前に3~4時間作業をすると、暑さと疲労とでぐったり、
記事を作成する気力がなくなり、本を読んでもすぐに眠くなってしまう。
書きかけ記事の日付は6月14日の日付で止まっている。


 再開しようと気力を奮い立たせて投稿記事をスタートさせる。

本棚を整理していたら、お菓子の箱を引き裂いたようなB5判ぐらいの厚紙がはらりと落ちてきた。
エッセイらしいが、作者名がわからない。
厚紙に書かれたエッセイが、何時、どんな目的で何時頃書かれたのかわからない。

松のある風景と
エッセイの上の欄には松林の風景が描かれている。
道路に沿って植えられている松並木は太い松で、結構長い並木道になっている。
左下には『良』と読めるサインがあるが、この人物がエッセイの作者でもあるのかどうかはわからない。
タイトルは「松のある風景」としている。
橙色の彩色文字で示したものが、エッセイの全文だ。

 エッセイの内容から在りし日の「若宮大路」の風景が
昔日の面影をすっかり失くしてしまった「若宮大路」を懐かしんでいるようだ。
 「若宮大路」は源頼朝が妻政子の安産を願い築いた鶴岡八幡宮の参道で、由比ガ浜から八幡宮まで1.8㌖の参道です。墨絵で示す通りかつての若宮大路には、松並木があったらしい。


 
 「昔から老松が多く」あり、それぞれに「ゆるぎの松、六本松、琴弾松、諏訪の松、弓立松」などの
成り立ちに言われや、伝説を持つ松がたくさんあったらしい。ちなみにネットで調べてみると確かにそのような老松があったようだが、枯死したり、何らかの理由で現代に生き残っているものはないようである。


かなり詳しい松並木の続く往時の風景がつづられた後、
「それにしても、松の少なくなったこの町のあっけからんとした明るさは、却って侘しい」と嘆いていることを思えば、かなり古い時代の鎌倉を知っている人が作者であると類推することができる。
 
 更に、町の松林の景観だけでなく、「町の背後を囲う山なみの尾根にも松が目立つ」と、
具体的な松林の風景描写が続き、
「細い山径に敷きつめたように枯松葉が積もって、ともすれば足を取られる」
という具体的表現は、古くからこの町に住む住民でなければ書けない風景だ。

 手掛かりはもうひとつある。
エッセイの最後に登場する
「(江ノ電が)若宮大路に濃く影を落とす松並木に沿って、『町役場前の小町終点』までごとごとと走っていた頃の、どこかどっしりとした陰影がたくさんあった時代がふとなつかしくなる」

 往時の「松のある風景」は最後に、「町役場前の小町終点」という貴重な時代を象徴する証を残して
見事に幕を下ろす。
 現在の江ノ電の路線図を見ても、小松商店街は現在でも残っているが、
「小町」という江ノ電終点の駅はない。
江ノ電終点の「小町駅」はどこにあったのか。
この駅の存在がわかれば、随筆に描写されたおおよその時代もわかるのではないか。
                                                                                                                           (つづく)
(つれづれに…№117)    (2024.07.12 記)

 

 

 

 

 

 

 

 



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