雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

映画「リチャード・ジュエル」 監督イーストウッド

2020-01-20 06:00:00 | 映画

映画「リチャード・ジュエル」 監督イーストウッド

 
 メディアに取り囲まれ、沈痛な表情でうつむくリチャード・ジュエル。
ジュエルの後ろには、  
たった二人の味方のうち最強の味方になる弁護士のワトソンが厳しい表情で寄り添い、
リチャードの隣で母ボビが悲嘆にくれて涙ぐんでいる。
母は息子・リチャードの無実を信じ、心のよりどころとなる。

 (母さん、僕はだいしょうぶだよ。親子が抱き合い、それを後ろから見つめる正義派弁護士。
  幾分、首を傾げ無言で見つめる弁護士の姿が印象的だ)


 爆発物発見した警備員・リチャードが、
一転して爆破事件の犯人とされてしまう大きな要因となる記事を書く
アトランタ・ジャーナルの女性記者や
事実を折り曲げ、 捏造するFBI捜査官の姿も見える。


 
 89歳になるクリント・イーストウッド監督の40本目の映画です。
『アメリカンスナイパー』2014年、
『ハドソン川の奇跡』2016年、
『15時17分、パリ行き』2018年、
『運び屋』2018年と、実話を基に映画を作ってきた。

 実話に基づいた映画「リチャード・ジェル」は、
1996年のアトランタで起こった爆破テロ事件に題材をとり、
冤罪がどのようにして作られていくか。
メディアの報道がいかに民衆を煽りたてるか。
民衆がメディアの報道をうのみにしてしまう危険性を感じさせる映画です。

 警備員リチャード・ジュエルの迅速な通報によって、
数多くの人命が救われた。
だが、爆弾の第一発見者であることでFBIから疑われ、
第一容疑者として逮捕されてしまう。

 弁護士・ワトソンは
「彼を陥れようとしているのは、政府とマスコミだ」
と冤罪事件の告発をする。

 (リチャードを犯人に仕立て上げようとするFBI捜査官は、リチャードに声のサンプルの提供を強要する)

    冤罪を作り出そうとするような警察権の在り方。
  しのぎを削り、スクープ記事を争う中で、真実が見えなくなってしまうメディアの在り方。
  読者(民衆)がメディアの報道をうのみにしてしまう危険性など、
  多くの示唆を含んだ映画だ。

  決して、米国の話ではなく、
  我が国においては、
  サリン事件の発端となった
  「松本サリン」事件が
  警察権、メディアの報道の在り方を通して、
  報道をうのみにしてしまった私たちの苦い思いが記憶に残ります。
  孤立無援の嵐の中で、
  決して高ぶらず、
  冤罪であることを冷静に主張し続けた河野氏の姿が印象に残っています。

   (映画№19)         (202001.19記)

 

 

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映画「七つの会議」

2019-03-12 06:37:41 | 映画

映画「七つの会議」        
 
  友だちの奥さんが、
  「とてもいい映画だ。感動のあまり、2度も見てしまった」。
  そんなにいい映画なら観てみるか。
  正直、あまり期待もしていなかった。
      熾烈な出世競争とノルマ達成の重荷が
  人間を、組織を狂わしていく。
  そのことのみが強調されているようで、過去の作品の「下町ロケット」、
  「陸王」、「半沢直樹シリーズ」、

  映画も小説も、というよりは表現の世界では、
  見る人の感性が作品の良し悪しを決めてしまう。
  ある人にとって素晴らしい作品であっても、
  ある人にとっては全く心を動かされなかったということもしばしばあります。

  この映画は池井戸潤原作の同名小説を映画化されたものだ。池井戸氏の作品を
  列挙してみます。映画やドラマよりも登場人物が生き生きと描かれています。
  「下町ロケット」:
     多くの労働者が直面する難題を乗り越えていく物語は、多くの読者に活力と
     勇気を与えました。下町の経営者が四面楚歌の中で、自分の夢に向かって諦
     めずに進んで行く姿に共感を持ったのでしょう。

  「オレたちバブル入行組」:
           半沢直樹シリーズの第一作目。銀行の業務の中で理不尽な目にあい、
     上司に叩かれても立ち上がり正義を貫き通す半沢直樹の姿が多くの人を
            とりこにしたようです。
            特にドラマの中の台詞、
    「倍返しだ!!」は2013年の流行語大賞にも選ばれました。
      余談ですが、このセリフは原作では、ドラマのように多くは出てきません。
     ドラマや映画では、原作の中で描かれたある一定の事件に焦点を合わせ、
     その部分を拡大解釈してしまう傾向があり、細やかな人間関係や主人公の内
     面まで描くことができなくなるようです。
           
     「七つの会議」:

 「会社にとって必要な人間なんていません」
         「期待すれば裏切られる。その代わり、
           期待しなけりゃ裏切られることもない」
                       (万年係長・八角のセリフ)
  会社という組織の中で働くとは、どいうことなのか。
  苛烈な競争社会の中で、人も組織も疲弊しそれでも売り上げと言うノルマは
  金科玉条のように輝きつづける。ノルマを達成するための不正、捏造、改ざん、
  隠蔽。組織の中で育まれたこれらの不祥事を誰が始末し、健全な方向に舵を切
  るのか。現実の社会でも切実な問題です。

  池井戸氏の原作の映画やドラマが単純明快な観客や視聴者に受けの良い
  勧善懲悪の世界を強調するような傾向にあるのは残念です。
  原作の中では登場人物は厚みのある人間に描かれていますが、あらすじに
  あまり関係のないこういう部分はカットされてしまうのが残念です。
  是非、原作を読むことをお勧めします。
  
       (2019.3.11記)   
 (映画№18)

      
 

 






 

 

 

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映画「孤狼の血」 なぜ今この映画か

2018-06-06 09:21:55 | 映画

映画「孤狼の血」 なぜ今この映画か
   昭和の終わりを舞台に、「広島やくざ戦争」を描く



 映画の内容をキャッチコピーから紹介する。

 広島の架空都市・呉原を舞台に描き、「警察小説×『仁義なき戦い』」と評された柚月裕子の同名小説を役所広司、松坂桃李、江口洋介らの出演で映画化。
「凶悪」「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督がメガホンをとった。
昭和63年、
暴力団対策法成立直前の広島・呉原で地場の暴力団・尾谷組と新たに進出してきた広島の巨大組織・五十子会系の加古村組の抗争がくすぶり始める中、加古村組関連の金融会社社員が失踪する。
所轄署に配属となった新人刑事・日岡秀一は、
暴力団との癒着を噂されるベテラン刑事・大上章吾とともに事件の捜査にあたるが、
この失踪事件を契機に尾谷組と加古村組の抗争が激化していく。

ベテランのマル暴刑事・大上役を役所、日岡刑事役を松坂、尾谷組の若頭役を江口が演じるほか、
真木よう子、中村獅童、ピエール瀧、竹野内豊、石橋蓮司ら豪華キャスト陣が脇を固める。

  1970年代の初め、東映が『仁義なき戦い』のシリーズで華々しく映画界を席巻していた。
アンモラルで理性や情感をそぎ落とした渇いた映画だった。

 高倉健や鶴田浩二、池部良、藤純子たちが醸し出す任侠の世界を情感豊かに描いた映画は、
多くの人々の心を捉えた。
 「任侠」という日本独特の精神世界に「情」というスパイスをたっぷりと振りかけて料理された任侠映画は一世を風靡した。
「義理」や「恩」に縛られ、「情」にほだされるが、
ラストを飾るのは、
「義理」に縛られ意地を通す男や女を描き、リリシズムの中に滅びの美学を謳いあげる。
 しかし、多くの観客を動員した「任侠映画」も、やがてマンネリズムの袋小路に嵌(はま)り、
衰退し終焉を迎えた。
 (「昭和残侠伝・死んで貰います」)
 続いて東映が企画した映画が、「仁義なき戦い」実録路線シリーズの登場だ。
松方弘樹や菅原文太が眼をギラギラさせて、スクリーンせましと暴れまわった。
「血と暴力」を徹底して描いたシリーズだったが、どうにも抑えきれない若者たちの内面でたぎり、
沸騰する破壊行動は、一種の青春のエネルギーの爆発だったのだろうか。
 まったく新しいタイプの映画もやがてシリーズものの宿命なのだろう、
いつしかスクリーンから姿を消していった。
 (「仁義なき戦い・広島死闘編」)

 そして、「孤狼の血」

 在りし日の東映の黄金時代を思い出させる懐古趣味に満ちた映画だ。

冒頭、養豚場での目を覆いたくなるような惨劇から一気に引き込まれる。
というよりは、なぜこんな過激で刺激的なグロの場面を冒頭から描かなければならないのか、
私には理解できない。
しかも、こうした暴力シーンは映画全体に満ち満ちている。
ただ執拗に血の暴力シーンを描くことにどんな意味があるのだろう。

 ドスで突き、ピストルで撃つというような、かっての東映作品が描いた単純なものではない。
目をそむけたくなるような暴力シーンの連続。
近年、こんな酸鼻きわまりないバイオレンス・シーンが東映の、
いや日本映画のスクリーンで展開されたことはない。

裏切りと駆け引き。
やくざと癒着する悪徳刑事。
これを監視し密告の使命を負った若い刑事。

一体「正義」は存在するのかと思わせるような映画だが、たんなる悪徳刑事ではない。
又、密命を帯びた刑事がどんな変化をもたらすのかが映画のカギとなる。

 私にとってはドギツイバイオレンスシーンばかりが強調され、
東映やくざ映画の「夢よ再び」といった新しいものの感じられない、懐古趣味の強い映画だった。
大々的に新聞等で宣伝した割には、観客動員はいま一つさえない理由もこの辺にあるような気がする。
(ちなみに、朝一番の上映に観客は私も含めてむさくるしいオッサン3人。いずれも、ちょっと不機嫌な顔して劇場を出た。)


 最後にタイトルについて。

 「孤狼の血」が示す「血」とは何か。一般的には群れを嫌い、やくざ組織と対峙し、「血」の匂いを撒き散らす
一匹狼というイメージだ。だが別のイメージもある。
「血筋(ちすじ)」というイメージだ。この第二のイメージがラスト近くになって描かれてくる。


この映画は柚木裕子の同名小説を映像化したものだが、
私は未読のために評価の内容は映画に限定していることをご理解ください。
 (しばしば、原作の一定の部分を強調し、原作と全く異なる映画が創られることがあるからだ)。
             (2018.06.05記
)      (映画№17)

 

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映画「人生の約束」

2016-01-31 09:45:38 | 映画

映画「人生の約束」

人生っていいなぁ

 映画キャッチコピー : 友が死んだ。仕事だけに生きてきた私は、友が病に冒されていたことさえ知らなかった。……友の故郷には、町の人々が望み続ける思いがあった。それは、友の最期の想いでもあった。亡き友と交わした約束をここで果たそう。 心がつながる、この場所で……

  全編淚なみだの映画でした。

 「人が人と心から分かりあえる」とはこう言うことか。

安易に「絆」なんて言葉を使わない方がいいな。

付き合いも浅い人に「絆で結ばれている」なんて言葉を使って欲しくない。

東日本災害後、やたらに「絆」を連発されるのは迷惑ではないか。

 

 最近泣かされる映画を何本か見た。「お母さんの木」、「母と暮らせば」の映画の時も泣いた。

二本の映画は戦後70年を意識して作られた映画であり、

どちらかと言えば第三者的な立ち位置で見ている自分を意識できた。

 「人生の約束」の中では「絆」という言葉は登場しない。

強いて言えば、「人と人がつながる」とはこういう事なのだと、表現しているように感じた。

 

使い古されて陳腐な安っぽい意味になってしまった「絆」を超えるものとして「つながり」という概念を使っている。

 

 人と人がつながり、自然とつながり、コミュニティーの中でより強いつながりが結ばれた時、

生きる意味が見いだされたとき「人生の意味」が見えてくる。

家族を思い、町の人を思い、優しさの連鎖反応の中で、「つながり」が深まり、生きる意味が見えてくる。

 

  雄大な立山連峰を望む富山湾の新湊曳山祭りを舞台に、地方色豊かな人間模様が描かれていく。

 

 他人を蹴散らし、弱い者は押しつぶし、

逆らうものは排除しながら企業拡大に絶対の自信をもって邁進する社長の祐馬に

「立ち止まらなければ見えない景色がある」と親友・航平は諫める。

方針の違いは二人を別の道を歩かせる結果になる。

 

 曳山祭りの責任者でもある町内会長の

「人生において、失ってから気付く大切なものが沢山ある」など、

吟蓄に飛んだ言葉があり、曳山祭りの当日に向けて物語は感動の頂点を迎える。

 物語の核を成す人物たちの相関関係があいまいな部分を、

しっかりと観客に理解できるように描いていれば、満点に近い評価をしてもよいと思っている。

 評価 ☆☆☆☆(4/5) 85点                      (2016.1.31記)

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映画「天空の蜂」 (2) 救出作戦

2015-09-25 16:00:00 | 映画

救出作戦はこの映画のハイライト

原発は壊れない″という安全神話に立脚した原子力ムラの立てる対策では、無策のまま何もできない。二重三重の安全装置で設計された原発には、放射能漏れなど起こるはずがない。従って近辺住民の避難勧告など必要ない。避難勧告することは、自らが築いてきた"安全神話"を放棄することになる。打開策のない協議会に一石を投じるのは、高速増殖炉原型炉の設計者・三島の次の言葉だ。日本地図の関東から広島までをペンでぐるりと囲み「もし、放射能漏れが起きれば、日本は数百年ここを捨てることになるかもしれません」

 設計者の言葉だけに真実味と重味がある。

 原発の安全性をどう守るのか。国民への発表はどのようにするのか。打開策の見出せぬまま時間だけが過ぎていく。

 ヘリの墜落まで残り時間4時間。ヘリに閉じ込められた子どもの救出作戦が始まる。圧倒的スケールと迫力で観客を緊張させる映像は、ハリウッド・アクション映画と比べても遜色ない。救出対象が子どもという設定にも感情移入が容易にでき、緊張感は極限に達する。

 高度800㍍でホバーリングするヘリから子どもが落ちる。地上に向かって落ちていく子ども。救出作戦失敗か。次の瞬間……。(ここから先、ネタバレになるので、興味のある方は映画をご覧ください)

  ヘリの設計士(江本洋介):ヘリ開発に没頭し家庭を犠牲にしたが、今、自分の子どもがヘリの中に取り残され、次第に父の威厳と子どもとの絆をとりもどしていく。

 原発の設計士(本木雅弘):過去に子どもを失い、それを契機に離婚をし陰のある人物設定。

 錦重工業総務部社員(仲間由紀恵):犯罪者につながりを持つ女。

  犯行目的は何か。原子力発電に多くの課題を盛り込んで、クライシス・サスペンスは、最後のクライマックスを迎える。

 タイムリミットは3分。ヘリは燃料が尽きて原発の上に墜落してしまうのか……。

  原発の安全神話は、犯罪者の前に崩れていく。

 電力の供給は地方の犠牲の上に成り立ち、電力の安定を享受し、目の前にある危機を見て見ぬふりをする大衆を「沈黙する群衆」と表現する。

 現代社会に警鐘を鳴らす2時間18分の作品。

 

 

 

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映画「天空の蜂」

2015-09-23 22:05:02 | 映画

 映画「天空の蜂」(1) 息もつかせぬサスペンス

 映画の冒頭から、緊張で息もつかせぬ映像が展開する。1995年夏5年以上の歳月をかけて開発完成した、自衛隊に配備予定の超大形ヘリコプターの領収飛行というお披露目の式典の直前、テロリストによって奪われてしまう。

 粉塵を舞い上げ、遠隔操作で格納庫から出ていく冒頭のシーンからおそらく観客は画面にくぎ付け状態である。巨大な最新型ヘリが飛び立つシーンは圧巻。偶然にも紛れ込んだ少年を乗せたままヘリは、標的となった稼働中の原子力発電・高速増殖炉「新陽」の上空800㍍でホバーリングを始める。同時に犯人は政府をはじめとする関係機関に脅迫状を送り付ける。

  強奪犯からのメッセージはこうだ。

「日本国内に存在するすべての原子力発電施設を停止し、ふたたび起動できない状態にせよ。従わなければ、大量の爆発物を積んだビッグB(大型ヘリ)を原子炉に墜落させる。燃料が無くなるまで、あと8時間。あなた方の賢明な決断を期待する。″天空の蜂″」

 偶然にヘリに取り残された少年の救出作戦と強奪犯の要求を承諾するのかどうか、政府、救出作戦を検討する自衛隊特殊班、犯人逮捕に向けて捜査を展開する警察。

 緊迫した状況の中で、観客のボルテージは一気に上がり、最後までこの緊張感は継続する。

 導入部の概要ですが、仕事と家族、父と子の絆等たくさんの課題を提示したまま、緊張感は一気に上がっていく。

  子ども救出劇はこの映画の大きな見どころであるが、次回に掲載します。

 

 

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映画「おかあさんの木」

2015-06-16 22:30:00 | 映画

映画「おかあさんの木」

監督・脚本 磯村一路  主演・鈴木京香

 映画のキャッチコピー 

 おかあさんは、「おかえり」といえたのでしょうか。子供たちは、「ただいま」といえたのでしょうか。

 

 七人の子どもたちの代わりに、七本の桐の木が残った。

ファーストシーンは、成長した桐の老木をアップでとらえやがて俯瞰(ふかん)する寒々とした風景から始まる。

これから始まる物語を象徴するような風景だ。

映画の前半は、夫と7人の子どもたちとの、つましくも温かい家庭の風景が続く。

貧しいが一つ屋根の下で深いきずなで結ばれた家族の日常が描かれる。

 突然の夫の病死から、「おかあさん」の肩には7人の子どもたちの子育てが重くのしかかる。

ここまでは原作にはない。映画は、どこにでもあった戦前の家庭のつつましさを描くことにより、

これから起きる戦争の悲劇をより悲しい現実として対比させ、

7本の桐の木にまつわる「おかあさんの木」の悲劇を一層際立たせるのに成功している。

 

  脚本では、原作にないものを描くことにより、観客に「おかあさん」の悲しみを分かりやすく訴えている。

 

「あの木を切ってはならん」冒頭、語り部として登場する奈良岡朋子に言わせることにより、

観客はこれから始まる物語に想いを馳せる。出征のシーンが何度か出て来るがこれも原作にはない。

圧巻は出征する五郎の足に縋り付き、

「死んではいけない。必ず生きて帰ってこい」と泣く母に、憲兵の長靴が「非国民!!」と罵り母の背中を蹴るシーンだ。

原作にはないシーンが多々あるが、原作を損なうものではない。

 一切の余分なものを切り捨て、「おかあさんと木」に焦点を当てた原作も味わい深い。

「おかえり」「ただいま」といえるあたりまえの日常がいかに尊く大切なことかを、

映画も児童文学の物語も、私たちに訴えている。     (2015.6.16記)

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時代映画に見るリアリティ(2)

2011-02-06 17:30:39 | 映画

 命を散らしていく場面を、これでもか、これでもかと描いて見せるリアリズムの裏に見えてくるものがある。

 「侍」とは何か。

 「武士道」とは。

 「忠義」とは。

 「命」とは、といった「生き方」に関する命題が浮かんでくる。

 血を流し悶絶していく男の場面に、現代に生きる我々は、命の虚しさを感じ、

 死んでいく者にある種の哀感を感じてしまうのではないか。

  こうした感情の果てに「命の尊厳」という最も現代的で新しいテーマが見えてくる。

重い命がグロテスクに描かれ、死んでいかなければならない男の覚悟が気高くさえ思えてきます。

 事実、(1)で示した三本の映画のシーンで私が感じたのは、自らの命を「断つ」という場面で、

 「悲しみに似た感情」を抱き、目頭が熱くなってしまった記憶がある。

 具体的にいえば、忠臣蔵で浅野内匠頭(たくみのかみ)の幕命による止むにやまれぬ切腹シーンに感じる

「悲しみに似た感情」である。

  現代劇では描くことが難しい「命」の問題を 「死」という側面から考えさせられた3本の映画でした。

                                                           (おわり)

 
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時代映画に見るリアリティ(1)

2011-01-29 15:03:37 | 映画
昨年、三本の時代劇映画を観た。
「13人の刺客」、「桜田門外の変」、「最後の忠臣蔵」がそれである。

 これらの映画には、
一昔前まであった時代劇の「勧善懲悪」的なもののとらえ方や、
「様式美」に彩られた流れるような殺陣の展開は完全に影を潜め、
ときによっては目をそむけたくなるような写実的な描き方をしている。

 剣による命と命のやり取りは、
 刀が触れれば一瞬にして血しぶきが飛び、
 身体の一部が切断され、
 臓腑をえぐられ、
 悶死していく。

 そして、極めつけは、
 切腹であり、自決である。

 殺陣のリアリティもさることながら、
 主君の狂気とも思える残虐非道を、
 命を代償にする手段に訴えて悪政を是正させようとする、
 冒頭抗議の切腹シーンは衝撃的だ(「13人の刺客」)。

 雪を蹴散らし
 大地を鮮血で染めて大老暗殺を決行した水戸脱藩浪士たちが、
 次々に自決するシーンも目を見張る(「桜田門外の変」)。

 物語の最後、
 実に10分間にわたる切腹シーンは、
 観客を緊張の極みに追い込み、
 介錯を拒み、
 腹に突き刺した刀を抜き、
 頸動脈を切断し
 血の海の中で命果てる(「最後の忠臣蔵」)。

 三本に共通するリアリティはなにを意味するのか。

     (写真は「桜田門外の変」。大老襲撃のシーン)
 
                        (つづく) 
       これは、友人、知人に送った「はがき」の内容を
      ブログ用に書き換えたものである。



 
 
 
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映画「さまよう刃」を観て(4の(6) 「さまよう刃」とは (最終回)

2010-11-15 22:41:23 | 映画
 「さまよう刃」のタイトルの意味するものは何か?
 
 警察はそれ(長峰が追いつめた殺人少年犯を殺すこと)を阻止しなければならない。
 そのために長峰が死んでも仕方がない
 というのが警察の見解である。

 悪を戒め、正義を守るための警察権力。

 だが、自分たちが正義の刃と信じているものは、
 本当に正しい方向に向いているのだろうか。
 若い刑事・織部の苦悩である。

 警察権力と少年法の矛盾の中で
 揺れ動く正義の「刃」、ということなのだろう。

 また、
 「長峰の持つ猟銃には弾丸が装填されていなかった」。
 これをどう解釈すればいいのか。

 ここに、もう一つのタイトルの意味するところがあると思う。

 殺人少年犯を追いつめ、
 復讐を遂げようとする長峰の揺れ動く気持ちをイメージしているのではないか。

 狂気にも近い殺意が徐々に変化し、
 やがて、(4)の(5)で示したように「死の恐怖」を与えることに変わっていく。
 
 同時に、未来に絶望しか見いだせなかった長峰の心に光を灯し、
 支えになったペンションの女も見逃せない。

 頑(かたく)なに心を閉ざし、復讐の鬼と化す長峰が、
 人の情けを受け入れ、人を信じることによって、
 未来にかすかな希望を見出していく過程が、
 「さまよう刃」の意味するところではないか。

      (終)

    最初、2~3回のシリーズで終わる予定だったが、
    9回と長くなってしまいました。
     テーマの内容が重く、映画や原作の小説を読ん
    でいない閲覧者にも理解しやすいように書くうち
    に、だんだん長くなってしまいました。
     続けて閲覧していただいた皆さんに感謝です。
    とりあえず、最終回ということですが、日を改めて
    テーマに沿った関連本の紹介を「番外編」として
    一月から始めたいと思います。

 
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