啄木哀し(5) 最期の歌 (つれづれに… 心もよう№27)
当初、釧路駅があった幸町公園に設置されたが、
現在は旧釧路新聞社(啄木が記者として一時勤めた)のある旧釧路川沿いにあり、碑文には、
さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき が刻まれている。
貧困は啄木を自死にまで追い込むが果たせなかった(啄木24歳)
高きより飛びおりるごとき心もてこの一生を終わるすべなきか
『次から次へと休む間もなく襲いかかる病魔と貧乏に痩せた体にさいなまれながら、
啄木はひとりもがきしているうちに1911(明治44)年も暮れていき、
啄木にとってこの世の最後の年である明治45年を迎えることになる。』(平野博和著 石川啄木入門から引用)
1912(明治45)年・啄木28歳病苦と貧困の中に新年を迎える。
3月 7日 肺結核で母死去
4月13日 啄木、若山牧水、妻節子 父一禎に見守られ永眠(28歳)
1913(大正2)年 節子死去 28歳
最期の二首
呼吸(いき)すれば胸のうちにて鳴る音あり
凩よりも寂しきその音
眼を閉づれど心に浮かぶ何もなし
さびしくもまた眼をあけるかな
思えば貧乏と病苦に追いまくられた生涯だった。
恋しい思いは故郷への望郷の歌となって多くの人の心をふるわした。
目を閉じてももう何も浮かんでこない。
曠野の果ての寂寞感がたまらなく悲しい。
後者は谷村新司の「昴」が摂取していることでも知られている。
終始貧乏と病気に苦しんだ啄木だったが、
人間の無力さを痛感しながら、
死ぬまで生活と密接に関係した短歌を歌い続けたところに、
啄木の強い文学への意欲と誠実な生き方に感動するのだ。
啄木が決して青春の感傷だけを歌った詩人ではないことがご理解いただければ、
胸中の幸いです。
(2016.2.26記) おわり