雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ④ 生きていた3人の米兵

2018-08-29 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29 米兵を助けた日本人
       ④ 生きていた3人の米兵
          勇気ある一人の日本人の言葉が、米兵を助けた
昭和20年3月、東京大空襲に参加したB29爆撃機が茨城県筑波郡に墜落。当時小学二年の著者は生存米兵三人を目撃。五十余年を経て、墜落機尾翼の番号を手掛りに米兵のその後を究明する。99年刊の増補版。(ブックテータベースより)

 

「出てこい、出てこい」
と大声で叫びました。
その時3人のアメリカ兵のうちの一人が
「アイ ウィル ギブ ユー ジス ウォッチ 、ソウ プリーズ ヘルプ アス 
(この腕時計をあげるから我々を助けてください)。
旧制中学校(現茨城県立水海道第一高等学校)で5年間週に6時間以上も英語を学んだ冨山さんにとって、意味を理解することは簡単でした。

「よし分かった。お前たち3人を助けてやる。
集まった大勢の村人に向かって、

3人は丸腰だ、撃つな!殴るな!助けるんだ! 助けるんだ!
更に、

「丸腰の3人は身内と同じだ!殴るな!殴りたければ俺を殴れ!
と懸命に叫んだ。

「丸腰の3人は身内と同じだ」
なんと勇気に満ちた、
感動的な言葉なのでしょう。
「鬼畜米兵」と言っていた時代に、
しかも、
たった2時間前には500ポンドの焼夷弾を334機の一機として、
投下し東京の空を炎の海にして焼き尽くし、
私たち日本人の同胞を10万人近く死に追いこんだ「敵」の兵隊に向
かって、
怒りに満ちた村人の興奮を抑えるよ
うに放たれた言葉なのです。

 

                       (つづく)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

 (2018.8.27記)          (語り継ぐ戦争の証言№20)

 

 


 

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ③ 8歳の少年が見たものは

2018-08-27 07:20:52 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29  米兵を助けた日本人
       ③ 8歳の少年が見たものは
 
「鬼畜米兵」と言われていた米兵のB29が、
「東京から約40㌔北東の茨城県の板橋村に真夜中に火だるまとなっておちてきたB29と
 生存兵が憲兵に連行されていく場面を8歳の草間少年が目撃した」ことが調査の動機になったようです。

 

回想の中で草間氏は次のように語っています。
【…南の夜空に火だるまとなった一機のB29自分の方に向かってゆっくりと落ちてきたのです。
8歳だった私は、東京大空襲の夜空も怖い思いで見ましたが、このB29墜落の目撃は衝撃的でした】

 

墜落現場に火柱が立って周囲の山林が大変な火災になりました。
真っ先に駆けつけたのは村の消防団員たちでした。
午前2時15分ごろ副団長の当時35歳の冨山栄さんをリーダーとする消防団員たちは、
墜落したB29と周囲の松林の火災を消し止めるために墜落現場に向かいました。
集まった人々は、棍棒を持ち、猟銃を持ってきた人もいたようです。
それでもなかなか前に進んで行く勇気のある人はいなかったようです。

「今は戦争中だ。戦場もここ同じだ。消防団副団長として俺が行く。
 アメリカ人が怖ければついてこなくてもよいぞ」。

そう言われて、集まった人々が後について少しずつ前進しました。
その時には集まった村人は百数十名になっていました。
燃えるB29の尾翼まで近づき見えたものは、
火災の炎に照らされながら蹲(うずくま)っている3人のアメリカ兵でした。
                       
 (つづく)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 (2018.8.24記)          (語り継ぐ戦争の証言№19)

 

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ②墜ちて来たB29

2018-08-24 08:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29 米兵を助けた日本人 
    ②墜ちて来たB29
  なぜ墜たB29の詳細がわからないのか。
これに関連した新聞記事をみてみましょう。
【当時、追撃されたB29の搭乗員の遺体は、「鬼畜米兵」の見本として一週間も現場の翼上に展示されていた】 
                                      (1998.5.8  H10 朝日新聞)
 この記事は、戦時中のアメリカ軍の無差別爆撃に対する報復として生存兵が虐待され、
戦士した兵が遺棄されたことを物語っています。
墜落した生存米兵に、石を投げたり、棒で叩き、寄ってたかって暴力を振るったなど、
この種の話は沢山聞くことができます。

 

敗戦を迎え、GHQが調査に乗り出すとどのような仕打ちをされるかわからないと、
事実の陰蔽が行われたから、
公的記録はもちろんのこと、
民衆の口は貝のように閉ざされたまま、事件は闇に葬られてしまったようです。
 私は今年の「語り伝えよう太平洋戦争」では、
東京大空襲を取り上げようと資料を集めていました。
その過程で偶然「茨城に落ちたB29  米兵を救った日本人」という草間秀三郎氏が書いた本を発見しました。

 

 茨城県のつくばみらい市(当時板橋村 筑波郡伊奈町)に東京爆撃の任を終了したB29が墜落し、
板橋村の住民が生存米兵を助けたという記録です。
この事件も草間秀三郎氏が、掘り起こし、記録にとどめなければ、
歴史の闇に消えていたかも知れません。

 当時、8歳の少年だった草間秀三郎氏が、
目撃したB29爆撃機の墜落事件を、50数年たってから関係者に聞き込み調査をして、
米兵の遺族を探し出し墜落時の全容を明らかにしました。

 8歳の草間少年が目撃したB29墜落事件とは、どのような事件だったのでしょうか
                                  (つづく)
  (2018.8.22記) (語り継ぐ戦争の証言№18)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ①東京大空襲の夜

2018-08-22 07:07:53 | 語り継ぐ戦争の証言

 1945年3月9日の夕刻、
マリアナの米軍基地を飛び立ったB29爆撃機は、
3月10日午前0時8分東京上空に現れました。
その数334機。
500ポンド(225㌕)の焼夷弾24個を搭載したB29爆撃機が
低空飛行で東京の街を襲いました。

 この無差別爆撃は、たった2時間で終了しました。
ご承知のように、東京の街は阿鼻叫喚
の地獄となったことを、
私たちは映画や文学
作品、絵画等で知ることができます

 3月10日の東京大空襲の被害が具体的にどのくらいのものだったのか
数字で示してみましょう。
 
一つでも多くの焼夷弾を積み込むために
4基の機関銃をすべて取り外してあったそうです。
その上、空中衝突を避けるために、
編隊を組まずに高度8500㍍以下の低空飛行で東京上空に現れたといわれています。
空襲の犠牲者は、
死者83,793名
負傷者40,918名
傷者合計124,711名
戦災家屋268,000戸。
   小さな地方の市が一つ消えてなくなってもまだ足りないぐらいの大きな被害です。
   3月10日は陸軍記念日で、334機のB29はまさにこの日を狙い、首都東京を襲ったのです。
   この時落とされた「焼夷弾」は、
   
 親爆弾に子爆弾19発が2段に、計38発が組込まれ、空中で分解して落下する。
    1機のB―29が1520発の子爆弾を投下した。
   爆発の威力は少ないが、燃焼力があり、水では消化できない。

    
   無差別に投下された焼夷弾はあまりにも非人道的ということで、
   1983年、「特定通常兵器使用禁止制限条約」により使用禁止されました。

   こんな爆弾を作り非戦闘員を無差別に攻撃し、
   核爆弾を広島、長崎に落とした非人道的行為について、
   その責任有無について、何ら問われていないのは、
   戦勝国とは言えおかしな話です。

 話を本題に戻します。
   
圧倒的な物量と戦闘能力を備えたB29ですが、
   太平洋戦争で墜落したB29は、米軍資料によると327機と言われていますが、
   墜落場所、時刻、
戦死者数、生存者数、住民の対応、
   憲兵や警
察の対応など全容が明らかになっているもは、ほとんど見当たらないようです。
   どうしてなのか。
                                      (つづく)
  (2018.8.21記)         (語り継ぐ戦争の証言№17)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

 

 

 

 

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妻が認知症になったら ② 砂川啓介

2018-08-16 22:02:56 | つれづれ日記

妻が認知症になったら ② 砂川啓介

  砂川氏の死去後に対面したのぶ代さんは、
  棺の横で「お父さん」と言ってポロッと涙をこぼしたそうです。
  大半のことは忘れてしまっても、「お父さん」のことだけは覚えていたのですね。
  短い短い「お父さん」との最後のお別れだったとichigo-milkさんは伝えています。
 
  介護に一番必要なのは、愛情です。
  愛情が認知症という垣根を乗り越えて、
  残存機能を働かせ、二人を結びつけるのでしょうか。
     (2018.8.16記)     (つれづれ日記№73)

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妻が認知症になったら ① 砂川啓介

2018-08-16 18:57:46 | つれづれ日記

妻が認知症になったら
      砂川啓介インタビュー
               (ラジオ深夜便・2016.4号より)

   佐川啓介さんはNHK幼児番組「うたのえほん」の初代「たいそうのおにいさん」として長く務める。
 妻・大山のぶ代はアニメ「ドラえもん」の声優として有名。
 砂川氏は妻・のぶ代が認知症を患っていることをラジオで公表。家政婦と共にのぶ代自宅で介護していた。
 その介護の様子を「娘になった妻、のぶ代へ」とし、老老介護の様子を公表した(2015.5)。
 2016.4月砂川氏は尿管がんの治療のために、のぶ代を老人ホームに入所させる。
 2017.5月には入院を余儀なくされ、脳梗塞を併発し同年7月11日死去、享年80歳

 このインタビューは2016年1月に放送されたものです。時期的には、
 「娘になった妻、のぶ代へ」を上梓してほぼ1年後である。

  
妻の異変
 アルツハイマー型認知症の診断を受けた時には、現実を受け入れがたい思いがあったが、
考えてみれば異変は確かにあったようです。
2、3前に言ったことをすぐに忘れてしまうとか、
怒りっぽくなって人間が180度変わってしまった。
「そんなはずはない!」そんなはずはないという思いが強かったようです。

 言ったことをすぐに忘れ、同じ話をくりかえす。そのことを「おかしい」とも思わなくなる。
高齢による物忘れとは全く違うパターンです。
忘れたことを気にならない。しかし、忘れるたびに周りからそのことを指摘されたりすると、
だんだん気が重くなるのでしょうか、無口になり、当然周りとの会話の数も少なくなってきます。
自分の意思を「思うように相手に伝えることができない」。「相手が理解してくれない」。
此のいらただしさが、行動の変容につながり、時には相手への暴力に繋がって来るようです。

 やがて、のぶ代さんが長年務めた「ドラえもん」のことも分からなくなり、排泄、幻覚、徘徊などに振り回される日々が続いたのでしょう。
とてもとても、老老介護の二人ぼっちの環境ではどうにもなりません。
介護される側も、する側にとっても、辛く厳しい状況が続きます。
孤立無援の状況での老老介護の先には、破滅という辛い現実が待ち構えています。
行政的な援助や周りの人たち(血縁者等)の支援が必要になってきます。

 福祉的支援は申請主義の立場を持っていますから、当事者が無知であったり、支援を拒否した場合にはなかなか難しい局面を迎えてしまいます。
「自分の妻は自分が面倒を見る」という選択も難しい選択です。
老老介護の果てに、介護する方が心身ともに疲れ、先に逝ってしまう例も珍しくありません。
介護の現実を見極め、「施設入所」の選択も仕方のないことと思います。

 砂川氏の場合は、自分が体調を崩したことが原因でのぶ代さんの施設入所を考えたようです。
「病気の君を置いて先には死ねないよ」と言っていた砂川氏でしたが、冒頭に述べましたように
先に旅立ってしまったのは、砂川氏でした。

 

 

 

 

 

 

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遠花火

2018-08-14 15:00:10 | 昨日の風 今日の風

遠花火
    遠ざかる花火
  地方の小さな小さな花火大会だ。
  手作りの花火大会は、地域に住む人たちの小さな善意で成り立っている。
  「家族の健康を祈って」
  「初孫万歳!!」
      「今年も元気に過ごすことができました。ありがとう」
  等々、個人の幸せを祈って打ち上げる人が多い。
  打ち上げ総数2000発。
  地域の皆さんの寄付がなければ成り立たない花火大会だが、
  10年以上も続いてきた。

  喧噪の中で、夜空いっぱいに広がる花火を川岸の土手に座って眺める。
  ドーンという音に続いて、少しの間があり、パッと夜空に広がる色鮮やかな花火
  一瞬の命の瞬き。
  感動と同時に、枝垂れ柳のように消えていく。
  華やかさの頂点と、消えゆく儚さがほぼ同時に存在する。
  
  ここ近年、私は会場から遠く離れたところから眺めるようにしている。
  「遠花火」を眺める位置が、年ごとに遠くなっている。
  
  かすかな音と共に、
  遠くの夜空に消えていく花火を眺めるのも、いいもんだと自負しながら
  夏の一夜を過ごしている。
  
  遠花火 人生を想う
  〇 あれやこれ過ぎし日のこと遠花火 …… 池下よし子

  〇 これからの生き方問はれ遠花火  …… 稲嶺法子
  
  〇 悔いなしと言へぬ半生遠花火   …… 久保田雪枝
  
  〇 遠花火記憶の端をつなぎけり   …… 佐久間由子

  遠花火 逝きて帰らぬ人を想う
  〇 遠花火今宵は逝きし人のこと   …… 中島昌子
  
  〇 母逝きし日の静かなる遠花火   …… 松田明子
 
  〇 臨終に音一つ無し遠花火     …… 鳳蛮華
  
  〇 遠花火征きて還らぬ人の供華   ……

  遠花火 命の音が聞こえる
  〇 一秒の命を尽くす遠花火     ……蒔元一草

  〇 遠花火心の底に音はじけ     ……高橋美智子

  遠花火 花火に託す恋
  〇 初恋は儚く消えし遠花火     ……茂木とみ
  〇 握る手を握り返せず遠花火    ……永田 勇
       (2018.8.14記)         (昨日の風 今日の風№89)

コメント (2)
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千度呼べば 新川和江 ③  陸橋の上で

2018-08-09 12:40:35 | ことの葉散歩道

                千度呼べば 新川和江③ 陸橋の上で
橋上の上で
 
   橋上の上で わたしたち
  なかなか 別れられなかった
  夜が 更けてしまい
  最終電車が いってしまい
  ちらちらと雪が
  降り出しても 私たち
  さよならが 言えなくて

  どのようにして わたしたち
  それぞれの 家へ帰っていったのかしら
  いまはもう 思い出せない
  ただ てのひらに
  痛みのようにのこっている
  あなたの指の ほのかな温み
  はじめて触れた あの陸橋の上で
           
        
    詩集「千度呼べば」より


   新川和江の言葉はやさしい。
  だれにでもわかる やさしい言葉で
  語りかけてくる
  そのこころよい響きが たまらなくいい
  ガードを固めずに
  胸の内に湧き出た思いを
  呟くように 読者に投げかける
  春の朧
(おぼろ)のように 読者をやさしく包んでしまう

  情念の炎も 哀しみも 切ない女心も
  どこかにやさしさを漂わせて
  読者にふんわりと投げかけてくる
          
                      あの日の橋上の別れ
                      雪が降って 
                      今日から明日へと変わっていく
                      白い景色の中で
                      互いの吐く吐息だけが
                      わずかに ふたりの想いを伝えている
                      このまま二人 雪に埋もれてしまえばいい

                      あなたの残した指のほのかな温かさが
                      今もときどき 
                      小さな疼きとなって 還ってくる
                      この疼きだけが 確かな証拠として
                      思い出の舟の中で よみがえってくる

                      今はもう 
                      遠くにかすんでしまった
                      陸橋の別れ


  ブックデータ:  千度呼べば 2013年 新潮社刊
     
          (2018.8.8記)              (ことの葉散歩道№12)

                      

 

 

 

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「お前は植物か」 許されない暴言です

2018-08-08 08:30:00 | 児童虐待

「お前は植物か」 許されない暴言
   どんな職業でも、誠意を欠いては成り立たない。
    仕事に対する誠意が求められる。
    つまり、気持ちのこもった丁寧な仕事が求められる。
    仕事を通じて接触する人には誠意をもって対人することが求められる。

   そうしたことを怠れば、職業人としての品格を失い、
   やがて、職業そのものが成り立たなくなってしまう。
   
   以下に紹介する人物は、教師としての資質に欠けている。
   教師という職業を選択してはいけない人だ。

   いささか古いニュース(2018.6.14付朝日新聞等)で恐縮だが、   
  
   
「おまえは植物か」児童に暴言 20代男性教諭に厳重注意 高松市教育委員会
    まるで、品の悪いオッサンが喧嘩を売っているような言葉遣い。

    2015年、
   高松市立小学校の20代の男性教諭が児童に暴言を
   吐くなどして、

   
厳重注意を受けていたことが分かりました。
   注意を受けたのは、高松市の小学校 に
    勤める男性教諭です。
    高松市教育委員会によりますと、教諭は
    2015年11月、      
    当時勤務していた高松市の小学校で、
    給食を食べるのが遅かった児童に
   「お前は植物か」と発言しました。
   「謝ったほうがいいですよ」
   
と注意した別の児童にも
   「てめえに言われたくないわ」
   
と言ったり、体を強く押したりしました。


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人生を彩る言葉

2018-08-04 18:52:53 | ことの葉散歩道

人生を彩る言葉
   深く味わいのある言葉に出逢い、気持ちが元気になる時がある。
   たかが言葉、されど言葉。言葉には不思議な力がある。
   言葉。時に優しく、時には牙をむいて襲いかかってくる。
   深い人生を歩んだ人の言葉には
   味わい深いものがある。
   哀しみもある。
   人生の真実が見えるときがある

   そんな言葉たちを集めてみました。

   〇 一番大切なことは、ただ生きることではなくて、よりよく生きることである
                                    ソクラテス
           「よりよく生きる」ということは、前向きに生きる。積極的に生きる。
           他人に左右されず信念を貫き通す生き方なのかな。
           自ら毒杯をあおって死んだソクラテスだから言えることなのかもしれない。

  
         〇  確かにしわが増えましたが、これは私が多くの愛を知った証。
        今の顔が一番好きです
                               オードリー・ヘプバーン
      
          「ローマの休日」「ティファニーで朝食を」「緑の館」「おしゃれ泥棒」
                                    「シャレード」など映画も粋で楽しかった。夢があった。
   〇 私にとって最高の勝利は、自分と他人の欠点を受け入れられるようになったこと
   〇 この暴力的な世界に一時の休息をもたらせる、
            そんなビジネスの一員であることを誇りに思っています
                           
1993年には米映画俳優組合の特別功労賞を受賞。
                                 そのとき病で表彰式に出席できなかったオードリーの代わりに、 
                                 ジュリア・ロバーツがこの感謝のメッセージを読み上げ、感動を呼んだ。(VOGUE JAPANより)
           人間のわがままが空を汚し…動物を絶滅に追い込みました。
              次は子どもたちなのでしょうか


                                60年代後半からは、子育てに専念して女優業を控えていた。
                               その後の人生はユニセフ親善大使として、厳しい環境にある世界の子どもたちに注がれた。
                              
彼女の熱意あふれる活動は今もユニセフのWebで伝えられている。 (VOGUE JAPANより)    

       年齢というものには元来意味はない。若い生活をしているものは若いし、
    老いた生活をしているものは老いている
                              井上 靖 (小説家)
  〇  歳を重ねただけで人は老いない。理想を失うときに初めて老いがくる
                              サュミエル・ウルマン(詩人)  


       名言・人生訓は沢山あるけれど、最後はこれで終わりたい。

        伝えたい おもいは
           いろいろあるけれど
              最後は やっぱ
                  ありがとう
                        金剛山 千早本道

                                 (ことの葉散歩道№43)

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