太宰治 情死行 ⑤ 情死行の相手・山崎富栄について
「死ぬ気で恋愛してみないか」と太宰に口説かれたのは、
1947(昭和22)3月27日の夜、屋台のうどん屋で飲酒中の太宰に初めて会ってから38日目の
5月3日だった。
太宰が本気で言ったのかどうか、知る術はないが、その日の富栄の日記には
次のように記されている。
“死ぬ気で! 死ぬ気で恋愛してみないか”
“死ぬ気で、恋愛? 本当は、こうしているのもいけないの……”
“有るんだろう? 旦那さん、別れちまえよォ、君は、僕を好きだよ”
…(略)…
I love you with all in my heart but I can't do it.
言葉にできない自分の思いと妻帯者である太宰との関係を、
英文で書かざるを得ない富栄の道ならぬ恋心に悩む姿が浮かんでくる。
この日の日記には「でももし、恋愛するなら、死ぬ気でしたい……」
と、太宰夫人・美知子の立場を気遣いながらも、どうにもならない女心を記している。
この時、富栄には奥菜修一という夫がいた。
7月7日、奥名修一戦死の公報を受け取る。
たった十日間の新婚生活で別れなければならなかった富栄には、
夫への愛情を紡ぎ出すにはあまりにも短い時間だった。
発送されなかった両親あての遺書 7月14日富栄の日記
親より先に死ぬということは、親不孝だとは知っています。
でも、男の人の中で、もうこれ以上の人がいないという人に出逢ってしまったんですもの。
お父さんには理解できないかも分かりませんけど。太宰さんが生きている間は私も生きます。
でもあの人は死ぬんですもの。…(略)…人の子の父の身が、子を残して、しかも自殺しよう
とする悲しさを察してあげて下さい。
私も父母の老後を思うと、切のうございます。でも、子もいつかは両親から離れねばならな
いのですもの。人はいつかは死なねばならないんですものね。
長い間、ほんとうに、ほんとうに御心配ばかりおかけしました。
子縁の少ない父母様が可哀想でなりません。
お父さん、赦してね。とみえの生き方はこれ以外にはなかったのです。
お父さんも、太宰さんが息子であったなら、好きで好きでたまらなくなるようなお方です。
老後を蔭ながら見守らせて下さいませ。
私の好きなのは人間津島修治です。
奥名修一戦死の報を受け、戦争未亡人となった富栄は、
おそらく太宰への思いが抑えきれなくなったのだろう。
太宰への思いを貫く決意と、昨日までの富栄自身に対する決別のための遺書だったのだろう。
これは、日記に自分の思いを書き残した、両親にあてた遺書と思われるが、
「遺書」という文字はどこにも見当たらず、その日の出来事のあとにさりげなく書かれている。
また、次のような記述もみられ、富栄の一途な思いがうかがわれ、涙を誘う。
奥様のお赦しさえあれば、御一緒に写真だけでも入れて欲しいのです。
「奥様のお赦しさえあれば」、(太宰さんの棺の中に私の写真を入れて欲しい)
なんという虫のいい話だと感じることも出来るが、
むしろその反対で、この言葉の裏には、お赦しがなければ諦めますと、
日陰の身の諦念が浮かんでくる。やむにやまれぬ最後のお願いとして書く、
富栄のいじらしさが浮かんでくる。
太宰さんは私には過ぎたる良人。そして私にはなくてはならない良人でした。
“僕の妻じゃないか”と仰言って下さったお心、忘れません。
この日の日記の中の富栄は、冷静さを失っている。
同じ日の日記であるが、27歳の女が書く言葉にしては、
少しばかり幼すぎる気もしないではないが、
「死」に向かって落ちていく女の心情が哀れである。
「良人」と書き、「僕の妻」と太宰は言うが、生きるための努力をした形跡は見当たらない。
八方ふさがりで、富栄との関係を知られることをひたすら恐れる太宰は、
気の小さい我儘な男にしか見えてこない。
1947(昭和22)8月24日の日記
太宰の体は衰弱し、自分の家に帰り妻と子供二人のもとで療養生活をして、
久し振りで富栄にあった日のことである。
「駄目だよサッチゃん。十月まで保たないよ。憔悴しちゃったよ。寝なきゃあならないんだ」
「誰か、いい人を見つけて、幸せにおなり」
「いい人なんて、結婚する相手なんて、あなたより他にいやしないのに」
泣いて、泣いて、泣いてしまう。
「ごめんね。僕はつらいんだよ。別れている間が――。
どうして君と一緒にいると、安心なんだろうなあ。不思議だなあ」「……」
追いつめられていく富栄。
相変わらず自分中心で、だたっこ振りの太宰。
「誰か、いい人を見つけて、幸せにおなり」と、思ってもいないことを平気で口にする。
こんな会話をするような場の雰囲気ではないことを、百も承知で、
富栄の気持ちなど思いやることもなく、戯言のように行ってしまう。
日記を読めば読むほど、富栄の一途さと太宰の幼児性と我儘ぶりが浮かんでくる。
富栄に泣かれて、「ごめんね、僕はつらいんだよ。別れている間が――。」と前言をひるがえし、
次の言葉のような本音をポロリともらす。
「サッチャんに惚れちゃった」と太宰の口説き文句を聞かされ、
「いやいや、また始まる……」と日記に記し、ますます太宰に惚れ込んでいく自分を感じながら、
太宰さんを待って、嫁がずにいられる女の方のお話も再度耳にした。女の方が御気の毒で涙が出る。
と、どうしていいかわからず太宰の別の女性(太田静子のことでやがて静子は太宰の子どもを産み、
太宰治の「治」の一字をとり「治子」と名付けるようになる)のことを思い、涙を流す富栄である。
日記は続く。
何故こう私達は悲しいのだろう。泣いた。泣いた。
「私、別にお知らせ致しませんけど、先に逝きます」
「駄目よ駄目よそんな」
しっかり抱き合って、あなたが死ぬなら私も死ぬ。
あなたのいない世の中なんて、なんの楽しみがあるものか。
「御一緒に連れていって下さい」
「ごめんね、サッちゃんを頂きますよ」
「うん、頂くなんて。お願いします。お供させて下さいね」
「サッちゃん」とは、太宰が付けた富栄の愛称で、太宰が勝手に付け、
いつしか周りの人たちも「山崎さん」や「富栄さん」ではなく、
「サツちゃん」と呼び、太宰にとってはなくてはならない人になっていく。
1947(昭和22)年11月12日
太田静子が太宰の娘治子を出産。富栄は激しい衝撃を受ける。
が、富栄は人が良く、どこまでも太宰に従順である。
太田静子への送金や、書簡の代筆まで引き受ける。
1947(昭和22)年11月15日
この日の日記には、太田静子の弟・太田通が、三鷹の富栄の部屋を訪れる。
目的は、三日前に生まれた太宰と静子の間にできた子供の認知と命名を求めての来訪であった。
前にも述べましたが、太宰は次のような認知證を書き、静子の弟太田通に渡しました。
1947(昭和22)年11月16日の日記には、15日の様子が次のように書かれている。
斜陽の兄君(太田通のこと)を前にして、“いやです”なんて、申せませんし、
このときばかりは、ほんとうに何とも言えない苦しさでした。
御自分のお子様にさえお名前から一字も取ってはいらっしゃらないのに。
愛人の太田静子と太宰の間にできた子供に、本名の津島修治の「治」を、
或いは太宰治の「治」を取って命名する。太田家側の要望であり、
断り切れない太宰の追いつめられた立場があるとしても、こうしたやり取りを愛人・山崎富栄
の部屋でする太宰の無神経さが私には理解できない。
斜陽の子(太田静子の子)ではあっても、津島修治の子ではないのですよ。
愛のない人の子だと仰言いましたね。
女の子でよかったと思いました。男の子であったら、
正樹ちゃんがお可哀想だと思って、心配していたのです。(注・以下三行抹消されている)
正樹とは太宰の長男のこと、いわゆる跡取り息子。富栄はお人好しというか、無垢というか、
行き詰った二人のどうにもならない関係のもとでも、正妻の子ども・正樹の立場を心配する。
太宰の余りに無節操を富栄になじられても、太宰は自分本位の考えに固執し、子どものような
感情を富栄に与える。
“そんなこと形式じゃないか。お前には、まだ修の字が残っているじゃないか。
泣くなよ。僕は、修治さんじゃなくて、修ッちゃだもの。泣くなよ”
“いや、いや、お名前だって、いや。髪の毛、一すじでも、いや。
わたしが命がけで大事にしていた宝だったのに”
“でも、僕、うれしい、そんなに思っていてくれたこと。ごめんね、あれは間違いだったよ。
斜陽の子なんだから陽子でもよかったんだ。(…略…)
太宰の言葉は、まるで母親に叱られた子どものような、富栄の辛い心情を分かっていない言葉だ。
“ネ、もう泣くのやめな。僕の方が十倍もつらくなっているんだよ。ね、可愛がるから。そのかわ
り、もっと、もっと可愛がるから、ごめんね”
私が泣けば、きっとあなたが泣くということは、分かっていたのです。でも泣くまい、
そういうことを承知していても、女の心の中の何か別な女の心が涙を湧かせてしまうのです。
泣いたりして、すみません。
“僕達二人は、いい恋人になろうね。死ぬときは、いっしょ、よ。連れていくよ”
“お前に僕の子を産んでもらいたいなあ――”
“修治さん、私達は死ぬのね”(注・二行抹消されている)
“子供を産みたい”
“やっぱり、私は敗け”
(敗けなんて、書きたくないんだけど、修治さん、あなたが書かせたのよ。
死にたいくらいのくやしさで、涙が一ぱいです。でも、あなたのために、そして御一緒に――。)
…略…
1947(昭和22)年3月27日 屋台のおでん屋で二人が逢ってから280日が過ぎている。
1948(昭和23)年6月13日 玉川上水入水まで後249日
1948(昭和23)年 5月26日 日記 どうしても子供を産みたい。欲しい。
きっと産んでみせる、貴方と私の子供を。
太宰と死にたいという気持ちと、子供を持ちたいという相反する二つの気持ちが
富栄の心のなかで葛藤している。入水決行20日足らずの日記である。
富栄は健康状態が悪い太宰のためにビタミン剤の注射を投与しながら、
「人間失格」の執筆を始める。太宰はしばしば喀血もし、富栄は看護婦役として付き添い、
約20万円の貯金を太宰の飲食費や薬品代、訪問客の接待費などに使い果たしていた。
太宰は家庭管理や金銭の管理はまったくできない人で、
原稿料のほとんどは、酒代、訪問客への接待、飲食費やたばこ代に消えてしまう。
放蕩、無頼の作家を富栄は支え続けた。
太宰は、「人間失格」を5月に脱稿すると、すぐに、朝日新聞の連載小説「グッド・バイ」
の執筆にとりかかる。
いったい太宰には本当に富栄と死ぬ気があったのだろうか。
(つづく)
(つれづれに……心もよう№120) (2021.8.19記)