雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹著

2020-09-08 06:40:18 | 黄昏時を生きる

読書案内「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹著
         ー総力戦研究所“模擬内閣〟の日米戦必敗の予測ー
 ブックデータ: 中公文庫2010.6 新版として発刊。初版は1983(昭和58)年に
              世界文化社から出版されている。この9月に再版されました。
             ノンフィクション
 

  昭和16(1941)年4月1日
31歳から37歳までの35人の優秀な人材が集められた。
      『総力戦研究所』、彼らが所属するこの研究所の目的は、模擬内閣を作り
  やがて訪れるであろう日米開戦の勝敗を予測するための組織だった。
  総理大臣をはじめ、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍等に任命された男たちが模擬内閣を組織し、
  国力、戦力、エネルギー、経済、資源すべてを投入して、
  開戦に至った場合の勝敗を予測するものであった。

      総力戦研究所の入所要件は、幅広いバランスの取れた判断力を要求されたから、
   実社会に出て10年という基準があった。
   この基準に見合う優秀な人材は、社会を知らない学生のように性急で観念的でもないし、
   逆に熟年世代のような分別盛りでもない。ベスト&ブライテスト(最良にしてもっとも聡
   明な人材)として全国が集められた彼らが、シュミレーションの中で辿りつ いたのが、日
   米戦日本必敗という結論であった。

   総力戦研究所の総論は次のようなものであった。
   小麦・米・肉などの食料。鉄・銅・アルミなどの工業原料。綿花・羊毛の衣料。
   石炭・石油・ゴムなど21品目の自給能力を各国別に分析、これを比較して国力差
   を出してみると、自給率の一番高いのは米・ソ・独の順で、英国は帝国全体では
   ソ連の自給率を超すものもある、と俯瞰したあと品物別に自給状況を比較する。
   「アメリカは銅を除いていずれも日本の七倍以上、石油三十二倍、ソ連の六倍……
   日本が三位までに顔を出すのは米・ソに次ぐ綿花だけで、あとすべての需給量は
   最下位にある。結局これら物質自給力の差が、五か国国防資源時給能力総体の優劣
   を決定づける」と断定した。(引用)
   
 総力戦研究所による疑似内閣が組織される前年(昭和15)1940年9月には、
 『日独伊三国同盟』が締結され、国内においては、
 『日ソ
中立条約』【(『日昭和16)1941年4月】が結ばれ、
 第三次近衛内閣退陣から東條内閣が【(昭和16)1941年10月】成立する。
 時代の流れは一発触発、風雲急を告げる早馬が世界をかけめぐる。
   『日ソ中立条約』で、背後の安全を確保した日本は、東南アジアへの進出に力を入れる。
 もはや、戦争回避は不可能な状況の中、米国による対日石油輸出禁止などの経済制裁が発動される。

 泥沼へはまり込み、身動きの取れなくなった日本。
 1941年12月8日、真珠湾を奇襲攻撃し、日米開戦へ。

 総力戦研究所が出した『必敗』という結論は、結局生かされることはなかった。
 政府や軍部が『必敗』の情報を持っていたのにもかかわらず、
 世界の状況や軍部の無謀な戦争推進論、そして世論などすべてが、
 「戦争」への方向を指し示していた。

 戦争直前の夏、総力戦研究所の若いエリートたちがシュミレーションした戦争の経過とほぼ同じような
 道をたどって日本は敗戦した。

 いったい、あの昭和16年の夏に試みられた、『総力戦研究所』とは、なんだったのだろう……

   閑話休題
    山本五十六は1919(大正8)年から2年間、アメリカ・ハーバード大学に留学した際、
    アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、
    飛行機産業の日本とは比べ物にならないほどの発達・発展を目の当たりにしている。
    この経験が、山本が近衛文麿に語った、開戦反対の弁になったと言われている。
    
     近衛文麿内閣総理大臣の『近衛日記』によると、
     近衛に日米戦争の場合の見込みを問われた山本は、次のように答えたという。
     「それは、是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れて御覧に入れる。
     しかしながら、2年3年となればまったく確信は持てぬ。
     三国同盟ができたのは仕方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力努力願いたい」
        (当時の軍人による戦争反対論と認識している)
   
   (読書案内№154)           (2020.9.8記)

 

 
 
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黄昏時を生きる ① 恍惚の人

2020-02-24 11:51:41 | 黄昏時を生きる

  黄昏時を生きる ①
   小説「恍惚の人」は
      目の前に起こりつつある高齢者社会への警鐘でもあった。
     高齢社会について:
      高齢化社会とは……65歳以上の人口が、全人口に対して7%を超えた社会のこと。
      高齢社会とは   ……65歳以上の人口が、全人口に対して14%を超えた社会のこと。
      超高齢社会とは……65歳以上の人口が、全人口に対して21%を超える社会のこと。
    さて、日本の高齢社会はどのような経緯をたどってきたのでしょうか。
    1970年代に高齢化社会に、その後25年足らずの1994年には高齢社会に突入、
    その約半分の13年後には14%を超える超高齢社会が訪れました。
    2025年には30%、2060年には約40%に達するであろうと、
    統計グラフ(公益財団法人・長寿科学振興財団)は容易ならざる未来を暗示しています。

              グラフ1:日本の人口推計と高齢化率の推移を示したグラフ。2060年には高齢化率は約40%を見込むことを示す          グラフには少子高齢化の現実を如実に物語っています。
    高齢化の高い国には、イギリス、ドイツ、フランス、アメリカなどが知られていますが、
   これらの国の高齢化率は長い時間を(50~100年)かけて到来した人口現象です。
   日本のように30年ぐらいで高齢化を迎えた社会は世界に例を見ないといわれています。

   社会学の世界では高齢社会の到来をかなり早い段階から予測し、
   警鐘を鳴らしていた。
   だが、
   政治の社会では見えない近未来の社会についてはなかなか手を打つことができない。
   どうしても、現実に抱えている問題に追われ、
   それさえも完全に対応することはできない。
   国民の希望も、「今そこにある現実」の改善を望む傾向にある。

   少子高齢に伴う問題は、
   社会保障や労働問題など多くの構造的、複合的社会問題を含んでいる。

   1970(昭和45)年、65歳の高齢者の全人口に占める割合が7%を超えた。
   高齢化社会の到来である。
   だが、この時点で将来に不安を抱いた人は少なかった。
   有吉佐和子は時代の流れを敏感に感じ取り、2~3年の時間を費やし、
   当時新潮社が力を入れていた「純文学書下ろし作品」の一冊として
   「恍惚の人」を世に出し、高齢化社会に警鐘を鳴らした。

   まだ、アルツハイマーとか、認知症などという言葉が、社会の中で 
   使われていなかった時代の時だった。
   「恍惚の人」はやがて当時の流行語にもなっていき、
   果たして、長生きすることがいいことなのか?
   誰もが一度は直面しなければならない老いの問題に
   一石を投じた「警鐘と問題提起」の書だったように思います。

 1972年(昭和47)発刊。有吉佐和子著 新潮社
          (画像は1982年発行の新潮文庫)

 著者の言葉:  数年前から私は自分の肉体と精神に飴色に芽吹き始めた老化に気づき、
       同時に作家としてこれは最後まで直視しようと決意していた。外国へ
       出かけると老人の施設を隈なく見学し現代にあっておいて生きるのは
       自殺するより遥かに痛苦のことであると悟った。科学の進歩は人間の
       寿命を延ばしたが、それによって派生した事態は深刻である。

       今から48年前の初版本に書かれた言葉です。


   (黄昏時を生きる№1)      (2020.2.24記)





 

 

 

 

 



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