読書案内「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹著
ー総力戦研究所“模擬内閣〟の日米戦必敗の予測ー
ブックデータ: 中公文庫2010.6 新版として発刊。初版は1983(昭和58)年に
世界文化社から出版されている。この9月に再版されました。
ノンフィクション
昭和16(1941)年4月1日、31歳から37歳までの35人の優秀な人材が集められた。
『総力戦研究所』、彼らが所属するこの研究所の目的は、模擬内閣を作り
やがて訪れるであろう日米開戦の勝敗を予測するための組織だった。
総理大臣をはじめ、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍等に任命された男たちが模擬内閣を組織し、
国力、戦力、エネルギー、経済、資源すべてを投入して、
開戦に至った場合の勝敗を予測するものであった。
総力戦研究所の入所要件は、幅広いバランスの取れた判断力を要求されたから、
実社会に出て10年という基準があった。
この基準に見合う優秀な人材は、社会を知らない学生のように性急で観念的でもないし、
逆に熟年世代のような分別盛りでもない。ベスト&ブライテスト(最良にしてもっとも聡
明な人材)として全国が集められた彼らが、シュミレーションの中で辿りつ いたのが、日
米戦日本必敗という結論であった。
総力戦研究所の総論は次のようなものであった。
小麦・米・肉などの食料。鉄・銅・アルミなどの工業原料。綿花・羊毛の衣料。
石炭・石油・ゴムなど21品目の自給能力を各国別に分析、これを比較して国力差
を出してみると、自給率の一番高いのは米・ソ・独の順で、英国は帝国全体では
ソ連の自給率を超すものもある、と俯瞰したあと品物別に自給状況を比較する。
「アメリカは銅を除いていずれも日本の七倍以上、石油三十二倍、ソ連の六倍……
日本が三位までに顔を出すのは米・ソに次ぐ綿花だけで、あとすべての需給量は
最下位にある。結局これら物質自給力の差が、五か国国防資源時給能力総体の優劣
を決定づける」と断定した。(引用)
総力戦研究所による疑似内閣が組織される前年(昭和15)1940年9月には、
『日独伊三国同盟』が締結され、国内においては、
『日ソ中立条約』【(『日昭和16)1941年4月】が結ばれ、
第三次近衛内閣退陣から東條内閣が【(昭和16)1941年10月】成立する。
時代の流れは一発触発、風雲急を告げる早馬が世界をかけめぐる。
『日ソ中立条約』で、背後の安全を確保した日本は、東南アジアへの進出に力を入れる。
もはや、戦争回避は不可能な状況の中、米国による対日石油輸出禁止などの経済制裁が発動される。
泥沼へはまり込み、身動きの取れなくなった日本。
1941年12月8日、真珠湾を奇襲攻撃し、日米開戦へ。
総力戦研究所が出した『必敗』という結論は、結局生かされることはなかった。
政府や軍部が『必敗』の情報を持っていたのにもかかわらず、
世界の状況や軍部の無謀な戦争推進論、そして世論などすべてが、
「戦争」への方向を指し示していた。
戦争直前の夏、総力戦研究所の若いエリートたちがシュミレーションした戦争の経過とほぼ同じような
道をたどって日本は敗戦した。
いったい、あの昭和16年の夏に試みられた、『総力戦研究所』とは、なんだったのだろう……
閑話休題
山本五十六は1919(大正8)年から2年間、アメリカ・ハーバード大学に留学した際、
アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、
飛行機産業の日本とは比べ物にならないほどの発達・発展を目の当たりにしている。
この経験が、山本が近衛文麿に語った、開戦反対の弁になったと言われている。
近衛文麿内閣総理大臣の『近衛日記』によると、
近衛に日米戦争の場合の見込みを問われた山本は、次のように答えたという。
「それは、是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れて御覧に入れる。
しかしながら、2年3年となればまったく確信は持てぬ。
三国同盟ができたのは仕方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力努力願いたい」
(当時の軍人による戦争反対論と認識している)
(読書案内№154) (2020.9.8記)