雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑨ 小さな命が海に沈んだ

2023-08-29 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 小さな命が海に沈んだ
   

  沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕は「対馬丸」の著書の中で、
  沈没を経て漂流者となった人たちの様子を次のように表現しています。
  「無数の叫び声が」、刻々ひとつづつ減っていく。

  死だ。
  いくつもの死。
  次々と無造作に作られていく屍体が、海面を次第に分厚く覆っていった。
  あがき、叫ぶ人たちは、流れていくうちに、それらの屍体に行き当たった。
  それらは、今さっきそこで筏を奪い合った相手かもしれないし、
  昨夜一緒に「さらば沖縄」を唄った仲間かもしれないし、
  ふとしたことで仲たがいした親友かもしれなかった。
  あるいは、わんぱくでてこずらせた恩師かもしれないし、
  よくできて可愛がった教え子かもしれなかった。
  ……生きている者は、
  漂っているそれらの屍体にぶつかると、反射的に屍体をはねのけた。
  運の良い者は、翌日の夕方には救助されが、
  10日間も漂流し、島に漂着した者もいる。
  
  何人の疎開者が乗っていたのか
  一体、何人の人が生存し、犠牲者は何人だったのでしょう。

  先に私は乗船者1661名、という数字をあげましたが、
  この数字もあてにならないことが分かってきました。
  1661名というのは疎開を希望し、登録された人数で、
  必ずしもこの数字が正しいと言い切れない状況があったのです。
  
  出航間際に辞退した者、または、無届で乗船した者があり、
  この沖縄から本土への集団学童疎開が、
  いかにあわただしく性急に進められたかがわかります。
  だから、正確な数字を把握しきれないまま、
  現在も研究者によって人数が異なるのです。

  吉村昭氏は1680名という数字をあげていますが、
  人によっては、1788名という人数をあげる人もいて、
  はっきりした人数は分かりません。

      (語り継ぐ戦争の証言№33)        (2023.8.26記)

 

 

   
  
  

 

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑧ 沈んでゆく疎開船

2023-08-20 06:30:00 | ニュースの声

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑧沈んでゆく疎開船
 わずか12分で対馬丸は、悪石島海域の海底に沈んだ。1944年8月22日22時23分ごろ。
海水は冷たく、すさまじい水圧がかかってきた。
沈んでいく対馬丸に伴って、大きな渦が起こり、体が激しい勢いで回転し始めた。
「船が沈没したらなるべく早く船から遠くに逃げろ」と、
疎開船の不安を煽るような注意はされなかった。
ただただ大人たちの「逃げろ!
」という叫びに、
子どもたちは船倉から狭い階段を、甲板にに向かって必死で登って行った。
傾いた甲板に出て、「海に飛び込め!」という大人たちの声に、
暗い海面を見てしり込みする児童もいる。
恐怖にすくみ、甲板に座り込んでしまう児童は、
大人たちに抱きかかえられ、暗くうねる海に放り込まれた。

 闇の世界に埋もれながら、意識が遠のいていく。
……どれほどの時間が経過したのか、
自分の体が仰向けに浮いているのに気付いた。
船は跡形もなく、
海面には小さな渦がところどころにできている。
対馬丸沈没の名残の渦だ。
周囲を見回した。
海面は浮遊物に満ちていて、孟宗竹、ドア、木片、畳などに交じって
救命衣をつけている人の体も浮いていた。
傍らの体に触れてみた。
が、その体には頭部がなく、改めて周囲の人々の体を見つめなおしてみると、
救命衣をつけた死体ばかりであった。
と、作家・吉村昭は対馬丸事件を扱った「他人の城」の中で表現しています。
沈没する船の引き起こす渦に巻き込まれ、
海底に引きずり込まれ溺死したのでしょう。

 船の爆風で救命ボートは転覆し、
生存者は台風襲来の中、孟宗竹で編んだ筏で漂流しながら救助を待った。
漂流は、風雨、三角波、真水への渇望、周辺を泳ぐフカへの恐怖、
錯覚や幻聴との戦いでもあった。
           対馬丸沈没 語り部の平良恵子さんが29日、88歳で死去されました。
             疎開船「対馬丸」の生存者で、語り部として長年活躍されていました。
             9歳だった1944年8月、国の疎開方針に伴い沖縄から長崎に向かうため乗船した
             対馬丸が米潜水艦の攻撃を受けて沈没。平良さんは筏で6日間漂流した後、流れ
                着いた無人島で救出された。沈没事件には箝口令(かんこうれい)が引かれ戦後になっ
                                               ても語れない生存者がいるなか、平良さんは早くから語り部として体験を伝え                                                   る活動をした。(朝日新聞2023.7.31記事を要約)
                                                                                                                        (つづく)

                          (語り継ぐ戦争の証言№32)  (2023.8.19記)

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑦ 待っていたのは……

2023-08-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇  ⑦ 待っていたのは……
 付き添いの保護者や学校関係者の心配や不安をよそに、

学童たちは初めての航海に興奮し、

まるで修学旅行の夜のようになかなか寝付くことができなかった。

 ちょうどその頃、

米国潜水艦ボウフィン号は学童疎開船団の進行方向の海域20㌔先で、

船団が近づくのを待ち構えていた。

船団から発信された暗号は、米国軍によって解析され、

航路や到着時刻まで正確に把握されていた。

 夜10時監視員の交代があって間もなく、

左舷の遠くに五本の白い線の動きを発見。

次の瞬間彼は、

伝声管に向かって叫んでいた。

「雷跡発見! 距離500! 本線に向かって失踪中」

第一魚雷は船首前方を掠め、

第二魚雷も船倉左舷を通過した。

運命の第三魚雷は左舷船倉の第一船倉、

第四魚雷も同じ左舷の第二船倉に命中。

いずれも学童を収容した船倉の真下です。

最後の魚雷は左舷第七船倉の一般疎開者の入る真下に牙をむいた。

時刻は22時12分をさしていた。


 船体は中央から裂け、

泡立った海水が甲板にせりあがってきた。

 1944(昭和19)年8月22日22時23分頃、

吐噶喇(とから)列島の悪石島付近の海域にて沈没。

最初の魚雷攻撃から船が沈没するまで、

わずか12分の出来事だった。
 (對馬丸の沈没地点 毎日新聞2018.8.16)
 攻撃を受けた船団は、海軍佐世保基地に遭難の緊急信号を打電する。
しかし、この緊急発進も米軍は把握していた。
 沖縄 奄美大島等の西南諸島海域は米軍の制海権下にあり、
日本側の情報は筒抜けであったと言われている。

 
過日、顎鬚仙人様から次のような短歌を紹介していただきましたので掲載します。

   いつまでも消ゆることなき少女らの声
              「宮城先生」と細りゆく声

                           新崎美津子
  紹介者の長谷川櫂の解説
     對馬丸に乗っていた教師の短歌。作者は筏で漂流して生き残った先生で「宮城」は作者の旧姓。
                       (読売新聞2023.7.13 長谷川櫂の「四季の歌」より)
   ※短歌の作者・新崎美津子さんは、2011年2月に90歳で逝去され、たくさんの短歌を残されました。
    「對馬丸番外編」として後日紹介したいと思います。
  

                       (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№31)  (2023.8.12記)

 

 

 

 

 

 

 



 
 
  

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑥悲劇の夜が近づいてくる

2023-08-05 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 
                ⑥ 悲劇の夜が近づいてくる
   834人の学童を含む1661人の疎開者たちと、

 
船舶砲兵隊員41人、船員86人、合計1788人を乗せた対馬丸は

 他の疎開船和浦(わうら)丸、暁空丸(ぎょうくう)と共に砲艦「宇治」と駆逐艦(護衛艦)「蓮」に護られて、

 1944(昭和19)年8月21日午後6時35分那覇港を出港した。

  ドラを鳴らし、テープを投げ合う旅立ちを祝福するセレモニーはなかった。

鹿児島までの3日間の航海です。

8月22日の朝、周辺海域は台風の影響で風が強く、

老朽船の對馬丸は船団の速度についていけず、

しだいに遅れはじめ、これを見守るように護衛艦「蓮」が対馬丸の後ろをついていきます。

 こうして、22日も無事に終わろうとしていました。

後、2日たったら本土鹿児島に到着する。

親たちとの別れは悲しかったが、

児童たちはまるで修学旅行気分でなかなか寝付かれない旅を、

暗くて、汗臭い異臭の立ち込める船倉で過ごしていた。

 航海一日目、学校関係者や親たちの心配と不安とは別に、

児童たちの興奮でなかなか眠れない夜が訪れる。

 老朽船對馬丸は、先行する「和浦丸」や「暁空丸」の速度についていけず、

船団の最後尾を、不規則なエンジンの音を響かせながら

護衛艦「蓮」に護られ、台風の接近に伴う風の影響を受けながら、

夜の海を目的地の「博多港」に向かって航行していた。
                                                                    (つづく)
 (語り継ぐ戦争の証言№30)                           (2023.8.4記)

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