海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑨小さな命が海に沈んだ
沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕は「対馬丸」の著書の中で、
沈没を経て漂流者となった人たちの様子を次のように表現しています。
「無数の叫び声が」、刻々ひとつづつ減っていく。
死だ。
いくつもの死。
次々と無造作に作られていく屍体が、海面を次第に分厚く覆っていった。
あがき、叫ぶ人たちは、流れていくうちに、それらの屍体に行き当たった。
それらは、今さっきそこで筏を奪い合った相手かもしれないし、
昨夜一緒に「さらば沖縄」を唄った仲間かもしれないし、
ふとしたことで仲たがいした親友かもしれなかった。
あるいは、わんぱくでてこずらせた恩師かもしれないし、
よくできて可愛がった教え子かもしれなかった。
……生きている者は、
漂っているそれらの屍体にぶつかると、反射的に屍体をはねのけた。
運の良い者は、翌日の夕方には救助されが、
10日間も漂流し、島に漂着した者もいる。
何人の疎開者が乗っていたのか
一体、何人の人が生存し、犠牲者は何人だったのでしょう。
先に私は乗船者1661名、という数字をあげましたが、
この数字もあてにならないことが分かってきました。
1661名というのは疎開を希望し、登録された人数で、
必ずしもこの数字が正しいと言い切れない状況があったのです。
出航間際に辞退した者、または、無届で乗船した者があり、
この沖縄から本土への集団学童疎開が、
いかにあわただしく性急に進められたかがわかります。
だから、正確な数字を把握しきれないまま、
現在も研究者によって人数が異なるのです。
吉村昭氏は1680名という数字をあげていますが、
人によっては、1788名という人数をあげる人もいて、
はっきりした人数は分かりません。
(語り継ぐ戦争の証言№33) (2023.8.26記)