雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」 時代に創られた偉人 ①

2020-09-23 14:12:40 | 読書案内

読書案内「黒澤止幾子伝と渾沌」湯浅由三著
          時代に創られた偉人 ① 錫高野から京都まで……

   
(幻冬舎文庫 2020.6第1刷)     (黒澤止幾子 ウィキペディアより)

 黒澤止幾子
  文化3(1807)年生 明治23(1890)年死去 85歳
  名前 登幾子、とき子、時子、止幾、李恭(りきょう) 止幾子
            墓碑銘には「止幾子」と刻んであり、一般の呼び名もこれを使用している。
    茨城郡高野村(城里町錫高野)の修験道場・宝寿院に生まれるも、
    幼い頃に父と離別、祖父や養父から漢学、国学などを学び、
    後年「日本初の女性教師」と言われる素地はこの時に養われた。
    死後17年たった1907年明治政府から従五位を追贈される。

    26歳。夫と死別し錫高野の実家に戻る。
    その後20年間、櫛(くし)や簪(かんざし)の行商で生計を立てていが、
    漢学や国学の豊かな知識を見込まれ、地元子弟たちの教育にもあたった。
    行商をしながら得た各地の文人たちとの交流もあり、
    俳諧、漢詩、和歌などにも通暁するようになった。

    安政元(1854)年 養父の私塾を受け継ぐ。
    止幾子47歳。
    
    ここまでの止幾子の生活に「勤皇の女傑」「初の女教師」という活動は見当たらない。
    働き者で当時としては、教養のある女性という以外、
    後年語り継がれる偉人としての形跡は見当たらない。
    まして、明治40(1907)
年(止幾子死去後17年を経て)従五位を追贈されるような痕跡はない。
    しかし、私塾を任(まか)され平穏な日々を送ったのはわずか4年であった。

    安政5年(1858)年 安政の大獄
    大老井伊直弼による、当時の幕政に反対、批判的な人物を捉え、徹底的な弾圧を加えた事件で連
    座したものは100名以上に上る。
    例を挙げれば、橋本左内、吉田松陰、頼幹三郎等斬罪、獄死、切腹したもの14名。
    隠居・謹慎 一橋慶喜、松平春嶽、徳川慶篤、山内容堂等15名
    永蟄居 前水戸藩主・徳川斉昭等3名
     斉昭は天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印した大老・井伊直弼を詰問するため不時登
     城したことを理由に謹慎・永蟄居に処せられた。
     安政の大獄の始まりです。
     
     尊皇攘夷の世論の急先鋒でもあった水戸の殿様を初め多くの水戸藩士が弾圧され、
     罪に問われた。
     
     黒澤止幾子は殿様の幽閉を悲しみ、斉昭らの無実を訴えるために単身京へ上り、
     君主の無実を訴える思いを「長歌」にしたため朝廷に献上しようとしました。
     安政6年2月22日、茨城・錫高野の故郷の地を単身出立します。
     止幾子54歳。
    
     当時、東海道は取り締まりが非常に厳重なため、
     錫高野から笠間を経て下館を通り群馬の桐生から草津に到着したのは3月2日だった。
     更に、信州路から長野、松本、塩尻をへて、関ヶ原をぬけ大津から京都に入る。
     安政6(1859)年3月25日 念願の京都に到着。
     24日を費やした老年女の一人旅でした。

     幕末の勤皇攘夷の風が世間を騒がせ、世情穏やかならざるあの時代に
     なんの後ろ盾もなく、「長歌」を懐中にして、
     水戸の殿様(この時点で斉昭はすでに隠居の身)の無実を訴えるべく、
     単身京都を目指した止幾子の行動に後年「勤皇の女傑」と言われた所以があったのでしょう。
     しかし、これだけの行動で「勤皇の女傑」と称されるのはどうなのか、
     という疑問が残ります。

                  さて、京都に着いた止幾子は、水戸の人がよく利用する扇屋に泊まる。
     京都到着3日後の3月28日、朝廷に差し出す献上の長歌を座田右兵衛之大尉に依頼する。
          ※ 座田右兵衛之大尉は、幕末のころ、実務にたけた官人でありながら、儒学と国学を兼ねた学者にして、
                尊皇思想の実践家として重要な働きをした。その立場上、表立って指導していくことはなかったが、
                時の関白や大臣、または公卿の間を取り持ち、時には利用し、事を処理していく実務面に能力を発揮した。
                (京都産業大学 学術リポジトリ 「座田右兵右衛門維貞」の冒頭より引用)
      その日の日記(京都捕之文)に、止幾子は下記のように記している。
       いとまを告げて烏丸(扇屋)の旅館に帰りました。その夜は一睡もできずに考えました。
       あの長歌をそのまま預け置けば、天朝へ届くか或いは幕府へ届くか二つに一つ、これは
       大変なことになると。(引用)
    「これは大変なことになる」と夜も眠れぬほど心配した割には、その結果も待たずに、
    止幾子は翌朝早朝に宿を出て清水寺や伏見稲荷を詣で、
    淀船に乗って大阪へ下って行ってしまいます。なぜ、郷里の錫高野に向かわず、
    大阪に向かったのでしょう。
    ちょと違和感を感じる止幾子の行動です。
    推測される理由は二つ。
      ① 京都以外に目的地があった。
      ② 探索の追及が厳しくなった。しかし、これは郷里の錫高野と反対の方向に足を向けた
       ことを考えれば、除外してもいい。
                                    (つづく)
      (読書紹介№155)       (2020.9.23記)

     次回 献上「長歌」の結末と「日本最初の女教師」にっいて。                             
     
 


              


    
  

 

 

 

 

 

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読書案内「星と祭」井上靖著

2020-09-14 06:00:00 | 読書案内

読書案内「星と祭」井上靖著
     愛する娘の突然の死、父の哀しみは深い……
(1971年から約1年 朝日新聞に連載)
( 能美舎 2019.10 第1刷 復刻版 )        (1972発行 絶版で入手困難)
 
生きることは、喪失の連続?
   人生とは意気に感じれば、楽しみも多い。生きがいも感じられる。
   だが、人生行路は楽しみや喜びだけではない。
   仏教の教えは、「生老病死」といい、4っつの苦しみを挙げている。
   「生」きることそのものが「苦」であると、老いることも、病も、やがて訪れる死も
   すべて「苦」という概念でとらえようとしている。

   長い人生行路の過程では、突然襲い来る「悲しみ」がある。

   小説「星と祭」では、わが娘を突然の事故で失くした親の
   苦しみや悲しみを、淡々とつづり、喪失の悲しみを、
   わが子の突然の死を通じて描いている。

   離婚して母の下で育てられた高校生のみはるが、大学生の青年と琵琶湖でボート
   転覆という思いがけない事件で短い一生を終える。
   父親の架山が全く知らない大学生の青年とボートの転覆事故。
   二人の遺体が上がらないまま7年の歳月が流れ、癒されることのない時間が流れる。
   この7年間は、法的には「行方不明」ということになる。葬儀もできずにいるから、
   心のよりどころもないままの辛い七年であったろう。
   72歳になった架山は、7年を経てやっとあの日の事故現場を、
   事故以来初めて訪れることになる。

   
少女みはるの父「架山」…… 堅実な発展をしている貿易会社の経営者
   大学生の青年の父「大三浦」…… 従業員数十名の町工場の経営者
   子を喪った悲しみは深いが、それぞれの喪った子どもへの思いは異なっている。
   架山はヒマラヤの山中で輝く星と対峙し、娘を失くした哀しみを「永劫」、
   つまり果てのない長い時間の中でとらえようとする。

   私は14歳の孫を喪ったとき
   哀しみは癒されることなく、果てのない時間の中で
   一日が始まり、終わった。
   窓辺から眺める月や星、そして風。
   全てのものが喪った人への思いへと繋がっていき、
   いったいいつになったらこの哀しみを越えて生きられる時が来るのだろうか。
   「旅人になりたい」と言っていた孫のことを思い、
   天空を仰げば孫の翔が、空の高みから舞い降りてくるような錯覚におちいり、
   「じいちゃん、ぼく元気だからね」という声が聞こえてきたり、
   深夜に階下を走る幼児の足音を、何度も聞き、翔が還って来たと、
   ベッドの中で枕を濡らす日々が幾夜もつづいた。

   哀しみに繋がる思い出は今でも消えることなく、
   おそらくは、生涯消えることのない哀しみとして残っていくのだろうと思っている。

   話を本題に戻します。
   架山や大三浦がたどり着いた悲しみの弔いは、琵琶湖周辺に点在する観音堂に祀られている
   観音様に対面することだった。
   二人にとって観音様との対面は、不思議な安堵感をもたらし、
   自分の内面に沈んだ深い悲しみを浄化していく行為でもあった。

   湖底に沈んだ二つの遺体はついに姿を現すことがなかった。
   葬儀もできず、戸籍から抜くこともできない中途半端な現実が
   7年の時間を経て死亡届を出すという現実的な時間となって架山と大三浦に訪れる。
   7年の長い時間は、「子どもたちの死」を認め、哀しみを乗り越えて生きていくための
   試練の道でもあったのでしょう。
    架山は娘の死を「運命」と捉え、何とか哀しみを乗り越えようとしているが、
    大三浦は何時までも哀しみを抱き続けている。
    そうした二人がたどり着いたのが、琵琶湖畔に点在する十一面観音を巡って手を合わせ、
    湖底に沈んだそれぞれの子どもたちの霊を祀って、
    鎮魂を願うことで互いの哀しみを乗り越えようとする。
    小説ではこの期間を「殯(もがり)」のための長い時間だったと架山に言わせている。

                (もがり)とは、日本の古代に行われていた葬送儀礼。 死者を埋葬するまでの長い期間、
                     遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつ
                     も遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認す
                     ること。 その柩を安置する場所をも指すことがある。】(ウィキペディア)

  著者・井上靖は「自作解題」で次のように述べている。
   私は一番の問題は子供の死という事実をいかに納得するかということではないかと思います。
   運命だと観じることによって諦めへの道をとるか、あきらめることはできないで、永遠に悲しみを
   懐いて、祀ることによって不幸な死者の鎮魂を願うか、この二つのうちのいずれかではないかとい
   う見方をしています。(引用)
 
 かけがえのない大切な人を喪い、悲嘆にくれ、
 生きる力を失くすような深い哀しみに襲われるが、
 長い時間をかけて、人は生きる力を取りもどしていく。
 だが、哀しみが癒されることはない。
 14歳の私の孫・翔はいつまでも14歳で、
 私だけが歳を取っていく。
 今、私はやっと天に昇った14歳の翔と一緒に、
 日々を生きていくことができるようになった。
 こういう心境が「祀る」ということであり、
 「魂の鎮魂」ということなのかと、
 コロナの夏を元気に生きることができました。

 小説「星と祭」の「星」は運命を現し、
 祭りは鎮魂を意味しているようです。

    「翔」のことは「翔の哀歌」というタイトル(カテゴリー)で
    15回に分けて当時の心境をまとめています。

 (読書案内№154)       (2020.9.13記)

 

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読書案内「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹著

2020-09-08 06:40:18 | 黄昏時を生きる

読書案内「昭和16年夏の敗戦」 猪瀬直樹著
         ー総力戦研究所“模擬内閣〟の日米戦必敗の予測ー
 ブックデータ: 中公文庫2010.6 新版として発刊。初版は1983(昭和58)年に
              世界文化社から出版されている。この9月に再版されました。
             ノンフィクション
 

  昭和16(1941)年4月1日
31歳から37歳までの35人の優秀な人材が集められた。
      『総力戦研究所』、彼らが所属するこの研究所の目的は、模擬内閣を作り
  やがて訪れるであろう日米開戦の勝敗を予測するための組織だった。
  総理大臣をはじめ、外務、内務、大蔵、陸軍、海軍等に任命された男たちが模擬内閣を組織し、
  国力、戦力、エネルギー、経済、資源すべてを投入して、
  開戦に至った場合の勝敗を予測するものであった。

      総力戦研究所の入所要件は、幅広いバランスの取れた判断力を要求されたから、
   実社会に出て10年という基準があった。
   この基準に見合う優秀な人材は、社会を知らない学生のように性急で観念的でもないし、
   逆に熟年世代のような分別盛りでもない。ベスト&ブライテスト(最良にしてもっとも聡
   明な人材)として全国が集められた彼らが、シュミレーションの中で辿りつ いたのが、日
   米戦日本必敗という結論であった。

   総力戦研究所の総論は次のようなものであった。
   小麦・米・肉などの食料。鉄・銅・アルミなどの工業原料。綿花・羊毛の衣料。
   石炭・石油・ゴムなど21品目の自給能力を各国別に分析、これを比較して国力差
   を出してみると、自給率の一番高いのは米・ソ・独の順で、英国は帝国全体では
   ソ連の自給率を超すものもある、と俯瞰したあと品物別に自給状況を比較する。
   「アメリカは銅を除いていずれも日本の七倍以上、石油三十二倍、ソ連の六倍……
   日本が三位までに顔を出すのは米・ソに次ぐ綿花だけで、あとすべての需給量は
   最下位にある。結局これら物質自給力の差が、五か国国防資源時給能力総体の優劣
   を決定づける」と断定した。(引用)
   
 総力戦研究所による疑似内閣が組織される前年(昭和15)1940年9月には、
 『日独伊三国同盟』が締結され、国内においては、
 『日ソ
中立条約』【(『日昭和16)1941年4月】が結ばれ、
 第三次近衛内閣退陣から東條内閣が【(昭和16)1941年10月】成立する。
 時代の流れは一発触発、風雲急を告げる早馬が世界をかけめぐる。
   『日ソ中立条約』で、背後の安全を確保した日本は、東南アジアへの進出に力を入れる。
 もはや、戦争回避は不可能な状況の中、米国による対日石油輸出禁止などの経済制裁が発動される。

 泥沼へはまり込み、身動きの取れなくなった日本。
 1941年12月8日、真珠湾を奇襲攻撃し、日米開戦へ。

 総力戦研究所が出した『必敗』という結論は、結局生かされることはなかった。
 政府や軍部が『必敗』の情報を持っていたのにもかかわらず、
 世界の状況や軍部の無謀な戦争推進論、そして世論などすべてが、
 「戦争」への方向を指し示していた。

 戦争直前の夏、総力戦研究所の若いエリートたちがシュミレーションした戦争の経過とほぼ同じような
 道をたどって日本は敗戦した。

 いったい、あの昭和16年の夏に試みられた、『総力戦研究所』とは、なんだったのだろう……

   閑話休題
    山本五十六は1919(大正8)年から2年間、アメリカ・ハーバード大学に留学した際、
    アメリカ国内を視察し、油田や自動車産業、
    飛行機産業の日本とは比べ物にならないほどの発達・発展を目の当たりにしている。
    この経験が、山本が近衛文麿に語った、開戦反対の弁になったと言われている。
    
     近衛文麿内閣総理大臣の『近衛日記』によると、
     近衛に日米戦争の場合の見込みを問われた山本は、次のように答えたという。
     「それは、是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れて御覧に入れる。
     しかしながら、2年3年となればまったく確信は持てぬ。
     三国同盟ができたのは仕方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力努力願いたい」
        (当時の軍人による戦争反対論と認識している)
   
   (読書案内№154)           (2020.9.8記)

 

 
 
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さよなら としまえん 燃えつきたあしたのジョー

2020-09-03 06:00:00 | 昨日の風 今日の風

さよなら としまえん 燃えつきたあしたのジョー


  (画像は「広告朝日」編集部公式Twitterより)


  としまえん閉園の新聞広告(朝日新聞朝刊8/30)は、
 当時一世を風靡した『あしたのジョー』のラストシーンです

 主人公の矢吹丈が世界チャンピオンのホセ・メンドーサと戦い終ったあと、
 真っ白に燃えつきた場面です。

  これが、としまえん閉園の新聞広告です。
 「黙して語らず」という言葉がありますが、
 なんとシンプルで大胆な閉園広告なのでしょう。
 新聞の見開き前面を使用し、なにも語らないが、
 矢吹丈のまっしぐらな生き方が懐かしい思い出のようによみがえってきます。
 戦い終えて、全てを出し切った矢吹丈。
 バンデージ  をしたままの両手を両ひざの間にだらりと下げ、うなだれる矢吹丈
    
 過酷な試合で、満身創痍。
 だがうなだれた「あしたのジョー」の表情は、わずかに笑っている。
 どこかで、「あしたのジョー」と「としまえん」の姿が
 オーバーラップしてきます。

 画面左上には、『Thanks.』。
 画面右下には、『としまえん』。
 さらに、
 画面右上には、薄墨のインクで『Seibu Group でかける人を、ほほえむ人へ』という会社の
 ロゴマークがあるだけ。

 何も語らず、ただ一言。
 『ありがとう』
 ほぼ一世紀に渡り、子どもにも大人にも親しまれて、
 常に時代の先端を走って来た「としまえん」。
 今、その役割を終えて、
 感謝の気持ちが十分に伝わる『Thanks.』です。
 
 跡地は
 新しく防災機能を持った公園と、
 映画「ハリー・ポッター」のテーマパークとして生まれ変わります。
 


(昨日の風 今日の風№113)      (2020.9.2記)

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