パラリンピック⑦ 忘れ得ぬ選手たち④
挫折からの出発
大矢勇気(東京パラ出場時・39歳)
東京パラリンピック陸上男子100メートル車いすのクラス(T52)。
Tはtrack(トラック)のT、52は障害の程度を表し51から57のクラス分けがあります。
数字が小さいほど重い障害になります。従って大矢勇気さんは、〈トラック競技の重度の
クラス〉ということになります。
最初の試練は、中学三年の時。
脳腫瘍に襲われ、治療の結果高次脳機能障害が後遺症として残った。
競輪選手になる夢は、ドクターストップであきらめざるを得なかった。
落ち込む勇気に、兄3人と勇気を育てたシングルマザーの母の言葉。
「他のスポーツもある。人生はこれからやで」
この言葉に励まされ、彼は定時制高校に進学。
兄と工事現場で働き、家計を助けた。
1年も経たないうちに第2の試練が彼を襲う。
ビルの解体工事をしていたとき、仕事中に8階から転落。
脊髄を損傷、1カ月意識のない状態が続き、下半身が動かなくなると宣告され、
家族みんなが泣いた。
車いす生活を余儀なくされる。
両手指にも機能障害が残った。
高校1年、16歳の冬は第2の試練の冬でもあった。
「人生が終わった」
考えることは自殺することばかりだった彼が車いす陸上を始めるようになったのは、
作業所の同僚からの進めからだった。
練習には母が毎回付き添ってくれた。
8年後、日常用の車いすで全国障害者スポーツ大会に出場しました。
競技用の車いすに乗るほかの選手にあっという間に置き去りにされて最下位に終わり、
負けず嫌いの心に火がつきました。
第三の試練。
2009年、母の体調に異変が起きた。
末期の肺がんが母を襲った。
彼は練習を止め、入退院を繰り返す母の看病に付き添った。
2011年7月10日、最愛の母が亡くなった。
この日は、ロンドン・パラリンピックの選考会だったが、
彼は母の側を離れず、選考会は棄権した。
亡くなる数日前、母は兄に弟・勇気への言葉を託した。
「勇気を世界へ連れていって」
母の最期の言葉になった。
母亡きあと兄弟たちの二人三脚が続き、
3度目の挑戦で東京大会の代表に選ばれた。
初めてのパラリンピックの舞台、陸上男子100メートル車いすのクラスT52の決勝に出場。
スタートから勢いよく飛び出してトップを争うレース展開。
彼の持ち味を生かせる場面だ。
トップを走る。
だがレース中盤、アメリカのレイモンド・マーティン選手に抜れた。
目指した金は取れなかったが、世界のひのき舞台に立ったのだ。
「お母さん ありがとう。そして、彼を支え続けて来た兄たちにありがとう」
たびかさなる挫折を乗り越えて、
大矢勇気が勝ち取った銀のメダルは、
金に劣らず素晴らしい輝きを放っていた。
(昨日の風 今日の風№130) (2021.11.28記)