雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「あゝ岸壁の母」③生きていた息子

2024-11-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」③生きていた息子
前回までのあらすじ
 
〇 岸壁の母・端野いせ 
    いせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を桟橋で待ち続けた。
   東京から舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
   体にも負担だったに違いない。
   いせが舞鶴引揚桟橋に出向いたのは、昭和25年1月だった。
    昭和29年3月20日にも端野いせの「新二を知りませんか」と、
   幾度も我が子の名を呼び岸壁に立ついせの姿があった。
   いせが書いたノートには「金があったらここに小屋を建てて待っていた
   い。…(略)…待つことのこの辛さ。
   この苦しみから早く逃れたい」と。

 〇 2通の死亡通知 
    昭和29年9月、
   一人息子新二の死亡の厚生省からの死亡認定理由書を受け取る。
   『昭和20年8月15日未明…(略)…突然のロシア軍の進行に応戦。
   力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した』
    昭和31年には死亡通知書が、東京都知事の名で届いた。
   『昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたので
   お知らせします』と。
   しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなるまで、
   新二の生存を信じていた。

③生きていた息子

 (息子の生存を伝える記事)

 新二の生存が明らかになったのは、平成12(2000)年8月だった。
いせの死亡から19年が過ぎていた。
 生存を確認したのは、
シベリア強制抑留経験者らで結成した慰霊墓参団のメンバーだった。

 新二は、妻子とともに中国人名で暮らしていた。
中国政府発行の<端野新二>名の身分証明書を持っていた。
新二の口は終始重く、慰霊墓参団との記念写真も拒んだ。
 慰霊墓参団の代表は、「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る。
 
 2000年(平成12)8月10日付の新聞記事(写真)のリード記事は
 次のように伝えている。
  「岸壁の母」が待ち続けた息子は、中国で生きていた。
  終戦後、引揚船が 着く京都・舞鶴港に通いつめ、
  演歌「岸壁の母」のモデルとなった故端野いせさんの一人息子、
  新二さん(七五)が上海で生存していたことを日本の慰霊墓参団が
  九日までに確認した。
   帰還を待ち続けた母の思いを知りながらも、
 「死んだことになっている自分が帰れば、
  有名になった母のイメージが壊れてしまう」と帰郷を断念した新二さん。
  日本中の涙を誘った。
  "岸壁の母伝説"が、
  逆に母子の再開を永遠に引き裂く皮肉な結果になった。
 記事は平凡な記者の思い込みで、「母のイメージ」壊れてしまうという極めて単純な理由で記事を締めくくっている。

 終戦から55年が経ち、
新二の母は19年前の1981年(昭和56)7月に他界している。
帰らぬ息子の生存を信じて亡くなった母・いせのことを思えば、
この記事が報道されたとき新二は75歳になっていた。
母への思いは人一倍強かったに違いない。
母と暮らした日本への望郷の思いがないわけはない。
 「岸壁の母」のイメージを損なうという理由で、
 帰郷をあきらめなければならないという新二の言葉には、
 信憑性がないように思われる。
 
「日本と中国に対して気兼ねをしていると感じた」と当時を振り返る慰霊墓参団の代表の言葉の裏に隠された真実があるのではないか。
                           (つづく)   

(語り継ぐ戦争の証言№41)         (2024.11.20記)

 

 

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「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

2024-11-12 22:55:01 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」②母はノートに胸の内を綴った

前回の要点
  〇 歌謡曲「岸壁の母」 
     息子の帰還を舞鶴港で待ちわびる端野いせがモデル。
    昭和29年菊池章子が歌い、昭和47年には二葉百合子が歌い、
    いずれも大ヒットをした。
    特に後者の歌はセリフ入りで、300枚の大ヒットとなる。
    二葉百合子はモデルとなった端野いせにも何度もあって、
    その臨終にも立ち会った。
    戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待つ母の愛情が、
    戦後27年を経てなお、人々の感情を掻き立てたのでしょう。
  〇 京都府舞鶴港への引揚船  
     終戦直後の昭和20年10月7日、
    朝鮮釜山から陸軍・軍人を乗せた雲仙丸の入港を皮切りに、
    昭和33年9月サハリン(樺太)のホルムスク (真岡)から472人を乗せた白山丸の入港まで、
    13年間続いた。
     
その13年間で、66万2982人の引揚者と1万6269柱の遺骨が京都府舞鶴市平引揚桟橋
    に祖国への第一歩を記した。

  〇 舞鶴港桟橋の由緒書き 
    『幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした桟橋。
    桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。
    そして温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、
    歴史の語り部として(この桟橋を)復元した』
とある。
      〇 岸壁の母のモデルになった【端野いせ】
    
引揚船が舞鶴港に着くたびに、いせは岸壁に立ち、
   帰らぬ息子・新二の名を呼び、桟橋に立ち続けた。

 

歌謡曲岸壁の母二番 (作詞 藤田まさと)
 呼んで下さい おがみます
 ああ おっ母さんよく来たと
 海山千里と言うけれど
 なんで遠かろ なんで遠かろ
 母と子に

  (セリフ)
  「あの子は今頃どうしているでしょう。
  雪と風のシベリアは寒かろう……
  つらかっただろうと命の限り抱きしめて……
  温めてやりたい……。」
                                                               (二葉百合子が歌う絶唱「岸壁の母」)

母の思いは届かなかった
  
(端野いせ)

 針仕事で生活を支えていた端野いせにとって、
住まいの東京から京都の舞鶴までの距離は遠く経済的にも苦しく、
体にも負担だったに違いない。
 それまで、東京大田区に住むいせは復員列車の着く品川駅に日参し、
復員者に新二の消息を尋ねたが、情報は入らない。
 焦燥感に背中を押されるようにして、
いせが舞鶴港に出向いたのは、
昭和25年1月だった。
 「新二は居ませんか。新二、新二」と引揚者の列に声をかけたが、
いせの声は、引揚者と迎えに来た大勢の人の雑踏の中に、
空しく消えていった。 
 昭和29年3月20日、端野(はしの)いせは再び桟橋に立ち涙ながらに「新二を知りませんか」と幾度も我が子の名を呼んだ。
敗戦から9年の時間が流れようとしているのに、
端野いせにはまだ戦争は終わっていなかった。
「新二よ、どこにいるのか。
生きてはおらぬのか。
『母さん』と呼んでもらえないのか」
と母はノートに記す。
「金があったらここに小屋を建てて待っていたい。
いま少し待つのだと自分の心に言い聞かせ、涙を拭いた」
「新二なぜこのように泣かせるのだ。
あきらめようと思うが命をかけて育てた子です。
生きていると信じるのです。
けれど待つことのこの辛さ。
この苦しみから早く逃れたい」。
 ノートに記された無念の言葉だった。

 同年9月。厚生省から新二の死亡認定理由書を受け取る。
《昭和20年8月15日未明、前方約300㍍の地点付近より突然ロ軍の射撃を受けたので、ただちに分散してこれに応戦したが数多いロ軍の一斉攻撃によって戦友は次々と倒れ、本人は最後まで抵抗していたが、ついに力尽きて「お母さんによろしく」と言い残して倒れたのを目撃した》。
理由書に添えられた戦友の証言である。

 また、31年9月には次のような新二の死亡通知書が東京都知事、
安井誠一郎の名でいせに届いた。
《昭和20年8月15日中華民国牡丹江省磨刀石陣地で戦死されましたのでお知らせします》
 しかし、いせは昭和56年7月に81歳で亡くなる最期まで、
新二の生存を信じていた。
                         (つづく)
(語り継ぐ戦争の証言№40)                (2024.11.11記) 

 

 

 

 

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「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 

2024-11-06 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」 ① 岸壁に立つ私の姿が見えないのか

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

(セリフ)
「又引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……。
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……
帰れないなら大きな声で……。」
                                                  (作詞 藤田まさと)

 歌謡曲「岸壁の母」は、
息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、
昭和29年菊池章子が歌い、 
昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み
300万枚を売り上げる大ヒットとなった。
 戦後27年を経た昭和50年代でも、
戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が
人々の感情を掻き立てたのでしょう。

 終戦直後の昭和20年10月7日、
朝鮮釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのを皮切りに、
引揚事業は昭和33年9月7日、樺太(からふと)の真岡(ほるむすく)から邦人472人を乗せた白山丸の入港まで13年間続いた。
 終戦以来、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの
66万2982人の引揚げ者と1万6269柱(はしら)の遺骨が
祖国の京都府舞鶴市平(たいら)の舞鶴港の引揚桟橋に、帰ってきた。

 平成6年5月に復元された引揚桟橋は、四方を山に囲まれ入り江の奥にあり、
私が訪れたときも、穏やかな波が引き上げ当時の喧騒を忘れたように桟橋の橋桁を洗っていた。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした
桟橋。桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、歴史の語り部として復元した』と桟橋の由緒書きにあります。
 
 (舞鶴港 平引揚桟橋)                                                       (帰らぬ夫を待つ母と子)
 この桟橋に立ち、
歌謡曲「異国の丘」を思い出すまでもなく、
多くの人が祖国の地を踏むことなく異国で死んでいった。

 一方引揚船が桟橋に着けば、帰らぬ息子新二の名を呼んで、
端野(はしの)いせは、戦地から戻らぬ一人息子を舞鶴港の桟橋で待ち続けた。
ナホトカ港から船が着くたびにいせの岸壁に立つ姿が、
人々の涙を誘った。

(語り継ぐ戦争の証言№39)

 
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