雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

戦後70年・証言 「お手伝い戦争」

2015-08-22 15:40:00 | 語り継ぐ戦争の証言

戦後70年・証言 「お手伝い戦争」

 高木敏子さん(83)の証言

「この国は油断していると『お手伝い戦争』をするようになる。

 だから、注意していないとだめですよ」

 高木さんの発言はとてもシンプルで、解りやすい。 

「お手伝い戦争」という表現が、今の日本の置かれた立場を明確に表現している。

「今、日本はまさにアメリカのお手伝いのために、戦争に行ける国になろうとしている。

『蟻の一穴』というでしょう。憲法が守ってきたものが、ここから崩れてしまいそうで怖いんです」(朝日新聞2015.8.18夕刊・戦後70年 時代のしるし参照)

 同盟国アメリカの要請があれば、今までのように”特別法”を制定しなくても、戦場に自衛隊を派遣することができる。

 日本は、過去において、金は出すが、戦力の提供、戦闘要員としての自衛隊は、憲法9条があるから派遣できません、と非戦の姿勢をくずすことはなかった。

 戦後戦勝国アメリカが敗戦国日本に押し付けた「憲法9条」だが、我々はこれを、敗戦の貴重な反省とし、永久に戦争をしない国として、9条を守り育ててきた。

 だが、世界は今とても危うい状況の中でかろうじてバランスを取っている。

 戦力を多く持つ国の発言力が強く、持たざる国が肩身を狭くしなければならないような状況が続けば、いつかは大戦の火種が燃え上がり取り返しのつかないことになってしまう。

 「自分の国は自分で守る」という気概がなければ、正義を維持することが難しくなってきている。

核の傘のもとで、安穏としていては平和を維持することが難しくなってきている。

 だから、「戦争をしてもいい」ということではない。

どんな事情があるにせよ、戦争は絶対にしてはいけない。

 対立する者同士の理解と協調を進めるようなシステムづくりが必要だと思う。

そのために、国連の決済力をもっと高める必要がある。

「軍事力」という台座の上で、互いの主張がなされるようでは平和の実現は程遠い。

 

 かってパスカルは「瞑想禄」の中で言った。正義は力なり、力なくして正義はあらず。

正義=武力ではない。正義=知恵の力である。知恵の力が平和を保つ礎(いしずえ)とならなければ、世界の平和は望めない。                 

(2015.8.22記)

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読書案内「傾いた橋」② 偽証した道子に幸せは訪れるのか

2015-08-21 14:50:00 | 読書案内

読書案内「傾いた橋」② 小林久三著

 偽証した道子に幸せは訪れるのか

  男・松崎は20年前の「東城電器商殺人事件」の真相を究明するために、道子に会いに来た。

弁護士で、高校時代の道子の恋人でもあった。

事件当時容疑者の暴力団構成員・杉江は逮捕されたが、

道子の当夜のアリバイ証言が決定的な証言として、杉江は釈放された。

杉江は道子が同棲中の男だった。

道子が18歳の時の偽証だった。

事件は一転し被害者の妻・山口トシの犯行として、彼女は13年の刑に服するが、

出所後無実を訴えて街頭に立って「冤罪」訴える。

 

 山口トシの存在を道子に教え、真実を話して欲しいと迫る松崎。

真実を話せば、やっとつかんだ島でのささやかな幸せは、壊れてしまうだろう。

道子は真実に蓋をしようと弁護士・松崎の訴えに、頑なに心を閉ざす。

しかし、罪の意識と良心の呵責(かしゃく)に道子の心は揺れ動き、

断ち切ったはずの過去を探りに、橋を渡り悲しい青春時代を過ごした故郷に足を踏み入れる。

 高校生の息子(先妻の子)との関係もぎくしゃくし、

昔この街で何があったのか。

継母がそのことにどんな関わりを持っていたのか、

母の不審な行動に息子の気持ちが自分からだんだん離れていく不安に道子の心は揺れ動く。

 真実を話し山口トシの冤罪を晴らすべきなのか。

夫や息子に知られてしまえば島での今の生活は間違いなく破綻してしまうだろう。

真実を知れば、夫や息子は私を絶対に許さないだろう。

 道子は幸せになるために渡った橋を、過去の冤罪事件に繋がり、

道子にとっては破滅へつながる橋を戻り始めた。

 

橋を境にして幸と不幸が錯綜する。道子の目前で橋が傾いていく……。

                

「傾いた橋」は昭和59(1984)に第91回直木賞候補になった小説だが現在は絶版になっている。評価☆☆☆☆ (2015.8.20記) 横になった画像がどうしても縦になりません。申し訳ありません。

 

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「白旗の少女」 (4) 老人夫婦との出会い

2015-08-19 11:00:24 | 語り継ぐ戦争の証言

「白旗の少女」(4) 老人夫婦との出会い

 川のほとりに、水を求めて逃げてきた大勢の人たちが、力尽きて死んでいました。うじ虫が湧き、ちかくの水はうじ虫だらけです。

 

わたしは、思いきって両手を流れに入れ、そっとうじ虫をどかして、みずをすくいあげてのみました。「おいしい!」

 

  えと渇きで疲労した少女にとって、この水は、「命をつなぐ水」だったのでしょう。

うじ虫の浮いている水さえ「おいしい!」と思わず声をあげた少女の環境適応能力と生命力の強さに感動です。

 

 沖縄の戦場を45日にも渡って、彷徨(さま)よい、命からがらたどり着いたガマ、いつものように兵隊から恫喝され追い出されるのを覚悟で、真暗なガマに入った7歳の少女を迎えたのは、老夫婦でした。

 

そこそこの食料を分け与えてくれる老夫婦の慈愛に満ちたまなざしが、少女に生きる力を与えたのでしょう。

 

  わたしは、ひさしぶりに、歩くことも、ガマから追われることも、死んだ兵隊さんの雑のうから食べものをさがすこともない、ほんとうに心の休まる毎日をすごしていました。

 

 少女にとつて、夢のような日々が過ぎてゆきます。

  しかし、老人には手足がなく、失った手足の傷口には血が滲み、うじが湧いています。

老婆の方は目がみえず、文字どおり少女が二人の手となり足となってかいがいしく世話をする姿は、

老夫婦にとってはガマの暗闇に咲いた小さなかけがえのない希望の灯りと映ったことでしょう。

 しかし、戦況はますます悪化し、このままの状態では、やがて食料がつき、三人の餓死は免れません

 

  この体では、この先いくらも生きられない。 …略… いつか、おまえが大きくなったときに、ああ、こういうじじとばばがいたなと思いだしてくれるだけでいい。わたしたちの体は死んでなくなっても、富子の心に生きつづけることができるからだ。

 

  諭された少女は、ガマをでてアメリカ軍に投降することを決心する。

老人のフンドシを裂いて作った白旗を木の枝に結び付けて、少女は老夫婦の住むガマを後にする。

 少女はアメリカ軍に保護されたが、ガマに残った老夫妻のその後は誰も知らない。

アメリカ軍の記録によれば、少女が保護された日は、昭和20年6月25日だという。

 この後の手記は「白旗の少女」(1)(2)詳しく紹介してあります。興味のある方はそちらのブログをご覧ください。

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「白旗の少女」 (3) 少女が見た地獄

2015-08-16 14:00:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「白旗の少女」(3) 少女が見た地獄

 沖縄の戦場をたった一人で逃げ回り、白旗を掲げて投降した話は、「沖縄戦 家族を失い投降」(8/6付)、二枚目の写真の真相(8/5付)で詳しく述べたので、興味のある方はどうぞ読んでいただけると幸いです。

 今回は、たった一人で沖縄の戦場を45日間に渡り、死の恐怖と空腹に襲われ、

彷徨(さまよ)った少女が見た地獄の光景を少女の手記「白旗の少女」より抜粋してお知らせします。

(講談社・単行本 品切れ)

(講談社青い鳥文庫・入手可)

 砲弾の破片か爆風にでもやられたのでしょう、胸から血を流してぐったりしている母親の胸で、その流れる血をすすっている一歳ぐらいの赤ちゃんの姿です。 …略… 赤ちゃんは私を見つけると、口といわず頬といわず、顔中を血まみれにしながら、「だっこして」とでもいうように、両手を伸ばしてくるのです。その両手も母親の血で真っ赤に染まっていました。 …略… それはもう地獄でした。わたしには、ほかに表現する言葉も文字も見つかりません。

 七歳の幼い少女が見た地獄は、その後の彼女の人生にどんな影響を与えたのでしょう。

爆弾や砲弾のために命を落とした人をまたいだり、暗闇で死人とわからず、転んだりしながら歩く」

少女・比嘉(ひが)富子さんのけなげな姿と生命力の強さに驚きます。

 

 ガマの中から赤ちゃんの泣き声が聞こえました。 …略… 大声で泣き続ける赤ちゃんをおぶった若いお母さんが、四、五人の兵隊に押し出されるようにガマの入口にあらわれました。お母さんは、ガマの中を指でさしながら、兵隊たちに何度も何度も頭をさげていました。きっと中に入れてくださいとお願いしていたのだと思います。しかし、兵隊たちは、お母さんを入れるどころか手で追いはらい、とうとうお母さんは、ガマの外に追い出されてしまいました(※ガマ=住民や日本兵の避難場所や野戦病院として利用された)

 ずいぶんひどい話です。

国民の命を守れない兵隊に何が守れるというのか

投降しようとする者は住民、兵隊の区別なく逃げる背中に向かって拳銃を撃つような狂気が充満し、

「国を守る」という大義名分のもとに、多くの人々が命を落とした。

この文節は次のような展開をします。

悲しいのは、これに類似した話が、他の戦場でも起きていたということです。

 そのとたんです。ダダダッと機銃の音がしました。おかあさんの体が、クルクルクルッとコマのようにまわったかと思うとバタッと倒れて、そのまま動かなくなりました。その背中では、赤ちゃんがまだ泣きつづけていました。そのとき、ガマから黒いかげがツツッと地面をはうようにしてあらわれ、たおれているお母さんのそばにかけよると、その背中から赤ん坊をひきはなして、岩かげに走りこんでいきました。赤ちゃんの泣き声がしだいに遠くなっていって、急に泣き声が聞こえなくりました。ガマはふたたび静まりかえり…………

 自分たちの命を守るために、無抵抗の命を奪うことが黙認されるような狂気が戦場では、数えきれないほど起きました。

 それにしても、自分が生き残るためには、たとえ相手が味方の兵隊であっても、それどころか、なんの抵抗もできない母親でも、わたしのような子どもでも、そして、赤ちゃんでさえも殺さなければならないなんて……。

 七歳の少女は、沖縄の戦場をたった一人で、

地獄の風景の中を彷徨い、「白旗」を掲げて投降することを勧めてくれた老夫婦の隠れ住むガマにたどり着きます。                             (2015.8.16記)

  次回は、少女がたどり着いたガマの中の老人夫妻と「白旗の少女」として少女が投降するまでをお話ししたいと思います。

 ※ 「白旗の少女」は七歳の時に、沖縄戦で体験した逃避行のすえ、米軍に白旗を掲げて投降した比嘉(ひが)富子さん(77)の手記です。あとがきによ           れば、昭和62(1987)年ごろから、自分の記憶の鮮明な部分を整理し、こつこつと書きすすめてきた。その結果出来上がったのが本書です。1989年刊行 講談社 写真の単行本は現在品切れですが、同じ講談社から「講談社青空文庫」としても発行され、こちらは入手可能。   

                    つづく

 

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老いの覚悟

2015-08-15 11:30:00 | ことの葉散歩道

老いの覚悟

  老いをどのように生きたらいいのか。

つまり、どのように死んだらいいのか

    「春に散る」沢木耕太郎著 朝日新聞連載中 小説より

  連載128回目から選んだ文節なので、今後どんな展開になるのかわからないが、これまでのあらすじを紹介。

壮年を過ぎ、老いの影が忍び寄り始めたボクサー達の物語。

将来を嘱望され、誰がチャンピオンになっても不思議ではないと思われた同期のボクサーたち。    

 だが、結果は4人のボクサーの誰も栄光のベルトを手にすることはできず、ボクシング界からも消えてしまう。

彼らにとって、青春を生き、命を燃焼するほどのボクシングとは一体何だったのだろう。

最も有望だった広岡は、突然日本を離れ、アメリカへ行ってしまう。

それは、失踪ともえる突然の消え方だった。

 以来40年、突然に広岡は日本に帰ってくる。

同期の仲間を訪ねる旅が始まった。

そこに見えてきたものは、自分を含めた4人の誰もが、幸せとは言えない生活の中で、

落ちぶれた老いを無残に晒している現実だった。

このような状況の中で、広岡が独白する場面の文節を取り上げた。 次に、以下の文章が続く。

 

 それは、たとえ金があっても問題の質は変わらない。

心臓発作という突発事に見舞われなかったとしたら、

いずれ自分にもゆっくりとではあっても訪れてきた問題なのかもしれない。

 

 「老いを生きる」ということは、それ相当の、自覚と覚悟が必要なのだ。

記憶力低下、身体機能低下、やがて、社会的に得るものよりも、失うものの方が多くなってくる。

親を亡くし、伴侶を亡くし、兄弟を亡くし、友人、知人を失う。

 若い世帯と同居をしても、話題についていけない、食べ物の好みが違う。

賑やかな食卓の雰囲気も、老いた者を素通りして進んでいく。

好むと好まざるとにかかわらず、孤独の波はひしひしと老いの岸辺に押し寄せてくる。

しかし、恐れることはない。

老いの全てを認めたうえで、残された時間を自由に生きればよい。

そのための、「自覚」と「覚悟」なのだ。

             (2015.8.15記)

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原爆投下

2015-08-12 18:00:00 | 語り継ぐ戦争の証言

原爆投下(非人道的無差別爆弾)

  広島の原爆 

  1945年8月6日午前8時15分、米軍は約35万人が暮らしていた広島市に原子爆弾を投下、街は焦土と化した。

 投下された原子爆弾「リトルボーイ」は地上約600㍍で炸裂。

 中心温度が100万度を超えた火の玉は、1秒後に最大約280㍍に膨らみ、 

 衝撃波の後の爆風は最大で秒速440㍍に及んだという。 

 5万棟以上が全壊・全焼した。1945年末までに推計で14万人の死者を出した。

 「全身にやけどを負った人々が街を彷徨う姿が忘れられない

……増野幸子さん(85)は、広島電鉄家政女学校の学生だった。

学校の寮で被爆し、背中に無数のガラス片が刺さったという。

戦後、被爆を理由に差別されることまあった」と言います。

「先に逃げて」「しっかりしんさい」……児玉豊子さん(87)は、電車を運転中、爆風で地面に飛ばされた。

逃げる途中で2人は出会い、避難所までの10㌔以上を励まし合って歩いたそうです。

  長崎の原爆 

  1945年8月9日午前11時02分、人口24万人(推定)の長崎市に原爆が投下された。

およそ74,000人が死亡し、建物の約36%が全焼、または半壊した

長崎に投下されたプルトニウム原子爆弾「ファットマン」は、

広島のウラン原子爆弾「リトルボーイ」の1.5倍の威力があったが、

長崎は周囲を山に囲まれていたために、爆熱や爆風が山にさえぎられ、広島よりは被害が少なくて済んだようです。

  風化する原爆の記憶 

  広島の原爆投下の日付を知っている小中学生は、

市教育委員会の調べによると小学生33%、中学生56%だった。

15年前の調査では、小学生56%、中学生75%だった。

平和教育や原爆報道が盛んな広島での調査さえ「風化」の現象が明らかなのだから、

全国的にはもっと知らない小中学生が多いだろう。

原爆の悲劇を語り伝え、次世代に平和の尊さを教えるのは、私たち大人の責務と考えます。

           (2015.8.12記)

  

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元零戦パイロットの苦悩 「あやめなければ自分がやられる」

2015-08-07 17:27:29 | 語り継ぐ戦争の証言

元零戦パイロットの苦

  元零戦パイロット原田要さん(98)の証言。

20代で零戦に乗り、誇りにかけて敵機を撃ち落とす。

だが、70年以上たっても、墜落していく敵の操縦士の表情が忘れられない、

と語る原田さんはインド洋上やミッドウェー海戦で19機を撃墜した強者(つわもの)だ。

「自分の命は差し出して働く覚悟」があった。

戦時下に青年期を迎えた多くの若者が抱いたであろう「覚悟」を持って、

零戦のパイロットになった原田さん。

そして、「あやめなければ自分がやられる」。

強者の左腕には敵の弾にえぐられた傷跡が今も残っている。

「どんな善良な人間だって、戦争というものの中に入れば最悪の人間になる。……お分かりになりますか」

「お分かりになりますか」と問われ「えゝ、あなたの辛い気持ちは十分にわかりますよ」等と答える人がいれば、

それは偽善者だ。

それほどこの「お分かりになりますか」と問いかける原田さんの経験は重く苛酷だ。

記者はこの心の葛藤を次のように表現する。

 [罪悪」という言葉を繰り返す原田さんが70年間苦しんできた罪の意識。

一方で、若き日々を国に捧げた零戦乗りの「誇り」……… 。

(これは、朝日新聞2015.8.3夕刊 継ぐ記憶 私たちに戦争を教えてください③を参照にしました) 

 

 原田さんの心の葛藤は戦後70年たった今でも、

「誇り」と「罪の意識」の狭間で揺れ続け、 永遠に解決できない自問として残っていくのでしょう。

生き残り、今を生きる人にとっても、戦死し遺族となった家族にも、

それぞれの戦後があり、決して忘れてはいけない戦争の愚かさを語り伝えなければならない。

                                     (2015.8.7記)

 

                                            

 

                          

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「白旗の少女」(2)二枚目の写真の真相

2015-08-06 11:40:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「白旗の少女」(2) 二枚目の写真の真相

   長いこと、「白旗の少女」が誰なのか、生きているのか、死んでいるのかさえ不明でした。

  昭和62年、比嘉富子さんが、「白旗の少女は私です」と名乗り出ました。

 終戦から42年が過ぎていました。

 比嘉さんにとっては、長い長い戦後に一つの区切りをつけるのに、42年が必要だったのかもしれません。

 その2年後の平成元年、比嘉さんは「白旗の少女」という本を出版しました。

    その本の中で、比嘉さんは述べています。

   沖縄戦の記録映画が公開されて以来、あの映画の中で

   白旗を持って投降する私のうしろから歩いてくる兵隊さんたちが、

   私を盾にしてきたかのように誤解されているのは、

   大変残念なことです。

 

   この兵隊さんたちは、

   私の歩いてきた道とは別の道を歩いてきて、

   偶然、一本道で私と合流した人たちです。

   そして、私の方が先に一本道に入ったため、

   あたかも白旗を持った私を弾除けにして

   後からついてきたかのように見えるのです。

   したがって、

   私と背後から歩いてくる兵隊さんとは、

   いっさい関係がなかったのです。

 

    戦後、価値観が一転したなかで、

   「お国のために」命を懸けて戦った兵士たちを、悪く言う傾向がありました。

    状況が変われば、全てを否定し、プライドも信念もかなぐり捨てて、

    多数を占める意見に迎合してしまう。

    お国のためにと、出征する兵士を、万歳三唱で送りだしたことには、

    目をつぶり、自分の行為の反省などすることなく、

    生きてきた人こそ、非難されてしかるべきだと思います。

 

    同じように、大本営発表の戦況を鵜呑みにし、

    政府の要望に沿った記事を書いたメディアにも、責任がある。

 

    「白旗の少女」の写真を眺めながら、徒然思うことを書いてみました。

                        (2015.8.6記)

 

    

 

 

 

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「白旗の少女」・沖縄戦家族失い投降

2015-08-05 16:00:00 | 語り継ぐ戦争の証言

白旗の少女・「幸せと簡単にいえない」

 白旗を掲げ投降する少女・比嘉富子さん(77)の証言

 あまりにも有名な写真だ。木の枝に、老夫婦が褌(ふんどし)を裂いて巻きつけた旗を掲げて投降する。当時、6、7歳のあどけない少女の決死の投降場面だ。兄の遺体を埋め、姉たちとははぐれてしまった。死体だらけの川の水を飲みながら生き延びた少女。

   「地獄に行ったことはないけど、ああでしょうね」 

   地獄をくぐり抜けて生き延びた比嘉さんの脳裏には、今も鮮明に当時の記憶がよみがえるのでしょう。

   「あの人もこの人も死んで、なぜ私は生きているのか。幸せだとは簡単にいえない。半分罪の意識があります」

   70年も昔の少女時代の過酷な体験は、「生き残った」事に対する悔恨が

  いまだにわきあがってくるのでしょう。

  生き残ったことに、今こうして生きていることに、心の痛みを感じるという。

  いわゆる「死に遅れ」た事に対する、悔恨や罪の意識は、戦後多くの仲間を失った兵士たちに

  共通の意識だったのでしょう。

   「命は自分のためにだけあるんじゃない。産んでくれたお父さんやお母さんのものでもある」

  洞窟で投降を勧めた、老人の言葉は、

 比嘉さんが生きるための心の支えとして、今も鮮明に浮かんでくるのでしょう。

    (朝日新聞2015.7.31付夕刊 継ぐ記憶 私たちに戦争を教えてください②の記事を参考にしました)

さて、2枚目の写真を見てください。「白旗の少女」が斜面を下りて来るシーンです。

 背景に注目してください。少女の後ろから2人の兵隊がついてきます。「少女を盾にする卑怯な兵隊」と言われ発表された当時

物議をかもしたようです。

 しかし、写真をよく見ると、2人の後に斜面を登っていく二人の荷物を背負った人の後ろ姿が見えます。

この人も兵隊に見えますが、この二人を見る限り、緊迫した場面ではなさそうです。

さらにその後ろ、3人の人がみえます。どうも負傷した人を両脇の二人が、肩掛けして斜面を下りて来るようです。

 やはり、少女を盾にして投降するような緊迫した場面には見えません。

 

 さて、真相はどうなのでしょう

                            (2015.8.5記)        (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ペリリュー島・「やらなかったら、やられていた」

2015-08-04 21:39:31 | 語り継ぐ戦争の証言

ペリリュー島から生還 「やらなかったら、やられていた」

 「玉砕の島」ペリリュー島から奇跡の生還をした、福岡県筑後市・土田喜代一氏(95)の証言。

水平線から押し寄せる米国の大艦隊を目にした時、

「99.9%、勝てないと思った」それでも旧日本軍は戦い、玉砕した。

殺してやりたい、憎いという気持ちはあったか、という質問に対して、

「やらなかったら、やられていた」と、絶体絶命の戦争の状況を表現している。

「勝っても負けてもダメなのが戦争じゃないでしょうか」

 過酷な戦場から生還した体験者の話は重く、説得力がある。

     朝日新聞2015.7.30夕刊 「継ぐ記憶」私たちに戦争を教えてくださいを参考にして、構成しました。

 ペリリュー島の戦いについて

  日本の南3000㌔の太平洋上に浮かぶパラオ諸島の一つ。

  南北9㌔、東西3㌔、高さ80㍍ 全体で20平方キロのサンゴ礁からできた島で、

  太平洋戦争末期、日米両軍による73日間にわたる死闘が繰り返された。

 

   米軍は、日本軍の兵力が約4倍、航空機200倍、戦車10倍、重火砲100倍以上の軍事力。

  航空機による爆撃、軍艦からの艦砲射撃を考えると、米軍が数100倍の火力で日本軍を圧倒していた。

     兵 力:   日本10200名     米国42000名

   戦死者:    10655名              1794名

   捕 虜:                202命

   戦傷者:                    8010名 他に精神に異常をきたしたもの数千名

               戦闘終結後も、生き残りの日本兵34人が、洞窟を転々として生き延び、戦後も2年闘いつづけ、

    昭和22年投降。玉砕の島・ペリリュー島戦闘の悲しくも、無謀な記録である。

 

 

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