雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内「南三陸日記」 ⑥ おなかの子に励まされて

2021-06-24 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ⑥ おなかの子に励まされて

前書き前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
   

前回 ⑤ 娘よ! 強く生きなさいの続き

     おなかの子に励まされて

  2011年3月11日 新婚一週間たったその日、夫は婚姻届けを出しに新居を構える石巻市に行った。
          午後3時46分 経験したことがないような巨大な地震が起こった。
          多くの命が奪われたのは地震発生の直後ではなく、
          そのおおよそ30分後に東日本太平洋沿岸を襲った巨大な津波によってだった。

          当日、激震の直後にメールが入った。
          「大丈夫?」
          すぐに返信した。
          「大丈夫」
          それが最後のやり取りになった。(引用)
         
  翌日、夫は津波の残した水溜りの中で、還らぬ人となって発見された。
  近くに住む実家の祖父母と妹を助けに行き津波に呑まれたらしい。
  同時に4人の家族を失った母・江利子さんの悲しみは深かった。

  《息子は妹をその腕の中で守っていたかのように手を組んで横たわっていました。
   「おかぁ、俺なりに頑張った」。そう言っているようで》

  
  《受け止め難い現実、やり場のない怒りと悲しみ。
   でも、絶望の中にさす光もありました。息子は私たちに生きる意味を残しました》
   津波が襲ってから丁度1年後の2012年3月11日、東京の国立劇場で開かれた追悼式で
   江利子さんは家族を失った悲しみを、遺族代表の一人として、胸のうちを吐露した。
   涙が頬を伝って流れた。
   家族4人を失い、一人ぼっちになった江利子さんにとつて「生きる意味とは何だったのだろうか」

   新婚一週間で夫を失ったE子さんは「私をこのままお嫁さんにしてくれますか」と
   江利子さんに自分の希望を述べる。
   この時、E子さんのおなかには亡き夫の赤ちゃんが宿っていた。

   「安心して。私、絶対この子を産んで見せるから」
   亡き夫に向けての固い決意を誓う。

   この章の最後は、次のような言葉で終っている。
   「本当は、つらくて何度も死のうと考えました。でも、その度に、おなかの子が
    『生きよう、生きよう』って蹴るんです」

      
      「三陸日記」著者の朝日新聞記者・三浦英之氏は、南三陸駐在記者として、震災直後から1年間を、
  このホテルを拠点として記事を発信した。それが本書「南三陸日記」である。

                                                                                 (読書案内№179)

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坂村真民の言葉 (2) いのちの張り

2021-06-18 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(2) いのちの張り


坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

    いのちの張り
   大切なのは
   いのちの張り
   恐ろしいのは
   この喪失
   懸命に
   一途に
   鳴く
   虫たちの
   声声
    真民さんの言葉には時々、擬人化された昆虫や植物が登場する。
              前回①(2021.4.15)「未練」には、『はち』と『蟻』と『こおろぎ』が登場していた。
    
    どんな最期を迎えようとも、「今」を生きつづけたものにとって、
    それは大したことではないと真民さんは詠う。
    覚悟を持って生きたものには、「生」に未練はないと…
              どこかに武士道の精神に通じるものがある。

    働き蜂は、自分の亡骸を蟻に与え
    鳴くだけ鳴いたこおろぎは、
    己を風葬にする 
(「未練」より引用)

     生きることへの毅然とした姿勢がうかがえる言葉だが、
     全体をつつむ無常観がただよっている。

    「いのちの張り」には、「虫」が登場する。
    ここに登場する「虫」たちも一途に鳴いて、精一杯鳴き続けいのちを全うする。
    虫たちの精一杯の生き方が「声声」という言葉にさりげなく詠われている。

    恐ろしいのは、この張を失ってしまうことだ。
    虫たちだって命果てるまで懸命に鳴いているのに、
    「『いのちの張り』を失くしてしまえば、人生そのものが輝きを失ってしまう」
    と真民さんは言っているのか。

    真民さんに生きる力をいただく様な言葉だけれど、
    凡人の私には重い言葉となって、私にせまってくる。
                     ブ
ックデーター
                      「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                        致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷

                         (2021.6.17)                                  (読書案内№178)

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読書案内「南三陸日記」 ⑤ 娘よ! 強く生きなさい

2021-06-12 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」⑤ 娘よ! 強く生きなさい

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)


   
   (ホテルホームぺジの写真 左の写真は私が宿泊した部屋からのアングルに似ている)

   海を見下ろす高台に建つ「南三陸ホテル観洋」の一室。
 ここが私の仕事場であり、寝泊まりする生活の場だ。
                   (「娘よ! 強く生きなさい」の章 冒頭)   

           「 前書き」で述べた私の3度目の被災地訪問(2020年10月)の時は、偶然にも私はこのホテルに泊まった。
  このホテルは震災当時、津波が一階部分まで押し寄せ、甚大な被害を被ったようである。
  大ホールには当時の避難所として活動した写真が、玄関に続く通路やホールに写真が展示されている。
  震災当時、避難所となったホテルには約600名の被災者が、ここで生活していた。

  残念なことに、宿泊客の多くは観光目的の人が多いのだろう。
  通路やホールの写真を見る人は少なく、ここにも9年の時の流れに、
  震災の悲劇の風化が始まっているような気がして、寂しい思いをした。
  それでも、翌朝のホテル主催の「語り部ツアー」には、
  バス2台に約50人の参加者があったことに、安堵した。

  「三陸日記」著者の朝日新聞記者・三浦英之氏は、南三陸駐在記者として、震災直後から1年間を、
  このホテルを拠点として記事を発信した。それが本書「南三陸日記」である。

  ホテルウーマンとして働くA子さん(58)は、いつも笑顔で約六〇〇人の避難者に接している。
  「すてきな笑顔ですね」
  ある日、私がそう言うと、A子さんは教えてくれた。
  「もうすぐ、娘に子どもが生まれるんです」

   本誌には笑顔のA子さんの写真と本名が記載されているが、
    私のブログではあえて割愛した。

   「出産の予定日は七月上旬です」とA子さんは私に言った。
   「長女に言ったんです。強く生きなさい、あなたは母親なのよって」

  「強く生きなさい」と言う、A子さんの言葉には、震災の重いドラマがあった。
  A子さんの長女E子さん
(二七)は震災の6日前に結婚式を挙げた。
  新郎(二三)が、新居を構えることになっていた石巻市に婚姻届を出しに行った。
  その日、大地が揺れ巨大な津波が街を襲った。
  東日本大震災。
  新郎は近くの祖父母と妹を助けに行き、津波は四人を呑み込んだ。
  翌日、発見された四つの遺体。
  妹を抱きかかえるような姿で発見された。
  四つの遺体を前に、新郎の母(四六)は泣き崩れる。

  E子さんは言った。
  「私をこのまま、お嫁さんにしてくれますか」
  石巻市は六月、「婚姻届けは津波で流失した」と判断し、
  三月十一日付での受理を認めた。

  出産の予定日を七月上旬に控えた娘に、母親のA子が言った言葉が
 「強く生きなさい、あなたは母親なのよ」である。
  津波に呑まれた新婚早々の新郎が残して行った、お腹の子ども。
  E子はこれからどんな人生を歩んで行くのか。
     誰にもわからない。
  

  ホテルウーマンとして、笑顔を絶やさず、
  ホテルへ避難している人たちに明るく接するA子さんにも、
  津波がさらった娘の辛く悲しい人生があったことを著者は、さりげなく
  文字に転嫁する。
   
     新しく生まれてくる命を、A子さんたちはどんな笑顔で迎えるのだろう。
  この家族の「風景」をしばらく日記につづっていきたいと思う。
  
     この章結びの言葉である。
           (2021.6.10記)         (読書案内№176)

   



 

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読書案内「南三陸日記」④ 遺体捜索「やるなら、今しかないんだ……」

2021-06-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」④ 遺体捜索

          「やるなら、今しかないんだ……」

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

(集英社文庫 2019年2月 第1刷) 著者:朝日新聞記者・三浦英之
  日記に記された内容は、2011年春から2012年春までの、
  震災翌日から現地に入った記者の肌で感じた震災ルポルタージュである。
  震災を経て生きる人々の姿を真摯とらえた眼差しが優しい。

  震災翌日に現地入りした著者は次のように心の内を吐露しています。

 最初の数日はまともに記事が書けなかった。
 目の前の惨状に何がニュースかわからなくなり、
 
気がつくと空ばかり見上げていた。

  著者のこの気持ちはシリーズ②(過去ログ・5月6日)の中で紹介したように「 誰のために記事を書くのか。
 その命題を忘れないよう」という気持ちに反映されている。
 本書の冒頭には、津波が襲った直後の惨状を見つめる記者としての目がある。

    リボンを結んだ小さな頭が泥の中に顔をうずめている。
   細い木の枝を握りしめたままの三十代の男性がいる。
 消防団員が教えてくれた。
 「津波は引くとき、川のようになって同じ場所を流れていく。
  そこに障害物があると、遺体がいくつも引っかかってしまう……

  震災関係の本の中には、遺体の惨状についての報告をときどき見かける。
    想像を絶するような現実に遭遇し、災害の非情さに圧倒される。
 木に引っ掛かった遺体、損傷が激しく目をそむけてしまうような遺体等々。

機動隊員はね、(遺体が)オヤジやオフクロだと思ってやっていますよ。
でなければ、とてもできる仕事ではないんです。
                        (宮城県警の幹部)

 海で見つかった遺体の写真は、着衣はなく、肉体は白いローソクのようにつるんとしていて、
 男女の区別さえつきそうにない。県警幹部のの言葉は、著者に語りかける言葉と同時に、
 自分に
言い聞かせる言葉でもあったのだろう。
   (本文に添えられた写真)
         (南三陸日記・遺体捜索 撮影・西畑志朗氏)
 悲しみと、鼻をつく瓦礫や油の匂いが異臭となって体全体に染みついてくる。
 「出来るだけ早く遺体を発見する」という使命感を持たなければ、続けられる作業ではない。
 県警機動隊員や自衛隊員などプロが覚悟をもって活動しても、
 
過酷な作業に違いない。
 地方公務員の中にも、遺体に関する作業の業務命令で従事する人たちは、
 嘔吐と発熱の中歯を食いしばるようにして過酷な現実を堪えたと聞いて言います。
 一日一日を地を這うような苦しみの中、やはり強い覚悟がなければ続かない作業だ。
 「海が時化(しけ)るたびに連日遺体が打ち上げられてくる」。
 遺体捜索の現場は、精神的にも、肉体的にも過酷だ。
 異臭の中を飛び交う大量のハエは、捜索員の士気を減退させ、体力の消耗を加速させる

あちこちで煙が巻き上がっていた。警察の機動隊員たちは打ち寄せられた流木を燃やし、
炎と煙で大量のハエを追い払っている。
「煙たいが、ハエよりはましだ」
強烈な日差しとむせ返るような煙が、無言の男たちを苦しめる。

日が経てば遺体の損傷は一層進んでしまう。
 人間の尊厳の為にも、遺族の為にも誰かが従事しなければならない過酷な作業だ。
 海岸に流れつく遺体は時間の経過とともに、減少する。同様に瓦礫に飲み込まれた遺体も減少する。
 後は、海底に沈んだ遺体だ。
 「海底を網でさらうかどうかー
」だ。
 反対意見もある。

いくら亡くなっているとはいえ、身内が網に掛けられて引き上げられることを、
家族はどう思うだろうか
                                (宮城県警幹部)

  逡巡する機動隊員。
  夏が迫ってくれば、遺体の損傷は激しくなる。
  「なにも遮るもののない海岸で、機動隊員を長時間働かせることは不可能だ」
  責任者として部下への配慮は当然のことだ。
  配慮や優しさがあれば、部下は過酷な作業にも従事する強さを維持することができるのだ。
  「遺体捜索」の章は次の3行を記して終わる。 

「やるなら、今しかないんだ……」
南三陸町の行方不明者は約600人。
今もこの美しい海のどこかに眠っている。

    日記の具体的な日付がないので、何時の頃のルポルタージュなのか不明だが、
   記載内容からして、震災間もない頃と思われる。
   海底の遺体捜索に漁網を使用したという報道は、耳にしたことはないが、
   潜水夫を導入した報道を耳にしたことはある。
   文面から推測するに、
   漁網(底引き網のようなもの)を導入しての「遺体捜索」に踏み切ったように思える。
   このことが報道されなかったとすれば、
   社会的な規範の維持と遺族への配慮があったからなのだろう。

 2020年秋、私は10メートルもかさ上げされた防潮堤の上を走る道路に立った。
 震災からもうすぐ10年を迎える。
 かさ上げされた道路の下には、かって民家が点在し、松林が海岸線を走っていたはずだ。
 瓦礫は取り除かれ、新しい道路や海岸線の工事で走り回るダンプを除けば、
 静かな三陸の海が、あの日のことを忘れたように優しい風を送ってくる。

 山を削り、造成された高台に民家は移住した。
 海岸線は遠く、南三陸町に昔日の面影を残す景色はない。
 復旧・復興のスローガンに裏打ちされ、新しい町ができた。
 できつつある……。
 
 津波の来たあの日、町は失われたけれど、
 祖父や父や母から受け継いだ
 三陸に住む人々の穏やかな笑顔がふる里の象徴として、
 大切な心の遺産として残っていくことを願いながら、
 海岸線を走る道路に戻った。
                       (つづく) 

 (2021.6.5記)                                                                 (読書案内№175)

 

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