大丈夫か川内原発 (風の行方№36)
川内原発については、「1カ月を経過した熊本地震」
という内容で少しふれました(5月15日付ブログ)。
今回は更に詳しく、述べてみたいと思います。
原発や地震に対して全く素人の大半の人は、
想定外のことが起きたとき、「原発は大丈夫なのか?」と不安になる。
九州電力の瓜生道明社長は、4/28の会見で次のように語った。
「原子力は国の基本計画でも必要なエネルギー。安全を確認し、問題ないと判断して運転している」
なんとまあ無責任な発言なのだろう。
「安全を確認し、問題ないと判断して」と言っているが、
あんぜんの根拠は何か、問題ないとする根拠は何か。
私にはさっぱりわからないし、
こんな内容の発言をすんなりと認めるほど子どもでもない。
「想定外」に対処する姿勢に欠けている。
福島の原発事故が、根拠のない安全神話に頼った結果の過酷事故であったことを、
教訓として受け止めていないと言わざるを得ない。
一カ月を経過した熊本地震 (風の行方№35)
だいじょうぶか川内原発
熊本県を中心にした一連の地震は、発生から昨日で1カ月が経過しました。
1400回を超える余震に、今なお1万人以上が避難所で生活を送っている。
死者49人
安否不明1人
関連死の可能性のある人19人
住宅被害8万657棟
電器・ガスは県内全域で4月中に回復したが、今なお約3全世帯で断水が続く。
13日午後1時半現在、25市町村に244ヵ所の避難所が設けられ、1万477人が避難している。
新聞・テレビ等メディアの関連ニュースもだんだん少なくなって、
被災地から遠く離れた地では、何処か他人事のような感覚がただよい始めている。
連休中の海外旅行者もたくさんいた。
東日本大震災の時、津波と原発事故のメディアは関連ニュースを、連日流し続け、
自粛ムードが大きな社会現象として発生した。
被災した人々にとって、メディアが取り上げようが、取り上げまいが
被災の苦しみや哀しみは同じなのに、 メディアの取り上げ方は、どこか東日本大震災の時と違っている。 (我が家の芍薬)
こうした憂いに関係なく、
時は流れ、
桜 牡丹 藤 あやめ 芍薬
時の移ろいとともに
花たちの楽園も
春から初夏へと彩を変えていく
想定外の地震が続く中、
九州電力・川内原発は
「安全性に問題はない」と運転を続けている。
活断層が動くことによる地震は、わからないことが多いと専門家は言う。
想定外の地震が起きた時、原発は大丈夫なのだろうか。
事故が起きたら、だれが責任を取るのか
福島第一原発事故の責任だっていまだに曖昧(あいまい)にされたままだ。
最高の科学技術をもってしても、不測の事故は避けられない。
神を超えるような完全無欠の技術など存在しない。
これが福島第一原発事故の教訓ではなかったのか。
あむじいのいっしょに読もう(3)
むかしばなし・大型紙芝居 したきりすずめ
誰でも知っている「昔ばなし」。
あむじいの子どもの頃は「おとぎ話」と言っていた。
何度も何度も読んでもらって、字が読めなくても
そらんじて読めるようになった。
今の子どもは、同じ話を繰り返し要求はしない。
子どもたちの興味を引く素材が、たくさんあるからだ。
絵本(あむじいの子どもの時と比べて、圧倒的に種類が多い)、テレビアニメ
おもちゃ等々。キャラクターも豊富だ。
(木陰のベンチに子どもたちが集まります)
当たりはずれのない素材は、キャラクターものだ。
アンパンマンなど、無難な素材を選べば、子どもたちはすぐ
興味を示し集まって来る。 盛り上がる。
だが、こういう素材選びは、子どもたちの豊かな感性を引き出し
想像力を育てることはできない。
たくさんの素材を提供し、子どもたちが自分に合った物語の世界を
発見することも必要だ。
「したきりすずめ」は「かちかちやま」、「うらしまたろう」
と並んで代表的な日本昔話のひとつだ。
(松谷みよ子脚本 堀内誠一絵)
テーマは「いたずら」「やさしさ」「よくばり」だ。
このキーワードをさりげなく、物語の中に織り込んで読む。
だから、脚本どうりには読まない。
子どもたちと、会話を展開しながら、
子どもたちの口から、三つのキーワードか引き出せれば
意図したことが成就される。
「いたずらすずめ」と「やさしいおじさん」、「よくばりおばあさん」の関係を
子どもたちは理解する。
(豊かな自然の中で子どもたちは元気に遊びます)
(子だぬきがげたに化けたけれど……)
テーマは「変身願望」「おかあさんのやさしさ」「頑張った子だぬき」だ。
「みんなは何に変身したいかなぁ」と、「化ける」ではなく「変身」です。
いきなり盛り上がって、子どもたちの変身願望が展開されます。
ひとしきり皆の「なりたいもの」を聞いた後で、絵本の内容に入ります。
「小さなたぬきさん」は、「げたに化けたんだって… あれれっげたにしっぽがはえてるよぅ」。
「げた」って何だろ。「知ってる人ぉー」
木陰の陽だまりの中で、楽しい時間が過ぎていきます。
運動場で元気に遊ぶ子どもたちの声が聞こえてきます。
人生の流れ ことの葉散歩道(27)
山あり谷ありそして喜怒哀楽
人生はいったい、何なんだろうなあ、と時々思う。人はついその時その時のできごとで、喜んだりガッカリしたりしてしまうけれど、おそらく、人それぞれの流れがあるんじゃないかと思うんだよ。 |
天台宗大阿闍梨・酒井雄哉は、
約7年かけて4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を80年、87年の2度満行を成し遂げた。
大阿闍梨と言われる所以である。
酒井雄哉は言う。「人生は一日一生だ」と。
つまり、一つひとつの完結した輪が繋ぎ合わさって1本の鎖となるように、
人生も一日一日が完結し、次の(明日の)人生へと繋がっていく。
一本の輪が切れてしまえば、鎖は切れてしまう。
人生も連続したつながりで、続いていく。
簡単に言ってしまえば、
「一日一日を悔いの無いように生きる」ということなのだろう。
凡人にはなかなかそういった覚悟ができないから、
どうしてもその日暮らしになってしまう。
悔いを残し、後悔し、悲しみ、苦しみ、煩悩から逃れることはできない。
人生には、年齢にあったステージがあり、
そのステージに立って精いっぱい生きていければいいのではないかと思う。
これが酒井雄哉氏の言う「人それぞれの流れ」ということになるのでしょう。
「勉学に励む時期」、「結婚」、「家庭の維持」、「仕事」、「退職」、「年金暮らし」。
それぞれにふさわしいライフ・ステージを誠実に生きること。
これが「一日一生」という生き方に繋がる生き方なのでしょう。
「論語」では「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」と説いている。
朝に人がどう生きるかを悟ることができれば、夕方には死んでしまっても悔いはない。
生きる覚悟と潔さを説いて有名である。
一生幸せな人もいないし、一生不幸せの人もいない。
人生の流れ(ステージ)に立って、自分にどれだけ誠実に生きられるかが、
幸不幸の分かれ道なのかもしれない。
(2016.5.12記)
新宿ゴールデン街火災
「新宿・みなとまち」の風景
4月12日、歌舞伎町1丁目、
「新宿ゴールデン街」で火災が発生して複数の店舗が入る4棟が焼けた。
古い木造長屋にバーなどの小規模店が入る飲食店の密集地帯だ。
戦後の闇市に始まり、「青線地帯」と称された無許可の売春施設などがあった。
1958年・売春防止法施行により、
飲み屋等の飲食店が密集する地域に生まれ変わり、
「新宿ゴールデン街」と称するようになった。
いかがわしい店もあったが、学生だった私は、
先輩に誘われ、界隈を徘徊した記憶がある。
ジャーナリスト、編集者、作家等あるいはその卵たちが集まるというバーの雰囲気に酔いしれた
青春時代だった。
しかし、青春や人生を謳歌する場所でもある3坪~4.5坪の小さなお店は、
これらの人たちとは全く違う人たちのよりどころとしての場所でもあった。
雑多な人たちで賑わうゴールデン街は、船の代わりに人と人が行き交う港町の雰囲気がある。
人生という船に乗り遅れ、彷徨(さまよ)い、難破船のように漂い、
或いは座礁して身動きできない人たちの集まる場所でもあった。
はぐれ者たちが生きる辛さ/ 忘れて酒を酌み交わす町/
人を押しのけて生きてゆくより/安い酒に酔いたいね/
この酒場に来れば、安心して酒に酔える仲間たちに逢える。
競争から脱落したのではなく、
時に寂しいけれど自分に無理強いしない人生を選ぶ。
金はないが、心のやさしさが彼らを繋いでいく。
気が向けばふらりと旅にも出ていく。
だが、やっぱりこの街に集う仲間たちが懐かしくなる。
新宿はみなと町/旅に出たやつも流れ者もいつかはふらりと舞い戻る町/
生きていくことはうまくなくても/どこか優しい仲間たち/
安心して付き合える仲間のいる町。
青春はあこがれや、希望が混在し、
ドロップアウトした生活にもあこがれ、
アウトローの世界にも興味を示す。
金のない貧乏暮らしを自慢し、
アルバイトにはいかがわしい店のボーイをやったり、
色鉛筆を耳に挟み、一端(いっぱし)の勝負師を気取り、競馬競輪場に通った日々。
若さゆえの冒険を久々に思いたさせた「新宿ゴールデン街」の火災だった。
文中引用の歌詞は、麻生香太郎作詞の「新宿・みなと町」。森進一が1979年から80年にかけて歌っていました。
(2016.5.1記) (つれづれに…心もよう№35)