雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「あゝ岸壁の母」①岸壁に立つ私の姿が見えないのか 

2024-11-06 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

「あゝ岸壁の母」 ① 岸壁に立つ私の姿が見えないのか

母は来ました 今日も来た
この岸壁に 今日も来た
とどかぬ願いと 知りながら
もしやもしやに もしやもしやに
ひかされて

(セリフ)
「又引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。
この岸壁で待っているわしの姿が見えんのか……。
港の名前は舞鶴なのに何故飛んで来てはくれぬのじゃ……
帰れないなら大きな声で……。」
                                                  (作詞 藤田まさと)

 歌謡曲「岸壁の母」は、
息子の帰還を舞鶴港で待ち続ける端野(はしの)いせのことをモデルに、
昭和29年菊池章子が歌い、 
昭和47年には二葉百合子がセリフ入りで吹き込み
300万枚を売り上げる大ヒットとなった。
 戦後27年を経た昭和50年代でも、
戦争の悲劇である未帰還兵の帰りを待ちわびる母の愛情が
人々の感情を掻き立てたのでしょう。

 終戦直後の昭和20年10月7日、
朝鮮釜山から陸軍軍人2100人を乗せた雲仙丸が入港したのを皮切りに、
引揚事業は昭和33年9月7日、樺太(からふと)の真岡(ほるむすく)から邦人472人を乗せた白山丸の入港まで13年間続いた。
 終戦以来、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの
66万2982人の引揚げ者と1万6269柱(はしら)の遺骨が
祖国の京都府舞鶴市平(たいら)の舞鶴港の引揚桟橋に、帰ってきた。

 平成6年5月に復元された引揚桟橋は、四方を山に囲まれ入り江の奥にあり、
私が訪れたときも、穏やかな波が引き上げ当時の喧騒を忘れたように桟橋の橋桁を洗っていた。
幾多の苦難に耐え、夢に見た祖国へ感激の第一歩をしるした
桟橋。桟橋の脇に佇み我が子、夫を待ち続けた多数の「岸壁の母・妻」。そして、温かく迎えた往時の市民の姿。この史実を21世紀へと伝えるため、歴史の語り部として復元した』と桟橋の由緒書きにあります。
 
 (舞鶴港 平引揚桟橋)                                                       (帰らぬ夫を待つ母と子)
 この桟橋に立ち、
歌謡曲「異国の丘」を思い出すまでもなく、
多くの人が祖国の地を踏むことなく異国で死んでいった。

 一方引揚船が桟橋に着けば、帰らぬ息子新二の名を呼んで、
「岸壁の母」を象徴したモデルになったのが端野(はしの)いせだった。
 いせは、戦地から戻らぬ一人息子の新二を舞鶴港の桟橋で待ち続けた。
ナホトカ港から船が着くたびにいせの岸壁に立つ姿が、
人々の涙を誘った。

(語り継ぐ戦争の証言№39)

 
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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男 

2024-01-25 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ⑤ 番外編・その後の酒巻和男

 

捕虜になってから4年。
太平洋戦争で最終的に日本が敗れるまで、
酒巻はハワイを経てアメリカ本土に移され、6か所の捕虜収容所を転々としました。
この収容所の中で、
アメリカの民主主義や合理主義への理解も深め、
続々と収容されてくる捕虜たちのリーダー的存在となっていきます。
 
 
日本に帰ってから書いた「捕虜第一号」には、
収容所で死を望む記述がある。
 戦陣訓の中に『生きて虜囚の辱めを受けず』とあり、
捕虜になる事は最大の屈辱であると、教育を受けてきたからだ。
「撃ち殺してほしい」と米兵に懇願する。
しかし、願いがかなうはずもない。
また、顔写真をとられたとき、
彼は自分の顔にタバコの火を押し付け、人相を悪くした。
自分が生きていることが判明した時、別人になるための行為だったのだろう。
その写真は現存するが、顔面に押し付けられたタバコの火の火傷の跡がたくさん見られる。

自殺願望をもち、これが叶えられないと
やがて酒巻は、収容所を転々とするうち、
英語を習得し次第に捕虜のリーダーになっていく。
「何の理由をもって非国民と呼び、死ななければならないと言ひ得るのであろうか」と考え方を変える

帰国後の酒巻和男

4年間の米国での捕虜生活の後、1946(昭和21)年1月4日に無事帰国する。
翌1947(昭和22)年3月には「俘虜生活四 ケ年
の回顧」を出版。愛知県のトヨタ自動車工業に入社
続いて1949(昭和24)年11月には、「捕虜第一號」を出版する。
 戦後数年後の手記は、「なぜ死ななかった」「非国民、腹を切れ」などの誹謗中傷が絶えなかったという。
 
                   一千五厘の召集令状で、あるいは志願兵として、出征する人々に
                 日章旗に書かれた寄せ書きを贈り、のぼり旗で激励し、千人針を贈り、
                 万歳三唱で華々しく出征を見送った銃後の人々は、
                 手のひらを返したように帰還兵に冷淡なあつかいをした。
                 或る帰還兵は貝のように沈黙し、戦地での体験を忘れようと、
                 
心に封印をした。負傷兵として帰還した人のなかには、
                 傷痍軍人として白い服を着て、行きかう人々の冷たい視線にさらされな
                 がら、屈辱的な思いで、街角に立つ姿も珍しくなかった。
 敗戦を経て、人々の考え方は、一変した。
終戦、文字通り、敗戦ではなく終戦という言葉が多く使われていた、この時代に、捕虜の体験を発表する、しかも真珠湾攻撃による開戦のその日に、「捕虜第一号」という当時としては不名誉な体験記を発表した酒巻和男の勇気に驚きを覚える。
 
 昭和44(1969)年には、トヨタ・ド・ブラジル社長に就任し、トヨタの国際的発展に手腕を発揮したという。さらに、再帰国後は、関連会社豊田総建の社長や参与となり、トヨタでの職を終えた。
1999(平成11)年11月 死去 81歳
 
 
 (大東亜戦争九軍神慰霊碑・戦死した9人の慰霊碑・捕虜になった酒巻少尉は秘匿された)

 

戦後80年目の名誉回復
 
 2021年12月8日、愛媛県伊方町の三机湾に新しい石碑ができた、碑には旧日本海軍の若者10人の写真が埋め込まれている。10人を悼むため、有志がクラウドファンディングで費用を募って建立した。
                                  (朝日新聞2021年12月8日) 

                                         

     (史跡 真珠湾特別攻撃隊の碑 10名の名前が刻まれている)

 実に、真珠湾攻撃から80年目の記念碑建立である。
紹介した酒巻和男の手記などによれば、1941年春から三机湾で約10カ月近くの訓練を仲間と共に小型潜水艦「特殊潜航艇」の極秘訓練に励んだ。全長24㍍の2人乗りで、2発の魚雷を積んでいた。攻撃後に母艦に戻るのは難しく、亊実上の特攻兵器だった。酒巻さんの艇は座礁し、同情の部下稲垣さんと脱出したが、海中ではぐれてしまう。酒巻さんは浜辺に流れ着き、米軍の捕虜となった。海軍は捕虜になっていることを把握していたが、攻撃に参加していたこと事体も隠ぺいし、「生死不明。機密の為口外をしないように」と家族に連絡、出撃前に10人で撮った写真から、酒巻少尉だけを削った。一方、戦死した9人は軍神としてたたえられ、戦意高揚のための自己犠牲の美談として、銃後の国民に流布された。
 戦後80年目にしてやっと酒巻和男の名誉回復がなされた。
                                                                  (おわり)
        (語り継ぐ戦争の証言№38)                    (2023.01.24記)

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④ そして捕虜になった

2024-01-21 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ④そして捕虜になった

              前回まで。
                敵地まで近づいた酒巻和男少尉と稲垣清二等兵曹の乗艦した特殊潜航艇
                ジャイロコンパスが故障していたが、艦長に「いよいよ目的地(真珠湾の
                入り口近く)ジャイロがためになっているがどうするか」と問われ、決行
                することを艦長に伝えた。苦しい訓練の末にやっとたどり着いた命がけ
                 の実践だ。手記の中で酒巻は次のように記している。
                 『私は艦長の憂慮を吹き飛ばしたいと思いながら、力と熱を込め、「艦
                 長行きます」と答えた。艦長に注目しながら最後の敬礼をする艇付の稲
                 垣清二等兵曹の澄んだ目が、異様な閃光のように輝いて見えた』

 
 だが、ジャイロコンパスの壊れた潜航艇は迷走を続ける。
湾口があとどれくらいかともどかしそうに潜望鏡を除く酒巻。
しかし、酒巻の期待は微塵に砕かれてしまった。
酒巻の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原にすぎなかった。
 艇は盲目航走の結果、湾口方向より90度近くも方向を変えて進んでいた。
 方向を確認する方策は、潜望鏡露頂走行だが、
敵陣近くでのこの走行は、敵に発見される確率も高く、許されない。
予測されたようにジャイロコンパスは機能不全のままだから、
再三再四方向を軌道修正し、でたらめな走行をせざるを得なかった。

 東の空が白み南十字星が消えるころ、静かに明ける真珠湾がはっきりと出現し、
偉大なる艦隊を守る二隻の哨戒艇を走るのを認めた。
朝日はすでに東の空に昇り、洋上には波がきれいな光を反射していた。
嵐の名残の為か、波は幾分高いが、攻撃には上々の日和である。

 監視艇が大きく目前に現れ、甲板を走るアメリカ水兵の白服がはっきり見えた。

その時、ドドドーン。
ものすごい爆発音と共に私の乗った潜航艇が大きく震え、異様な音響が何度も聞こえた。
あっと思う瞬間、私の体は宙に浮き、潜航艇の隔壁に叩きつけられた。
敵は爆雷を投射したのだ。
至近爆発の爆雷を数個受け、
頭を打った私はそのまましばらく何もわからなかった。
               
               

                  エピソード 吉村昭が体験した12月8日真珠湾攻撃の2日後
                   
兄がやがて中国大陸に出征しまして、一年半ぐらいたった時、
                  戦死の公報が来ました。戦死すると階級が一つ上がるのですが、
                  なぜか二階級特進になっていました。新聞に出ていた記事によると
                  敵前渡河といって、クリークを渡るのに、兄と上官とが決死隊にな
                  って向こう岸に渡って、軽機関銃を打っていたときに弾に当たって
                  戦死したそうです。
                   昭和十六年十二月八日は太平洋開戦の日ですが、その二日後に兄
                  の遺骨と遺品とが帰ってきました。白木の箱に入っている遺骨を見
                  ますと、骨の一部であるかのように小石がこびりついていて、野外
                  で遺体が焼かれたことを示していました。
                  遺品袋には、つるの代わりに黒いゴム紐のつけられた眼鏡、母が編
                  んで送った毛糸のパンツも入っていました。
                                 (吉村昭 随筆集 『白い道』より)


その後気絶から目を覚まし、上げた潜望鏡の映し出す光景に、酒巻の眼は引き付けられた。

 胸の鼓動は高まり、体中が熱してきた。
狭い視野の潜望鏡に、大きな真珠湾に黒煙が立ち上がっているのを確認した。
ものすごい黒鉛の塊はまっすぐに中天に舞い上がっているのが見えた。
しかし、運命の女神は、勝利の女神とはならず、特殊潜航艇は敵の投射する爆雷に追われ、
ついに一発の魚雷も発射することもなく座礁してしまう。
潜航艇は傷つき動かなくなった。
              

座礁した潜航艇の中で酒巻は考えた。

私は潜航艇を捨てて逃げ出してよいのであろうか。
艇と運命を共にする。
それが海軍軍人としての生き方ではないのか。
と思いながらも生を求める本能的な叫びが私を呼んでいる。
私は人間である。
人には血があり、肉があり、将来の命と仕事が待っている。
兵器はいくらでも作れ、いくらでも代用できる。
しかし、人間はそう簡単に代用できるものではない。
人間は兵器ではないのだ。
私は立派な軍人でなくもよい、人間の道を選ぼう、そして次の使命を待とう。
私は思いきって潜航艇の爆破装置を作動させ、艇を去ることにした。
海水は思ったより冷たく、波は見たより高かった。
私は泳ぎ始める。
疲れ切った身体は自由に動かない。
思わずガブリガブリと海水を飲み、私はもう泳げなくなり、ここで死んでしまうかもしれないと直感した。
しかし、死にたくない、死んではいけない、死んでなるものかと、
隣にいるはずの艇付き(潜航艇の操縦者・稲垣 清二等兵曹)が心配である。
最愛の艇付きを死なしてはならない。
夢中で、稲垣二等兵曹の名を呼んだ。
「艦長」という声が聞こえる。
「おい頑張れ、岸は近くだ」。
だが、稲垣二等兵曹の声を二度と聞くことはなかった。
私たちは引き離され、稲垣との連絡は、永遠に立たれてしまった。

 疲れきって泳げなくなってから、あるいは失神して磯波に打ち上げられていたのだろう。

気がつくと、背の高い米国兵がピストルを差し向けて立っていたのである。
私の片腕は米兵に掴まれ、
ほとんど同時に他の一方の腕がもう一人の米兵によって掴まれた。
酒巻和男少尉が太平洋戦争の発端となった真珠湾攻撃での捕虜第一号となった瞬間でした。
                                    (つづく)

 (語り継ぐ戦争の証言№36)       (2024.1.20記)

       参考資料:  
         真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組関連新聞記事 朝日新聞等

        

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス

2024-01-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ③ 機能しないジャイロコンパス
                             前回は、五艇を乗せた特殊潜航艇の母艦が、ハワイ・オアフ島の海域近く
                         まで近づき、命を懸けた作戦を遂行する興奮と不安で緊張し、母艦の甲板
                         に仁王立ちする酒巻の姿を描いた。

       特殊潜航艇とは
             本題に入る前に、特殊潜航艇・甲標的について説明しておきます。
            甲標的は魚雷2本を艦首に装備し(前回の写真及び図を参照)、鉛蓄電池によって行動
            
する小型の潜航艇だ。
             乗員2名で、操縦士が座り、指揮官は立ったまま潜航する。開発当初は洋上襲撃
            を企図して設計されたが、後に潜水艦の甲板に搭載し、水中から発進して港湾・泊
            地内部に侵入し、敵艦船を攻撃する戦術に転換された。
             連合艦隊司令長官山本五十六に甲標的の作戦が具申されたとき、山本は奇襲案に
            は賛成だったが、甲標的作戦では、攻撃後の収容が困難なため、採用しなかった。
            しかし、改善策を作り、数回陳情し採用に至った経緯がある。
             甲標的の部隊は「特殊攻撃隊」と命名された。真珠湾奇襲攻撃には五艇の特殊潜
            航艇に計十名の隊員が乗り込んだ。結果的にみれば、真珠湾内に侵入できた艇は皆
            無で九名が戦死し、酒巻和男のみが、第二次大戦捕虜第一号として米軍に確保
            された。
酒巻和男の手記
  ジャイロコンパスが機能しない。しかし、いまさら……。
 
昭和16年12月、開戦前日の暁近いころである。
母艦の部屋に戻り、私は整備日誌に恐ろしい最後の記録を綴った。
それはいくら整備しても、ジャイロコンパスが動かないことである。
深い溜息が私の胸を圧迫し、そして大きく吐き出されると重々しい胸苦しさが取り残された。
ほとんど水上航走を許されない特殊潜航艇には、ジャイロコンパスこそ命の綱であり、
コンパス無しの出撃ということは、
常識では考えられないし、
出撃したところでそれは直ちに不成功と死を意味するからである。

 今日までの努力と挺身は、艇の完全装備であった。
しかるに、今となって故障を起こすとは、はたして整備努力の不足なのか、
決定的な運命のからくりのいたずらなのか、私はその判断に迷った。
私は固い強い拳で無心に机をたたいた。
「ジャイロが何だ、俺は魚雷を持っている。魚雷を命中させればいいではないか」。
そう独り決めして、私は憤然として立ち上がった。
    
    ジャイロコンパスが故障していることは、出港するときからわかっていたことで、
    上官から「酒巻少尉、いよいよ目的地に来た。ジャイロがダメになっているがどうするか」。
    上官の最後の念押しである。
    酒巻は『力と熱を込め「艦長、行きます」とこたえる』
    この時の酒巻の心の逡巡を酒巻は、
    苦しかった訓練や技術の取得や激励の見送りなどを振り返り、
    『いまさら攻撃中止なんて考えられない。大きい責任と使命が私を縛っていた』
    と手記に書いている。

 この後手記は出航の場面に移ります。
タンクのブロー音を残し、母艦はぶくっと浮上する。 
急いで潜航艇に乗り込む。シューブルブルッ。
タンクへの浸水音と共に私の乗った特殊潜航艇はすーっと波間に進水していった。

今や、日本の運命を決しようとする世紀の戦いは、あと数時間で始められようとしている。
特殊潜航艇のモーターが起動する。
母艦は速力を増していく。
太平洋のど真ん中に、粟粒ほどの特殊潜航艇が、
もんどり打って踊りだし、単独行動を始めたのである。
深度を浅くしながら湾の入り口があとどれ位かと大きな期待に手に汗して、
私はもどかしそうに潜望鏡の上がるのを待った。
しかし、私の期待は微塵に砕かれてしまった。
私の見たものは、恐ろしい方向誤差による海原だった。
潜航艇は盲目航走の結果、湾の出入口方向より、
九十度近くも方向を誤り先行していたのである。
使用不能のジャイロコンパスを積んで潜行する特殊潜航艇は、
目隠しをして道路を歩くようなものだ。
湾内に辿り着こうとする焦燥感に追われながら、
再三再四方向を変えて走行を続けた。
しかし、運命はあくまで執拗に私たちへ味方してくれなかった。
結局はでたらめな走行と、徒労に過ぎなかったのである。
東の空が白み南十字星が消えるころ、
静かに明ける真珠湾がはっきりと現れ、
偉大なる艦隊を守る哨戒艇が走るのを認めた。
私は湾の入り口に向かって盲目の突入潜行を続けた。
                     (つづく)
    参考資料 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 酒巻和男の手記
                    増補 復刻合本改定版
         NHK関連番組 関連新聞記事等

  (語り継ぐ戦争の証言№36)                            (2024.1.12記)


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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇  

2023-12-24 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ②特殊潜航艇・甲標的

 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
簡単に言ってしまえば、甲標的は、二人乗り(甲型)の小さな潜水艇です。

 全長24㍍、全高3.4㍍、速力は19㌩(毎時35㌖)で、
航続力は最大速力で潜行した場合50分程度しか航行できませんでした。
魚雷2本を搭載しています。
作戦終了後に母艦により収容される計画となっていたが、
実際の収容は困難であり、生存率の低い兵器でした。
     

華々しい戦果の陰に隠れて、
たった5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」の戦果は皆無だったが、
当時は戦果についての発表はなかった。
戦死した9人は太平洋戦争最初の戦死者として華々しく報道され、
「9人の軍神」として、国民の戦意高揚に利用された。
  (真珠湾攻撃は1941(昭和16)年12月8日ですから、報道機関に発表されたのは、
  3カ月後の発表ということになります)  

 1942(昭和17)年3月7日付の東京日日新聞(現毎日新聞)朝刊を見てみよう。
『軍神 真珠湾強襲・特別攻撃隊の九将士』という活字が躍っいます。
また、「不滅の偉勲」「壮烈無比の攻撃」などの活字が躍っています。
戦死した九人の写真が掲載されているが、
捕虜となった酒巻和男さんについてはまったく触れられてなかった。
戦歴から抹殺されていたのです。
戦死した9人は軍神としてたたえられ、
1人だけ生き残り捕虜第一号となった酒巻和男の存在は秘匿された。

 さらに、大東亜戦争記録画報(前篇) 1943年6月20発行からの関連記事を見てみよう。
 九軍神特別攻撃隊の大戦果
  ハワイ真珠湾に潜行突撃したわが特別攻撃隊の精神は果たして至高至純にして神そのものの如く忠勇無比
 なるその義烈はまさに鬼神を哭かしむる、征ける九勇士はみな還らず、すべて真珠の玉と砕けたのである。
 激闘の瞬間身を死地に投ずるは安いが、このハワイ九軍神の如く数カ月前より一旦緩急ある場合を期し自ら
 死を着想し死を工作し死の訓練を重ねて静かに、尽忠報国の秋を待てるは千古に比を見ざる崇高なる精神で
 ある。
 「九軍神」の表現はあるが、
 5隻の潜航艇に10人の兵士が乗った2人乗りの「特殊潜航艇・甲標的」で出撃した特別攻撃隊なのに、
 「征ける九勇士はみな還らず」とすれば、
 「残る一人は生存しているのか」という素朴な疑問が国民のだれ一人も思い浮かばず、
 プロパガンダの戦果報道に酔いしれていた。
     
     捏造された写真には九人の軍神がハワイ・オアフ島を囲むように配置されている。
     酒巻和男の姿はない。 

 ハワイ沖まで潜水艦で運ばれた2人乗りの潜航艇5隻の一つに乗り込み、米軍艦を魚雷で攻撃するために湾内に向かった。しかし、酒巻和男が乗る潜航艇はジャイロコンパス(羅針儀)の故障で思うように航行できず、敵の攻撃を受けて座礁し、浜辺に打ち上げられ、米軍につかまった。

『真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号』の冒頭は次のように始まります。
 蒸し暑い特潜の中から母艦の甲板へ降り立った。冷え冷えとした夜気を含んだ南海の潮風が容赦なく私の顔を打ち付けてくる。
 憑かれたようにハワイの島影を求めた。薄暗い星明りの下に、ぼんやりと霞むオアフ島が現れて来る。その霞の奥からかすかに、昼間聞いたホノルル放送局の耳慣れないジャズ音楽が響いてくるようだ。言い知れない不気味さが、敵地に侵入した私を不思議な緊張感の中に追い込め、しばらくはただ茫然と仁王立ちしていた。
                                      (つづく)

  (語り継ぐ戦争の証言№35)        (2023.12.23記)

 

 

 

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真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号  ①太平洋戦争の始まり                

2023-12-17 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号 ①太平洋戦争の始まり 
     真珠湾攻撃について
             開戦82年目の12月8日  あの日を振り返ってみよう。
           1941年12月8日(現地時間7日)、日本海軍の航空機約350機と、空母六隻とからな
          る
機動部隊が、ハワイ・真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃した。米国は艦船6隻が
          沈没するなどの損害を受け、約2400人が死亡。攻撃直前には日本陸軍もイギリス領
          マレー半島へ上陸し、太平洋戦争が始まった。ただ、米国への最後通牒が攻撃の一
          時間後に届けられたために、「宣戦布告なき戦争」として、後々まで批判された。
           この奇襲作戦には、二人乗りの特殊潜航艇五艇が参加していたことはあまり知ら
          れていない。
           五艇の特殊潜航艇のうち、作戦通り湾内に侵入できたのは二艇、できなかったの
          は二艇で、いずれも米軍の哨戒艇による爆撃で撃沈されている。ただ一艇、酒巻和
          男少尉の乗った特殊潜航艇は艇の故障や米軍の爆雷の攻撃によって、湾外の砂浜に漂
          着し
、この奇襲攻撃で、太平洋戦争捕虜第一号となった。操縦員の稲垣 清二等兵曹は
          行方不明になり、後に戦死したことが判明する。
           酒巻和男氏は戦後日本に戻り手記を発表。また、我が国の経済活動に活躍の場を求
          め、経済人としての功績
を残した人でもあった開戦の日に不幸にも捕虜第一号とな
          ってしまった酒巻和男氏の悔恨の青春と、その後の人生を、酒巻氏の手記を参考に紹
          介します。

太平洋戦争の始まり  

 1941(昭和16)年12月1日、午前会議において対米宣戦布告が決議され、

翌日(開戦7日前)機動部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号文が打電されます。

日本時間12月8日午前1時30分、

機動部隊から第一波攻撃隊として183機、午前2時45分には第二波攻撃として171機が発進。

第一波攻撃隊から起動艦隊に向けて「トラ・トラ・トラ」の暗号文が打電された。

「ワレ奇襲ニ成功セリ」。

 日本側の空母6隻は無傷で帰艦。

損害は飛行機29機、戦死64名でした。

対する米国の損害戦艦4隻沈没、他4隻に大きな損傷を与えた。

戦死2345名。日本側の圧倒的勝利でした。

 太平洋戦争(大東亜戦争)のはじまりです。

ただ、日本国から米国への最後通牒が攻撃の一時間後に届けられたために、

奇襲攻撃と称されるように、

「宣戦布告なき戦争」として後々まで批判されることになった。
                      エピソード
                       開戦日の朝の記憶は鮮明に胸に残っている。
                      1941年12月8日、中学2年生だった作家の吉村昭は
                      学校に行く途中、軍艦マーチの猛々しい音と共に、
                      大本営発表を伝えるラジオのニュースを耳にした。
                      「町全体が沸き立っているような感じであった」。
                      開戦の2日後、中国で戦死していた兄の遺骨が贈ら
                      れてきた。
                       ハワイでの戦果に「狂喜」する近所の目を気にし
                      て、家族は雨戸を閉めた。母親は発狂せんばかりに
                      激しく泣いたという。(吉村昭『白い道』)
                               (朝日新聞2023.12.8 天声人語から引用)
 航空母艦の艦載機による、奇襲攻撃は前述のように華々しい戦果を挙げた。
しかし、この手記の酒巻和男が乗った「特殊潜航艇・甲標的」のことはあまり知られていない。
特殊潜航艇とはどのような潜航艇だったのでしょう。         

                                     (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№34)
参考文献 真珠湾奇襲攻撃 捕虜第一号    酒巻和男の手記
           朝日新聞2023.12.08 太平洋戦争開戦82年他





 

 

 

 

 

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

2023-09-07 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑩さらなる試練

  太平洋戦争の末期、
 
本土の長崎港に向けて出港した学童疎開船・対馬丸は、
 吐噶喇列島の一つ、悪石島沖で米潜水艦・ボウフィン号の魚雷攻撃によって沈没した。

 対馬丸は沖縄から出向した最初の学童疎開船だった。
このことが公になってしまうと、
10万人の非戦闘員の疎開に支障をきたしてしまう。
もう一つ、この学童疎開船には別の目的がありました。

 前述したが、『本土防衛の要となる沖縄決戦』を敢行するために、
人口40万の沖縄に、各地の戦地から10万人の兵士たちが、
続々と沖縄に上陸してきました。
その食料調達には足手まどいになる児童を含む非戦闘員の本土輸送だったのだ。

 最初の学童疎開船対馬丸が撃沈されたことが島民に知れると、
輸送作戦に支障をきたすことを危惧し、
沈没の事実は『箝口令』によって、長い間隠されていました。

箝口令
 見たことは誰にも言うな
 聞いたことは胸にしまっておけ
 絶対に誰にも言うな

 おおよそ280名の人が助かりました。
このうち学童は59名という記録もあり、正確な人数は分かりません。
海の藻屑と消えた人たちの悲劇もさることながら、
助かった280名の人全員にさらなる試練が待ち受けていました。
友達を失い、親を失い、茫然自失の遭難者たちを追い詰めたのは、
箝口令でした。

「対馬丸のことは誰にも言うな」。
苦しく、辛い体験は人に話すことによって、和らいでいきます。
心のしこりを言えない辛さを抱かえ、
戦後沖縄に帰ってきた児童たちは、
対馬丸沈没の事実を親にも語ることはなかったという証言がある。
戦後のある時期を、
「箝口令」の呪縛に縛られたまま生きてきた生存者の苦しみはいかばかりだったでしょう。

  中学三年の夏休み、中野さんは祖父から対馬丸の話を聞いた。
その祖父の体験談。

 船から投げ出され、おぼれて顔をゆがめる人、人、人。沈み始めた船の底のほうから、悲鳴と船体のきしむ音が重なるように湧き上がってきた。
 海に飛び込んだ祖父はいかだで約三日間漂流。海軍の船に救助されたが、乗っていた人たちを救えなかった後悔にさいなまれた。
 事件後、沈没について話したら死刑だと憲兵から脅され、口を閉ざす。
 対馬丸の三十三回忌の慰霊祭に参加したとき、多くの人が体験を語っていることを知り、ようやく自らも語り始めた。(2023.8.22朝日新聞記事)

 中野さんの祖父が「箝口令」の呪縛から解かれ、体験談を人に語れるようになってから、33年の苦しい月日があったのだ。
那覇市にある対馬丸記念館によれば判明しているだけで、
 1778人が乗船、1484人の犠牲者を出し、そのうち学童784人がなくなった。
 当時、軍や警察によって箝口令が敷かれ、そのため被害の全容はわかっていない。 
    おおよそ280名の人が助かりました。
 このうち学童は59名という記録もあります。実に生存率6%でした。

  疎開先から来るはずの手紙が来ないことなどから、
  たちまち対馬丸の沈没は島民の知るところとなった。
  このため一時は疎開に対する反発があったが、
  1944(昭和19)年10月10日の那覇市への空襲があってからは疎開者が相次いだ。
  厚生省の調査では、
  1945(昭和20)年3月までの沖縄から187隻の疎開船のうち犠牲者を出したのは対馬丸が唯一の
  事例だ。(ウイキペディア)

   疎開した民間人の多くは疎開先の九州、鹿児島県や熊本県、宮崎県や台湾で終戦を迎えて
  いる。1950(昭和25)年10月、遺族会が発足し、
  当時占領下の沖縄で、対馬丸事件の悲劇を伝え始めた。
  1953(昭和28)年、「
小桜之塔」が建立された。
   
              碑文
               
昭和十九年八月二十二日夜半 学童疎開
                  船対馬丸は 米潜水艦の魚雷攻撃を受け
                  て 悪石島沖で轟沈し いたいけな学童
                  と付き添いの人・一四八四人の尊い生命が
                  ひと時に奪われてしまいました
                  これらのみたまを弔い慰め 世界の恒久
                  平和を念ずるために 多くの人々の善意
                  で 小桜の塔 は建立されました

           参考文献  対馬丸事件 沖縄の悲劇          石野啓一郎著 講談社文庫
        海に沈んだ対馬丸 子供たちの沖縄戦    早乙女 愛著 岩波ジュニア新書
          対馬丸                  大城立裕著  理論社
        対馬丸 さよなら沖縄(アニメ絵本)       大城立裕原作
        海なりのレクイエム(対馬丸遭難の友と生きる)  平良圭子著  民衆者
          私たちの戦争体験6 沖縄対馬丸の沈没
         他人の城(短編集「脱出」に収録)       吉村昭著   新潮文庫
                                おわり
           
       (語り継ぐ戦争の証言№34)         (2023.09.06記)


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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑨ 小さな命が海に沈んだ

2023-08-29 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 小さな命が海に沈んだ
   

  沖縄出身の芥川賞作家・大城立裕は「対馬丸」の著書の中で、
  沈没を経て漂流者となった人たちの様子を次のように表現しています。
  「無数の叫び声が」、刻々ひとつづつ減っていく。

  死だ。
  いくつもの死。
  次々と無造作に作られていく屍体が、海面を次第に分厚く覆っていった。
  あがき、叫ぶ人たちは、流れていくうちに、それらの屍体に行き当たった。
  それらは、今さっきそこで筏を奪い合った相手かもしれないし、
  昨夜一緒に「さらば沖縄」を唄った仲間かもしれないし、
  ふとしたことで仲たがいした親友かもしれなかった。
  あるいは、わんぱくでてこずらせた恩師かもしれないし、
  よくできて可愛がった教え子かもしれなかった。
  ……生きている者は、
  漂っているそれらの屍体にぶつかると、反射的に屍体をはねのけた。
  運の良い者は、翌日の夕方には救助されが、
  10日間も漂流し、島に漂着した者もいる。
  
  何人の疎開者が乗っていたのか
  一体、何人の人が生存し、犠牲者は何人だったのでしょう。

  先に私は乗船者1661名、という数字をあげましたが、
  この数字もあてにならないことが分かってきました。
  1661名というのは疎開を希望し、登録された人数で、
  必ずしもこの数字が正しいと言い切れない状況があったのです。
  
  出航間際に辞退した者、または、無届で乗船した者があり、
  この沖縄から本土への集団学童疎開が、
  いかにあわただしく性急に進められたかがわかります。
  だから、正確な数字を把握しきれないまま、
  現在も研究者によって人数が異なるのです。

  吉村昭氏は1680名という数字をあげていますが、
  人によっては、1788名という人数をあげる人もいて、
  はっきりした人数は分かりません。

      (語り継ぐ戦争の証言№33)        (2023.8.26記)

 

 

   
  
  

 

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海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇 ⑦ 待っていたのは……

2023-08-13 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸 学童疎開船の悲劇  ⑦ 待っていたのは……
 付き添いの保護者や学校関係者の心配や不安をよそに、

学童たちは初めての航海に興奮し、

まるで修学旅行の夜のようになかなか寝付くことができなかった。

 ちょうどその頃、

米国潜水艦ボウフィン号は学童疎開船団の進行方向の海域20㌔先で、

船団が近づくのを待ち構えていた。

船団から発信された暗号は、米国軍によって解析され、

航路や到着時刻まで正確に把握されていた。

 夜10時監視員の交代があって間もなく、

左舷の遠くに五本の白い線の動きを発見。

次の瞬間彼は、

伝声管に向かって叫んでいた。

「雷跡発見! 距離500! 本線に向かって失踪中」

第一魚雷は船首前方を掠め、

第二魚雷も船倉左舷を通過した。

運命の第三魚雷は左舷船倉の第一船倉、

第四魚雷も同じ左舷の第二船倉に命中。

いずれも学童を収容した船倉の真下です。

最後の魚雷は左舷第七船倉の一般疎開者の入る真下に牙をむいた。

時刻は22時12分をさしていた。


 船体は中央から裂け、

泡立った海水が甲板にせりあがってきた。

 1944(昭和19)年8月22日22時23分頃、

吐噶喇(とから)列島の悪石島付近の海域にて沈没。

最初の魚雷攻撃から船が沈没するまで、

わずか12分の出来事だった。
 (對馬丸の沈没地点 毎日新聞2018.8.16)
 攻撃を受けた船団は、海軍佐世保基地に遭難の緊急信号を打電する。
しかし、この緊急発進も米軍は把握していた。
 沖縄 奄美大島等の西南諸島海域は米軍の制海権下にあり、
日本側の情報は筒抜けであったと言われている。

 
過日、顎鬚仙人様から次のような短歌を紹介していただきましたので掲載します。

   いつまでも消ゆることなき少女らの声
              「宮城先生」と細りゆく声

                           新崎美津子
  紹介者の長谷川櫂の解説
     對馬丸に乗っていた教師の短歌。作者は筏で漂流して生き残った先生で「宮城」は作者の旧姓。
                       (読売新聞2023.7.13 長谷川櫂の「四季の歌」より)
   ※短歌の作者・新崎美津子さんは、2011年2月に90歳で逝去され、たくさんの短歌を残されました。
    「對馬丸番外編」として後日紹介したいと思います。
  

                       (つづく)

(語り継ぐ戦争の証言№31)  (2023.8.12記)

 

 

 

 

 

 

 



 
 
  

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海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 ⑥悲劇の夜が近づいてくる

2023-08-05 06:30:00 | 語り継ぐ戦争の証言

海に消えた対馬丸・学童疎開の悲劇 
                ⑥ 悲劇の夜が近づいてくる
   834人の学童を含む1661人の疎開者たちと、

 
船舶砲兵隊員41人、船員86人、合計1788人を乗せた対馬丸は

 他の疎開船和浦(わうら)丸、暁空丸(ぎょうくう)と共に砲艦「宇治」と駆逐艦(護衛艦)「蓮」に護られて、

 1944(昭和19)年8月21日午後6時35分那覇港を出港した。

  ドラを鳴らし、テープを投げ合う旅立ちを祝福するセレモニーはなかった。

鹿児島までの3日間の航海です。

8月22日の朝、周辺海域は台風の影響で風が強く、

老朽船の對馬丸は船団の速度についていけず、

しだいに遅れはじめ、これを見守るように護衛艦「蓮」が対馬丸の後ろをついていきます。

 こうして、22日も無事に終わろうとしていました。

後、2日たったら本土鹿児島に到着する。

親たちとの別れは悲しかったが、

児童たちはまるで修学旅行気分でなかなか寝付かれない旅を、

暗くて、汗臭い異臭の立ち込める船倉で過ごしていた。

 航海一日目、学校関係者や親たちの心配と不安とは別に、

児童たちの興奮でなかなか眠れない夜が訪れる。

 老朽船對馬丸は、先行する「和浦丸」や「暁空丸」の速度についていけず、

船団の最後尾を、不規則なエンジンの音を響かせながら

護衛艦「蓮」に護られ、台風の接近に伴う風の影響を受けながら、

夜の海を目的地の「博多港」に向かって航行していた。
                                                                    (つづく)
 (語り継ぐ戦争の証言№30)                           (2023.8.4記)

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