雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

原発を詠う (2) 汚染水 やっとたどり着いた10年目の春なのに…  

2021-05-23 06:30:00 | 人生を謳う

原発を詠う  (2) 汚染水
  やっとたどり着いた10年目の春なのに…

   (写真・朝日新聞 北村玲奈氏) 

  「関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」
   東電が2015年に福島県漁連に回答した文書である。
   にもかかわらず、4月13日、政府は福島原発の処理水を海洋放出することを決定した。
   国の放出基準は1㍑あたり6万ベルク。
   この数値は、70歳になるまで毎日約2㍑飲み続けても、
   国際的に許容されている基準におさまるレベルらしい。
   福島第一原発では、法定基準の40分の1まで薄めて放出するらしい。

   実際の放出は2年後になるのだが、
   この決定には、「ここで判断しなければ、タンクでの保管は難しくなる」
   という、トイレなきマンションといわれている原発運営の危機的状況を抱えているからだろう。
   「期限ありきの放出」という魂胆がありありと見える海洋放出決定だ。

   福島の魚業は原発事故後10年の長い時をかけて、
   4月から本格操業への「移行期間」に入ったばかりで、
   魚業関係者にとっては「出鼻をくじかれた」格好になってしまった。
   そこには、漁業関係者の納得もなければ、
   政府や東電との「信頼関係」も存在しない強引な決定である。
   このような状況の中で、「風評被害」を克服できるのだろうか。
           10年の時の流れが、
   福島県産品に抵抗感のある消費者は8%まで減少してきた矢先の海洋放出です。

   日本の農水産物・食品の輸入規制は未だに15の国・地域で続いています。
   15の規制の中には、本当に原発事故の影響で、食品への放射能汚染を心配する国もありますが、
   自国、あるいは現政権の思惑で、表現は悪いが政権の人気取りで輸入規制を掛けたり、
   対日本への政治的・経済的圧力として規制をかけていると思われる国もあります。

   「絶対に許せない措置だ」と批判し、国際海洋法裁判所への提訴も辞さないと、
   態度を硬化させた韓国の文在寅(ムンジェイン)政権(4月19日朝日)は、
   一ヵ月も経たない5月16日には、処理水の海洋放出に関して、
   二国間協議の開催を打診してきた。
   態度を軟化させたのか、どんな政治的駆け引きがあるのか。
   不安の波紋が広がっている。

 朝日新聞歌壇から、汚染水処理に関する短歌を選んでみた。

   
福島の幻の魚になるも惜し請戸(うけと)の海の「どんこ」の煮付け 
                                                                                                …… (国立市) 半杭螢子 
     福島県浪江町の請戸漁港に水揚げされる「どんこ」や「シラウオ」は、「常磐もの」といわれ
     高値で取引される。美味である。「どんこ」の煮付けや「どんこ汁」が美味しい。
     シラウオは春告げ魚ともいわれ、原発事故以来10年目にして解禁になったばかり。海洋放出に
     より、待ちわびた福島の魚を、幻の魚にしてはいけない。 

   手に負えぬものを作りし人間の後始末する母なる海よ
                          
…… (大津市) 秋山一美 
     手に負えないモンスターを人間は作ってしまった。母なる海に後始末を任せてしまう。
     人間の身勝手さ……。

   うろくずの黒きまなこは見ています海へ流れてくるものすべて 
                                                                                                           
…… (福島市) 美原凍子 
     もの言わぬ魚の黒いまなこは、人間の身勝手で海を汚すものを見ている。
     目に見えぬ汚染水に含まれるトリチュウだって、体を目にして見つめている。
     「うろくず」は魚のこと。

  それほどに安全ならば初めから海にながしていれば良かったのに 
                              
…… (さいたま市) 吉田俊治 

  モリカケもサクラも水に流す世は「汚染水」まで海に流すか
                              …… (京田辺市) 本郷宏幸
    吉田さん、本郷さんの歌。「水に流すという」言葉にひそむ、人間の身勝手さが浮かんでくる。

       参考:過去ログ2016.6.5 原発を詠う(1)

       (2021.5.22記)                (人生を謳う)

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読書案内「南三陸日記」 ③ 防災対策庁舎、もう一人の人

2021-05-19 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」 ③ 防災対策庁舎、もう一人の人                  

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
  
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

      前回……誰のために記事を書くのか。
     その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。( 冒頭2行を引用)
           その場所が、南三陸町の防災対策庁舎だ。

     

 あの日、2011.3.11 午後2時46分。
 地震が起こった時刻。 
 その日の宮城県南三陸町防災対策庁舎広報係・遠藤未希に焦点を合わせて綴りました。
    このことに関する当時の報道も似たような内容でした。
   結婚を控えていたにもかかわらず 命を賭けて、避難を呼びかけた未希さんの行為は、
 美談としてメディアが取り上げた。
 多くのメディアはこの報道に隠されたもう一人の人のことを、
 取材で掘り起こすことができなかった。
 これを書いている私自身、震災から10年も経つというのに
 「もう一人の人」のことを全く知らなかった。
 そのことを知ったきっかけは朝日新聞記者・三浦英之氏の「南三陸日記」を
 読んでからだった。

 当時の河北新報の記事から、拾ってみよう。
  2011.3.12 震災翌日の記事
       住民救った「高台に避難してください」 宮城・南三陸町職員24歳
       防災無線声の主姿なく
  2011.5.2 
遠藤さんは3月11日午後2時46分から約30分間、防災対策庁舎2階にある放送室から防災

        無線で「高台に避難してください」「異常な潮の引き方です。逃げてください」などと呼び掛け
        続けた。津波が庁舎に迫ったため放送室を出た後、行方が分からなくなっていた。
        あの日から43日が経っていた。
        記事のタイトルは『最後まで避難を呼びかけ 不明の職員遺体発見
  2011.6.10 天国へ ウエディングソング  
        挙式控え犠牲、防災無線の職員追悼(笑顔の未希さんの写真)
        遺族、悲しみ癒えぬまま「庁舎見るのがつらい」
   2012.1.27 避難呼びかけ犠牲 宮城・南三陸町職員・遠藤さん教材に
       埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳の教材に載ることが26日、分かった。
                       埼玉県教育局によると、教材は東日本大震災を受けて同県が独自に作成。
                          公立の小中高約1250校で使われる。

  河北新報の遠藤未希さん関係の記事を拾ってみたが、「もう一人の人」の記事は
  何処にも発見できなかった。
  遠藤未希さんの記事を追いかけるなら、
  その過程の中で「もう一人の人」のことを掘り起こしてほしかった。

  大きな出来事の陰で、メディアに取り上げられず埋もれていってしまう
  事実が存在することを私たちは認識しなければならない。

  さて、「南三陸日記」に話を戻そう。
   
   
    誰のために記事を書くのか。記者の三浦英之さんは、その命題を忘れないために、
 毎朝通う場所がある。記者が拠点としている南三陸ホテルから車で10分そこそこのところにある
 南三陸町役場の防災対策庁舎(写真)だ。

 震災前、この地域は南三陸町の中でも、最も繁華かな場所だった。
 防災対策庁舎の脇には町役場もあったのだが津波に飲み込まれ、
 現在は写真のような防災対策庁舎が宮城県預かりのまま、震災遺構として残すべきかどうか
 町民の審判を待っている。
 私が訪れた昨年秋には、この一帯は「防災祈念公園」として、一般に開放されていた。
    何度も顔を合わせる人がいる。
    三浦ひろみさん(51)。危機管理課の課長補佐として、
    遠藤さんと一緒にマイクを握っていた夫の毅さん(51)は、
    今も行方が分かっていない。
   
  ……あの日、公務員の次男(20)は車の中で防災無線を聞いた。
    「非難しろ」と必死に叫ぶ父の声にうながされ、
    高台に逃げて助かった。
    声は、「ガガガ」という雑音にかき消された。

  未希さんの直接の上司危機管理課の三浦毅さんが一緒にマイクを握っていたのだ。
  震災後10年にして初めて知る三浦毅さんの存在だった。 
 
    日本経済新聞2011.3.28付記事(抜粋)

  東日本大震災で高さ十数メートルの津波に襲われた宮城県南三陸町で、最後まで住民の避難を呼びかけ続けた男性がいる。巨大な波が近づく中、町役場の放送室に一人とどまり、防災無線を通じて約1万7千人の町民に避難を促した。同町では約9千人が避難できたが、男性の行方はいまもわかっていない。男性の妻は最愛の人の手がかりを求めて避難所などを捜し歩いている。

 「6メートルの津波が予想されます。早く逃げてください」。地震直後、同町危機管理課課長補佐の三浦毅さん(51)は後輩に変わって防災無線のマイクに向かい、声を張り上げた。

 「もう逃げろ」と同僚が袖を引っ張ったが、毅さんは「あと1回だけ」と放送室を離れず、その後見えなくなった。無事だった同僚からこの話を聞いた時、妻のひろみさんは(51)は「自分より周囲の人のことを考えるお父さんらしいな」と感じたという。

 毅さんの防災無線を通した呼びかけは大勢の町民だけでなく、同県気仙沼市で暮らす次男(20)も救った。次男はたまたま同町で仕事があり、同市まで車まで引き返す途中、毅さんの声に気づいた。海岸沿いの道から慌てて高台に向けてハンドルを切り無事だった。毅さんの防災無線の声は途中でガガガという雑音でかき消された。

 地震から2周間以上立った現在も、ひろみさんは毅さんからプレゼントされたマフラーを首に巻き、手がかりを求めて避難所や遺体安置所を毎日訪れている。ただ、夫の情報が入手できるあてはない。「お父さんの声で助かった人がいる。それだけが救いです」。裕美さんは大粒の涙をこぼしながら、小さく笑った。

  後輩(遠藤未希さん)に代わって、
  防災無線のマイクに向かって声を張り上げた危機管理課課長補佐・三浦毅さん。
  「もう逃げろ」と袖を引っ張る同僚の声に三浦毅さんは答える。
  
  「あと一回だけ」。
  避難勧告放送のあとにガガガという音が聞こえ、音は途絶えた。


 多くの報道から、こぼれ落ちてしまった事例である。
 関係者への電話取材だけで記事を書く場合も、少なくないて聞いている。
 大きな事実の前に、埋もれてしまう真実を掘り起こすことも、
 報道の大切な役割のひとつだと思う。

  『南三陸日記』で「防災対策庁舎」というタイトルで紹介された文章は、
  原稿用紙一枚400字ぐらいである。
  たった400字にも満たない文章の中に、著者の三浦さんの新聞記者としての思いが込められ、
  読む人の胸を打つ。

  防災対策庁舎で「何度も顔を合わせた人」は、毅さんの妻ひろみさんだった。
  「私にとって最高の親友であり、かけがいのない夫でした。…(略)…私はとても幸せでした」
  という、『声』を拾い「もう一人の人」の紹介は次の三行で終わる。

   まるで広島の原爆ドームのように、廃墟になった南三陸の町に建つ。
   なにを書くべきか。
   答えは「現実」が教えてくれる。 

                                       (つづく)

              (2021.5.18記)          (読書案内№174)




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読書案内「南三陸日記」 ② 防災対策庁舎

2021-05-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「南三陸日記」
               

前書き
   2020年10月に東日本大震災の地、福島、女川、南三陸を訪れた。3度目の震災地訪問である。
  一度目は2011年10月で、被災半年の彼の地は瓦礫の山で、目を覆うばかりの惨状に圧倒され、
  言葉もなかった。
  「復興」という言葉さえ口にするには早すぎ、瓦礫で埋め尽くされた町や村は、日の光にさらされ、
  津波に流された船が民家の屋根や瓦礫の中に置き去りにされたまま、
  時間が停止し原形をとどめぬほど破壊された風景が広がっていた。
  津波で流された車の残骸も、うずたかく積み上げられ、広大な敷地を所狭しと占領していた。
  二度目は2015年、瓦礫の山が整理されたとはいえ、
  津波に襲われた地域は荒地になったまま先が見えない状態だった。
  特に福島の放射能汚染地域は、近寄りがたい静寂が辺りを包み田や畑は雑草に侵略され、
  民家にも人の気配が感じられない。行き場のないフレコンバックが陽に晒され、黒い輝きを放っていた。
   以上のような体験を踏まえながら、「南三陸日誌」を紹介します。
                                                                     (2021.4.24)

  ② 防災対策庁舎
                   誰のために記事を書くのか。
     その命題を忘れないよう、毎朝通う場所がある。( 冒頭2行を引用)
       
                  その場所が、南三陸町の防災対策庁舎だ。
   (図1 震災間もなくの頃の防災庁舎)

 かつては
防災対策庁舎をめぐり「保存」か「解体」かで、町が真っ二つに割れ時期もあった。
 この庁舎で「津波が襲来しています。高台に避難してください」。
 24歳の防災放送担当職員・遠藤未希さんが、防災無線で懸命にアナウンスしていた。
   
 2011(平成23)年3月11日午後2時46分、東日本大震災に関わる地震が、宮城県南三陸町を襲った。
 「震度6弱の地震を観測しました。津波が予想されますので直ちに高台に避難してください」 
 地震発生の直後から、二階防災対策庁舎で未希さんは、町民への非難を呼びかけました。
 そして間もなく、河口近くの潮が引いているのを目撃し、未希さんはマイクに向かって緊張した声を
 送りました。
 「異常な潮の引き方です、逃げてください。高さは6㍍の大津波警報が発令されました。早く、
 早く高台に避難してください」 
 「ただいま宮城県内に10メートル以上の津波が押し寄せています。逃げてください」
 数十回の避難の呼びかけにね多くの人々が高台めざして非難した。
 
 3階建ての防災対策庁舎の屋上2メールを越える大津波は、町を飲み込み
 多くの犠牲者を出した。
 震度7にも耐えられる防災拠点として建てられた鉄骨3階建ての建物を、
 高さ15.5mの津波はやすやすと乗り越えていき、屋上に避難した町職員ら計41名が犠牲となった。
 アンテナに上る人、しがみつく人、フェンスにしがみつく人。
 力尽きて流された人を見ていながら、何もできなかった人。
 生存者は10名。
 その中に、避難を呼びかけた遠藤未希さんの姿はなかった。

 未希さんの遺体が見つかったのは、津波発生から43日後でした。

  (図2 防災対策庁舎三階の屋上に津波が襲う)
 (2011.3.11午後3時34分 南三陸役場職員・加藤信夫さん撮影)
   この写真をよく見てください。カメラの視点は屋上よりも上にあり、
   屋上を見下ろすように撮られている。
   つまり、撮影者の加藤信夫さんは、
   図1に薄く映っている屋上のアンテナに上って撮っていることが分かる。

「被害を伝えるために震災遺構として残すべきだ」という声は、
震災を乗り越え震災遺構として後世に語り伝え、教訓として何を伝えていくのかという、
大切な道標(モニュメント)としての思いが込められているのでしょう。

 一方、「震災を思い出してしまう」という声もある。
『防災対策庁舎』が遭遇し、そこで起こった悲劇を思い起こすたびに、この町で起こった数えきれない悲劇を思い出してしまう。そんな哀しいことを「思い出したくない」というのも人情です。
人口1万4000人の南三陸町が揺れた。
町役場は解体を決めたが、県が保存要請。
案内板には次のような説明がある。
  現在、防災対策庁舎は令和13年(2031年)3月10日まで県有化されており、
 南三陸町は、この間に震災遺構としての保存の是非について検討していきます。

(雨あがりのペイブメント・撮影)
 現在、震災記念公園として整備の進む、防災対策庁舎の遺構に立つ案内板
 
   読書案内「南三陸日記」に関する記事は、冒頭2行の引用だけになってしまった。
         その後の構成は、当時の新聞記事によるものです。
    この事実を皆さんにお知らせし、このことと、「南三陸日記」がどうかかわって来るのか、
    同時に報道の在り方にも触れたいと思います。 著者が「毎日通う場所」で何があったのか。
    次回に記載します。
                                      (つづく)
  
   (読書案内№173)      (2021.5.5記)
 
 
 
 
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