雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「麒麟がくる」 光秀か見た夢  ②謎の多い本能寺の変

2021-02-19 06:30:00 | 昨日の風 今日の風

光秀が見た夢 ② 謎の多い本能寺の変
 
ドラマ最終回 「本能寺の変」
          本能寺になだれこんできた光秀の兵を迎え撃つ信長。
           槍をしごき縦横無尽に暴れまくる信長。
   次に弓をとり、最後に刀をとって敵の群がるなかで活躍する信長。
   だが、どこか変だ。
   槍は主に接近戦で使用する武器であり、大勢が侵入してくる本能寺の境内で、
   敵の侵入の発見が早ければ最初に手にする武器は弓、
   しかし、弓には限界があり限界線を突破されれば、
   槍を手にし、
   敵味方入り乱れての混戦状態、
   あるいは狭い室内での戦いでは刀を使うのが手順だと思う。
   ドラマの状況で槍→弓→刀の順序は間違っている。
   弓→槍→刀が合理的順序ではないか。

   信長の一代記を書いた『信長公記』(しんちょうこうき)(信憑性の高い資料)では、
   次のように記録されている。

 明智光秀の軍勢は、早くも信長の宿所本能寺を包囲し、、兵は四方から乱入した。(略)明智勢はときの声をあげ、御殿へ鉄砲を打ち込んできた。(略)明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。(略)
 信長は初めはゆみをとり、二つ三つと取り替えて弓矢で防戦したが、どの弓も時がたつと弦が切れた。その後は槍で戦ったが、肘に槍傷を受けて退いた。……
 すでに御殿は火をかけられ、近くまで燃えてきた。信長は、敵に最後の姿を見せてはならぬと思ったのか、御殿の奥深くへ入り、、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。
               「巻十五 天正十年の章 信長、本能寺で切腹」より抜粋

    
   信長公記(新人物往来社版)                肩に矢が刺さる(麒麟がくる)             

   信長公記について
    
織田信長の伝記。作者は太田牛一。
    1568年(永禄11)の信長上洛(じょうらく)から82年(天正10)本能寺の変で倒れるまでの
    15年間の事跡を、1年1巻として記す十五巻本として書き上げた。
    信長に仕えた作者が、自身の手控えを基に1598年(慶長3)ごろまでに著述。
    さらに自ら改訂を加えて数種類の本を作成したらしく、
    諸本を比較すると記事の増補・削除や人名部分の異同が認められる。
    本文は平易な漢文と仮名交じり文で記され、
    事実を客観的かつ簡潔に述べており、史料的価値は高い。
                                  (信長公記(日本大百科事典)より要約)
   『信長公記』では、「肘に槍傷を受けて退いた。……」とあるが、
   誰による傷なのかは記録されていない。
   最近新発見の資料として注目される『乙夜之書物(いつやのかきもの)
の中に、
   著者の関屋政春が加賀藩士から聞いた話として、
   光秀配下の天野源右衛門がまっ先に本能寺へ攻め入って、
   信長の背後に忍び寄り、左の肩先に傷を負わせた
(萩原大輔博物館学芸員・朝日新聞記事より)とある。
   
『信長公記』と『乙夜之書物』どちらが信憑性があるのか、議論を呼ぶところであるが、
   「麒麟がくる」では、後者の記録を参考にしたようだ。

   大河ドラマ関連の歴史資料が関連資料の発見につながるのはうれしいことだ。
   新しい歴史上の人物像が描かれ、物語の内容に深みと興味を感じることができる。

   通説とは不思議なもので、その時代によって変化してくる。
   例えば、信長が家督を継ぐ前の若い時代は、「尾張のうつけ者」というイメージが強く、
   東映の時代劇などでも中村錦之助が「うつけ信長」を演じていたことを覚えているが、
   現在のドラマではこうした描き方をほとんど見かけなくなった。  


   新資料の発見とか、解釈の違い、強力な学説などによって、
   時代によって描き方が違ってくるのも当然のことなのかもしれない。

   謎の多い本能寺の変
  あまりの突然の家臣光秀の謀反に、その豹変ぶりに、
   「
何故」、「どうして」という動機探しが昔からささやかれているのは、
   自然の成り行きなのでしょう。
   光秀を操った黒幕は誰なのか?次回その代表的なものを紹介します。
                               (つづく)

        (昨日の風 今日の風№118)      (2021.2.18記)

 

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「麒麟がくる」  光秀が見た夢 ①大河ドラマ最終回に寄せて

2021-02-18 16:48:34 | 昨日の風 今日の風

「麒麟がくる」 光秀が見た夢①
         大河ドラマ最終回に寄せて

      放送開始直前に撮り直しがあり、途中コロナ騒動で撮影が大幅に遅れ、約2カ月遅れで終了した。
 本能寺を襲い主君「信長殺し」の汚名を着た光秀の目的は何だったのだろう。
 一般的に考えれば、天下取り或いは家名存続のための「裏切り」等が、その理由として考えられる。
 しかし、ドラマでは光秀を「実直」、「清廉」で、
 専横信長に率直にモノが言える家臣として描かれている。
 戦国時代の終盤に、新しい時代のさきがけとして「麒麟」を連れてくる男として描かれている。
 第1回放送から。

戦は終わる。いつか戦のない世の中になる。そういう世を作れる人がきっと出てくる。
   その人は麒麟を連れてくるんだ」 


  という台詞があり、ドラマの目指す方向が暗示されている。
  「何かを変えなければ麒麟は来ない」と光秀は思う。
  戦国乱世の
国盗りに明け暮れる日常で、信長の斬新性に惹かれ、
  家臣として力を発揮していく光秀。
  戦国の世を平定し、「麒麟」が現れる戦のない世の中を実現できるのは、
  主君・信長なのかもしれないと光秀は自分の活躍の場を信長に託したのだろう。
   元亀2(1571
)年 比叡山焼き討ちの際は、僧兵だけでなく、
           女子供まで皆殺しにしろと光秀に命じる。
   天正元(1573)年 室町幕府将軍・足利義昭を京都から追放。
   天正2(1574)年 尾張長嶋の一向一揆。2万の男女を中江、屋長嶋の城の周りに柵をめぐらし
           閉じ込めて、四方から火を放ち、焼き殺した。
   天正4(1576)年 安土城築城の石垣に、
            石塔や石仏を破壊し石垣の石組の中に組み込ませていく信長。
       
領土を広げていく過程で、信長が変容していき、狂気の片鱗をのぞかせる信長。
     神も仏も信じず、情さえも持ち合わせないような信長。
  信じる者はおのれの才覚と腕(ちから)一つ。
  「天下布武」を掲げ、思いのままに時代を先取りしょうとする信長の姿勢。

  徐々に光秀は信長との間に信頼関係の乖離が生まれたのではないか。
  藤沢周平の「逆軍の旗」(光秀が本能寺に信長を討つ数日間の心の動きを描く短編小説)は
  次のような描写がある。
    「時は今あめが下しる五月哉」──明智光秀は、その日(本能寺へ攻め入る数日前)の直前こう発句した。坐して滅ぶかあるいは叛くか。天正十年六月一日、亀山城を出た光秀の軍列は本能寺へとむかう。戦国武将のなかでもひときわ異様な謎につつまれたこの人物を描き出す歴史小説 藤沢周平著 文春文庫 (ブックデーターより要約   

 あらゆる権力を否定し、破壊する過程の中で、信長という新しい権力が立ち現われて来るのを、光秀は眺めてきた。しかも土を洗い落としたあとに、白い根を見るように、権力者の中に次第に露出してくる狂気は不気味だった。(引用)

  決定的な乖離は、「将軍・足利義昭を殺れ!」という信長の姿勢である。
   (古文書に記された歴史的事実ではないにしても、
   ドラマを盛り上げるためには必要な台詞だったのだろう)

  「麒麟」は、王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖なる獣。
  その聖獣といわれる平和の使いを夢見て、信長に仕えた光秀の夢は、
  崩れ去った。

  「主殺し」「謀反人」というイメージの光秀に、「実直」で「清廉」な人物像、
  まさに、お茶の間のヒーローとして新たな光を当てたドラマ作りが視聴者に
  支持された所以なのだろう。
  時代の行く末に麒麟が現れる夢を見つづけた光秀
  実際の歴史的事実と反するところはあるけれど、
  決定的な誤りがなく、
  視聴者を心豊かにしてくれるドラマならそれも良いと思います。
                                                                             (つづく)                                    (昨日の風 今日の風№117) 
       (2021.2.15記)    

次回は「麒麟がくる」 光秀が見た夢 ② 謎の多い本能寺の変
     本能寺の変 謀反の黒幕はいたのか その後の光秀 についてアップします。



  

 

 

 

 

 

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読書案内「憂いなき街」 佐々木 譲著

2021-02-10 08:43:10 | 読書案内

読書案内「憂いなき街」 佐々木 譲著
     ジャズが流れる札幌の街に、犯罪を追う刑事たちの人間模様。

 (ハルキ文庫 2015.8刊 単行本は2014.4刊行)
    この本はタイトルと著者に惹かれた。
   「憂いなき街」。タイトルからイメージしたのは、「哀愁」という言葉だった。
   警察小説のイメージにはそぐわないタイトルに興味をひかれた。
   ブックデーターによると、北海道在住の筆者による「北海道警察シリーズの第七弾」で、
   いままでのシリーズとは趣が異なるらしい。ちょっと変わった警察ミステリー

サッポロ・シティ・ジャズについて
  初夏の札幌にジャズが流れる。7月初めから8月までの約1カ月間。サッポロ・シティ・ジャズで
  にぎわう北海道・札幌の街。実際に札幌で開催される人気イベントだ。2007年にスタートし、
  大通り公園、札幌芸術の森・野外ステージをはじめとして、札幌市内各地で開催される。
  シーズン中はプロ・アマ約300組のアーティストたちがあっまり、
  累計16万人近くのジャズ愛好家が訪れる。

  札幌市内のホテル地下のピアノ・ラウンジ。
  ピアノの音が聞こえてくる。
  生で演奏中だ。
  ジャズっぽいアレンジだが、古い恋愛映画のテーマ曲だ。
  間接照明だけの、薄暗い空間。

正面奥に黒いグランドピアノがある。弾いているのは、女性ピアニストだ。七分袖の黒いシャツにロングスカートだった。30歳くらいだろうか。短めに切った髪を振り分けている。目は大きく、南国的な顔立ちだった。(引用)

 津久井巡査部長はドアを押し部下と二人、地下のピアノ・ラウンジに降りていく。
閉店間際の宝石商が襲われ、犯人の一人が盗品の品を故買屋に売るために選ばれた場所だ。
間もなく入ってきた男に「職質」をかける。
姓名を確認し、任意同行を求める。
緊張した雰囲気に、周りの客たちの会話も途絶える。

ジャズが流れる。

津久井は会場の雰囲気を壊さない様に細心の注意を払って、
「事情聴取に協力していただけますね?」声は低いが、威圧的だ。
観念した容疑者を挟み込むようにして津久井と部下の滝本は、
ラウンジの通路脇のピアノの前を通り過ぎる。
何事もなかったように演奏は続いている。

ピアニストと目が合う。津久井は軽く会釈をし、
地上へ続くステップを容疑者を連れて上っていく。

安西奈津美・ジャズピアニストと津久井の初めての出会いである。

   二回目の出会いは、ジャズバー「ブラックバード」。
   安田というオーナーは70過ぎの元警察官で、
   四十代半ばくらいの時に小さな不始末を起こし退職している。
   いわく在りそうな元刑事の蝶ネクタイの似合うオーナ安田は、
   高校時代にトロンボーンを吹いていた。
   同じように津久井はその時期ピアノを弾いていたようだ。
   一度だけ、囮捜査の現場でピアニストとして演奏した経緯があるらしいが、
   この巻では、津久井や安田の過去は説明されない。

   ジャズバー「ブラックバード」は、
   たびたび登場し、この小説での大切な舞台になっている。
   また、全編に流れるジャズも、登場する人物や情景に雰囲気と深みを与えている。

     ブラックバードはけっしてあか抜けた内装ではない。全体にこげ茶色の暗めの
     インテリアで、昭和の時代の名残りのような古さを感じさせる。壁の腰板は塗
     
装もはげかけているし、何度も塗り直した漆喰の壁は、ところどころに剥離が
     ある。タバコの煙が、天井を変色させている。丸テーブルも椅子も、そのまま
     アンティークショップが喜んで引き取っていきそうな年代物だった。

   こんな雰囲気のあるバーで、刑事・津久井とジャズピアニスト安西奈津美の恋は芽生え、
   進行していく。
   同時に窃盗事件と殺人。それとは別にジャズフェスティバルに関わる殺人事件が発生し、
   恋の進行と事件の進行が錯綜していく。

 出会いはやがて恋のはじまりに進んで行く。
恋の始まりは次のように始まる。
ブラックバードでの二度目の出会い。
津久井はスツールに腰を下ろす奈津美をみつめていった。   

「今日もまた会えるとは思っていなかった」
 奈津美が、驚いた顔を見せた。次の瞬間、彼女の顔に隠しようのない嬉しさが走った。彼女もまた期待していたのだとわかった。津久井とこの店でもう一度会うことを。
「よければ、お酒はご馳走させてください。お好きなものを」
「いいんですか。遠慮しませんけど」と奈津美。
「お飲みになる方なんですか?」津久井が問いかける。
「仕事が終われば、うわばみのように。スコッチをロックでお願いします」
 グラスをかちりと合わせてから、奈津美はひと口めを口につけた。濃いルージュの唇がグラスに触れた。目も南国的だが、と津久井は思った。唇も南国的だ。いや、この場合は官能的と表現すべきなのだろうか。

 男と女。
 刑事とジャズピアニスト。
 何度かの出会いがあり、恋に落ちたふたり。
 いい長めの部屋。
 黒目がちの目が、いまはいたずらっぽい光をたたえて津久井を見上げている。

奈津美の背中に手をまわし、引き寄せた。首を傾けると、奈津美は目を閉じ、顎をあげて口を小さく開いた。唇を離すと、奈津美はうるんだ瞳で言った。
「明かりを消しましょう」

刑事35歳、奈津美30少し過ぎ。
恋の成就は、恋の終わりでもあり、苦悩の始まりでもあった。

宝石商の強盗・殺人事件。ジャズフェスティバルに関わる殺人事件。
二つの事件を追いながら刑事・津久井の苦悩は深まる。
薬物使用者、薬物密売、ジャズ界のプレーボーイ。
いくつかの要素があぶり出した容疑者は……………。
刑事の矜恃をかけて、奔走する津久井。

 「憂いなき街」は、とてもいい雰囲気の内にジャズフェスティバルで臨場感盛り上がる
 札幌の舞台で繰り広げられた、刑事の恋物語りとして読み進めました。
 興味のある方は、津久井と奈津美の行く末を小説で読んでほしい。
 あえて、事件の内容については説明を省いてあります。
 火曜日に事件が発生し、その日の土曜日には事件も収束し、二人の関係は終わる。

 最後の場面は、安田の「ブラックバード」だ。
 店の奥のピアノが見える。津久井が前髪をたらして、
 自分の胸のうちを探るかのように、慎重に音を選び、確かめつつ引いていた。

 ごく小さな音量で、音が漏れ聞こえてくる。少し聞いて、それがジャズのスタンダードナンバーのひとつではないかと気づいた。メロディは聞き取りにくかったが、自分は愚か者であるという意味のタイトルがついている曲。………
 切なくつらい響きだった。喪失感と後悔とにさいなまれているかのような音。これでよかったかと、繰り返しみずからに問うているかのようなピアノ。

最後の一行に登場するのは、蝶ネクタイの良く似合うブラックバードの経営者・安田だ。
こうなったら、今夜はとことんやつのブルーにつきあう。一緒に飲む。一緒にすさむ。

 いい話だ。刑事たちの友情物語でもある。
 なぜ津久井は失意のどん底に突き落とされてしまったのか。
 愛しい女を喪った喪失感と、
 彼女を守り切れなかった刑事としての不甲斐なさの二つが
 津久井の胸のうちをかけめぐっているのかもしれない。
 小説は、津久井の心境には触れず、情景描写で終わっている。
 

      「憂いなき街」というタイトルについて。
          いろいろな意味を持つ言葉ですが、これを「憂い」という言葉でまとめてしまう
          日本語っていいな。
          ① 「切なく悩ましい」
             気持ちのやり場がなく悲しみも加わりどうしていいかわからない心境
          ② 「つれない うそさむい」
             不安な気持ちの心境
          ③ 「辛くて、苦しい」
             思い通りに行かない心境。
        
      ジャズ・フェスティバルで札幌の街に高揚感が漂う。
      事件解決に尽力した津久井だが、気分は沈んで、「憂いなき街」という心境ではない。
      最後の行に描かれる津久井の気持ちは、安田の台詞に込められている。
      「こうなったら、今夜はとことんやつのブルーにつきあう」ということなのだ。
      「憂いの街」から立ち上がっていく津久井刑事の活躍を見たい。

      粋な小説で、文章では表現しきれない、情景描写が随所にちりばめられ、
      読者を飽きさせません。
      
       (読書案内№167)      (2012.1.13記)

         

 

 

 

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読書案内「JR上野駅公園口」  柳 美里著 ③妻や子を失い、故郷を捨てた

2021-02-06 06:30:00 | 読書案内

読書案内「JR上野駅公園口」  柳 美里著    
                 ③妻や子を失い、故郷を捨てた……

②を書いて(202011.29)からだいぶ時間が立ってしまったので、
ここで、②を再掲して③を進めたい。

②再掲
 カズ
が故郷に戻った7年後、カズは妻・節子を亡くした。
    雨の激しく降る夜だった。隣の布団に寝ていたカズが気づいたとき節子は
    すでに冷たい体になって、死後硬直が始まっていた。
    節子・享年65歳、カズ67歳。
    雨の夜だった。

    カズはわが身に降りかかる不幸に声をあげて泣いたに違いない、と思う反面
    働いて働いて、これから、というときに訪れたわが身の不幸に、泣くことさえ
    忘れてしまったのかもしれない。と、わたしは感情移入を膨らまし、
    この悲しい物語の先を読み進んだ。


    著者はカズの気持ちを次のように描写している。
「なんでこんな目にばっかり遭うんだべ」、と悲憤の怒りが胸底に沈められ、
 もう泣くことはできなかった。

「おめえはつくづく運がねぇどなあ」、浩一が死んだときお袋が言った言葉をかみしめ、
独りぼっちになってしまった男に、孫の麻里は優しく、足しげく訪ねてくれた。
しかし、年老いた自分のために
この可愛い21歳になったばかりの孫を縛り付けるわけにはいかない。
いつ終わるかわからない人生を生きていることが、男には怖かった。

それは、浩一と妻が、
何の予告もなく眠ったまま死んでしまったための投影からくる不安でもあった。

 またしても、雨の朝、
 カズは小さなボストンバックに身の回りのものを詰め込み、家を出た。

〈突然いなくなって、すみません。おじいさんは東京へ行きます。
この家にはもう戻りません。探さないでください。……〉

あまりにも悲しい書置きを残して。
70近くなったカズは再び東京へと旅立つ。
家族のためにその生涯のほとんどを出稼ぎに費やし、
それでも一握りの小さな幸せさえ掴むことのできなかったカズ。

今度は、誰のために働くのでもなく、
カズが自分のために最後に選んだ人生の辿る道は、
JR上野駅公園口で下車することだった。

公園口を出て少し歩けば、都会の喧騒を逃れた上野の森が現れてくる。
ある人にとっては憩いの場であり、リフレッシュの場でもある。
しかし、男にとっては、上野の森に散開するホームレスへの人生最後の転落への
哀しく辛い旅となる希望のない出発点だ。

 

家族のためにひたすら働き続け、
不器用にしか生きられなかった男の最後の選択がホームレスだなんてあまりに切なく悲しい。

『成りたくてホームレスになったものなんかいない。この公園で暮らしている大半は、もう誰かのために稼ぐ必要のない者だ』 
血縁を断ち切り、故郷を捨て、人によっては、過去や名前さえ喪って生きるホームレスの孤独。
だが作者はこれだけで物語を終わりにしない。

 東日本大震災、津波が人を押し流し、
   原発事故は故郷を汚染し男から帰る場所と過去を奪ってしまう。

 最愛の孫・麻里はどうしたか。
 今日もホームから聞こえてくる。いつもと変わらないアナウンス。
 無常の声。

 「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、
  危ないですから黄色い線までお下がりください」


  カズのように、ただひたすら働き、
 それでも底辺から這い上がることができない人。
 表現を変えれば、社会の構造がもたらす競争社会の中から必然的に生み出される格差という
 奈落に落ちてしまって浮かび上がることができない人は、少なくない。
 具体的な社会問題として浮かび上がってくるのは、
 孤独死、ひきこもり、適応障害、貧困、教育格差等々数え上げるときりがない。
 祝福されるべき誕生の時から、
 もっと遡れば、母の胎内に命の芽が宿り始めた時から
 容易ならざる環境を背負わざるを得ない苦しみや、不幸せな芽を宿してしまう場合もある。

  カズは福島から常磐線で上京し、帰郷し再び常磐線で「JR上野駅公園口」にたどり着いた。
  人生逆戻りの辛く、孤独の旅だ。
  高台になっている上野駅公園口から改札口前の道路を一本渡れば、美術館があり、
  博物館があり動物園があり、木々の森の緑の中に噴水のある憩いの水場もある。

  行き交う人々からひっそりと隠れるように「ホームレス」の段ボールハウスが、
  樹々のあいだに存在する。
  目を凝らせば、もう一人のカズがいつものベンチに座り、誰かが捨てていった
  三日前の新聞を読んでいる姿に出会うかもしれない。


 ③ 妻や子を失い故郷を捨てた

   息子を失い、妻を失ったカズのところに、孫娘が訪れ身の回りの世話をしてくれるようになった。
    カズは自分がいることで、孫娘に迷惑をかけることを怖れ、故郷フクシマを離れ、JR
上野駅公園口
         に戻って来たのだ。この駅は、カズが出稼ぎのために上京し、最初の出発点となった駅だ。
    70歳を過ぎたカズが再び降りた駅には、未来に続く線路はなかった。
    カズに残された最後に残った選択肢は、ホームレスだった。

   耳かきいっぱいの幸せすらつかめなかったカズの人生。

   孫娘はどうしたか。

   という記述(緑の文字)で、その後の孫娘のことを紹介しなかった。
   ネタバレになるとは言え小説の最期の部分を紹介しないで、
   ブログを終わりにしてしまったことは、
   作者に失礼なことではないかと、後悔し再び③として記述することにしました。

   小説の最終章は、2011.3.11。 東日本大震災の起こった日である。

   「津波来っど!
」「逃げろ!」

   孫娘の麻里は愛犬を車に乗せ、国道6号線に向かった。
   津波の黒い波が麻里の車を呑み込んだ。
   さらに、引き波に持って行かれ、孫娘と二匹の犬を載せた車は海中に沈んだ。
   水の重さを背負った闇のなかから、あの音が聞こえてきた。

   プォォォン、ゴォー、ゴトゴト、ゴトゴトゴト、ゴト、ゴト……
   …(略)…ゆらゆらとプラットホーム浮かび上がった。

   「まもなく2番線に池袋・新宿方面行きの電車が参ります、危ないですから黄色い線までお下がり
    ください」
   
   小説はここで唐突に終わってしまう。作者は何故にここまでカズの人生に、
   不幸で救われない非情の鞭(むち)を振るったのだろうか。
   家族のために、妻のために、子どもたちのために、JR上野駅公園口に下り立ち、
   2番線の山手線に乗り換えたカズにとって、
   この駅のこのホームは希望の出発点になるべき駅であったはずだ。

   だが70歳を過ぎて、舞い戻って来たこの駅は夢のない終着駅なってしまった。
   にもかかわらず、プラットホームから流れてくるアナウンスは、
   カズが行こうとして果たせなかった、麻里が叶えられなかった幸せへの切符を
   手に入れる窓口として今日もたくさんの人々を運んでいるのかもしれない。

   無常感の漂う物語ではあるが、好きな小説のひとつである。
   人生は深い濃霧の中を進んで行くようなもので、
   希望の光を見つけられるのか、霧の底に沈んで方向を見失ってしまうのか、
   歩んで行かなければ誰にもわからない。
            (2021.2.5記)            (読書案内№166)


   

 

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