光秀が見た夢 ② 謎の多い本能寺の変
ドラマ最終回 「本能寺の変」
本能寺になだれこんできた光秀の兵を迎え撃つ信長。
槍をしごき縦横無尽に暴れまくる信長。
次に弓をとり、最後に刀をとって敵の群がるなかで活躍する信長。
だが、どこか変だ。
槍は主に接近戦で使用する武器であり、大勢が侵入してくる本能寺の境内で、
敵の侵入の発見が早ければ最初に手にする武器は弓、
しかし、弓には限界があり限界線を突破されれば、
槍を手にし、
敵味方入り乱れての混戦状態、
あるいは狭い室内での戦いでは刀を使うのが手順だと思う。
ドラマの状況で槍→弓→刀の順序は間違っている。
弓→槍→刀が合理的順序ではないか。
信長の一代記を書いた『信長公記』(しんちょうこうき)(信憑性の高い資料)では、
次のように記録されている。
明智光秀の軍勢は、早くも信長の宿所本能寺を包囲し、、兵は四方から乱入した。(略)明智勢はときの声をあげ、御殿へ鉄砲を打ち込んできた。(略)明智勢は間断なく御殿へ討ち入ってくる。(略) |
信長公記(新人物往来社版) 肩に矢が刺さる(麒麟がくる)
信長公記について
織田信長の伝記。作者は太田牛一。
1568年(永禄11)の信長上洛(じょうらく)から82年(天正10)本能寺の変で倒れるまでの
15年間の事跡を、1年1巻として記す十五巻本として書き上げた。
信長に仕えた作者が、自身の手控えを基に1598年(慶長3)ごろまでに著述。
さらに自ら改訂を加えて数種類の本を作成したらしく、
諸本を比較すると記事の増補・削除や人名部分の異同が認められる。
本文は平易な漢文と仮名交じり文で記され、
事実を客観的かつ簡潔に述べており、史料的価値は高い。
(信長公記(日本大百科事典)より要約)
『信長公記』では、「肘に槍傷を受けて退いた。……」とあるが、
誰による傷なのかは記録されていない。
最近新発見の資料として注目される『乙夜之書物(いつやのかきもの)』の中に、
著者の関屋政春が加賀藩士から聞いた話として、
光秀配下の天野源右衛門がまっ先に本能寺へ攻め入って、
信長の背後に忍び寄り、左の肩先に傷を負わせた(萩原大輔博物館学芸員・朝日新聞記事より)とある。
『信長公記』と『乙夜之書物』どちらが信憑性があるのか、議論を呼ぶところであるが、
「麒麟がくる」では、後者の記録を参考にしたようだ。
大河ドラマ関連の歴史資料が関連資料の発見につながるのはうれしいことだ。
新しい歴史上の人物像が描かれ、物語の内容に深みと興味を感じることができる。
通説とは不思議なもので、その時代によって変化してくる。
例えば、信長が家督を継ぐ前の若い時代は、「尾張のうつけ者」というイメージが強く、
東映の時代劇などでも中村錦之助が「うつけ信長」を演じていたことを覚えているが、
現在のドラマではこうした描き方をほとんど見かけなくなった。
新資料の発見とか、解釈の違い、強力な学説などによって、
時代によって描き方が違ってくるのも当然のことなのかもしれない。
謎の多い本能寺の変
あまりの突然の家臣光秀の謀反に、その豹変ぶりに、
「何故」、「どうして」という動機探しが昔からささやかれているのは、
自然の成り行きなのでしょう。
光秀を操った黒幕は誰なのか?次回その代表的なものを紹介します。
(つづく)
(昨日の風 今日の風№118) (2021.2.18記)