雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書案内 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

2024-04-27 06:30:00 | 読書案内

読書案内(再掲・改訂) 「霧笛」ルイ・ブラッドベリ著

             短編集太陽の黄金の林檎より
               2012.9刊 ハヤカワ文庫SF

眠りから覚めた一億年の孤独

 孤独岬の灯台。

突端から2マイル(約3200メーター)離れた海上に70フィート(約21メーター)の高さにそそり立つ石造りの灯台。

 夜になれば、赤と白の光が点滅し船の安全を見守る。

霧の深い夜には霧でさえぎられた灯りを助けるように、霧笛が鳴り響く。

霧笛の音……。

〔……誰もいない家、葉の落ちた秋の樹木、南めざして鳴きながら飛んでいく渡り鳥にそっくりの音。十一月の風に似た音、硬い冷たい岸に打ち寄せる波に似た音、それを聞いた人の魂が忍び泣きするような音。遠くの町で聞けば、家の中にいることが幸運だったと感じられるような音。それを聞いた人は、永劫の悲しみと人生の短さを知る〕

 寂しくて孤独に震え、一度聴いたら忘れられない霧笛の音が、濃い霧に覆われた孤独岬の灯台から流れる。

 霧の出始める九月、霧の濃くなる十月と、霧笛は鳴りつづけ、やがて十一月の末、一年に一度、あいつが海のかなたからやってくる。深海の暗闇の眠りから目を覚まし、一族の中の最後の生き残りが、海面に姿をあらわす。

 全長九十から百フィート。

 長く細長い首を海面に突き出し、何かを探すように、霧笛の流れる霧で覆われた海面を灯台めざして泳いでくる。

 永い永い時間のかなたで絶滅してしまった恐竜。

 数億年の眠りから目覚めその霧笛に向かって、恐竜が鳴く、霧笛が響く…。

恐竜の鳴き声は、霧笛の音と見分けがつかないほど似ている。

孤独で、悲しく、寂しい鳴き声だ。

 霧笛が鳴る…恐竜が吠える…お互いが呼び合い、求め合うように呼応する。

 霧笛を仲間の呼び声と錯覚し、深海の深い眠りから目を覚まし、数億年待ち続けた仲間の呼び声に孤独な怪物は灯台に近づいてくる。

 その時、燈台守が霧笛のスイッチを切った。たった一匹で気の遠くなる時間にじっと耐え、決して帰らぬ仲間をただひたすら待たなければならなかった孤独。

 彼は霧笛の消えた灯台に突進していく……。

 喪われ二度と会えないものを待つ孤独が、読む者の心を切なくさせるSF短編である。

                           ハヤカワ文庫2006年2月刊 評価 ★★★★★

  仲間たちが死に絶え、たった一人生き残った恐竜。
  深い海の底に潜んで、気の遠くなるような永遠の時間を
  仲間の誰かが迎えに来ることをただひたすら待っている。
  孤独に絶えて……
  霧笛の音が、彼には仲間の呼んでいる声に聞こえる。
  
  失われていくものの孤独が、
  絶滅していく生物の無言の声が聞こえてくる。

 

  私たちは、この世に存在するものの希少なものに関心を寄せ、愛でようとする。
  先人たちが作った、縄文土器の造形を岡本太郎は、芸術だと称し、
  「芸術はバクハツだ」と言った。

  古代人たちのまだ文字を持たなかった時代に、
  創造した奇妙な形のものを『火焔土器』と名付けた。
  体内に満ち溢れ、ほとばしるエネルギーが、
  「炎」という形を「土器」写し取り、表現したのだろう。

  あるいは洪水を恐れて、高台の日当たりのよい場所に住んだ彼らにとって、
  「火」と「水」は大切な自然の恵みであったろう。
  同時に、時によっては災難をもたらす元凶でもあったことを彼らは肌で感じていたに違いない。
  生活に恵みをもたらす「水」や「火」はこうして土器の形へと発展していったのだろう。

  水の躍動を「水紋」で表現したのも、火の躍動を「炎」のイメージとして発展させたのも、
  生きるために必要な精神の具現化だったのだろう。
  
  形のもの 目に見えない存在
   私たちは異形のもの、例えば人魚、河童などにも興味をひかれ、
  各地に買ってそれらが存在した証として、それらのミイラなどが残っている。
  平安の貴族社会では、物の怪など正体不明のものがこの世を跋扈し、
  人を呪い殺し、感染症を流行らせた。
  雪女も民話の中に座敷童と共に人々の関心を集めている。
   現代ではツチノコ騒動があった。ネス湖のネッシーなど、まだみぬものへの興味は、
  憧れの的であり、恐れでもある。
   縄文人が造形した土器も、自然への恐れであり、自然への畏怖だったのかもしれない。
  
  ゴジラは放射能によって生まれた怪物であり、
  どのような理由があってか、文明が作り出したものを徹底的に破壊しつくす。
  科学が作り出した放射能の落とし子が、その文明を破壊しつくす姿に、
  どこか悲しいゴジラの文明への怒りが見えてくる。
  ハリウッド映画のキングコングにも、文明社会で生きていけないコングが美女に
  愛情を注ぐシーンに哀れさを感じる。

  灯台が発する霧笛を仲間の呼ぶ声と錯覚して、海底の底で眠る生き残りの恐竜が、
  孤独の長い時間から目覚め、現代によみがえる姿は、哀れで悲しい。

 (読書案内№191)         (2024.4.26記)
  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  
  



  

    

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読書案内「帰艦セズ」吉村 昭著 ②新しい事実 

2023-10-14 06:30:00 | 読書案内

読書案内「帰艦セズ」吉村 昭著 ②新しい事実 
 調査が進むにつれ次のことが分かった。
乗船していた軍艦は「阿武隈」で、事件当時北海道小樽港に碇泊。
記録は「昭和十九年七月二十二日〇〇四五ヨリ七月二十三日〇六一五マデ」の上陸許可を申請し、
下船を認められる。 

成瀬機関兵は旅館に一泊し翌早朝帰艦するため旅館を出たが、

官給品の弁当箱を忘れたことに気付き、狂ったように旅館を探し回ったのに違いない。帰艦時刻が迫り、商店の者に懇願して自転車を借り、桟橋に向かってペダルを踏んだ。館に戻ったかれは、弁当箱を持たずに帰ったことを報告、激しく叱責されて官紛失の、罪の重大さを知り、再び上陸した。が、それを探すことができず、そまま桟橋に足を向けることをしなかった。

 調査員の橋爪は、官品の弁当箱を紛失したまま帰還した場合の想像される過酷な制裁と処罰に恐怖を抱き、帰艦の気持ちもすっかり萎えてしまったのだろう、と想像する。
兵員死亡報告書には『死因………自殺セルモノト認ム』とある。

また、「変死状態ノ概要」によると、
「小樽港碇泊中ノ軍艦阿武隈ヨリ逃走 前記ノ場所ニ於テ自殺ヲ遂ゲ 其ノ後死体ハ風雪ニ晒サレアリタルモノト推定セラ」るとある。

 出航時間までに帰艦できなかった状況を、公文書は「逃走」と位置づけている。
 遺骨とともに届いた戦死報告は戦死ではなく「飢餓ニヨル衰弱死」とあったから、
 遺族は、機関兵の息子の不可解な死を容認することができずに、戦後三十数年を経てなお、
 調査員の橋爪が電話した時、「生きているのですか?」と、期待に胸躍らしたのだ。

 「飢餓ニヨル衰弱死」が軍艦から逃走し自殺をしたと、兵員死亡報告書は伝える。
 官給品の弁当箱を紛失し、処罰を恐れ逃走した機関兵は小樽市の山中で自殺したことになる。

 「逃亡したあげくに自殺」という不名誉な息子の死に、年老いた母の胸中を思えば、
 隠れていた真実を掘り起こし、遺族に伝えることが果たして良いことなのかどうか。
 週刊誌の記事のように、相手のスキャンダルを暴き、
 個人のプライバシーを白日の下にさらけ出してしまうことに、
 ある種の後ろめたい思いをするに違いない。
 さらに、「有名人にプライバシーはない」などと言う。
 ジャーナリストである前に、人間であれ。
 人間として品性を欠くような記事は許されない。
 
  多くの記録文学を上梓してきた吉村氏は、
 個人の秘密を白日の下に晒さなければならなくなった時、
 遺族の承諾を得られず、書いた原稿を反故にしたこともあったに違いない。
 小説とはいえ、不用意に真実を発表すれば、
 関係者の人間関係をぎこちなくし、心の平安を乱すことになってしまう。

  
事実を歪曲するのではなく、事実を冷静に見つめながら
 「優しさ」というスパイスを振りかけることが必要ではないか。
 他人の過去に踏み込むことに
ためらいを覚えるときがあるのは、人として当然なことと思う。
 文章にされた事実は、時には凶器となって対象者の人生を狂わしてしまうこともある。
 事実であれば、何を書いてもよいというわけではない。
 書いたものに責任を持ち、節度を持つことが必要だ。

 官給品である弁当箱を紛失し
たことから、機関兵は乗っていた巡洋艦に戻れず、
「逃亡兵」の烙印を押される。山中に隠れ住み、ひとり飢えて死んだ。
自殺ではない。公文書に残る「餓死ニヨル心臓衰弱死」は、正しかったわけだが、
公文書の裏に隠れた真実を吉村氏は追及し、無残で悲しい事実を追及する。

 調査員橋爪の口を借りて吉村氏は次のように語らせている。

 一人の海軍機関兵の死因を探るため調査をしたが、それは結果的に遺族の悲しみをいやすどころか、新たな苦痛を与えている。三十数年の歳月を経てようやく得られた一人の水兵の死の安らぎを、かき乱してしまったような罪の意識に似たものを感じていた。

 物語の最後。橋爪は機関兵が白骨となって発見された現場を訪れる。
現場は、眼下に港が見下ろせ、海洋の広がりも一望にできる高台にあった。
長い引用になるが最後を締める大切な箇所なので、ネタバレついでに紹介します。

不意に、一つの情景が(橋爪の)胸の中に浮かんだ。
水兵服をつけた若い男が、灌木のかたわらに膝をついて港を見下ろしている。
巡洋艦「阿武隈」が、
煙突から淡い煙を漂わせ、白い航跡を引いて港外に向かって動いてゆく。
彼の胸には、様々な思いが激しく交錯していたのだろう。
弁当箱を見つけることができずこの地にのがれたが、
その間艦にもどろうという思いと、もどれぬという気持ちが入り乱れ、
何度も山を下りかけたに違いない。
 五日間が経過し、彼はこの場で「阿武隈」が出港していくのを見下ろした。
叱責とそれに伴う過酷な制裁を恐れてこの地へ逃れたことを、どのように考えていたのだろうか。

 艦は港外へと向かっていて、すでに戻ることは不可能になった。
かれは、自らが逃亡兵の身となり、
両親をはじめ家族が、軍と警察の厳しい取り調べをうけ、
周囲の侮蔑にみちた眼にかこまれることに恐怖を抱いていたに違いない。
かれは、艦が港を離れ、外洋を遠く去っていくのを、身を震わせながら見送っていたのだろう。


 一切の感情をそぎ落とし、簡単明瞭に事実に基ずいて作成された死亡通知にかくされた、
機関兵の餓死に至る心象を見事に表現している。
物語の最後にふさわしい文章だ。
無味乾燥な死亡通知書から掘り起こされた機関兵の心象と、
調査員橋爪の心象が見事に表現されている。

 さらに、この心象風景は、作者・吉村昭氏の優しさと、節度ある姿勢と一致する。
ノンフィクションや記録文学では、三十数年前に、官給品の弁当箱を紛失して、帰艦のタイミングを逃して、逃亡兵として死んでいった機関兵の白骨が散らばった丘に立つ調査員・橋爪が外洋に広がる港を眼下に見下ろすシーンで幕を引いてもおかしくない。

 読者が最後の文章を読むことによって、「帰艦」できなかった機関兵の悲しみと不幸に感情移入できることを吉村氏は十分に計算している。
これが吉村氏の優しさと、節度である。

 文春文庫版の「帰艦セズ」の本の表紙の写真を見てほしい。
眼下に広がる外洋に向けて、「阿武隈」が出港していく。
高台に立った機関兵が見た光景だ。
機関兵の悲しみと絶望が画面いっぱいに漂っている。
心憎い装丁だ。

 官給品のアルマイトの弁当箱を紛失したために、死んでいく男の悲劇が読者の心をとらえる。
                                       (終わり)
(読書案内№190)    (2023.10.13記)

 

 

 

 

 

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読書案内「帰艦セズ」吉村昭著 ①飢餓ニヨル衰弱死 

2023-10-07 06:30:00 | 読書案内

読書案内「帰艦セズ」吉村昭著
       ブックデータ: 文春文庫 2011.7第三刷 短編集 
                      「帰艦セズ」の初出掲載誌 新潮 昭和61年1月号
   
戦争で息子が戦死した。届いた箱の中には石が一つ入っていた。
   お国の為に戦い、英霊として靖国神社に祀られる。
   大義の為に命を捧げざるを得なかった人の死に対して、
   赤紙一枚で、個人の事情などまったく勘案することなく、
   強制的に兵役を課せられた人の無念さを思えば、
   なんと軽々しい戦死の扱いか。
   木箱一つを送り付けられて、
   最愛の夫や息子を戦死させてしまった遺族の後悔は計り知れない。
   どのような状況で戦死したのか、
   遺族としてはどんな些細なことでもいいから戦死に関する情報を知りたいと思うはずだ。
   「帰艦セズ」は一人の逃亡兵の話である。
    死亡者は成瀬時夫、大正十年七月十九日生まれで、海軍機関兵、死因の欄には「飢餓ニ因ル心臓衰
    弱」とあり、死亡の場所は小樽市松山町南方約二千米の山中とあり、どのような死であったのか記述
    されてない。

 死亡者は海軍機関兵であり、
軍に籍を置いたものが飢えて衰弱死するなどということはあり得ない。
しかも、死亡場所が山中で、なぜそのような地に海軍機関兵が行ったのかも疑問に思われた。
 死亡通知を受けた遺族の思いもまた複雑だったに違いない。
「戦死」という報告なら、無念さ故のくやしさを抱きながらも、
あきらめざるを得ないが、「飢餓ニ因ル心臓衰弱」ではどう解釈していいか困ってしまうが、
死を究明する手立てがなければ、疑問を抱えながらもあきらめざるを得ない。

 過去の出来事を掘り起こす作業は、根気のいる仕事だ。
糸口を発見するための努力のほとんどは、成果のない徒労に終わってしまう。
「死亡者住所」を手掛かりとして遺族を探し出すのが常道であるが、
戦後三十数年が経ってしまえば、遺族を突き止めるのにも可なりの労力を要する。
記載された住所の地区の成瀬を名乗る家の番号を電話帳から抽出し電話をかける。
橋爪は成瀬時夫の遺族であるかを電話の相手に向かって、確認する。
やっと遺族に辿りついた。
 年老いているらしい女の弱々しい声が流れてきた。「時夫は私の倅ですが、生きているのですか?」
声が急に甲高くなり、夫を13年前に亡くした84歳になる
女は叫ぶように言った。手元にある資料を読み上げ、
「飢餓ニ因ル心臓衰弱」と記録されていることを伝え、あなたが知っていることを教えてほしいというと、電話口で夫人は次のように答える。

 息子が北海道のどこかの港で休暇をもらって下艦した折、軍艦が緊急出港したので帰艦できず、そのまま行方不明になっている」と答えた。それから一年過ぎた頃、骨壺が贈られてきたが、内部は空で、母親は、遺骨がないことから息子がどこかに生きているのかもしれない、とひそかに考え続けてきたという。
                     
               (つづく)
  (読書案内№189)      (2023.10.6記)

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読書案内「落花は枝に還らずとも」 ② 争乱の時代を生きた会津藩士・秋月悌次郎

2022-12-29 06:30:00 | 読書案内

読書案内「落花は枝に還らずとも」
        ② 争乱の時代を生きた会津藩士・秋月悌次郎
                                                         ブックデーター: 中村彰彦著 中央公論新社 (上 下) 2004.12初版
               中公文庫あり                                         

  『落花は枝に還らず、破鏡はふたたび照らさず』
 この本のテーマとなる諺(ことわざ)。落ちた花は元の枝には帰らないように、
破れた鏡もまたもとのように輝くことはない、という意味で、『覆水盆に還らず』と同じような意味。
破綻したものは再び元には戻らないという。
だから、人や家族友人などは、大切にしたいという戒めにもなる。
 小説ではこの諺にひとひねりのスパイスを効かせている。
 落ちた花は二度と同じ枝に花を咲かすことはできないが、次の春に咲くための種(たね)となることはできる。会津藩士・秋月悌次郎の生き方を暗示する題名だ。

 会津藩の外交官秋月悌次郎からみた幕末史を丁寧に綴った歴史小説。
 会津と薩摩の経緯、長州藩との軋轢、尊皇佐幕から公武合体を経て攘夷倒幕になだれてゆく政情、
 累卵の京都で弱腰の十五代将軍・徳川慶喜。
  孝明天皇の信頼を得ていた尊皇会津藩が幕府と朝廷の軋轢に翻弄されてゆくさまが、
 当時の資料を駆使くし、丁寧に描かれていく。
 戊辰戦争に敗れ斗南藩に追い立てられていく過程で、
 敗者として生きた秋月悌次郎のことはあまり知られていない。

  同じ幕末を描く場合、時代小説と歴史小説があり、前者は作者のイメージを膨らませ、
 作者の想像力を駆使くして歴史の中で活躍した人物を描く。かくして、坂本龍馬、近藤勇、
 土方歳三など時代の中で活躍した歴史上の人物が描かれるが、
 それは、司馬遼太郎の坂本龍馬であり、海音寺潮五郎の近藤勇であり、
 池波正太郎の土方歳三ということになる。
 また、笹沢左保の木枯らし紋次郎や子母沢寛の座頭市物語のように
 架空の人物を創出し活躍させる場合もある。
 多くの読者を楽しませるエンターテインメント小説ともいえよう。
       
  歴史小説は、歴史上の人物が残した資料や書簡、和歌などを駆使くし、
 できるだけ史実に添った人物像を作っていく。
 「落花は帰らずとも」も資料や書簡の挿入が多くなかなか話が先に進まない。
 幕末から明治へかけての秋月悌次郎を中心にした群像劇である。
 
  秋月悌次郎は会津藩校「日新館」に学び、
 天保13
(1842)江戸へ留学し、昌平坂学問所で学び舎長まで務め、「日本一の学生」と謳われた秀才。
 安政6  (1859)年初頭秋月悌次郎に下された藩命は、「中国、四国、九州の諸藩を巡歴のうえ、制度、
     風俗を仔細に視察してこれを奉ずべし」というものであった。(P70)
長く昌平坂学問所の
                  舎長をつとめて西国諸藩の者たちにも顔の広い悌次郎を視察役に大抜擢した。
     幕末の徳川政権が弱まり、攘夷運動の中で勤皇派と佐幕派が対立する京都。
     世情定まらずこの一年後の1860年には水戸脱藩浪士等による「桜田門外の変」等がおこり、
     幕府の威信は急速に落ちていく。
     塁卵の世(不安定で危険な状態の世の中)を乗り切り、
     藩を維持するために視察を放ったのは会津藩だけではない。
     徳川政権が衰えつつある今、勤皇派(後に勤皇討幕派と称される)は、
     京都を制し、禁裏(御所・宮中)を抑えることが時代の流れだった。
 文久2(1862)年 会津藩主・松平容保は京都守護職に任命。
          幕府が新設した京都守護職は、京都御所を警備し、幕府の主導権を確保し、
          幕府の権威を回復するために新設された。
                               容保は再々の守護職辞退にもかかわらず、結果的には対立する藩論をまとめ守護職を
          を拝命する。親藩中で人望があり兵力の充実した会津藩に白羽の矢が当たったのも
          時代の流れなのかもしれない。
          しかし、この時容保は津藩滅亡への道を歩む悲劇の藩主として後世に名を残す
          ことになる。
         秋月悌次郎は、
会津藩が京都守護職に就任すると公用方に任命され在京各藩との
                              周旋に奔走。
                    「同年、八月十八日の政変(七卿落ち)には、藩兵を率い実質的指導者として活躍」
         とあるが、これに関する
政変の中で、悌次郎の名前は出てこない。

  慶応元(1865)年 藩内抗争により公用方の職を解かれ、蝦夷地斜里の代官となる。
          明らかに、遠地への左遷だ。

          時代の流れを牽引していくように薩長同盟が成立、政局の悪化に伴い、
          再び京都に呼び戻される悌次郎。
          大政奉還から王政復古の大号令。鳥羽伏見の敗戦を経て、慶喜に見放された会津藩は
          辛い戊辰戦争へ突入していく。

           再び公用方として戻された悌次郎を待ち受けていたのは、敗戦にいたるまでの屈辱
          の任務だった。逆賊という汚名をそそぐための心血を注いだ藩主容保を救うための
          嘆願書を草記するが、功を奏せず、戦火は会津若松城下まで及ぶ。
          官軍側の圧倒的兵力と戦備に敗戦を余儀なくされる会津藩。

          開城交渉を経て、降伏式采配と苦難の道を行く悌次郎。
          謹慎中の会津藩主の助命嘆願のため、奥平謙輔に会いに越後に行く、
          この旅路の帰路で詠んだ詩文「北越潜行の詩」が、今の世に伝わる。
          「賊徒として討たれ会津人の胸のうちを切々と詠んだ詩文であった」
          と作者は記している。
 
北越潜行之歌

有故潜行北越帰途所得   故ありて北越に潜行し帰途得る所
行無輿兮帰無家     行くところもなく 帰る家もない
国破孤城乱雀鴉     国破れて荒れ果てた城には 雀鴉(じゃくあ=野鳥)たちが乱れ飛んでいる
治不奏功戦無略 微臣有罪複何嗟 (略)
聞説天皇元聖明  我公貫日発至誠  (略)
恩賜赦書応非遠  幾度額手望京城  (略)
思之思之夕達晨     あれやこれやと思い惑っていると日が暮れ 朝を迎えてしまう
愁満胸臆涙沾巾     愁いは胸中に溢れて 涙がほほを伝う 
風淅瀝兮雲惨澹     風は淅瀝(せきれき=荒涼)として 惨澹(さんたん)として暗雲が立ち込める
何地置君又置親     藩主や親たちが安心して住める場所は どこにあるのだろう
                                    (意訳・雨あがり)

   その後の秋月悌次郎
     会津藩敗走後に秋月は終身禁錮に処せられるが特赦を受けたが、
     維新後に表舞台に立つことはなかった。
     1882年に59歳で東京大学予備門教諭に就き、
     さらに1890年には熊本の第五高等学校教諭に指名されている。
     熊本五高で彼は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と出会い、
     「神のような人」と賞賛されている。

     会津藩は敗者となり、愚直に生きようとした会津藩士のなかで、
     身を呈して時代の波を乗り切ろうとした秋月悌次郎は、忘れられていく。

     一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできないけれど、
     来春咲く花の種にはなれる。秋月は維新後の余生を教育に捧げ、
     七十七歳のいのちを全うした。
    晩年の秋月悌次郎  「北越潜行の詩」詩碑  

     最後の数行を作者・中村彰彦は次のように結ぶ。

     その遺徳を慕う人々は、今日なお少なくない。平成二年(1990)十月には会津若松市民を中心に
     三百八十万円の寄付金が集められ、旧鶴ヶ城三の丸跡に詩碑が建立されて幕末維新の逆境によ
     く堪えた胤永(かずひさ)の思いを長く後世に伝えることになった。
     そこに刻まれたのはいうまでもなく、

     「行くに輿なく帰るに家無し/国破れて孤城雀鴉乱る」
     とはじまる絶唱「北越潜行の詩」であった。
                                    ※(秋月悌次郎は 明治維新後に胤永と名のる)
   エピソード 菅原文太と秋月悌次郎
     七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち

     「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」の心境で日々を過ごしてきたと察しております。
     「落花は枝に還らず」と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。
     一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。
     もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、
     荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。
     すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、
     
これらを願い続けているだろうと思います。
     恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます。
      菅原文太さん81歳で死去 妻・文子さんが「小さな種をまいてさりました」というコメントの全文。文太氏は2014年11月に
        逝去。その時のコメント。
        (読書案内№188)         (2022.12.28記)




 

 

 

 

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読書案内「落花は枝に還らずとも」会津藩士・秋月悌次郎 ①幕末の時代背景

2022-12-18 06:30:00 | 読書案内

読書案内「落花は枝に還らずとも」会津藩士・秋月悌次郎
   ブックデーター: 中村彰彦著 中央公論新社 (上 下) 2004.12初版
          中公文庫あり

 ① 会津藩士、秋月悌次郎が生きた幕末の時代背景

 歴史はいつの時代でも勝者によって書き換えられ、敗者の記録は歴史の時のなかに埋もれて
消えていく。敗者の多くは命を失い、あるいは逃亡の末歴史の表舞台から抹消される。

 尊王攘夷思想のさきがけとなり、
時代の先鋒を牽引するかに見えた徳川斉昭の水戸藩は、
内部紛争と殺戮を繰り返すうちに多くの人材を失い、
時代はいつの間にか薩摩・長州が率いる尊王討幕の大きなうねりの波に飲み込まれてしまう。
水戸藩の第九代藩主・徳川斉昭の七男で一橋慶喜が15代将軍となるが、
傾いた幕府の屋台骨を立て直すには、
時代を襲った改革の波音は大きく、
慶喜は江戸幕府最後の将軍という敗者の汚名を着せられ、
歴史の舞台裏へ消えていく。

 かつて、会沢正志斎や藤田東湖を輩出し時代を先駆けた水戸藩はただ一藩、
江戸定府の藩として参勤交代を免除され、
有事の際には将軍名代の役目を担う御三家の一つでありながら、
明治時代を築いた新政府で活躍する人物を見出せなかった。
水戸徳川家も歴史に翻弄された敗者だった。

       『将門記』『平家物語』は歴史書ではなく、軍記物語である。平将門についての歴史的資料は
       ほとんどなく、「将門記」を唯一の資料となる。
  『吾妻鑑』 : 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から六代将軍・宗尊親王までの6代将軍記として、
          幕府の歴史を編年体で記録する。編纂者は幕府中枢の複数の者と見られているが、
          詳細は不明。
  『信長公記』: 太田牛一による織田信長の一代軍記。『信長公記』は、
         この太田牛一(織田信長の弓衆のひとり)がその時々につけていた日記をもとにして
         後年著述したものとされる。
  『徳川実記』:   江戸後期の史書で全516冊。 家康から家治に至る徳川家10代の歴史。
         大学頭林述斎等のもとに1809年―1849年に撰修。 将軍ごとに年月を追い事績を叙述。
         11代将軍家斉以降の記録は『続徳川実記』にあるが、未完のまま明治維新を迎えてし
         まう。

    などなど、勝者の歴史は後世まで残され、歴史の表舞台を飾るが、
    敗者の歴史は日陰に咲くあだ花になって、なかなか脚光を浴びられない。

    だが、歴史のなかで、活躍した人は勝者や敗者だけではない。
    名もなく、文字も残さず、歴史に影さえ落とさなかった多くの庶民が時代を作り、
    文化を作って来たのだ。
    そうした名もない人々の生活を掘り起こし、甦らせるのが
    研究者や小説家であり、歴史家、
郷土史家なのでしょう。

   次回、②「争乱の時代を生きた・秋月悌次郎」

     (読書案内№187)              (2022.12.17記)
                                 
         


 

 

 

 
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読書案内「動く壁」 吉村昭著  要人の命を守れ

2022-09-09 06:30:00 | 読書案内

読書案内「動く壁」 吉村昭著 要人の命を守れ

         安倍元首相が暴漢に襲われた。あれからもうすぐ60日が過ぎようとしている。
  2022.7.9付の各社は、激しい口調でこの暴挙を非難した。
  銃弾が打ち砕いたのは民主主義の根幹である。全身の怒りをもって、この凶行を非難する。
                                         (朝日新聞 社説)
  暴力の卑劣さは、何度非難しても避難し足りることはない。(略)
   どんな政治であっても、それをただすのは言論、そして民主主義の手続きである。
                                                                                                                         (天声人語)
    話を聞き、問うための場を、命を奪う場にしたのが、現場で逮捕された41歳の容疑者だ。
   (略)待ち構えていた行動の裏に、どんな暗い熱があったのか。
                                     (天声人語)

  事件の背景がまだ解明されていない発生直後の発信であり、
 論理があまりに飛躍しているのではないか。

 文面にはテロという言葉はないが、内容は「テロ」を想定するような文言が踊っていた。
 文面を読めば、奈良県警発表として、
 「(安倍氏の)政治的信条に恨みはない」
 「特定の(宗教)団体に恨みがあ」
るとも供述していると書いてある。
  しかし、この日の朝日は、興奮気味に紙面を飾っている。
 「安倍氏テロの銃撃にたおれる」という匂いが漂っている。

  日を追うごとに、事件は政治的な要素から離れ、
 政治家と特定宗教団体のつながりが表面化し、

 「要人警護」の不備が紙面をにぎわすようになった。
  事件現場のビデオを見ながら、
 私は安倍氏の後方が、手薄であり、
 まるで丸腰の安倍氏が不用意にも
敵に背中を見せているような陣形だな、と思った。

     ----- 〇 ----- 〇 ----- 〇 ----ー 〇 -----

 『動く壁』
   吉村昭の初期の短編のタイトルだ。
   作者35歳のときの60年も前に書かれた小説で、オール読物に掲載された短編。
   小説では食えず、翌年には
   次兄経営の繊維会社に勤務しながらの文学修行の時代に書かれた小説でした
    小説では要人警護を任務とする者(SP)は、命を張って要人の『壁』になることを要求される
    吉村昭はこれを「動く壁」と表現した。
       (1994年フジテレビ放映のドラマ 2021年に再放送)
            日本の要人警護(SP・セキュリテイ・ポリス)について
              創設当時のSPは、要人の前には立たない、目立たないようにする、
              という警護が主流だったようです。
              創設のきっかけは、1975年「三木首相殴打事件」が発生。この事件は、
              佐藤栄作元首相の国民葬会場で、内閣総理大臣の三木武夫氏が右翼団体
              の襲撃を受けた事件で、創設当時の前面に出ない警護スタイルのすきを
              ついて発生した事件といわれている。
               この事件をきっかけに、当時アメリカで実践されていた前面に出て目
              立つ警護をするSS(シークレットサービス)型警護が採用されたと言われて
              います。
  ……わびしい葬儀が営まれていた。会葬者も少なく、
 忌中の簾の中から漏れてくる読経の声も低かった。
 しかし、その路を偶然通る人々は、家の前にただ一基立てられた花輪を目にすると、
 例外なく足をくぎづけにし、花輪を驚いたように凝視し、そしてからいぶかしそうに
 小さな祭壇の灯のまたたく家の中をうかがった。(冒頭から引用)
    
  通りすがりの人々が驚き、いぶかしんだのはこの場末の街のただ一基飾られた花輪の豪華さであり、
 更に送り主の名札に現職総理大臣の名前を見た時だった。
  冒頭から一気に読者を引き込んでいく素晴らしい書き出しだ。
 若い警察官の死と総理大臣との間にどんな関係があるのだろう。
   と、期待に胸躍らせながらページを繰る。

  身辺警護員に任命され、
 彼はブローニングの小型ピストルを支給され総理の身辺警護の任務に就く。
 拳銃の使用は原則、禁止されている。
 拳銃を使用して市民を殺傷してしまう恐れがあるというのが、その理由だ。

襲ってくる者は、必ず凶器を身にひそませているのが常識だ。
それを防ぐ警護員たちに使用できる武器がないとなれば、
筋肉で骨で襲来者のひらめかす刃先を、
弾丸を、防ぎ止めねばならないのだ。
 
総理が私邸や官邸から出るあさから、夜戻るまで緊張の連続の中警護が続けられる。
 
 ひとしきりわびしい葬儀の描写が終わると、
 三日前の夜半に起こった彼の死亡事故に関する記述に移っていく。
   緩いカーブを疾走するオートバイ。不意に前方にタクシーのヘッドライトが見えた。
   若者の運転するオートバイはハンドルを切ったまま、スピードの慣性のまま、歩道に
   乗り上げ横転。歩道を歩いていた男は事故に巻き込まれ、街灯の鉄柱に頭をぶつけて即死した。

 警護という職業で身体に染みついた反射神経が、
 音や光、人の声などに、感応し無意識のうちに体が動いていく。

 オートバイの交通事故に巻き込まれた事故死なのか。
 警護を職業とする警察官の死亡事故として処理するには、あまりにもあっけない事故だ。
 オートバイとタクシーのライトが緩いカーブで交差する。
 なぜ彼がそこにいたのか。
 体に染みついた反射神経がなぜ働かなかったのか。
 疑問を残したまま、彼の死は事故死として処理される。

  小説では警護員たちの私生活まで犠牲にしながら、
  ストレスと戦い要人警護に従事する警護員の姿が描写される。
  再び描写は事故当日の現場に戻る。
  作者は読者を寂寥感で満たすような最後の三行を用意して小説を終る。

  女は、小走りに歩いた。そして、裾をひるがえしながら、道を曲がって去って行った。
  サイレンの音が、また一つきこえてきた。
  ……夜空は、冴え冴えとした満天の星空だった。
 
      (読書案内№186)              (2022.9.8記)    

 

 

 

 

 

 
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読書案内「顔」松本清張著

2022-08-07 06:30:00 | 読書案内

読書案内「顔」松本清張著

 (ブックデーター:新潮文庫初期ミステリー傑作集収録2022.8刊 「殺意」「反射」「市長死す」「張り込み」「声」「共犯者」「顔」「なぜ星図が開いていたか」を収録)
 清張ほど同一の小説が異なる出版社から刊行されている作家も少ない。
たとえば今回取り上げる「顔」は、わたしの蔵書の中に本書を含めて4冊ある。

 傑作短編集5「張り込み」収録(新潮文庫)      1957年刊 
 日本推理作家協会賞受賞作全集9「顔」 (双葉文庫) 1995年刊
    顔・白い闇 (角川文庫)               2003年刊
    初期ミステリー傑作集なぜ「星図」が開いていたか   2022年刊
                                                (新潮文庫) 松本清張歿後30年記念出版

  ミステリーの世界では、「清張以前と以後」という言葉に象徴されるように、
  清張以前は、本格ミステリーとしてトリックを重視するミステリーが主体であ
  った。
  清張は事件または出来事を、従来の探偵小説や推理小説の堅固な「密室」から、
  より広く複雑な「社会」へと連れ出した。
  従来の推理小説が謎解きを重視していたのに対し清張は殺人に至る動機を重視し、
  日常の中で生活する人々の生活を描くことに視点を置いた。
  「社会派推理小説」といわれるゆえんだ。

  一見穏やかな日常から時折立ち上がる『なぜだろう、なぜだろう』という疑問を入
  口に、人と社会と国家の暗く危うい秘密と、それを隠蔽する様々な力を少しずつ暴
  露し、告発し続けた。(文芸評論家・高橋敏夫)

  「点と線」「眼の壁」「ゼロの焦点」「黒い画集」「霧の旗」「球形の荒野」「砂の器」など、私は
  リアルタイムで清張作品を読み漁り、そして、今でも時々読み返してみる。
  蛇足ですが、新婚旅行は金沢・能登半島を選びました。
  「ゼロの焦点」の舞台となった地を巡る旅をした、少し変わった新婚旅行でした。

「顔」
  成功と名声への階段は、同時に破滅へと彼を導く階段だった。
  この相反するテーマが面白く、多くの読者や映画人に好まれたのだろう。
  日常のチョットしたしぐさが、伏線となって思わぬ破滅を招くことになる。

        ある劇団員に、映画会社からオファーがきた。
   映画に出演し、名前が売れれば俳優への道が開け、確かな地位を気付くことができる。
   何度目かのオファーを経験するうちに、彼の隠れた魅力は、監督によって引き出され、
   彼はスターへの階段を上りはじめる。
   だが、名前が売れるにつれて、彼は不安と破滅への恐れを味わうことになる。
   いったい彼が抱えている「不安と破滅」の原因は何なのだろう。
   彼の日記にはその心境を次のように書かれていた。

   ぼくは幸運と破滅に近づいているようだ。
   ぼくの場合は、たいへんな仕合せが、絶望の上に揺れている。
   ……小さな疵から化膿して病菌が侵攻するように、ぼくを苦しめた。

   ぼくの幸運が、あんな下らぬ女を殺したことで滅茶苦茶になることへの恐れが、
   俳優として「顔」が売れれば、人気のバロメーターが上がると同時に、
   破滅へのバロメーターも上がってくることに、
   彼はたった一人の目撃者を消してしまおうと、ある行動に出る。
   忌まわしい愛人殺しの過去を消すための行動が、
   彼を奈落の底に落としてしまう陥穽(かんせい)になろうとは……

   破滅への扉は、不幸にも彼の主演した映画に現れていた。
   
   映画は彼の顔をスクリーン一杯に大写しにする。
     窓をじっと見ている彼の横顔。
     煙草の煙がうすく舞って、彼の眼に滲みる。
     彼は眼を細めて眉根に皺を寄せる。
     その表情。顔!
   彼が最も得意とする「顔」の表情。
   この映画の観客の中に、9年前に目撃者となった男がいた。
   男に9年前の記憶がよみがえってきた。

      「名声と破滅」の対比が面白く、主人公の心の焦りをよく表現している。
      また、潜在光景など、過去に見た景色が既視感の中からよみがえる過程が、
      事件解決の糸口になることなど、当時としては斬新なキーワードとして
      用いられている。
      
   
(読書案内№185)      (2022.8.6記)

   

 

 

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坂村真民の言葉(6) 大切なのは…

2022-06-20 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(6) 大切なのは…            

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

  

 『今』

    大切なのは
    かつてでもなく
    これからでもない
    一呼吸
    一呼吸の
    今である

         真民さんにとって大切なことは、過去でもなければ未来でもない。
      『息をする』、その一呼吸が大切なのだと。
      真民さんは機会あるごとに今を生きる一瞬の大切さを説いている。
     「一途に生きる」ことがどんなに難しいことか、私たちは知っている。
     ときに妥協し、自分をなぐさめ、自分に嘘をつく……。
     筋の通った一本の道を歩ゆんでいきたい。
     でも、人生行路は平坦な道ではない、山あり谷あり、紆余曲折の変化に富んだ道を
     右により、左により、立ち止まり、時に後ろを振り返り、来し方道を眺める。
     
     「雨にも負けて、風にも負ける」人生の辛い時期に遭遇しても、
     遅い歩みではあるけれど、一歩を踏み出すことが次の一歩を繰り出すための
     貴重な経験となることを私たちは知っている。
     だから、「生きる」ということは、
     真民さんのように「決然と今を生きる」ことも大切だが、
     「ゆらりゆらりと揺れながら生きる」ことにも意味があるのではないかと思う。
     
     良寛さんのように、風に吹かれるまま、世間のしがらみを捨て、
     なかなか難しいことだが、気の向いた方向に歩いていくのも粋な生き方だと思う。

     愛弟子とも愛しい人とも言われた貞心尼との出会いは、良寛和尚70歳のときで、
     歳の差40歳といわれている。
     それから4年、良寛の遅い春は終わりを告げる。
     臨終の席に呼ばれた美貌の貞心尼に良寛は辞世の句を贈る。
     
     裏を見せ表を見せて散る紅葉
        私、良寛は貴女(貞心尼)の前で、風に散りゆくもみじのように裏も表てもなく、
                                すべての飾りを捨てて真心をつくすことができました。
        良寛の童子のような素直な心を散りゆくもみじに例えて貞心尼に贈った歌です。
         また、潔い人生訓の歌として現在も多くの人に愛されています。

   さて、本題の真民さんは自分の生き方を次のような詞で表現しています。
   『妥協』

     
決して妥協するな
     妥協したらもうおしまい
     一番恐ろしいのは
     自己との妥協だ
   
     つねに鞭うち
     つねに叱咤し
     つねに前進せよ

   私は求道者でもなければ、人生の達人者でもない。
  普通に生きて、悩んで、一歩進んで二歩下がる、
  曲がりくねった道を踏み外す場合だってある。
  幸せだとか、不幸せだとか考える時間もなく、
  時々、真民さんの詞に励まされながら、
  今日という時間を大切に生きてゆきたい。

  (読書案内№184)      (2020.6.19記)

 

 

 

 


      

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坂村真民の言葉(5) 念ずれば花開く

2021-12-02 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(5) 念ずれば花開く

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

                 
 月に一度、月初めに「真民さんの言葉」の中から気に入ったものを載せています。
 月に一度のことですが、今月はどんな言葉を選ぼうかと、
 「1日1言」を開いてページを繰るのも楽しいひと時です。

 以前、ブログ名「曲がり角の向こうに」の「のりさん」から、
 『念ずれば花ひらく』という言葉が好きですと、コメントを戴きました。
 私は、これまで「念ずれば花ひらく」が、真民さんの言葉であることを知りませんでした。
 そんな経緯がありまして、
 今月は『念ずれば花ひらく』を取り上げることにしました。

 『一心称名』
   念ずれば花ひらく
   念ずれば花ひらくと
   唱えればいいのです
   ただ一心に唱えればいいのです

   花が咲くとか
   咲かぬとか
   そんな心配はいりません
   
   どうかあなたの花を
   あなたの心田(しんでん)
   咲かせてください
   必ず花はひらきます

  ただただ一心に心に念じて、唱えれば花はひらくのです。
  真民さんは、誰にもわかりやすく、明快に箴言を文字に託します。

  花とは、私たちの心が抱く「希望」であり、「夢」であり、
  「願い」や「望み」のことなのでしょう。
  「一心に念じれば必ず花はひらきます」と真民さんは言います。

  二節目は真民さんらしく、修行僧のように厳しい言葉です。
  一切の雑念を払って、「咲くとか」「咲かぬとか」そんなことはどうでもいいのです。
  ただひたすらに念ずることが大切なのです、と言います。
  一途な心を持つことが必要なのですと読者を諭しています。
  別の項目では次のようにも言っています。

  「いつかはゴールに達するというような歩き方ではだめだ。
   一歩一歩がゴールであり、一歩が一歩としての価値をもたなくてはならない」
                         (いきいきと生きよの中の一節)
  人生の中で今日という日は、二度と訪れないかけがいのない一日だから、
  無駄にしてはいけないということなのでしょう。
  ゴールは終わりではなく、明日へ向けての出発点だということなのでしょう。
  真民さんの言動に横たわっているものは「一期一会
」の教えなのでしょう。

  
  私たちに厳しい言葉を投げかけた真民さんですが、
  第三節では、読者へ向けてのやさしいお願いに変わっていきます。
  「どうかお願いです」。一心に称名してあなた自身の花を、
  あなたの心田に咲かせてください、と。
  花は必ず開きますからと読者を暖かく励まします。
  
  『心田』という言葉も聞きなれない言葉です。
  「あらゆる荒廃は心の荒蕪(こうぶ)から起こる」と二宮金次郎は教えを残しています。
  荒蕪とは、草が生い茂って雑草が生えほうだいで、
  土地が手入れされずに荒れていることをいいます。
  荒れ果ててすさみ潤いがなくなっていくことをいいます。
  金次郎の時代、たび重なる飢饉などで農村は疲弊し、それに伴って人心も荒れ
  働く意欲を失い離村する農民もたくさん現れました。
  農村の荒廃は、人の心の『荒蕪』へと広がって行きます。
  荒廃に伴う人の心の『荒蕪』を解決するには、
  個々の人が持っている『心田』を耕せば、
  やがてすべてのものは豊かになっていくという教えは、
  今につながる教えのように思います。

  一人一人の心田に自分自身の花をさかせよう。
  そうすれば花は必ずひらくと真民さんは考えています。

  表題の『一心称名』は、
 「一心にただひたすらに祈りなさい」と私たちを示唆しているのでしょう。

                       ブックデーター
                           「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                             致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷
     (読書案内№183)      (2021.12.01記)

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坂村真民の言葉(4) 悲しみを知っている人は…

2021-11-03 06:30:00 | 読書案内

坂村真民の言葉(4) 悲しみを知っている人は

坂村真民について (坂村真民記念館 プロフィールから抜粋)
  20歳から短歌に精進するが、41歳で詩に転じ、個人詩誌『詩国』を発行し続けた。
  仏教伝道文化賞、愛媛県功労賞、熊本県近代文化功労者賞受賞。
  一遍上人を敬愛し、午前零時に起床して夜明けに重信川のほとりで地球に祈りを捧げる生活。
  そこから生まれた人生の真理、宇宙の真理を紡ぐ言葉は、弱者に寄り添い、
  癒しと勇気を与えるもので、老若男女幅広いファン層を持つ。
  写真の本は「一日一言」と称し、真民が生きた日々の中で浮かんだ言葉の中から365を厳選、
  編集したものです。

 

『悲嬉』
  悲しいことは
  風と共に 
  消えてゆけ

  嬉しいことは 
  潮(うしお)のように
  響かせよ

     この人の詞には、澄んだ響きがある。
     透き通った視線が真っ直ぐに、 見つめる対象を捉えて離さない。
     揺らぎのない自信の裏に、確固とした信念が培われている。
     胸のうちに湧いてきた思いを、言葉で飾るのではなく、
     夜明けに見た夢を忘れないように心に刻むように、
     胸の中の想いを詞に置き換えていく。
     胸の中に吹く風にのように、
     通りすぎる旅人のように、
     静かに風の音を聞けば、悲しみは通りすぎていくと詠う。
     そして、嬉しい思いは、胸を開いて力いっぱい吐き出して、
     嬉びを欲しい人に解放しようと詠っているように聞こえる。
     もう一つ、次のような詞も心に響きます。

 『ものを思えば』
   つきつめて
   ものを思えば
   みなかなし
   されど
   このかなしさのなかにこそ
   花も咲くなれ
   匂うなれ
   人の心も通うなれ
      人を寄せ付けぬような厳しさを、心の内に持つ真民さんだが、
      こんなにやさしい慈愛の目を持った真民さんにも、心ひかれます。
      「つきつめて ものを思えば みなかなし」という詞のなかに、
      生きることの真理や人生哲学があるように思います。
      やさしい羊水のあふれる母の胎内から、光のあふれる世界に出てきた時から
      たくさんの出会いを経験することになる。
      歓迎される出会いばかりではない。
      避けて通りたいような出会いでも、
      行かざるを得ない出会いを選択しなければならない時もあります。
      橋の向こうに見え隠れする悲しみが見えているのに、
      渡らなければ先に進めない橋を行く場合もあります。
      出会いの行き着くところは、別れです。
      真民さんはそう思いながらも、
      かなしさの中だからこそ、
      花の美しさを、匂いの豊かさを
      敏感に受け止め、人とひとの心のつながりが、
      素晴らしいものになると言っているのでしょう。

                        ックデーター
                      「坂村真民 一日一言 人生の詩、一念の言葉」
                        致知出版社 2006(平成18)年12月刊 第一刷

 (読書案内№182)        (2021.11.2記)

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