雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

秋は夕暮れ

2023-09-16 06:30:00 | 季節の香り

 今年の夏の暑さは尋常でなかった。
寝苦しい夜が続き寝不足気味の朝を迎える。
寝汗をかいた体を幾分冷たくしたシャワーで体温を下げ、
すっきりした状態で朝食をとる。

「暑さ寒さも彼岸まで」と言いますが、今年の夏はどうなのでしょう。
朝晩、幾分涼しく感じられますが、日中はまだまだ暑く、
麦わら帽子をかぶっての畑作業は老いの身にはかなり応えます。

 やがて田んぼのあぜ道や、河川の土手に彼岸花が咲き始めるでしょう。
秋がひそやかに忍び寄ってくる残暑の一日が暮れていく。
  
 清少納言は「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」がいいと、
また「夏は夜」、「秋は夕暮れ」「冬はつとめて(早朝)」と日本の四季の美しさを見事に表現しています。「枕草子」

 待ち遠しい秋の作品を集めてみました。
 
 

 秋は夕暮れ
    秋は夕暮れ。
    夕日のさして山の端いと近うなりたるに
    烏のねどころへ行くとて
    三つ四つ、二つ三つなど、
    飛びいそぐさへあわれなり
    まいて雁などのつらねたるが
          いと小さく見ゆるはいとおかし。
    
    日入り果てて風の音など
    はた言ふべきにあらず
                枕草子  清少納言
                       
            現代語超意訳
             秋は夕暮れの黄昏どきがいいね。夕日が差してきて、西の山端におちか
             かるころ、カラスがねぐらに帰ろうとして、三羽四羽、二羽三羽と、急
             いで飛んでいく様子は、しみじみとして、心にしみる。まして、雁など
             が連なって飛んでいくのが、とっても小さく見えるのは、これまたとっ
             てもおもむきがある。
             日が沈んで、風の音がさやさやと聞こえ、虫の音などが草むらから鈴虫、
             クツワムシ、マツムシなどの声が聞こえてくる。
             そんな秋の夕暮れは、言葉では言い表せない風情がある。
             ススキ、女郎花、吾亦紅、萩などが、決して華やかではないが、秋の夕
             暮れを彩る風情は、「さみしい」というのではなく、その一歩手前にある
             こころの琴線に触れて来る感情のひだが揺れている状態。それが秋。人生
             の黄昏どきと重なる秋の夕暮れである。
             
 与謝蕪村   戸を叩く狸と秋を惜しみけり
            ひとざと離れたわび住まい。傾いた屋根の上には草が生えている。
            「秋を惜し」むと歌っているので、晩秋のおそらくは黄昏時が過ぎ
            て夜のとばりが下りるころは、何となく寂しさを感じる季節である。
            咲き誇った花たちも、その使命を終え葉を落とし冬ごもりの準備が
            始まる。萩の花も、吾亦紅もささやかな彩の使命を終了する。
            ススキがさやさやと風に鳴る。かすかに冬の予感を孕んだ風の足音
            が戸を叩く。まるで人恋しさに山から里山に下りてきた狸が、隙間
            風の吹きこむ荒れ屋の戸を叩いているような時雨でも降りそうな晩
            秋の里の風景だ。
            去年より 又さびしひぞ 秋の暮
             老いの身にはこれから冬を迎える秋の暮は、一層寂しさが募ってく
             る。「去年より」という言葉に込められた老年の孤独が感じられる。

     松尾芭蕉   この道や行く人なしに秋の暮

              妻子も持たず、人生を旅になぞらえ孤高の俳諧道を歩み、「わび さび」
            の境地を極め俳聖といわれた芭蕉翁の孤独がじんじんと伝わってくる秀
            句だ。
            思えば長い旅であり、「わび さび」の道もまた先の見えない厳しく、寂
            しく思えるときもある。旅の行く先々で句会を開き、主(あるじ)の歓待を受
            け、やがて宴の時もおわり、
師と仰ぐたくさんの人から解放され、用意
            された床に横になれば、よる年のせいか疲労も重なり、すぐに眠りが訪れ
            る。
            旅に病んで夢は枯野をかけめぐる 
            旅の途中で病んで床に伏しても、夢に現れるのは枯野を歩んでいく自分の
            姿だ。4日後、俳聖芭蕉翁は帰らぬ人となった。享年50歳。元禄七年10月
            12日。遺骸は去来、其角ら門人が船に乗せて淀川を上り、13日午後滋賀県・
            近江の義仲寺に運ばれた。14日葬儀、遺言により木曽義仲の墓の隣に葬ら
            れた。焼香に駆け付けた門人80名、300余名が会葬に来たという。
                                       (ウィキペディア参照)

            (季節の香り№40)        (2023.9.15記)

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寒波襲来  雪の朝

2023-01-26 06:30:00 | 季節の香り

寒波襲来 雪の朝
   日本付近の上空には、10年に一度といわれる寒波が、24~25日にかけて
  訪れるようです。天気予報では日本海側だけでなく、、太平洋側でも所によって
  は大雪になり、警戒が必要と報じられています。
   太平洋側の私のところでは、夕方から22時頃に雪がちらつくようでこれが初雪
  になるのでしょう。

 雪の朝二の字二の字の下駄の跡 ………  田捨女(江戸時代の歌人・尼僧)
  とてもわかりやすい句です。
 夜のうちに降った雪がすがすがしい朝を演出しています。
 その白銀の景色の中を誰か早起きの人がいて、雪の中に「二の字二の字」の下駄の跡が続いています。単純明快に、雪の朝の小さな感動を詠った良い句ですが、「田捨女」の
作というのは成立年代から考えて無理なようです。捨女が6歳の時の句とされていますが、
幼女にこの句が詠めるでしょうか。
 (兵庫県柏原町陣屋跡に建つ田捨女像・ウィキペディアより)
田捨女(でんすてじょ) 1634(寛永11)年-1698(元禄11) 名前は田 ステといい、「女」は女流歌人の名に添える接尾辞。
 捨女は、42歳で夫を失ったあと、夫の菩提をとむらうため、
 庵を構えて3年間も念仏行に明け暮れた。
 日数にすれば、およそ千日の念仏行であった。
 その後、出家し
名僧の盤珪禅師を生涯の師として仰ぎ、不徹庵を結んで仏道に生きた。
 興味をそそられるのは盤珪との関係だ。
 捨女に詳しい俳人坪内氏は「もしかしたら、捨女は盤珪を恋人のように慕ったのではない
 か」と言う。夫を深く愛したであろう捨女が、のちに盤珪に恋心を寄せたとすれば、
 凛(りん)とした品格を感じさせる捨女像が怪しい光彩をも放ってくる。
                                       
(丹波新聞2006.12.27より要点引用) 

雪三題                          

降る雪や明治は遠くなりにけり   中村草田男(なかむら くさたお)

限りなく降る雪何をもたらすや      西東三鬼(さいとう さんき) 

灯を消して障子にはかに雪明り                  上村占魚(うえむら せんぎょ)

わが町の天気予報は
 明日は寒いけれど快晴です。
         (季節の香り№39)                  (2023.01.24記)



  

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秋景色 月待の滝

2022-12-14 06:30:00 | 季節の香り

秋景色 月待の滝
 北茨城の久慈川の支流、大生瀬(おおなませ)川が作り出す小さな滝。
 『月待の滝』。
 なんとも情緒の漂う名前だ。
 高さ17㍍、幅12㍍で水に濡れることなく滝の裏側に行けるところから、
『裏見の滝』、『くぐり滝』とも言われている。


   栃木県日光にも『裏見の滝』があり、
   こちらはだいぶ前に崩落が進み裏に行くことは出来なくなっている。
   また、残念なことに滝への遊歩道も落石発生のため通行止めになっています。                                                                                                            (2022.7.7情報)
   元禄2(1689)年4月2日、松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中この地を訪れました。
      しばらくは滝にこもるや夏(げ)のはじめ
        奥の細道によれば、廿余丁山を登つて滝有。
        岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。
        岩窟に身をひそめ入て、 滝の裏よりみれば、うらみの滝と申伝え侍る也 、とある。
        この時代、『裏見の滝』は華厳の滝よりずっと有名だったらしい。いずれにしろ
        「二十余丁山を登って滝にたどり着けば、岸壁の頂上から流れ落ちる滝」だ。
        私が40年ほど前に訪れた時には、めったに人の訪れることもない辺境の滝で、
        滝の裏側に祀られた不動明王に手を合わすことができました。

裏見ノ滝写真   ソース画像を表示

   (月待の滝・新緑)                (川合玉堂・制作1903(明治36)年)
                         流れ落ちる滝の裏に通じる道を、親子の巡礼でし
                         ょうか、
杖を突いて登っていく様子が描かれてお
                         り、この絵に
奥行きと物語性を演出しています。

 

   

  (秋) 道路わきの駐車場から、滝へと向かう  沿道に、秋は紅葉が美しい。
  (冬) 北茨城の寒い地域にある滝は、冬には凍結します。これもまた、風情がありますが、
     寒いし、滝は萌える新緑、涼風を誘う夏、錦秋の秋がいい。

  普段は二筋の夫婦滝ですが、水量が増えると子滝が現れて親子滝になります。
  この珍しい形状のためか、古くから安産、子育て、開運を祈る二十三夜講
 (二十三夜の月の出を待って婦女子が集う)の場とされたところから「月待の滝」と呼ばれ、
  胎内観音が祀られています。(大子町観光協会案内)

  近くには袋田の滝もあります。

    
  (袋田の滝)      
 平安時代の歌人・西行法師も訪れたと伝わる「袋田の滝」です。
 高さ120㍍、幅73㍍の滝は、大岩壁を四段に落下するところから
別命「四度の滝」とも言われている。
また「この滝は四季に一度ずつ来てみなければ真の風趣は味わえない」と西行法師が絶賛したことから「四度の滝」とも伝えられています。
袋田の滝は日光の華厳の滝、熊野の那智の滝と合わせて日本三名曝とも言われているが、
誰が選定した訳でもなく、諸説があるようです。
 

(季節の香り№38)   (2022.12.13記)

 

  

 

 

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季節の移ろい 矢車草と麦秋

2022-06-01 06:30:00 | 季節の香り

 はじめに

ブログ休載のお知らせをしてから、45日が過ぎました。2~3週間の休載予定でしたが、ずいぶんと時間のたつは早いものです。
 休載中に行なう仕事の予定の半分をこなしただけですが、とりあえずブログを再会することにしました。
 「心に思うよしなしごと」を綴っていきたいと思います。

季節の移ろい 矢車草と麦秋
 移ろいやすい季節の中で、春の時間は特に短く感じます。
 3月、春を待ちかねたように花が咲き始めます。
 福寿草がやわらかい光を浴びて、金色に輝きます。
 梅が咲く時期はかすかな香りが、
 まだ冬の眠りから覚めない樹々の間を縫って漂ってきます。
 そして、
 春は、桜の開花を待って爛漫の季節を迎え
 風にまいちる花吹雪のクライマックスを頂点に、一気に初夏への扉を開きます。
 

 秒速5㌢で落ちる花の舞は、春の風との共演で人の心を詩人にする。
 惜春ということばが美しい響きを持って思い浮かべることができます。
 また、晩春という言葉もこの時期を表す言葉ですね。

 初夏は、思春期を過ぎた娘たちが大人への扉を開く期待と不安が入り混じった季節です。
 農作業が一気に進む季節でもある。
 田植えの時期と収穫の時期は、農家の人たちの顔が一番輝く時期でもあります。
   植えた苗が田んぼに張られた水の中で根をのばし、成長し始めるころ、
 季節は梅雨前の6月初めになります。
 
 いねの苗が風にそよぎ、水面に注ぐ光が幾分強くなります。
 この時期、黄金色に色づいた麦のあぜ道に矢車草が咲いている時があります。

黄金色の麦と鮮やかなブルーのコントラストがなんとも心を和ませてくれる。
石川啄木はこの花を次のように歌っています。

凾館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花
 「清楚」という花言葉を持つこの花には、恋のイメージがよく似合う。
 母が好きでこの時期、小さな庭の片隅に、
「藍芙蓉」とも呼ばれる青紫色のこの清楚な花が好きだ。

矢車草亡母の知らざる齢(よわい)過ぐ   水井千鶴子
 母は79歳で逝った。
 最後まで意識のはっきりしていた母の小さな命に、臨終の幕は静かに降りた。
 春夏秋冬、ありふれた花ではあったが母は庭に花を絶やさなかった。
 来年は私も母の年齢に近づく。

麦秋(ばくしゅう)の季節は初夏の終わりと梅雨前のほんの少しの小さな季節です。
春の終わりは落花の舞で終焉し、惜春というすこし寂しい雰囲気があります。
麦秋には初夏の終わりを告げる枯れ草の匂いがあります。
梅雨入り前の、刈り入れを待つ麦の穂がさやかに揺れる。
晩春や惜春の季節ほどポピュラーではないが、
私はこの「麦の秋」といわれる「麦秋」のひとときが好きだ。

 (季節の香り№37)      (2022.5.31記)

 

 

 

 

 

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季節の物売り 江戸情緒 ④ 新しい年

2021-12-26 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ④ 新しい年
  子供の頃の年末から新年にかけての風物詩は、凧あげや羽根突きでした。
  稲刈りの終わった田んぼなどが凧あげの場所でした。
  主流は奴だこや長方形の武者絵だこでした。
  
というよりも、これ以外の凧はなかったように思います。
  買ってきた凧に凧の足はついていないので、新聞紙を切って糊付けします。
  上空に高く舞いあがれば、風が強いのでしょうか、凧の尻尾(足ではなく、尻尾といってました)
  がちぎれ、凧はバランスを崩し、グルグル回って落下ししてしまいます。
  昭和20年代の凧の値段は、10円ぐらいと記憶しています。
  ちなみに、江戸の凧は16文でした。側いっぱいの値段16文が凧の値段でした。
  現代の凧は500~800円ぐらいしているようです。
  今では、装飾用の飾り凧が4~5000円ぐらいで売ってるようです。
  

 でした。

(凧の卸売り)                     (絵馬売り)

凧は11月半ばごろから売り出され、12月下旬から正月の20日ごろまでがよく売れたと言います。
 図の『凧の卸売り』は、生産者が、大きな渋紙張りの籠を天秤でかっぎ、

 寒風が吹くようになる頃に
 江戸の町の往来を問屋に納めに行く「振り売り」の姿がよく見られたようです。

 幕末頃には凧の問屋は七店あり、凧の種類も豊富にあったようです。
  極彩色の武者絵凧は寛政(1789年)頃には売り出されたようですが、
  高価だったために文化(1804年)ごろには、安価な凧が16文ぐらいで売られたようです。
  屋台の蕎麦一杯の値段でした。 

 

   (桜草売り)                      (武者絵だこ) 
元朝詣りに神社に行けば、おみくじで吉凶を占ったり、
縁起物のお札や破魔矢を購入する人が多くいます。
絵馬もその一つですが、
現代では絵馬に「合格祈願」、「家内安全」、「無病息災」等の願いごとを書いて奉納します。
元々、絵馬は、「神仏へ馬を献ずる」という意味があった。額に馬を書いて奉納し、
「代わりに神仏に願いごとをお願いする」というのが本来の意味のようです。
おおきな絵馬では、一件以上もある絵馬が奉納される場合があります。
これを「額絵馬」といい、拝殿の長押(なげし)には、
埃をかぶり、色あせた額絵馬を見ることができます。
たいていは、事業に成功した人等大願成就した人が奉納します。
また、権勢を誇示する手段とも考えられます。
 
江戸時代には、絵馬を専門に扱う「絵馬屋」が何軒もあったというから、
絵馬文化は、現代よりもはるかに大切な年中行事の一つだったのでしょう。
「振り売り」のほとんどは、絵馬屋おかかえの売り子で、
売り声は、「ゑまや、がくや
がくや」でした。

春になれば、
「エー桜草や桜草」と桜草売りが往来を歩きます。
「土焼きの小鉢に植え付けて、ふさふさと薄紅ゐの花なりしも、姿やさしく士女のめずるより買うこと多し」(江戸内府絵本風俗往来)とあるように、早春の人気商品でよく売れたようです。

 4回に渡り、江戸情緒豊かな「振り売り」を紹介しながら、
 少年時代の懐かしい想い出を書いてみました。
 まだまだたくさんの物売りがあります。
 今後は、風物詩として折に触れて紹介したいと思います。

(季節の香り№36)     (2012.12.25記)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



  

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季節の物売り 江戸情緒 ③ 夜泣きそば

2021-12-19 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ③ 夜泣きそば

  チャルメラの音が暗い夜の町を流れてくる。
  もうそろそろ子どもたちが床に入る時間だ。
  なんとも物悲しい音色が、記憶のヒダに刻まれ、
  今では全く聞かれなくなったチャルメラの音を懐かしく思う。

  20年近く前、熱海温泉に泊まった夜、宴会のどんちゃん騒ぎが終り
  それぞれの部屋に引き上げたころ、
  あのなつかしいチャルメラの音が聞こえた。
  私は飛び起き、海岸通りのただ一軒の屋台に飛び込んだ。
  懐かしい音と昔風の鶏がらスープの中華そばを、
  潮騒の音を聞きながら、フウフウ言いながら疲れた胃袋に流し込んだ。
  小さな焼きのり一枚と、薄く切ったナルト、シナチク、輪切りにしたゆで卵。
  シンプルな具とさっぱりしたスープが絶品だった。

  夜泣きそば 夜鷹そば
   
   
            (図1)                   (図2)
   江戸初期には、煮売り屋という商売があったようです。
   火を使って煮た食べ物を売る商売です。
   商売には店構えによって格があり、「店売り」といって店を構えて商売をする店、
   縁日など人の集まる場所に出かける「辻売り」で、
   現在では香具師がとりしきる「屋台」という形態で残っています。
   てんびん棒の両端に商品をのせ、街々を流して売り歩く、「振り売り」などがありました。
   「振り売り」はやがて、「棒手振り(ぼてふり)」と呼ばれるようになりました。
   文献によると、「振り売り」という商売の形態は、室町時代ごろからあったようですが
   本格的になったのは江戸時代になってからです。
   
    江戸に幕府を築いた徳川氏は、政権安定を計るために、親藩、譜代、外様を問わず参勤交代
   という制度のもと藩主とその妻を江戸に住まわせました。
   藩主の務めを支えるために、たくさんの家臣たちも江戸住まいを余儀なくされ、
   上屋敷、中屋敷、下屋敷に分散された広大な敷地の中に、
   藩主をはじめ江戸詰めと言われる家臣たちも、
   国もとから召集されますから江戸の人口は一気に増加します。
   こうして、大江戸八百八町といわれる都市が、形成されていきます。
   建築に携わるたくさんの職人たちも国もとから招かれます。
   インフラ整備もしなければなりません。
    しかし、何よりも必要なのは食糧であり、生活必需品でした。
         幕府が開かれ、人為的に多くの非生産階級の武士たちが増えてきました。
   たくさんの職人が流入し、商人たちも江戸の都に集まってきました。
   年季奉公もなければ、商売の開店資金もほんのわずかで済む「振り売り」は、
   日銭を稼ぐには格好の商売だったと思われます。
   特に、食糧に関する「振り売り」が、その走りと思います。
     
  (図3)                               (図4)        (図5)         (図6)

 こうした訳で、江戸時代以前から続いていた「振り売り」文化が、
 江戸時代に一気に花開いたのです。(図1、2)
 (この絵にはどちらにも犬が描かれています。おそらく、そばの匂いに
  腹をすかした犬たちが、おこぼれを求めてやって来たのではないでしょうか)
 しかし、二度この「振り売り」、特に火を使う「ソバ屋」などが
 禁止された時がありました。
 1661(寛文元)年には、御触書によると「夜泣きそば」や「夜鷹そば」類の商いが禁止されました。
  「火事と喧嘩は江戸の花」と言われるほど、火事は頻繁に起こったようです。
  1657(明暦3)年の火事は江戸三代火事の一つで、「振袖火事」とも言われ、
  この時の死者は3万か
ら10万人の死者が出たようです。
  この時の火事で江戸城の天守閣が焼け落ち、以後天守閣は再建されなかった。
  この大火事の教訓を踏まえて、
  火を使用し夜に営業する「夜泣きそば」等の営業が禁止されました。
  火事の多い密集地帯の多く存在する江戸で禁止されたのも当然のことと思います。
 1686(貞享3)年の御触書では、火を持ち歩く一切の「振り売り」が禁止されています。
  1682(天和2)年の12月に起こった「八百屋お七の火事」は、
  800から3000人の犠牲者が出たと言われています。
  この火事の教訓としての御触書だったのでしょう。

 明治になると、車輪付きの効率の良い「引き売り」がでてきました。
 経済の発展と物流形態の発達は、徐々に江戸情緒の残る「振り売り」文化を
 駆逐し、昭和に入ると一部の「商い」を除いて、ほとんど姿を消していきます。
 一部残った「納豆売り」や「豆腐売り」も昭和20年代には姿を消していきます。

 暗くて、寒く、人通りの絶えた夜道での、「夜泣きそば」や「おでん屋」は、
 江戸庶民のささやかな楽しみの一つだったのでしょう。

 「時そば」の落語も、振り売りの売り声も遠い遠い昔のできごとになり、
 今はただ郷愁の中の思い出話になってしまったことがちょっと寂しい気がします。
     (季節の香り№35)       (2021.12.18記)
 


   

 

 

 

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季節の物売り 江戸情緒 ② お飾り売り

2021-12-13 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ② お飾り売り

季節の物売り

「きんぎょぇ~きんぎょッ」金魚屋さんがくると、一斉に物売りの声に魅かれて外に飛び出す。
夏が来たことを教えてくれる金魚売の声だ。往来に面しているけれど、私の家は道路から少し引っ込んだところに立っており、間口も広かったので金魚売りはいつも私のうちの前に店を広げた。
 巾着のかたちをした金魚鉢は、縁を水色に染めてありその中で、数匹の金魚が泳いでいた。涼し気な鉢の中で泳ぐ金魚の器がほしかったが、兄弟5人の母子家庭で育つ私は、とうとうそのことを母に言えなかった思い出がある。風鈴売りは、色鮮やかな江戸風鈴をたくさん吊るして、賑やかにやってくる。売り声がなくても、風に乗って聞こえてくる音色ですぐにそれが来たことが分かる。チリンチリンと澄んだ音を流す、南部鉄でできた風鈴は値が張ったのだろうあまり売ってなかった記憶がある。飴細工屋も私の家の軒先を商いの場所とした。冬はこんにゃくの味噌おでん売りを懐かしく思い出す。リンゴ箱に炭火を起こした七輪を載せ、その脇にカメに入った甘く煮詰めたみそだれが入っていた。売り声はなく、そのみそだれの臭いで人が集まって来る。私たち悪ガキはこのおでん屋を「墓場おでん」と陰口をたたいた。味噌の入ったカメは、墓場の骨壺を利用していると誰かが云いはじめたのが由来である。豆腐売り、納豆売り、パン売りなど、子どもたちが眼を輝かすような物売りが来た。
 時代と共に、物売りの姿は消え、私の実家も亡くなり、私も歳をとった。
 江戸時代、日常生活に必要なほとんどすべてのものが、「ぼて振り」と言われたてんびん棒の両端に売り物を載せて歩く姿は、庶民の生活に密着していた。そんな物売りを紹介します。

お飾り売り
  師走になると何となくせわしくなるのは、今も江戸の昔も同じようです。
  大掃除をしたり、年賀状を書いたりしているうちに、大みそかを迎えることになります。
  百八つの煩悩を打払うように、江戸の町のお寺さんの除夜の鐘が響いてきます。
  一夜明ければ、正月の初詣りが季節の行事だったように思います。

  こうした行事も、
  都会のマンション暮らしや、
  自然から隔絶された都会の雑踏の中に行き交う人々にとっては、
  縁の薄いものになってしまっているようです。
  餅つきの風景は田舎でも見られなくなったし、
  年越しそばの風習も少しづつ姿を消しているようです。
  豪華なおせち料理が幅を利かしているようですが、
  これとて、若い人の家庭では縁の薄いものになっているようです。
  おせち料理そのものを今の若い人は好まないようです。

  年末に紅白歌合戦を見て、正月にはバラエティー番組を見るような
  なんとも情緒のない年末年始の風景です。
  私は、紅白よりも、その後の「ゆく年くる年」を
  各地の名刹の鐘の音を聞きながら、
  カウントダウンを迎えることを毎年の習いとしています。

  この時期の江戸では、お飾り売りや、飾り松売りなどが行きかい、
  年の瀬を賑やかにしていたようです。
    

  『お飾り売り』
  いなせなお兄さんのお飾り売りは人気があったようです。
  お飾り売りは、鳶職や仕事師(火事師・火消)等の一種の際物師(きわものし)たちの
  臨時の商いだったようです。毎年小屋掛けをする場所も決まっていて、
  いろいろと窮屈な仁義があったようです。
  (現在でも、屋台や出店は香具師(やし)が権利と責任を持っていて
  厳しい約束ごとがあるようです)。
  的屋(テキヤ)ともいい、やくざの親分などが仕切っているようです。
  門松や貸観葉植物などこの手の人たちが関わっている場合も多く、
  一昔前までは、頼みもしないのに商品を置いていき、
  有無を言わせず集金をしていたこともありました。

  粋でいなせなお兄さんが啖呵をきって忙しく立ち働く姿に人気があったのでしよう。
         紋々の半纏 飾り物を売り (柳多留) 
  12月25日ごろより辻々、河岸、空地などに松竹を並べ、
  または仮屋を建てしめ飾りの具、歯朶(しだ)、ゆずり葉、海老、かち栗などを商い、
  大みそかには夜通し市を立てたようです。(東都歳時記)
 
  
  江戸市中町ごとに消防の鳶のもの、辻々へ小屋をしつらえ、
  しめ飾りを商うこと二十日以後より大みそか夜半までにて、
  元朝には小屋の跡も止めずよく掃除も行きとどけり。(江戸府内絵本風俗往来)

  『飾り松売り』
  12月になると、門松の松だけを売る市が立ちました。
  また、近在の農民が松を担いで売りにも来ました。
  売り声は、「まつや まつや まつや 飾り松や 飾り松や」
  師走の江戸の町を飾り松を売り歩く声が聞こえると、
  年の瀬もいよいよ終わり近くになります。
  この松は、下総(千葉県北総地域)、常陸(茨城県南東部)などが生産地になっていたようで、
  現在でもこの地方では、飾り松用の生産農家が多くあります。

  現在では、こうした縁起物は門前や街の通りを借り受けたテキヤ(的屋)が
  仕切っています。江戸の物売りの姿は、商業や物流の発展に伴い、
  庶民の生活習慣の変遷の中で姿を消してしまいました。

      (季節の香り№34)     (2021.12.12記) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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季節の物売り 江戸情緒 ①

2021-12-09 06:30:00 | 季節の香り

季節の物売り 江戸情緒 ①   福寿草売り

季節の物売り

「きんぎょぇ~きんぎょッ」金魚屋さんがくると、一斉に物売りの声に魅かれて外に飛び出す。
夏が来たことを教えてくれる金魚売の声だ。往来に面しているけれど、私の家は道路から少し引っ込んだところに立っており、間口も広かったので金魚売りはいつも私のうちの前に店を広げた。
 巾着のかたちをした金魚鉢は、縁を水色に染めてありその中で、数匹の金魚が泳いでいた。涼し気な鉢の中で泳ぐ金魚の器がほしかったが、兄弟5人の母子家庭で育つ私は、とうとうそのことを母に言えなかった思い出がある。風鈴売りは、色鮮やかな江戸風鈴をたくさん吊るして、賑やかにやってくる。売り声がなくても、風に乗って聞こえてくる音色ですぐにそれが来たことが分かる。チリンチリンと澄んだ音を流す、南部鉄でできた風鈴は値が張ったのだろうあまり売ってなかった記憶がある。飴細工屋も私の家の軒先を商いの場所とした。冬はこんにゃくの味噌おでん売りを懐かしく思い出す。リンゴ箱に炭火を起こした七輪を載せ、その脇にカメに入った甘く煮詰めたみそだれが入っていた。売り声はなく、そのみそだれの臭いで人が集まって来る。私たち悪ガキはこのおでん屋を「墓場おでん」と陰口をたたいた。味噌の入ったカメは、墓場の骨壺を利用していると誰かが云いはじめたのが由来である。豆腐売り、納豆売り、パン売りなど、子どもたちが眼を輝かすような物売りが来た。
 時代と共に、物売りの姿は消え、私の実家も亡くなり、私も歳をとった。
 江戸時代、日常生活に必要なほとんどすべてのものが、「ぼて振り」と言われたてんびん棒の両端に売り物を載せて歩く姿は、庶民の生活に密着していた。そんな物売りを紹介します。

 

 (初夏の物売りの図)

 橋の上には薬売り、旗を持つ祈祷師(?)、或いはこの人も薬売りで、同業者同士が橋の上で出会い、互いに振り返ってみているのかもしれない。
初鰹売り、橋のたもとに花屋、その手前に乾物屋、画面左端にも物売りらしき人がいるが何を商っているのか不明。橋のたもと右側の家の軒下には「吊り忍」が下がっている。これも物売りから手に入れたのだろう。そのすぐ上には、買ったばかりの菖蒲をさげている人がいる。
 季節は初夏、汗ばむような午後の時間帯だろう。笠をかぶる人。扇を頭にかざし日差しを避ける人、菖蒲をさげた人も
 手拭いで額の汗をぬぐっている。庶民達が行きかう賑やかな往来を描いている。

福寿草売り

   

「福寿草売り12月25日 春に至る迄、梅福寿草などの盆花町に商ふ」(東都歳時記) 
 福寿草は、元旦草とも言い、歳末に福寿草売りから買って、正月の床の間を飾ったという。
 左の写真は女性の売り子さんが描かれている。女性の物売りが実在したのかどうかわからないが、
 当時、飾り絵として販売された絵も多く、特に人気のあった歌舞伎役者の売り姿の絵に人気があったようだ。
 左の絵が実際の福寿草売りの風俗画ではないかと思う。
 煙草入れを帯から抜いて、てんびん棒にかけ、一服している姿が現実感があって私は好きだ。

 40年も前、母の願いでよく神社仏閣いった。
 境内に並んだ出店を見てまわるのも参拝の楽しみだった。
 当時、よく福寿草を購入した。
 一芽、30円ぐらいだったと思う。数年続いた30円の売値も50円になり、どんどん値が上がった。
 現在では350~400円、当時の価格の約10倍もしている。
 あの時購入した福寿草は毎年、庭の陽だまりで元気に花を咲かせている。
 増えた分だけ、美しいと褒めてくれた人に分けてあげるので、
 年数の割には株は一向に大きくならない。
 母との想い出に繋がる懐かしい匂いのする初春の花である。

     (季節の香り№33)      (2012.12.8記)
 
  

コメント (6)
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紅茶の中に落ちた秋

2019-09-28 06:00:00 | 季節の香り

紅茶の中に落ちた秋

   風がそよぐ
    雑木林のこずえを揺らし
  きれいに刈り込まれた下草の間を通り抜けて
  ヴェランダの明るい日差しの中に
  還ってきた

  小さな木製の古いテーブルの上に置かれた
  テイーカップ
  紅く色付いたわくらば一枚
  風と一緒に還ってきて
  淡いべにいろの紅茶の中に落ちた

  予期せぬ出来事に
  秋の風のさざ波に揺られ
  紅茶の海に落ちた秋色の遠い昔の思い出が
  カップの中に浮かんでくる

  父よ 母よ 姉よ 兄よ
  逝きて還らぬ大切な私のなつかしい人たちよ
  秋の気配の降りてくる林の中のヴェランダで
  今日は一日
  黄昏がやわらかい光の帯をたたみ
  夜のとばりが林をつつむまで
  思い出の船に乗って語りつくそう
  私たちが歩んてきた「道」のことについて……

  
  

   (2019.9.27記)        (季節の香り№32)

  

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秋色に染まる

2017-11-06 18:00:00 | 季節の香り

秋色に染まる
  妻と来て山ぶどう買う道の駅嗅げば蔵王の秋かおりたつ …… (仙台市) 沼沢 修
          温泉もよかった、小旅行の帰路立ち寄った道の駅。お土産にぶどうを手に取ると、
          今くぐって来た錦秋の蔵王の秋の名残りが匂い立っていた。

          熟年夫婦の仲睦まじい姿が目に浮かびます。
  
  夕方の塩尻駅を吹き抜けるぶどう色の風かすかに甘い …… (富士市) 松田梨子
        
小旅行の帰りなのだろうか。夕方の塩尻駅のプラットホームに風が通りすぎる。
          ぶどう色した風で、かすかに甘い香りを乗せて私の鼻先を掠めて消えていく。

  少年の心となりて木通(あけび)採る気づけば妻も少女のこころ …… (仙台市)沼沢 修
          こんなときの妻は、いっそう可愛く思われる。同じように木通採りに夢中になっている
          夫も可愛く映っているに違いない。木通採りに夢中になっている少年と少女。

   萩の咲く浄土寺真如町あたり静かな二人の時間を歩く …… (西宮市)佐竹由利子
          若いっていいなー……
          ふたりだけの時間よ止まれ。
   

   黒塚に芭蕉も子規も詣でしと安達ケ原を秋の雲過ぐ …… (福島市)美原凍子
         安達ケ原の鬼婆の墓といわれている伝説の黒塚に手を合わせ、
         偉大な先人たちもこうして、ここで手を合わせたのだろうと感慨に浸る。
         この安達ケ原の黒塚の上を秋の雲がゆっくりと流れていく。
         雲の模様は晩秋の訪れを知らせている。

  華やかに山や谷を染めて、樹々たちは間もなく訪れる厳しい冬の前の短い時間に
  ひと時の安らぎを醸し出している。
  この大自然の摂理に身を置いたとき人は、俗世のしがらみから解放され、
  無垢な自分に還ることができる。

     (朝日歌壇2017.10.22付から選びました)
      
    (季節の香り№31)  (2017.11.5記)

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