雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

読書紹介「蜩ノ記」(2)

2012-02-28 22:29:03 | 読書案内

読書紹介「蜩ノ記」(2)       葉室 麟著 祥伝社 2011年刊

  武士の意地か、なぜ苛酷な生き方を自分に課すのか

 秋谷は庄三郎に向かっていう。

 「死を恐れていないわけではごさらぬ。

……それがしとても命が惜しくて眠れぬ夜を過ごすこともござる」。

しかし、と秋谷は続ける。

「ひとは誰しもが必ず死に申す。

……それがしは、それを後三年と区切られておるだけのことにて、

されば日々をたいせつに過ごすだけでごさる」と、

死を三年後に控えても、

微塵(みじん)も揺らぎのない生き方を示してなお、

「……どのような心持で最期を迎えるかはいまだわかり申さぬ」と、

心に湧いたさざ波のような不安を吐露する。

 

 ご側室お由(よし)の方との不義密通は本当に存在したのか。

 

 ときは秋谷切腹の日に向かってゆるやかに流れていく。

藩主が他界し、お由の方は出家して松吟(しょうぎん)尼と称し、秋谷と再会する。

「おひさしゅうござる」。

秋谷が声をかけると松吟尼は黙ったまま会釈を返し、茶を点て始めた。

その手がわずかに震え、

「心が乱れました。お恥ずかしゅうございます」と、松吟尼は悲しげにつぶやく。

誰にも言えず、

心の奥底に沈めて封印した思いを告げる前に、

手の震えが雄弁に松吟尼の胸の内を物語っている。

 

切腹の朝が訪れた。 

 

 小説はたった一行、

『蜩の鳴く声が空から降るように聞こえる』 

と記し幕を閉じる。

      無駄な言葉の一切をはぶきたった一行の言葉に、作者の万感の思いが

     託されている。同時に、秋谷の生きざまのすがすがしさを表現する推敲に推敲され

     た言葉の選択がうかがわれます。 

                                                   (終り)    

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読書紹介「蜩ノ記」(1) 葉室 麟著

2012-02-22 22:50:12 | 読書案内

読書紹介「蜩ノ記」(1)葉室 麟著 祥伝社 2011年刊

  10年後の切腹を受け入れ、粛々(しゅくしゅく)と生きる

 10年前、羽根(うね)藩士・戸田秋谷(しゅうこく)は、

江戸表の中老格用人の職を解かれ、向山村に幽閉の身となる。

原因は秋谷が江戸屋敷でご側室お由(よし)の方と密通し、

「本来なら家録没収のうえ切腹だ。ところがそうはならなかった」。

 側室と家臣の不義密通などお家の恥になることだけに、

極秘のうちに処理されたのだろう、と推測される。

 

 その頃、秋谷は、御家の家譜編纂に取り組んでおり、

藩主はこの家譜編纂の完成を待って秋谷に切腹を命じた。

 

 10年後の八月八日、つまり秋谷が刃傷事件を起こした日をもって切腹を命じられた。

 

 蜩、日暮らし、来る日一日を真摯に、そして、穏やかに生きる秋谷。

 

 それから、7年が過ぎ、

家譜編纂の補佐という名目で、秋谷を監視するように命じられた檀野庄三郎は、

秋谷の生きざまを監視することになる。

 秋谷と過ごす3年の月日が、庄三郎の何かを変え、

秋谷の罪が事実無根であり、事件に関わる深い闇を知ることになる。

 

 自分に恥じることのない真っすぐな人生を歩むことができれば、

自らの死を目前にして、なお動揺せず、

穏やかに死を受け入れることができるのか。

                          (つづく)

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読書紹介 「消えた信長」 小林久三著

2012-02-18 21:26:44 | 読書案内

読書紹介 「消えた信長」 小林久三著 

           カッパノベルス 1991年刊 絶版(再販予定なし)

 「歴史小説の大家」、月刊誌「歴史日本」の編集者「いずみ」、高校の教師で歴史好きの「江上早江子」、

以上三人の「本能寺の変」の信長の死をめぐるなぞ解きの小説。

 1. なぜ信長は100人そこそこの少人数で「本能寺」を宿舎に選んだのか?

 2.  光秀の謀反の原因は、光秀の信長に対する怨恨なのか?

    背後に光秀をあやつる家康がいたのではないか?

    (家康にとって本能寺の変は既定の事実だったのではないか)。

3.  江戸時代に書かれた「嘉良喜(からき)随筆」によると、明智軍が京都に入ってくることを

   6月1日の夜(変の起こる前夜)本能寺に知らせた者がいるあるという。

   これは明智軍を見たというよりも、光秀が放った先遺隊を見たのだろう。

   しかし、この情報は信長までは届かなかった、という。

   これが小説の中で一つのキーポイントになる(信長生存説に繫がるのか)。

 

   等々謎を散りばめ、信長の出自にまで迫り、

   物語は「本能寺に消えた信長の謎」を解き明かしていきます。

 

   荒唐無稽と言ってしまえばそれまでだが、

   自刃して果てた信長の遺体が発見されなかったのは歴史的事実であり、

   そこに種々の推測が成り立つ。

   寒冬の夜を炬燵にあたりながら、遠い昔の戦国時代の終わりに起きた

   「本能寺の変」という歴史的事件の裏をあれやこれやと思いを巡らせるのも一興かと思います。

 

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読書紹介『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(3)

2012-02-08 22:05:51 | 読書案内

読書紹介『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(3)

  山本の死から4年半、この戦争は山本が望んだ「講和」とは程遠い形で、

 「無条件降伏」することで幕を閉じることになった。

 

  「一億総玉砕」などというとんでもない発想が、

 当時の政府や軍部の無能が導き出した国民へのスローガンであった。

 「欲しがりません勝つまでは」と全てを犠牲にする姿勢が、

 また、「屠(ほふ)れ英米我らの敵だ進め一億火の玉だ」などと国民を煽(あお)るような宣伝文が流布し、

 軍事教練と称する竹槍訓練、学徒出陣、往きて帰らぬ特攻作戦など、

 国民の全てが甚大な犠牲を強いられた。

   戦場においては、援軍無き作戦、食料も水も現地で自前調達、

 敵と戦い戦死する兵よりも、餓死や病気による死者の多かった戦場、 闘うに十分な武器もなく、その補充もない。

 

 戦争の行方と日本の行く末を考えれば、

終戦の判断はもっと以前に決断してもしかるべきだった。

その決断が早ければ、以下のような膨大な犠牲と不幸は起きなかったのではないか。

 

  兵員の死亡:230万人(内朝鮮、台湾兵員の犠牲者5万人を含む) 。

  一般市民の死亡:80万人。

   1945年3月東京・焼夷弾による無差別爆撃で10万人の犠牲者をだす。

   同じく同年3月、連合軍は沖縄に上陸。軍人、軍属、住民を合わせて12万人以上の犠牲者。

   8月には広島、長崎に原爆投下でそれぞれ14万人、7万人の犠牲者。

   終戦後捕虜としてシベリアに60万人が長期抑留され、強制労働による多くの犠牲者が出た。

    合掌

                                                        (終り)

 

 

 

 

 

 

 

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読書紹介『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(2)

2012-02-06 20:34:30 | 読書案内

読書紹介『聯合艦隊司令長官 山本五十六』 (2)

 日本陸軍の戦果も、東南アジアの要地はすべて予定通り占領し、

石油、錫、ゴム、鉄鋼などの豊富な資源をすべて確保し、

山本が提唱する「短期決戦で講和戦争終結」は、

「長期不敗の体制」となり、講和への道はどんどん遠ざかっていきます。

 

 本書は映画の原作として上梓されたものであり、資料に基づき史実と推察が一体となって、

聯合艦隊司令長官・山本五十六の人間像を描いています。

 

 太平洋戦争が当初「大東亜戦争」と称していたように、

日本には4年半に及ぶ日支事変を一気に解決し、

満州、シベリアを手中にし、全アジアを統括しようとする意図があり、

対米英戦争への軽視があったようである。

 

 時勢はすでに、大艦巨砲主義の時代は終わり、

制空権を獲得するための戦闘機の時代に入り、物量作戦の時代に突入していた。

 

 本誌は太平洋戦争勃発前夜から、山本が戦死するまでをドキュメント風に簡易にまとめ、

聯合艦隊司令長官山本五十六の生き方を描いている。

 『短期決戦で講和による戦争終結』を提唱し、

一歩も引かなかった司令長官山本だつたが、

志半ばに彼の塔乗機は、ブーゲンビル島上空で、

アメリカ空軍P38戦闘機によって撃墜され、

彼はジャングルの露と消えた。

             余 話 : 阿川弘之著の「山本五十六」(新潮社・1994年刊)の小説の中で 次のような記述がある。

                   『(撃墜された)山本の遺体は攻撃機の胴体の左側にあり、そのすぐそばに白服を着た年配         

                   の軍医が仰向けに大の字になって死んでいた。これは艦隊軍医長の高田六郎少将である』

                   艦隊軍医長・高田六郎は茨城県筑西市(旧下館市)の人で、この人の墓所が私の家の近くにある。

                     墓誌には、海軍軍医中将従四位勲二等功三級醫博 昭和十八年四月十八日山本元帥機同乗

                   戦死 享年五十才」とあり、戒名「大慈院殿護国南海日仁大居士位」とある。(写真)

                                                                       (つづく)

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読書紹介 「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(1)

2012-02-04 16:08:05 | 読書案内

読書紹介「聯合艦隊司令長官 山本五十六」

  半藤一利著 文芸春秋2011年11月刊(単行本)

 長い封建制度は終わりをつげ、明治近代国家が成立する。

欧米列強と肩を並べ、列強の侵略に対抗すべく、

明治政府は「富国強兵」スローガンに産業の振興と軍事力の強化に重点を置いた。

 アジアの東の果ての近代化から立遅れた「小さな国・日本」が、

近代化の波に乗り遅れまいと、がむしゃらに進んできた不幸な歴史がある。

 

 1940(昭和15)年9月、日本は、

ヒトラー率いるナチスドイツ、ムッソリーニ率いるイタリアと日独伊三国同盟を結んだ。

これは、事実上アメリカを仮想敵国とみなす条項を含む同盟だった。

 

 1941(昭和16)年末、つまり太平洋戦争開戦前夜のアメリカの原油の産出量は、

日本の740倍、言いかえると、日本の1年分の産出量を、アメリカは半日で生産することができた。

これまで、日本はアメリカから全面的に石油を輸入し、備蓄してきた。

 日独伊三国同盟締結にアメリカは当然のことながら、

石油の対日全面禁輸を措置する。

 

 開戦前夜の昭和十六年末の対米現有兵力は、日本の10倍と言われていました。

こうした現実をよく知っていて開戦に反対した、海軍次官山本五十六だったが、

運命の歯車は彼を開戦へと引きたてる。

 

 聯合艦隊司令長官として、海軍最高峰の重責を担うことになった山本は、

自ら提案した「真珠湾奇襲攻撃」の陣頭指揮に当たる……

                                                  (つづく)

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