秋が逝く
晩秋の道を仰げば土手の上に秋の名残が…
曇天の空にそよいで…
道路標識がどこか寂しい… 自動車のエンジン音が曇り空に吸い込まれていく
高架橋の上から見下ろせば ローカル線の単線が秋のむこうに消えている
収穫が終り
初冬を迎える農村は 静かに秋に溶け込んでいる
秋が逝く
晩秋の道を仰げば土手の上に秋の名残が…
曇天の空にそよいで…
道路標識がどこか寂しい… 自動車のエンジン音が曇り空に吸い込まれていく
高架橋の上から見下ろせば ローカル線の単線が秋のむこうに消えている
収穫が終り
初冬を迎える農村は 静かに秋に溶け込んでいる
読書案内「鹿島臨海殺人秘曲」草野唯雄著
本の購入には次のような基準を持っている。
① 作家によって選ぶ。好きな作家が主体となるので失敗はあまりない。
② タイトルに魅かれて選ぶ。失敗が多い。例えばご当地本など、私にとってゆかりのある土地が舞台になってい る小説。「鹿島臨海…」もその一つだ。
③ 本の装丁によって選ぶ。失敗が多い。表紙に綺麗な絵が描いてある本等。
④ 映画やドラマ化した本を選ぶ。原作と映像化された内容を比較し、それぞれの作者の視点の違いによって原作をより深く理解することができる。
②③は失敗の確率が高いが、道楽趣味(コレクション)なので仕方がない。以上の基準に照らし合わせれば、今回の「鹿島臨海…」は②③に該当する。従って失敗。
徳間新書 1994.7刊 絶版
ご当地小説と言っても、なぜ鹿島臨海なのか必然性がない(ご当地小説に多いパターン)。
茨城県・水戸駅を始発とする鹿島臨海鉄道大洗鹿島線があり、その4番目の駅に大洗駅がある。
主なる舞台がこの大洗になる。
地方の小さな漁港と、夏には海水浴で賑わう小さな町だ。
殺人現場は東京・渋谷だが、容疑者と思われる父親殺しの実の娘が、
母の実家のある水戸に逃げてきたという経緯だけが「鹿島臨海・大洗」との接点だ。
第二の殺人が起こり、最初の事件とどんな関係があるのか。
取って付けたような第二の殺人だ。誰が殺したのか。簡単に割れてしまう犯人。
倒除法で書かれたミステリーだから最初から犯人や犯罪動機など解っている。
ネタばれの犯人をいかにして追いつめて、解決に導いていくかが倒除法の特徴だ。
作家に力量がないと駄作になってしまう。21年前に書かれた小説で現在絶版。著者も他界。
倒除法のミステリーには、松本清張の「黒い福音」がある。長い小説だが一気読みができる。
評価: ☆☆
憎しみの連鎖を断ち切る(2)
パリ同時多発テロ 時空を超える強い絆
最愛の人であり、息子の母親でもあった人の命が非情な無差別テロで奪われ、
悲しみで途方に暮れていいはずなのに、レリス氏は、「君たちを憎むつもりはない」と言う。
この精錬された精神と意志の強さに、人間って素晴らしいと感動させられるメッセージです。
現実的には加害者に対して極刑を望み、
命を奪われた者の苦しみをストレートにぶっける場合も珍しくない。
このような被害者遺族の気持ちも理解できる。
レリス氏のメッセージに共感する自分がいて、一方であいまいな立ち位置の自分がいることに気づく。
レリス氏のメッセージは続く。
だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。
君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。(…略…)
テロの暴力に対して暴力での解決を望めば、「君たちと同じ無知に屈することになる」。
憎しみの感情で対峙すれば、何も生まれてこない。
精神の不毛が再び憎悪の感情を生んでしまうことをレリス氏は述べている。
今朝、ついに妻と再会した。
何日も待ち続けた末に。
彼女は金曜の夜に出かけた時のまま、そして私が恋に落ちた12年以上前と同じように美しかった。
もちろん悲しみに打ちのめされている。
君たちの小さな勝利を認めよう。
でもそれはごくわずかな時間だけだ。
妻はいつも私たちとともにあり、再び巡り合うだろう。
君たちが決してたどり着けない自由な魂たちの天国で。
私と息子は2人になった。
でも世界中の軍隊よりも強い。(…略…)
生後17カ月で、いつものようにおやつを食べ、私たちはいつものように遊ぶ。
そして幼い彼の人生が幸せで自由であり続けることが君たちを辱めるだろう。(…略…)
強い絆で結ばれ、深い愛に裏打ちされた者の関係は、
どんな武器でも断ち切ることはできない。
精神の魂は生死を超え、時空を超えて天国と現世を結ぶ。
この繋がりは誰にも壊すことはできない。
亡くなった多くの人のご冥福を祈ります。
(おわり)
(2015.11.26記) (昨日の風 今日の風№33)
憎しみの連鎖を断ち切る
パリ同時多発テロに関する課題
パリ同時多発テロでは、たくさんの市民が犠牲になり、尊い命を奪われた。
テロも暗殺も決して許されるものではない。
仏オランド大統領は、フランスが「戦争状態にある」と宣言し、
米国、ロシアはシリア空爆の強化を図り、欧州連合でも力による対応を進めている。
テロに怒り、過激な世論がわき上がるのは仕方がない。
しかし、暴力による報復では、互いを憎しみ合うだけで決して解決にはならないことを歴史は教えている。武力に頼る言動ではなく、冷静な分析と対応が必要と、多くの専門家は言う。
11/20付朝日新聞社説は、
「冷静で着実な対処こそ」
というタイトルで
『テロ対策は組織網を割り出し、資金源や武器ルートを断つ警察、諜報、金融などの地道な総合力を注ぐ取り組みだ』
と力には力という軍事介入を戒め、世論の暴走を諫(いさ)めている。
更に『(テロリズムの)病根をなくすには、不平等や差別、貧困など、社会のひずみに目を向ける必要がある。軍事力で破壊思想は撲滅できない』と社説の論調は冷静だ。
言葉が違い、生まれや習慣や文化、宗教が異なれば考え方も違ってくる。
だが、こうした違いを異分子として排除しようとするところに、摩擦が起こり、血が流れる。
注目すべき考えがフェイスブックに公開され、共感の輪が広がっている。
パリ同時多発テロで妻を亡くした仏人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリスさん(34)が、テロリストに向けて綴った文章だ。
「君たちに私の憎しみはあげない」
金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の母親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別な殺戮(さつりく)をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間をつくったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。以下次回へつづく (2015.11.24記)
心は嘘をつく
真実に目をつむり
現実を見ようとしない
現実から逃げようとしている
胸に積もった叫びを 吐き出せないために
嘘でもいいから
何事もなかったと 言って欲しいと
現実をねじ曲げてしまう
苦しいことから逃げるために
見えているものを 見ようとしない
見えてしまえば 自分が情けなくなるから
そんな自分が とても嫌になるから
心は自分に嘘をつき
甘いオブラートで武装するから
すぐに破れて もっと傷ついてしまう
目はしっかりと 真実を見ているのに
心は往々にして その目を曇らせてしまう
(つれづれに… 心もよう №17)
秋が行き もうすぐ初冬
小さな神社に秋が
丘の上欅の木の下にも しずかに しずかに
去っていきます最後の宴を演じて……
夜明けまじかに 雨が上がったせいでしょうか
アスパラガスが 雨あがりの畑に 輝いていました。そして 水仙が 一輪……
すがすがしい朝を 迎えることができました
「チェリノブイリの祈り 著者 S・アレクシェービッチについて
前回、読書案内「チェリノブイリの祈り」で著者のS・アレクシェービッチについて触れたので、少し詳しく紹介したい。
今年度のノーベル文学賞を授与された著者だが、日本ではなじみの薄い人だ。 彼女の著作を見ると、詩や小説を書く文学者ではなく、ノンフィクションに徹したジャーナリストとしての評価が高い。
「戦争は女の顔をしていない」群像社 2008.7刊
第二次大戦に従軍し、男と同様に前線で戦った元女性兵士を取り上げた。
赤いマフラーが好きな女性狙撃手は、雪の戦場で相手の狙撃兵に撃たれて死亡する。
ハイヒールを手に持って逃げた女兵士。
女心を捨てきれずに戦場にかり出された哀れが切ない。
月経が止まり、男性用下着しか支給されないことにも理不尽を感じる。
男たちは戦争に勝ち、英雄になり、理想の花婿になった。
前線で女たちをかばってくれた兵士たちは、勝利を分かち合ってくれなかった。
悔しかった。理解できなかった。
前線で戦った女たちの哀しく、痛ましい姿にスポットがあたる。
「ボタン穴から見た戦争」群像社 2000.11刊
「頭からかぶったオーバーのボタン穴から爆弾が落ちるのを見ていました」。
第二次大戦下、
ドイツの侵略に飲み込まれたソ連白ロシア(ベラルーシ)で子供時代を過ごした人々101人の証言記録。
誰にも言いたくなかった、言っても解ってもらえない。
当時、3歳から15歳だった子どもたちの辛い思いを、
静かな目で掘り起こす著者の優しい姿勢が感じられます。
「アフガン帰還兵の証言」日本経済新聞社 1995.10刊
ソ連軍の軍事介入、突然のアフガニスタン侵攻。
10年間に渡ったこの戦争から、
派遣された若いソ連兵士たちの帰国後の苦しみや、
無意味な戦争のために息子を失った母親の悲しみが浮かんでくる。
国家の責任とか、戦争にいたった過程などには一切触れず、
戦争体験者の生の声を収集し、本にすることによって浮かび上がってくるのは、
戦争の悲惨さの中で多くの犠牲を強いられた民衆の生の声だ。
(2015.11.15記)
追記 出版社「群像社」極小出版社で同情や称賛の声が集まっている。
以下はHUFF POST SOCIETYの【群像社】ノーベル文学賞作家に増刷を断られた中小出版社 健気な声明 から一部を転載しました。
同社は、2015年のノーベル文学賞を受賞したベラルーシ人の女性作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチさんの著書のうち、「ボタン穴から見た戦争」「死に魅入られた人びと」「戦争は女の顔をしていない」の3冊を出版していた。10月8日のノーベル賞受賞を受けて、群像社では「戦争は女の顔をしていない」を1000部重版することを決めて、10月21日に取次搬入する予定だった。
しかし、アレクシエーヴィチさんの著作権を管理する代理人から「あなたの会社の権利が消えているため、増刷は認められない」と通知が届いたという。通販サイトAmazonでは品切れとなり10月22日現在、中古品が定価の7倍の約14000円で出品されている。
群像社は1980年に設立されたが、2010年以降は代表取締役の島田進矢さんが一人で経営していた。電話回線も一つしかなく、ノーベル賞受賞以降は注文が殺到して、電話とファックスは常時ふさがっている状態だったという。島田さんは、アレクシエーヴィチさんの本について「今後、あらたに版権を取得した出版社から刊行されることになると思います。小社の本をお届けできなかったみなさまには、ぜひ新しい装いの本でアレクシエーヴィチの作品をお読みいただければ、最初に刊行した出版社としても喜ばしいことです」とコメントを出した。
群像社のますますのご活躍をお祈りします。(雨あがりのペイブメント)
読書案内「チェリノブイリの祈り ―未来の物語―」
スベトナーラ・アレグシェービッチ著
2015年ノーベル文学賞受賞のドキュメンタリー文学。
1986年のチェリノブイリ原発事故に遭遇した人々の悲しみと衝撃の記録だ。
事故10年後の1996年から約3年を費やして取材したドキュメント。
淡々と語る被災者や遺族の姿勢は、決して暗くはない。
事故を乗り越え、10年前の事故の真実を淡々と語る。
この事故を徹底的に隠蔽し闇に葬ろうとする国の姿が浮かび上がる。
情報操作は徹底しており、
放射線量の高い現場で事故処理に従事する作業者にも危険性は知らされなかった。
3日間の避難と説明され手配されたバスに着の身着のままで乗り込み、
そのまま村に還れなくなった被災者。
村は閉鎖され、無人となり、廃村となった。
チェリノブイリ原発事故(ソビエト連邦 1986年) レベル7
核燃料の制御が聞かなくなり 原子炉暴走爆発。
死者4,000~9000人 放射能拡散は数百キロに及ぶ大惨事。原子炉建屋は石棺で覆われ、
事故後の廃炉作業は見通しがつかない。
放射能に対する無知と恐怖が、デマを伴い、
被曝者への差別に拡散していく事実は痛々しい。
被曝者への差別は医療機関にもおよび、二次被曝を恐れ治療を拒否する医療現場。
汚染された土地と知りつつ、ふるさとにとどまる被災者。
原発事故から10年を経過して訥々と事故の事実を語り始める民衆。
被災者たちのインタビューを記録し、
後世に残そうとしたアレクシェービッチが著書で読者に伝えたかったのは、
この悲惨な事故の記録を未来の人に伝えるためではなかったか。
二度と起こしてはならない、原発の危険性と恐ろしさを「未来への物語」として記録し、
私たちの子どもや孫や多くの子孫に語り継ぐ作業がノーベル文学賞受賞に繋がったのではないか。
(2015.11.14記)
どこかで生きている (ことの葉散歩道15)
もしかしたら、死ぬことは終わりではなく、 ほんのちょっと姿が変わっただけで、 どこか別の世界にいるのかもしれない。 「チェリノブイリの祈り」より 岩波現代文庫 スベトナーラ・アレグシェービッチ著 |
本書はチェリノブイリ原発事故から10年を経過した、1996年頃から3年を費やして事故の被害者からインタビューで採取した記録文学です。引用文は、「事故処理作業者の妻の告白」から。
強制退去させられ無人となった村々の電気を切って歩く作業に従事した彼は、
閉鎖された村々を、電柱に登り、家の屋根に上り作業を続けた。
防御服の支給もなく、放射能の知識もなく、もちろん線量計もなかった。
国の無責任が多くの村を無人にし、土で埋められ消滅した村、永久に人間が立ち入れないほどの高線量の放射能。
多くの人が死んだ。彼も死んだ。
死は一つの物体となり、放置すればやがて腐乱していく。
「死」が土に還る。
誰にも訪れる自然の摂理だ。
だが、愛する者を奪い取られた者にとって、「死」は忘れがたい。
楽しかった日々や、愛した者たちとの思い出に包まれ、時間が止まり、
愛しい人の死を容易に受け入れることができない。
やがて、少しずつ時が悲しみを癒し、喪うことの悲しみから、
居なくなってしまった人との「共生」という感情に変化していく。
人の死は、肉体の終わりであるが、妻との関係が終わったわけではない。
ほんのちょっと姿が変わっただけで、どこか別の世界にいるのかもしれない。
故人の妻は、このように思うことで、故人と共に生きていく術を身に付けていく。
愛しい人を失くし、心に深い傷を残すが、
人間はやがて、死の悲しみを乗り越えて立ち直り、歩いていくことができる。
その時、おだやかで静かな人生が開けてくる。
夜明け、私はベッドの上で東の山から登る朝日を眺め、
14歳で逝ってしまった孫の翔太郎のことを思う。
この一瞬に私は孫と話をすることができ、愛しい者の声を聞くことができる。
(2015.11.10記)