北越雪譜 ④ 番外編 「雪国を江戸で読む」近代出版文化と「北越雪譜」
森山 武著 東京堂出版2020.6初版刊
(図1) (図2)
三回に渡り岩波文庫版「北越雪譜」の「雪崩人に災いす」を紹介しました。
江戸時代の雪国で生活し、雪との戦いのなかで、人々が助け合い、
雪国の風習を活用しながら生きる姿の一部をご理解いただけたでしょうか。
さて今回は、「北越雪譜」が江戸で出版される経緯を(図1)から簡単に述べたいと思います。
「雪国を江戸で読む」は、サブタイトルが示す通り、どのようにして「北越雪譜」が江戸で
出版されベストセラーになったのかを、膨大な資料をあさり出版した本です。
言はば「北越雪譜」に関する専門書(学術書)ですから、ごく簡単に紹介します。
「北越雪譜」(図2)には、鈴木牧之 編撰 京山人百樹(きょうざんしんももき) 刪定(さくてい)
岡田武松校訂と書いてあります。岡田によると『翁(牧師のこと)は稿本の 刪定(編集・まとめ)を京山に
依頼し、挿画は翁が自筆のものを京山の子の京水が画き直したものだ』、と記録している。
私たちは通常、北越雪譜を描いた鈴木牧之、或いは鈴木牧之の北越雪譜という表現を用いている。
今日の多くの人にとって鈴木牧之は知っているが、江戸時代に活躍した京山は知らない人が多い。
本当のところは、原作鈴木牧之、構成・文 京山人百樹ということなのでしょう。
このことについて、「雪国を江戸で読む」の著者・森山 武氏は次のように引用文を載せている。
高橋実著の「京山と北越雪譜」からの引用文。
(北越雪譜の成立は)校訂者としての京山の力が大きかったことを認めざるを得ない。
越後人の感情としては、だれしも、京山の力がわずかで、牧之の自力で作り上げた本であって
ほしいと願う気持ちがはあろう。
しかし、当時の出版事情にうとい牧之に、それを期待すること自体無理なことであろう。
北越雪譜は、江戸戯作者山東京山の大きな力があったことはたしかである。
けれどもそうだからといって、鈴木牧之の存在価値はいささかも減ずることはない。
あれだけの大著を、粘り強く、江戸人との煩わしい交渉も厭わず、
見事に作り上げ出版して広めた点において、
牧之はやはり非凡な人というべきであろう。
著作者をめぐる問題で、森山 武氏は「滝沢馬琴」の手紙を紹介し次のように述べています。
出版直後の天保8年8月付の滝沢馬琴が友人にあてた手紙で、この本は「牧之作のつもりは、
実は京山の文」と書いています。このことが正しいのかどうかは分かりませんが、私は高橋実著
の 「京山と北越雪譜」の解釈(前掲色字部分)を採りたいと思います。
更に、森山氏は京山研究者の津田眞弓の研究結果を次のように引用しています。
……それで(京山が手を加えたとしても)原作者の牧之という人の価値が変わるわけではない。
全ては牧之の一途な故郷への思いと、壮絶な豪雪の中の暮らしや越後の素晴らしさがなくして
(この本)は成らなかった。
そして彼が我慢強く注文を付け続けたから、
京山の筆を牧之が書いたと誤解させるほどにしたのだ。
むしろ、この二人の長いやりとりこそが、刊行された「北越雪譜」にとってじゅうようなこと。
……それは商品としての成功である。
最後に、「雪国を江戸で読む」の著者・森山 武氏の文を紹介して稿を閉じます。
北越雪譜には複雑な事情がある。この本は京山の前に馬琴が関わり、
他に江戸の絵師・鈴木芙蓉や大阪の版元・岡田玉山などが関わっていたのだが、
そもそも、この企画は山東京伝(江戸時代後期の浮世絵師、戯作者)が興味を示して
始めた企画だった。
牧之が京伝に(出版の)可能性を打診してから、「北越雪譜」初篇の刊行まで40年が経過した。
牧之・京山の協働が実を結ぶまで、なんと4人の中央の作家が関わり、引き受け、
しかし中止になることを繰り返した末に成り立った本だった。
日本出版文化史上、最も複雑な経緯を辿って生れ出た刊本のひとつである。
私は昨年、牧之の故郷を訪ね晩秋の「牧之が歩いた道」を散策した。
静かな山村の車の通りの少ない鄙びた道を歩きながら、やがて冬が来ればこの地を
豪雪が被いつくし、おそらく今でもひっそりと暮らす雪国の生活が繰り広げられるのだろう
と思いを馳せる一方で、雪との闘いに明け暮れる雪国の人々の苦労を思いながら、
宿に向かった。
閑話休題 「一度も貸し出しされなかった本」 |
(読書案内№165) (2012.1.25記)