雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

マグロが危ない

2017-03-22 10:00:00 | 昨日の風 今日の風

マグロが危ない 漁獲規制違反

  寿司は寿司屋のカウンターで好きなものを食べる。
  二十歳代からの習慣だった。
  大トロをはじめ、アワビ、ウニなどを自慢気に注文することに、
 快感を味わっていた時代が長く続いた。
 特にマグロの大トロはどの寿司屋に行っても注文をした。
 グルメ指向でもないのに見栄がわたしの心をくすぐったのだ。

 回転寿しなどない時代の懐かしい思い出である。
 今では寿司屋のカウンター座ることもなくなり、
 頻繁に回転寿しを利用している。
 寿司と言えば、「まぐろ」という指向は今も変わらない。

   太平洋クロマグロ(本マグロ)
   近年このクロマグロが激減している。
   太平洋クロマグロは14年に、
   絶滅危惧種に指定される(国際自然保護連合・IUCN)。
   中部太平洋マグロ類委員会(WCPFC)も、
   小型の太平洋クロマグロの漁獲量を半減することを決めた。

   これを受けて日本では、
   操業を「承認制」とし、
   15年からは日本の沿岸ごとの漁獲上限が設けられた。
   水産庁は上限を超えた場合は、
   自粛を求める措置をとっている。

   だから、次のような違反が起きてしまう。
   マグロ漁獲規制すり抜け
     長崎・三重で発覚 国が全国調査 (朝日新聞1/14付)
      
長崎県対馬市の漁船16隻が、
     マグロ漁に必要な承認を受けずに3カ月にわたって計約12㌧を水揚げし、
     「承認を受けていない船が我も我もと漁に出てしまった
(対馬町漁協幹部)。
      その結果マグロ水揚げ量は近年、年間1~4㌧だつたのが、100㌧に急増してしまった。

      三重県の割り当てられた漁獲量は約23㌧だったが、
      自粛要請にもかかわらず昨年12月までに約53㌧を水揚げしてしまったと報道は伝える。
    
   本マグロ漁違反
     新に8県確認 水産庁 (朝日新聞2/4付)
                    長崎・三重の漁獲違反を受けて水産庁が全国調査した結果である。
       本マグロは地元の漁業協同組合が漁獲量を都道府県に報告することが義務づけられている。
       しかし、岩手、宮城、千葉、新潟、静岡、和歌山、熊本、鹿児島の8県で水揚げされた約10.9㌧は、
       報告がなかったり、漁獲の実態を把握していなかった。

       規制の周知不足や、漁業者の規則を守る意識が低いことなどが、
       その理由だと水産庁は見ている。

       だがそうではないと私は思う。
       大きな誤りは、サンマやマアジなど7魚種は、罰則付きの漁獲制限が行われているのに、
       この取り決めには罰則規定がない、ということではないか。
       
       自治会や趣味の同好会などの約束事とは異なる。
       漁獲には生活がかかっている。
       金銭が絡んでくる。
       自粛措置というのは、罰則規定がない、
       つまり、早いもの勝、獲った者の勝ということになりかねない。

       何でもかんでも、規則や罰則でがんじがらめにしてしまっては、
       生きずらい社会になってしまう。
       本マグロの操業を「承認制」にし、漁獲量を規制することは、
       決して漁業関係者を苦しめる意図のもとに考えられたわけではない。

       本マグロの保護と本マグロ漁業の将来を維持するための規制であることを忘れてはいけない。
       
       再発を防ぐため、
       違反に罰則措置もある漁獲可能量制度を来年にも適用する方針を水産庁は打ち出した。

       罰則のないことをいいことに、違反者がでて資源の枯渇を防ぐことができないのなら、
       やむを得ない措置なのではないか。

       資源を獲り尽くし、種の絶滅を招くようなことがあれば、
       それこそ取り返しのつかない過ちを我々は冒すことになるのだから。
                                  (2017.03.21記)
         (昨日の風 今日の風№69)

       

 


      


      



   

   

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追悼・船村徹 (11) さよなら 船村徹

2017-03-20 08:32:27 | つれづれに……

追悼・船村徹 (11) さよなら 船村徹
 
    船村徹は、2017年2月16日に亡くなった。
 その告別式が2t月23日、東京の護国寺桂昌殿で営まれた。

 告別式当日は小雨が降っていました。
「春を呼ぶやさしい雨」と司会者が表現していたように、
早春のやさしく、憂いを含んだ雨でした。

 護国寺桂昌殿の近くには、キングレコードの会社が近くにあります。
キングレコードは、船村徹と高野公男の二人が作った「別れの一本杉」を制作した会社でもあり、
音楽活動の出発点となった会社です。
当時苦学生の二人が、酒を飲み音楽への熱い思いを語り合った場所でもあります。

また、船村が生涯活動をつづけた「うた供養」の最初の場所が護国寺でした。
この活動は、『音楽界の仲間を追悼し、
いい歌にもかかわらずヒットに恵まれず埋もれていった歌を供養する』というものでした。
 
 この二つの理由から文京区の護国寺が葬儀会場として選ばれたようです。

祭壇のデザインは、雪を抱いた日光連山とお花畑をイメージして造られていました。
2015年に建てられた「船村徹記念館」の窓からはきっとこのような風景が広がっていたのでしょう。
28,000本の花々が祭壇を彩っています。

 故郷・栃木の雪をかぶった日光連山の上には、
「みだれ髪」(美空ひばり)の歌いだしの楽譜が掲示してありました。
船村氏の直筆楽譜だそうです。

 故郷・栃木県塩谷町松井酒造の日本酒「男の友情」や遺作となった
舟木一夫作詞の『都会のカラス』の直筆譜面も飾ってありました。(歌・村木弾 4月19日コロムビアから発売)。

 2016年には文化勲章を受章。天皇陛下より祭粢料(さいしりょう)を賜っていました。

 3名の方が弔辞を読まれましたが、内弟子の同門会会長である鳥羽一郎さんの弔辞が、朴訥で印象に残りました。


 鳥羽一郎さんの弔辞全文
  「たとえば俺が死んだなら、命の全てを灰にして、北の空から撒いてくれ」
  1年前、先生は俺にそんな歌詞の歌を歌わせて…
  あれは辞世の歌だったんですか? 遺言だったんですか?
  内弟子3年。その後もずっと俺の生き方・考え方を俺はぜんぶ教えてもらいました。
  先生は世界一の親父です。自分の神様です。
  心配や迷惑ばかりかけましたが、俺は親父の不肖の息子です。
  76曲も俺は親父の曲をもらいました。いちばん多くもらいました。
  そして、いちばんいい歌をいただきました。
  おやじ、ありがとうございました。それが俺の宝です。俺の自慢です。
  2月16日、親父の魂は俺のからだの中に入りました。
  俺は生涯、親父といっしょです。そして、いっしょに歌っていきます。
  同門会のみんなも同じだと思います。俺はそう覚悟を決めました。
  おやじ、それでいいんでしょう? それでいいんですよね?

            弔辞の最初に引用された歌は、
           「悠々と」(作詩・池田充男 作曲・船村徹 唄・鳥羽一郎)という歌です。
             引用は一番の冒頭ですが、二番に次のような詞が続く

     たとえば遠い旅に出て
     そのまま人生終われたら
     俺にして見りゃ悔いはない
     嘆くな泣くなわが妻よいとし子よ
     わかれていくのもまた定めまた定め

 喪主の挨拶が終り、静かにリムジンの霊柩車が入口に到着です。
 いよいよお別れの時が来たのです。
   鳥羽一郎氏の持ち歌である「おやじ」を、
   担ぎ手全員で歌いながら棺は霊柩車に載せられました。

 いよいよ車は火葬場に向かいます。
 そこに流れてきた歌は、船村が作曲し、26歳で夭折した親友・高野公男が作詞し、
  春日八郎が唄った故人の出世作「別れの一本杉」でした。

     泣けた泣けたこらえきれずに泣けたっけ
 「望郷の歌」が「お別れの歌」代わった瞬間でした。
 同時に、船村徹という大作曲家の終焉の時でもありました。
 でも、船村と高野の青春の友情物語は永遠に語り伝えられるのでしょう

  リムジンの霊柩車が去り、親族の乗ったハイヤーやマイクロバスも後を追って斎場を後にします。
   野辺送りの会場に繰り返し流れていた「別れの一本杉」の歌も途絶え、斎場は静かに幕をし閉じようとしています。

 参列者や多くのファンたちが護国寺から、雨あがりの街の中へと散っていきます。
 昭和の時代の名残りがまた一つ消えていきます。 

 さよなら、船村徹。
 そして、高野公男。


        ※ 参考文献
      演歌巡礼         船村徹著  博美館出版
      歌は心でうたうもの      〃   日本経済新聞社
      酒・タバコ・女そして歌    〃   東京新聞出版局
      昭和演歌の歴史      菊池清麿著 アルファベータブックス
      歌のなかの東京      柴田勝章著 中央アート出版
      昭和の歌手100列伝    塩澤実信著 北辰堂出版
      不滅の昭和歌謡        〃
             船村徹に関しては、「歌は心でうたうもの」がお勧めと思います。

   ※ 追悼・船村徹の連載は11回を数えることになり、私の想いは、
    回を重ねるごとに感情過多になり、
    時には饒舌な文章になってしまったところもありました。
    最後まで、読んでいただいた読者の皆さんに、
    「ありがとう」の一言です。
            (2017.03.19記)     (終り)
                                 (つれづれに……心もよう№56)

 

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追悼・船村徹 (10) 高野は故郷の土に眠る

2017-03-16 13:58:07 | つれづれに……


追悼・船村徹(10)  高野は故郷の土に眠る
          
            国道をそれて山道を入って行く。
      まばらに人家と石屋さんの工場があるのみで、写真のような林が
      続いている。道路は大郷戸の集落と隣接する集落を繋ぐための生活道路だ。
      観光客やこの周辺に関係のある人以外には通らない道だ。
      「別れの一本杉」の歌碑と地蔵があることなど土地の人以外には知らないだろう。
     案内板もない。
     山間の道がそろそろ終わり、大郷戸の集落に近くなったころ、
     歌碑と石の地蔵さんと一本杉が現れる。

      


       高野が作詞した「別れの一本杉」の歌碑のわきには
   船村の自筆で次のように記されている。
   
     公男の歌魂は
        とこしえに
      ふる里の山河に
                
ねむる

                         平成十五年  秋
                               船村 徹
 
   
   歌碑の後ろに立っている杉の木の根元には、小さなお地蔵さんが祀られていました。
  明らかに、歌碑を建てた人とは別人が設置したように思われます。
  この一帯は御影石の産地で、
  加工場も多く誰かが若くして夭折した高野の業績を偲び設置したように思われます。
  礎石もなく花立もない。石と石の間に差し込まれた季節外れの造花がそれを物語っています。

  

  「別れの一本杉」と「男の友情」に思いを馳せる人が、ひっそりと設置したと思えるような
  ♪♪石の地蔵さん♪♪です。


   大郷戸の集落に入ると、前方左手に山の斜面にへばりつくように造られた墓地を
   発見する。小さな集落だから個人の墓地以外は、「集落(地区)の墓地」として
   管理されているに違いない。
    一本杉地蔵がそうであったように、高野の墓も案内板など何処にもない。
   道路わきに車を止め斜面の道をゆっくり登っていく。
      

    
      斜面を登ったいちばん奥に、高野家の墓はあった。
  この斜面を登っていくとやがて村社が現れる。境内は広々としており、
  子どもたちの格好の遊び場所になるような空間だ。
  おそらく、高野少年もこの境内で、棒切れなどを持って遊びまわったのだろう。
     
   




  
   高野家の墓所。
   ここにも船村が高野に呼びかけた
   「友よ 土の中は 寒いのだろうか……」の全文が掲げられている。
   【全文は、追悼・船村徹(7
) 船村と高野 絆の譜に掲載してあります
   「別れの一本杉」歌碑があり、次のような碑も建っていた。
   高野公男(吉郎)の譜

         昭和五年二月六日 茨城縣笠間市大郷戸〇〇〇番
   地に生まれる。昭和二十年三月 西茨城郡北山内
   
尋常髙等小学校を卒業後、上京、小松川工業髙校
    向島工業髙校を経て東洋音楽学校に入学、詩作
   の道に入る。音楽学校時代の親友 船村徹と共に
   作詩、作曲のコンビを組み、戦後の日本歌謡界不
   朽の名作と云われる「別れの一本杉」を始め「あ
   の娘が泣いてる波止場」「男の友情」「早く帰っ
   て」「ハンドル人生」「ご機嫌さんよ達者かね」
   「三味線マドロス」等、多くの名作を残す。
   昭和二十九年初夏、胸を病み、親友船村徹と
   の数多い友情物語を残し、昭和三十一年国
   立水戸病院にて没、二十六年間の短くも悲しい
   ドラマはおわった。見知らぬ人の歌声と共に
         ※「大郷戸〇〇〇番地に生まれる。」と碑面にあり、正確な
           番地も刻んでありましたが、観光目的の墓所ではないので
           伏字にしました。 

    
       後ろ髪惹かれる思いで、大郷戸の集落を後にしました。 
                                     (つれづれに……心もよう№55)

   次回は最終回です。船村徹の葬儀の様子を紹介します。
                          (2017.03.16記)

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追悼・船村徹 (9) 別れの一本杉歌碑

2017-03-14 06:00:00 | つれづれに……

追悼・船村徹(9) 「別れの一本杉」歌碑

 工芸の丘の「絆の碑」顕彰碑の隣に設置されている「別れの一本杉」歌碑


 

 歌碑右側「別れの一本杉」の歌碑。作詞者高野公男の自筆である。


 左側は作曲者・船村徹自筆の譜面。


 
この碑の裏面には船村徹の高野へのメッセージが刻まれている。


  高野よ
  君と俺との人間の記録をこの山深い
  城跡の石に托して刻みこんでおこう
  君はここ故郷の土に還った
  俺もいずれは舟生の里の土に還るだ
  ろう
  それからも また山や河には同じような
  花が咲き同じような小鳥が唄うだろう
  そして なァ 高野
  君と俺との友情は永遠に消える
  ことなく
  人間の魂の歌を奏でつづけるだろう
    心静かに眠れよ 高野
     一九六四年   初秋
            船村 徹

  ※ 「舟生の里」とは、栃木県舟生村、現塩谷町で、船村の生まれたところ。
    「俺もいずれは舟生の里の土に還るだろう」と石に刻んで高野に呼びかけた
    船村も平成28年2月16日、舟生の土に還り、高野の元へと旅立ち不帰の人となった。


      工芸の丘・歌碑の立つ高台から望遠する高野の故郷は、
     画面奥の山間の村「大郷戸」である。

   
        (2017.03.13記)                         (つづく)
     次回は高野公男の故郷に「別れの一本杉」の歌碑と、高野が眠る大郷戸の墓所を訪ねます。

(つれづれに……心もよう№54)

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追悼・船村徹 (8) 船村と高野 絆の譜(2)

2017-03-12 20:34:32 | つれづれに……

追悼・船村徹 (8)
     船村と高野 絆の譜 (2)

 前回は茨城県笠間市の工芸の丘にある「絆の譜」を紹介しました。
 早世した高野公男への船村徹の思慕がどんなに強かったか。
 前回紹介した、「友よ 土の中は寒いのだろうか」を読んでいただければ
 理解できるのではないでしょうか。

 今回はこの「絆の譜」碑面の裏面を紹介します。

             「恋人の聖地」から見あげる「絆の譜」です。


   「絆の譜」顕彰碑の裏面です。「男の友情」の歌詞があります。
    「男の友情」の詳細については、『追悼・船村徹(3)(4)の「男の友情」(1)(2)』を参照してく
     ださい。それぞれ2/24、2/26で紹介しております。

 碑面右下には、「主な作品」として高野公男の作詞した歌が刻まれている。
 いずれも高野と船橋のコンビの作品です。作品発表年度と歌手名をあげておきます。

  ハンドル人生     昭和30年 若原一郎
  泣き虫人生        〃   春日八郎
  ご機嫌さんよ達者かね   〃   三橋美智也
  あの娘が泣いてる波止場  〃    〃

  別れの一本杉       〃       春日八郎
  早く帰って      昭和31年   青木光一
  男の友情          〃    〃     
  黒いコートの女    昭和32年 織井茂子
  三味線マドロス    昭和33年 美空ひばり
  さすらい夜曲      不明           不明
  
 
 高野公男が26歳で夭折したのは、1956(昭和31)年9月8日である。
 春日八郎の「別れの一本杉」が売れ始めるころ、高野は死の床に着き、
 船村はその高野を週末には国立水戸病院まで欠かさず見舞いに訪れていた。
 高野は「別れの一本杉」が大ヒットとなり、
 作曲家・船村と作詞家・高野のプロとしての出発点になっていくことを知らずに他界した。 
 
 
  「別れの一本杉」余話
   昭和30年春日は、「赤いランプの終列車」、「お富さん」などで人気歌手になっていたが、
   後が続かず、悶々とする思いでいた。
   そんなある日、
   春日はキングレコードに売り込みに来ていた船村と高野が持っていた作品に目を止めた。
   その時、春日は、二人が音楽学校で自分の後輩だったという意識があったのかどうか。
   どの資料を漁ってもこの場面の春日の心境を物語る資料は発見できなかった。
   キングレコードでの偶然の出会いに、幸運の女神がこの三人に微笑んだのだ。
   以下は、塩澤実信著の「不滅の昭和歌謡」からの引用である。

 



    通常、無名の新人の習作など、人気歌手は鼻にもひっかけないのだが、
   春日は高野、船村が持ち込んだ曲を聴かせてもらったところ、
   「泣けたっけ」が自分のフィーリングに合っているのを直感し、
   「うーん……この曲はいい!歌わせてくれませんか。これは絶対にいける!この曲で、また勝負だ」
   と叫んでいた。ー略ー 
   
レコードにするに当たって「泣けたっけ」のタイトルから「別れの一本杉」に
   改題された。
   
春日は、この土の匂いのする「別れの一本杉」を歌って、後輩のデビューのきっかけを
   作ったのだった。
 


 左端には次の碑文が読み取れます。
 顕彰に当たって
   この顕彰碑は、夭逝した不世出の作詞家、高野公男
  の功績を次の世代に残すために建立しました。
  作曲家、船村徹専戦意ともに先生とともに歌謡界の新境地を開拓し
  ていったその足跡は、芸術、文化、歴史の街である笠
  間市の誇りであり二人の「友情の深さ、思いやり、
  その尊さ」が、将来をになう青少年の情操教育の一環
  になることを願っております。

   今回、高野公男と船村氏が初めて笠間を散来した思
  い出深い、富士山の山頂に建立された「別れの一本杉」
  の歌碑(昭和三十九年)を移設し、さらに賛同をよせて
  下さいました市民の皆様方のご協力と実行委員会によ
  り新たに「絆の譜・友よ…」という顕彰碑を建立いたしました。

   笠間市に生まれ、地元の笠間市立箱田小学校を卒業
  し、東京に出てからもこよなく故郷を想う温かい心を持ち続けていた高野
  の顕彰碑が四十七回忌の今日、船村先生はじめ、笠
  間市並びに多くの市民、各種団体の方々のご理解とご
  協力により完成しましたことを心より感謝いたします。

   この顕彰事業により、故郷「笠間」の素晴らしさと、
  友情の尊さが広くご理解いただけますことを切に望む
  ものです。

      平成十五年九月二十八日
         高野公男顕彰実行委員会
           委員長 塙 東男
           施工 〇〇〇〇〇〇
 

    『「友情の深さ、思いやり、その尊さ」が将来をになう青少年の情操教育の一環になることをになって』と碑文にあるように
    この船村と高野の「友情物語」は高野の卒業した笠間市立箱田小学校にその精神は受け継がれている。
                                                                                     
(2017.03.12記)     (つづく)

   次回は同じ工芸の丘にある「別れの一本杉」歌碑について紹介します。 

   

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追悼・船村徹 (7) 船村と高野 絆の譜

2017-03-07 11:08:36 | つれづれに……

追悼・船村徹 (7) 
  船村と高野 絆の譜

  工芸の丘の一番高いところの美原氏の良いところに、高野公男顕彰碑がある。


この道を上がれば……


高野公男顕彰碑と別れの一本杉歌碑がある。

これは、「絆の譜」です。
 碑面上左側は船村徹の写真、右
は高野公男の写真




碑面左下には「友よ」と親友・高野公男に呼びかけた船村徹の自筆の碑文がある。



     友よ 土の中は
      寒いのだろうか
     友よ 土の中には
      夜があるのだろうか
     もしも
      寒いのならば
       俺のぬくもりを
        わけてあげたい
     もしも
      夜があるのならば
       俺の手で灯りを
        ともしてやりたい
     友よ 俺の高野よ

      こおろぎの
       よちよち登る
        友の墓石

       昭和四十四年秋   船村徹

  碑面右下には「絆の譜」の顕彰文がある。

      絆の譜
    高野公男(本名 高野吉郎)は、昭和5年に
   北山内村(現 笠間市)大郷戸に生まれ、北山
   内国民学校(現 笠間市立箱田小学校)を卒業
    昭和二十四年上京、東洋音楽学校(現 東京
   音楽大学)に入学、そして船村徹と宿命的な
   邂逅(かいこう)をする。高野公男十九歳、船村徹十七歳
   であった。
    敗戦後の瓦礫と化した東京で地べたを舐め
   るような赤貧とたたかいながら、高野、船村
   の作詞作曲のコンビは、望郷歌謡の新境地を
   開拓し、昭和三十年に春日八郎氏の歌唱を得
   て世に問うた「別れの一本杉」の大ヒットに
   より彼らの地位は不動のものとなった。
    しかし高野は病にたおれ、草石の効もなく
   昭和三十一年9月8日、この世を逝っ
   た。二十六歳であった。
    船村は、「高野と共に生きた七年間が、私
   のすべてであった」と。
    夭折した天才詩人、高野公男を偲び、彼の
   偉業と船村との「男の友情」に敬意を表して、
   高野の生家のある大郷戸が望遠できる、ここ
   工芸の丘に「歌の石ふみ」を建立し、生生世
   世、顕彰するものである。

  小高い丘の上に立つこの顕彰碑は、西側と北側の一部が望遠できる。
  北側の山際が高野が育った大郷戸の集落だ。
  大郷戸の集落は、家こそ新しく建て替えてあるが、
  生活環境は高野が生きた時代とあまり変わっていないのだろう。
  集落と集落をつなぐ道路が一本通っているだけで、
  信号もなければ、コンビニもない鄙びた郷がひっそりと佇んでいる。

  青雲の志を立て、高野はこの大郷戸の集落から東京に向かった。
  そして、船村との運命的な邂逅が訪れる。
                 (2017.03.07記)     (つづく)

        ※ 次回は「絆の譜」碑面の裏側を紹介します。


      
 

     














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追悼・船村徹(6) 高野公男との「男の友情」

2017-03-02 17:23:47 | つれづれに……

追悼・船村徹(6) 高野公男との「男の友情」
    
     「男の友情」についてはこのシリーズ(3)(4)で紹介しました。
        興味のある方はご覧ください。
        今回はゆかりの地を訪れ、歌碑や顕彰碑を紹介します。

  高野公男のふる里の最寄りの駅は
  上野駅から東北線に乗り途中乗り換えて、水戸線羽黒駅まで約2時間。
  現在業務委託駅になっており、利用者が1日平均620人の小さな駅である。
(現在の羽黒駅前広場) 左正面の建屋が駅舎 右側端の小さな瓦屋根は駅トイレで、ここに「男の友情」の歌碑と「友情の譜」の顕彰碑がある。『男の友情・友情無限』

 裏面に「友情の譜」の顕彰碑がある。
 
友情の譜
 二十六歳、あまりにも短い人生を閉じた
 薄幸の天才詩人高野公男、作曲家船村徹は
 喜びも悲しみもともに分かち合う一心同体、ま
 さに二人三脚そのものでありました。
 高野公男の名は吉郎。昭和五年北山内村
 (笠間市)大郷戸生まれ。昭和十九年北山内
 国民学校卒業。昭和二十四年東洋音楽学校
 (現東京音大)入学。
 同じころ栃木県出身船村徹との運命的な出
 合いが始まりました。同じ田舎っぺ同志が意気
 投合し、無名の青年作詞家と作曲家が、苦節
 の中から、コンビの作品をつぎつぎに発表し
 名曲「別れの一本杉」が昭和三十一年大ヒ
 ットしました。そのころ高野公男は、病重く
 青春の夢もはかなく、今まさに、命絶えんとす
 る病床に、望み得ることなく羽黒駅の片隅で
 船村徹と手を取り合い、泣いて別れた過ぎし
 日を思って、綴った絶筆「男の友情」が残さ
 れました。
 ここゆかりの地羽黒駅前広庭に建てた、
 友情の歌碑が、広く青少年の心のかてになれば
 幸いに思います。

   平成十五年四月二十九日
   歌碑「男の友情」建設委員会
    施工(有)秋葉石材店


 「男の友情」    作詞 高野公男  作曲 船村徹

(1) 
昨夜(ゆんべ)も君の 夢見たよ
   なんの変わりも ないだろね
   
 東京恋しや いけぬ身は
      
背のびして見る 遠い空
      
段々畑の ぐみの実も 
      
あの日のままに うるんだぜ

 

(2)  流れる雲は ちぎれても
      
いつも変わらぬ 友情に
      
東京恋しや 逢いたくて
      
風に切れぎれ 友の名を
      
淋しく呼んだら 泣けてきた 
      
黄昏赤い 丘の径(みち)

 

(3)  田舎の駅で 君の手を 
      
ぐっとにぎった あの温(ぬく)
      
東京恋しや 今だって
      
男同志の 誓いなら
      
忘れるものかよ この胸に 
      
抱きしめながら いる俺さ

  「男の友情」は船村徹やその弟子北島三郎、鳥羽一郎、他にちあきみのる、美空ひばりなどが歌っていますが
 私は歌手・船村徹のギターの弾き語りとちあきなおみの歌が好きです。

 羽黒駅は小さな駅です。この駅から高野公男の故郷は4キロぐらいでしょうか。タクシーなどなく、
 二人は山峡の鄙びた大郷戸まで歩いたのでしょう。
 療養中の高野にとって、この道は体に応える道のりだったことでしょう。
 駅までの送りを辞退する船村の好意を振り切り、
 駅に送って来る高野の気持ちを絶筆「男の友情」にしたためたのでしょう。

 これが最後の別れになるかもしれない。
 そういう思いを、三番の歌詞に託したのでしょう。
 握った手のぬくもりを、高野はこれが最後になるかもしれないと思う。

 切なくて、辛い思いが伝わってきます。
                           (つづく)

   (2017.03.02記)

 

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