雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

映画「さまよう刃」を観て(4)の(4) 被害者の心の傷

2010-10-30 22:15:18 | 映画
 カメラがターンして、路上に倒れた長峰(寺尾聡)を映しだし
 アップになった身体から血が流れ出してくる。

 「あぁ…」と、予想していた結末だったが、
 落胆するような感情が私を襲いました。

 以下、原作に沿って話を進めます。

 「お前の判断は間違っちゃいない」と真野刑事(伊藤四郎)は
 若い刑事・織部(竹野内豊)を勇気づける。

 だが、織部は逡巡する。
 「本当にそうだろうか。菅野(殺人少年犯)を守るために俺は長峰を撃った
  本当にそれでよかったのだろうか」と。

 少年法は少年を裁くための法ではなく、
 間違った道に進んでしまった加害者・少年に救済の手を差し伸べ
 更生の道を歩ませることを目的としている。

 確かに主旨は理解できる。
 しかし、
 『被害者の心の傷は誰が癒すのか、
 という視点が現在の法律からは抜け落ちている。
 子どもの命を奪われた親に、犯罪少年たちの将来を
 考えろというのは、あまりに酷ではないか』と、原作は訴えています。

 
 少年法の下で加害者保護が行なわれ、報道の自由なども制限されている。
 こうした「加害者の保護」が果たして、もっとも優先されるべきものなのか。

 この「映画」や「原作の小説」は
 こうした疑問を私たちに突きつけているようです。
 
 映画には臨場感があり、
 観客を上映時間の枠の中で
 ぐいぐい引きつけていく。

 撃たれた長峰は死んでしまったのか…

                 (つづく)

      (友人・知人へのはがきをブログ用に編集して記載)
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映画「さまよう刃」を観て④ー③殺したいほど憎い

2010-10-20 08:33:26 | 映画
 ① 長峰が少年犯を仕留めた銃声。
   愛娘を殺され、生きる希望を失くした長峰にとって、
   少年犯を追いつめ
   警察の逮捕前に少年の命を奪うことによって
   娘の無念を晴らす。

   心情的には
   かなり長峰に同情的であり
   長峰の悔しさを共感し
   感情移入した結果が①を指示することになるのでしょう。

  少年犯のうちの一人をすでに殺している長峰もまた殺人犯として
  警察に追われる身である。

  二人目の少年犯を殺すことによって、
  本当に「無念」を晴らすことができるのか……
  ちょっと虚しい気持ちが残ります。

  殺伐とした長峰の心境に、
  救われないな…と私は思います。

  殺したいほどの憎しみが
  殺人という行為で終わってしまうには
  ちょっとせつない気がします。

  ②③のように長峰が警察の手によって死んでしまうことには  
  どうしても素直になれない心情があります。

  しかし、長峰もまた殺人犯であり
  心情的に許したとしても法治国家のもとでは
  許される行為ではありません。

  映画では③、原作では②ということになります。
  
  しかし、この物語はまだ終焉を迎えたわけではありません。
 
                          (つづく) 

    (友人・知人へのはがきをブログ用に編集して記載) 


  

  
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桜田門外の変(1)

2010-10-16 20:41:31 | つれづれに……
井伊家では、
以前より水戸浪士などに不穏な動きがあることを察知していたが、
大老井伊直弼は、護衛の強化は、
勅許を得ないで外国との条約を締結したことへの非難や
安政の大獄における徹底した弾圧など
失政のそしりに動揺したとの批判を招くと判断し、
あえて護衛を強化しなかった、といわれている。

 しかし、彦根井伊家18代当主・井伊直岳(なおたけ)氏は
水戸徳川家15代当主・徳川斉正(なりまさ)氏との対談の中で
次のように述べている(歴史街道・11月号)。

 「事変の当日、直弼公は襲撃の動きがあることをつかんでいましたが、
 あえて行列の供廻(ともまわ)りを増やしていません。
 大老の立場で、幕府の定めた人数のルールを破るわけにはいかなかった。
 気真面目ともいえますが、ある種の覚悟がなければできないことでした」と。

   かくして江戸城桜田門にほど近い彦根藩邸の
  俗に「赤門」と言われるひときわ大きな門扉が重々しく開き、
  大老・井伊直弼以下20数名の徒士(かち)とおよそ40名の足軽などに守られた
  登城の行列が動き出す。

  徳川幕府の瓦解の歯車が、
  明治という時代に向けて
  回り始めた瞬間である。


        2009年は水戸藩開藩400年の年であり、
        茨城県では、この記念すべき年のイベ
        ントとして吉村昭原作の「桜田門外の変」
        を映画化することを計画しました。
        映画は本日公開です。
        
        今年は「桜田門外の変」が起きた年(1860年)
        から150年目にあたります。
        この事変に加わった水戸浪士17名と1名の薩摩藩士
        がなぜ命をかけて井伊大老の暗殺を企てたのか。

        この事件を契機に日本は幕末という時代背景を舞台に、
        当時の水戸藩が先駆けとして示した水戸学を基本にした
        「幕政改革」の狼煙(のろし)が、やがて倒幕運動に発展
        し、日本に大きな転機をもたらしました。

        守るべきものは
        命をかけて守る姿勢を貫いた
        武士の生き方が
        浮かんできます。
              
                     (つづく)

 

  
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映画「さまよう刃」を観て④-② 誰が撃った銃声だったのか

2010-10-08 19:42:28 | 映画
 銃声一発
 誰が撃った銃声だったのか。

 ①長峰が少年犯を仕留めた銃声だったのか。
  復讐の鬼と化し、再び殺人の罪を犯す長峰。
  心情的にはこうした長峰の行動には、
  観客はどこかでついていけないものを感じる。
  それはおそらく、長峰にこれ以上の罪を負わせたくないという観客の
  切ない願いなのかもしれない。
  そして、この結末は警察の敗北に繋がっていく。

 ②若い刑事織部が長峰を撃ったのか。
  愛娘を殺された長峰に同情的であり、
  法の矛盾と冷たさを感じていた織部だったが、
  法を尊守する刑事としての苦渋の選択が長峰に向かって
  引き金を引かせたのか。
  織部の意識の変化は、彼自身の成長ととらえることができる。

 ③場面中央寄りに両手を下げて、
  不動の姿勢をとっている真野刑事の拳銃が火を噴いたのか。
  (映画「さまよう刃」を観て④-②の写真参照)
  長峰に同情すべき点はあるが、法は法。
  冷静沈着な真野の拳銃が長峰を撃ったのか。
  プロとしてのベテラン刑事真野の仕事ととらえることができる。

  ①~③のどれをとっても、観客を納得させる合理性がある。
  さて、あなたは①~③のどれを結末としますか。
  結末は哀れであり、観客にこれでいいのかと、問題提起をする。

  写真は原作本(角川文庫)。原作も奥が深く、面白い。
                         
                          (つづく)
        
       (友人・知人へのはがきをブロクように編集して記載しました)
  

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映画「13人の刺客」を観て シリーズ映画№1

2010-10-01 06:54:36 | 映画
ラスト50分の壮絶な死闘が話題を呼んでいる。

 明石藩300人の参勤交代の行列をたった13人の刺客で襲撃し
 最強の暴君・松平斉韶(なりつぐ)を暗殺せよと
 密命を帯びた13人である。

 刺客の筆頭は島田新左衛門(役所広司)、補佐に永倉左平太(松方弘樹)、
 剣豪の浪人・平山九十郎(伊原剛志)と個性的なキャストを揃えての襲撃である。

 (役所広司は終始いい味を出しているが、戦闘シーンは何と言っても松方弘樹の
 流れるような殺陣が素晴らしい)

 13人対300人の死闘が延々と続く。

 確かに「暴力の美学」「破壊の美学」という視点で観賞すれば、
 男性路線映画として成立するだろう。

 しかし、『武士道とは何か、大義とは何か』という視点で考えてみると、
 襲撃する側も、それを阻止する側も
 「武士として華々しく命を散らす大義」が欲しかったのではないか。

 斬って斬って斬りまくる。
 
 山峡の宿場町全体を戦場にして
 爆薬を仕掛け、破壊し、
 敵も味方も狂気にまみれて死闘を繰り広げていく。

 たとえ暴君であろうと主君は主君。

 命をかけて暗殺を阻止する側にも
 武士として命を賭する大義がある。
 
 自分の信念のために全てを捨てて行動する男たちの美学があり、
 
 「武士道というは、死ぬことと見つけたり」と
 江戸時代中期の書物「葉隠れ」は冒頭で述べているが、
 それをそのまま実践して見せた映画である。

  「葉隠」について冒頭要約
    武士道とは死ぬことである。生か死かどちらかを選択しなければならないときは、
    死ぬ方を選ばなければならない。ただひたすら覚悟を決めて前に進むだけである。
    しかし、生死を賭けるような場面では思い通りに行くかどうかは分からない。
    私だって生きる方を選びたい。しかし、その為に思いを果たせずにいきながらえた    
    なら、それは腰ぬけである。常に死ぬことを覚悟していれば自分の精神は、武士道と
    一体になり、一生落ち度がなく、職務を全うすることができるのだ。
       

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