被災地との温度差
3月25日に止むにやまれぬ思いで、早朝車で自宅を出発。
震災が起きてから1年が経過しており、メディアのニュースも日増しに少なくなり、
思い出したように回顧記事が多くなった。
忘れるには余りにも無残で過酷な体験に、
被災地では生々しい「東日本大震災」の記憶をぬぐい切れずに、
それでも悲しみや絶望を乗り越えて生きていこうとする人たちがいることを忘れてはいけない。
河北新報等地元紙は、中央メディアがカバーしきれない被災地の生の声を伝え、
被災の検証をし始めた。
被災地からの発信は、悲惨な記憶が日々薄れていく中で、
事実の重みをしっかりと受け止め、
未来への教訓と復興への足がかりを探り始めているように感じられた。
しかし、被災しなかった多くの地域と、
復興ままならない被災地との落差、温度差は、日を追って大きくなり、
「絆」とか「がんばれ東北」という言葉だけが、虚しく繰り返されることに違和感を覚え、
私は被災地に再び足を踏み入れた。
目で見たもの、この手で触れたもの、肌で感じたものを
紀行文として、誰かに伝え、被災地の痛みを共有したいとの思いが、
果たして、伝えることができたのか。
不安は尽きない。
被災地のの復興は何年かかるのか。
多くの考えがあり、意見があるが、
自己主張ばかりしても、復興は先へ進まない。
「A」か「B」か。
という択一的な議論ではなく、、「A」も認め「B」も認めたうえで、
さて私たちは、この苛酷な現実から立ち直り、
「いかにしてより良い未来への道筋を、子どもたちに残してやることができるのか」を
真剣に考えなければならない。
今を生きるのに精一杯で、
この子たちが大人になった時、
「先人たちはこんな生きづらい社会しか作れなかったのか」
と言われないよう肝に銘じなければならない。
吹いている「風の彼方」は、
私たちの手にかかっているのだから……。
(終り)
「宮城県被災地を訪ねて」は、今回で終了します。次回からは
「原発」に関することを書いていきます。