雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

湖畔の宿(昭和15年) (2)「 山の淋しい湖」は何処の湖か

2016-09-16 16:00:00 | うたの故郷

湖畔の宿(昭和15年) (2)
          「山の淋しい湖」は何処か

  歌  高峰三枝子
  作詞 佐藤惣之助
  作曲 服部良一

(一) 山の淋しい湖に        
   ひとり来たのも悲しい心
   胸の痛みにたえかねて 
   昨日の夢と炊き捨てる

   古い手紙のうすけむり
  
   

 おそらくは、傷心のひとり旅の歌であろう。傷心の理由はわからない。
 単刀直入に、失恋の歌と言わないのは、前回ブログで、戦意高揚を損なうと評価された歌にもかかわらず
 戦地に慰問に行くとこの歌のリクエストが多くあったことを書いた。
 兵士の心を捉えた「湖畔の宿」は、単に失恋の歌ということではなく、戦時色の強まる時代の流れの中で、
 どうにもやりきれない思いが、特に故郷や国を離れている従軍兵士には、他人にはいえないやるせない思いがあった
 のではないか。その思いが、哀調を帯びたメロディーに乗って流れる、「悲しい心」「胸の痛み」「昨日の夢」「古
 い手紙」といったネガティブな雰囲気に惹かれていったのではないか。

   (二) 水にたそがれせまる頃 
      岸の林を静かに行けば
      雲は流れてむらさきの 
      薄きすみれにほろほろと
     いつか涙の陽がおちる 

 (二) もまた泣かせどころをいっぱい含んでいます。詞の持つせつなさと郷愁が人々の心を捉えたのでしょう。
 台詞は一番の泣かせどころでしょう。この辺のことは、第一回目のブログ(9/13付)に書いておきましたので参照にしてください。          

   (台詞) 

   あゝ あの山の姿も湖の水も
   静かに静かに黄昏れていく
   この静けさ この寂しさを抱きしめて
   私はひとり旅を行く
   誰も恨まず みな昨日の夢と諦めて
   幼児(おさなご)のような清らかな心を持ちたい  
   そして そして

   静かにこの美しい自然を眺めていると
   ただほろほろと涙がこぼれてくる

 
(三) ランプ引きよせふるさとへ 
   書いてまた消す湖畔の便り
   
旅の心のつれづれに 
   ひとり占うトランプの
   
青い女王(クイーン)の 寂しさよ

 旅の心のつれづれに ひとり占うトランプの 青いクイーンの淋しさよ」
 夢破れて、傷心の女性を最後に持ってきて歌は終わります。
 終始「感傷的」な詞に、服部良一の作曲がいやがうえにも聞く人の感情をとらえて離しません。
 何よりも人々の心を捉えたのは女優・歌手の高峰三枝子の歌唱力と彼女が持っている、「世間の垢」に染まらない
 清潔で純なイメージだったのではないでしょうか。

 さて、「山の寂しい湖」の「湖畔の宿」とはどこなのか。

 戦後間もなくから随分と話題になったようです。
作詞者の佐藤惣之助氏は昭和17年に他界され、作曲家の服部良一氏は詳しいことは何も聞いていない。
従って、関係者からの証言は難しくなりました。

静岡県・浜名湖などポピュラーに湖が候補に挙がったこともあったようですが、
「山の淋しい湖」というイメージからは遠く離れていると言うので、失格。

諏訪湖も候補に挙がったようですが、確かに「山の湖」という点ではいいが、
古い温泉地のある諏訪湖は、昔も今も温泉宿が林立し、「寂しい」という点では失格でしょう。

当然、富士五湖の山中湖、河口湖、精進湖、西湖、本栖湖なども候補に挙がったようです。
「山の淋しい、湖畔の宿」ということになると、どれにも当てはまりそうで特定できません。

 作詞家がイメージを膨らませて書いたとすれば、歌に描かれた場所を特定することは無意味なのかもしれません。
あわよくば、「観光拠点の一つにしたい」という自治体の思惑が「歌の故郷」探しになるのでしょう。

箱根 芦ノ湖
 高峰三枝子はどのようなイメージで、この歌をとらえていたのでしょうか。

 さまざまな思惑のなかで、高峰三枝子はどのようなイメージで歌っていたのか。

 平成元年、高峰が古希のリサイタルを開いたとき、
「私はこの歌を歌うとき、いつも芦ノ湖をイメージして歌っていました」
機運が一気に高まり、なんの根拠もないのに、湖畔の宿は「芦ノ湖の宿」になりかけたようです。

 その2年後の平成3年、新しい発見がありました。
昭和17年に他界した、佐藤惣之助の手紙が発見されたのです。
佐藤氏が常宿にしていた榛名湖畔の湖畔亭の仲居に送った手紙が発見されたのです。

 「『湖畔の宿』は榛名湖の事ではあるが、あの中のことはまったく夢だよ。ああいう人もあるだろうと思ったので書いたもの。宿は湖畔亭にしておこう」
という主旨の手紙でした。ちょっと素っ気のない文面ですが、まぎれもなく佐藤氏自筆の手紙です。

 当時の状況を振り返ると、佐藤氏は釣りが好きで、各地を歩いているが、榛名湖は先妻を亡くした後一緒になった萩原朔太郎の妹愛子さんの実家が前橋だった関係でよく遊びに行っており、湖畔亭は常宿だったらしい。
(湖畔の宿記念公園)
 以上のような経緯があり、、地元群馬県では、榛名湖を見下ろせる高台に「湖畔の宿記念公園」をつくりました。
歌碑の前に立つと、「湖畔の宿」のメロディーが流れ、歌のイメージが浮かんできます。

 現在佐藤惣之助氏が泊った宿は、「湖畔亭」として残っていますが、当時のおもかげは少し残るにとどまっているようです。直接電話で女将と話をしてみましたが、特段「湖畔の宿」をアピールしている様子もなく、一階部分がお土産店、二階部分に宿泊施設6部屋があり、女将が仕切っているようです。
 問題の手紙など、歌にまつわるものが展示されているようですが、「湖畔の宿」ゆかりの宿ということで訪ねて来る人はごく少ないようで、「歌の故郷」騒動のあったことも知らない人がほとんどだそうです。
 口コミ情報を20件ばかり読んでみましたが、このことに触れている宿泊客は一人もいませんでした。

 榛名湖に映る榛名富士を眺めながら、「湖畔の宿」のイメージを想い、歌に魅せられた当時の人たちの胸の内を想うのも楽しいですね。

 長い文章を最後まで読んでいただいたみなさんに感謝します。
『うたの故郷』はシリーズとして今後も書いていきたいと思います。
                                     (2016.09.16記)

 

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湖畔の宿

2016-09-13 11:28:20 | うたの故郷

湖畔の宿 (昭和15年) 

  

歌  高峰三枝子
作詞  佐藤惣之助
作曲  服部良一


(一) 山の淋しい湖に 
   ひとり来たのも悲しい心

   胸の痛みにたえかねて 
   昨日の夢と炊き捨てる

   古い手紙のうすけむり


     失恋の歌かどうかはわからない。だが、傷心の歌には違いない。
    人里離れた辺鄙な「山の淋しい湖に」傷心のひとり旅。
    この湖畔の宿で、持ってきた「古い手紙」に火をつける。
    辛い過去との決別である。
    風もなく、ひっそりと静まりかえった湖に、焼いた手紙のけむりが空に吸われていく。
    「昨日の夢と炊き捨てる」にはあまりに孤独で、さみしい未練の風景。

 昭和15(1940)年発表のこの歌は、リアルタイムで聞いたことはない。
 それでもなぜか、この歌は好きな歌の一つだ。

 歌詞もいいが、メロディーもいい。高峰三枝子の細く透き通るような声も、歌の雰囲気を盛り立てている。
 一昔前の日本人の感性に共感する者があったのだろう。

 だが、時代が悪かった。昭和15年、戦争の気配がだんだん激しくなり、日独伊三国軍事同盟が締結され、
「ぜいたくは敵だ」等の標語の看板が街のあちこちに、現れ始めた。
 戦時色が日本を覆い、「父よあなたは強かった」等の軍歌が街に流れていました。
昭和16(1941)年12月には、真珠湾攻撃で、太平洋戦争が始まりました。



 

  湖畔の宿」は、感傷的な詞と淋しいメロディーは戦意高揚を損なうという理由で発売禁止になりました
だが、良い歌はよいのです。心に響く歌はいつまでも人々の心を捉えて離しません。
 戦時、戦後を問わずずっと歌われてきました。


(二) 水にたそがれせまる頃 
   岸の林を静かに行けば

   雲は流れてむらさきの 
   薄きすみれにほろほろと
   いつか涙の陽がおちる

(台詞) 

   あゝ あの山の姿も湖の水も
   静かに静かに黄昏れていく
   この静けさ この寂しさを抱きしめて
   私はひとり旅を行く
   誰も恨まず みな昨日の夢と諦めて
   幼児(おさなご)のような清らかな心を持ちたい  
   そして そして

   静かにこの美しい自然を眺めていると
   ただほろほろと涙がこぼれてくる

 
(三) ランプ引きよせふるさとへ 
   書いてまた消す湖畔の便り
   
旅の心のつれづれに 
   ひとり占うトランプの
   
青い女王(クイーン)の 寂しさよ

 

 作詞家・阿久 悠の思い出

 作詞家の阿久 悠は著書「愛すべき名歌たち」(岩波新書)のなかで、戦死した兄と「湖畔の宿」の関わりを
書いています。17歳で海軍に志願し、19歳で戦死した兄が遺したものは、たった一枚のレコード「湖畔の宿」
だつた。兄が出征した後、ぼくは、その「湖畔の宿」をよく聞いた。レコード一枚残しただけの兄の青春とは何だったのだろうか。発売禁止になった歌だが、どうしても聞きたいときがあって、ポータブル蓄音機を押し入れに持ち込み、布団をかぶって聞いたものである。………何度も繰り返し聞き、時々妙に悲しくなって泣いた。
 阿久 悠少年の心に刻まれた「湖畔の宿」は、若くして戦死した兄への想い出として、忘れられない歌の一つになったのでしょう。

 歌手・高峰三枝子の思い出
 歌手たちの戦地慰問で兵士たちのリクエストで圧倒的に多かったのがこの曲だったそうです。当局が「戦意高揚を損なう」として発売禁止にした「湖畔の宿」が一番多かったとはなんと皮肉なことでしょう。
 権力が肥大化し、都合のいいように人々の言動を規制しようとしても、心は誰にも規制することができません。
とくに、特攻隊の基地で若い航空兵たちが直立不動でこの歌を聞き、そのまま出撃していった姿が忘れられないと、高峰三枝子は何度も言っています。
 
「この静けさ この寂しさを抱きしめて私はひとり旅を行く誰も恨まずみな昨日の夢と諦めて」の部分がとくに兵士たちの胸に響いたのでしょう。
 若い特攻の兵士たちは、「死ぬために飛行訓練を受け」、空の彼方に消えていきました。言いたいことも言えずに、「お父さん、お母さんありがとうございました」という遺書を残しての還らぬ旅立ちでした。

 「誰も恨まず」、わが身の運命と覚悟して、飛び立つ特攻隊の兵士には、美しい日本の自然が織りなす風景や、残してきた恋人への思いが「湖畔の宿」の歌に重なっていたのでしょうか。

 私には「書いてまた消す湖畔の便り」というフレーズにも、悶々として「遺書」を綴る兵士の姿が浮かんできます。
                             (2016.09.13記)          (つづく)
    
 次回 「湖畔の宿」に歌われた、山の淋しい湖とはどこか

 





 

 

 

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