最後のキタシロサイ
なぜ絶滅した。
あの巨大な体が、高齢のため筋肉が衰えて立てなくなった。
大きな体の割には小さな目が、
とてもかわいらしい。
その目がケニアの大地に広がる青い空をみつめている。
雲一つない空の向こうに、彼が見ていたものは何だったのか。
(マサイの人々とキタシロサイのオス「スーダン」) APF PHOTO/TONY KARUMBA
罪深い人間。
この渇いた大地の最後の種族になってしまったことに、悔し涙を流していたのか。
もう再びこの大地を風を切って走ることはできないだろう。
スーダンがそう思ったとき、太い首のあたりにかすかな痛みを感じた。
やがて心地よい痺れと痙攣が全身を覆い、サイは静かに目を閉じる。
かつて、俺たちの仲間たちはこのアフリカの大地を、
地響きをたてわがもの顔に駆けていた。
朦朧として意識の薄れていく中で、
最後の一頭になったオスのキタシロサイ・スーダンは生涯を終わった。
朝日新聞(3/22)によると、
安楽死したオスのキタシロサイは45歳の高齢だったが、その重い体重を支えるにはあまりに歳を取りすぎていた。2頭のメスのキタシロサイが生存しているが、最後のオスがいなくなったことで、絶滅は避けられなくなった。キタシロサイはアフリカ中部に広く生息していたが、角がベトナムや中国などアジアで主に漢方薬として売られ、 密猟が横行するなどして激減した。
(つれづれに……心もよう№78) (2018.03.28記)
始祖鳥は飛んだか
中国東北部、遼寧(りょうねい)省。
白亜紀。
このあたり一帯では、羽毛をまとった様々な姿の「羽毛恐竜」が、
所狭しと走り回っていた。
この地で続々と発見された彼らの化石によって、
恐竜と鳥の間のミッシングリンクに光が当たり、
鳥が恐竜から進化したことが明らかになった。
(朝日ビジュアルシリーズ 週刊地球46億年の旅 №26より引用)
約1億5千万年前のジュラ紀、私たち人類が生まれる前の遥か昔の話です。
ちなみに旧人類のネアンデルタールが出現したのが約50万~30万年前くらいです。
そして我々現代人と同じグループの現生人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられています。
話しを始祖鳥に戻します。
嘴(くちばし)に歯を持ち、羽毛で覆われた形態は爬虫類には見られない形態だ。
果たして彼らは空を飛ぶことができたのだろうか。
というより私は小さい時から
「始祖鳥」という鳥の祖先なのだから当然空を飛んでいたと思い込んでいた。
しかし、学界では「飛べる」、「飛べない」はずっと長い間論争になっていた。
始祖鳥について
始祖鳥は、体長約50㌢でドイツで化石が見つかった。恐竜に似て歯を持っているが、
恐竜とは違い羽毛や翼があった。「最古の鳥=始祖鳥」といわれていたが、飛べたかどうかは
わかっておらず滑空程度しかできなかったのではないかという見方もある。
フランスチームの論文
始祖鳥の骨の特徴を現在の鳥の約70種類を比較検討した結果、骨の断面の多くを空洞が占め、
当時の小型恐竜などと比べると軽量化が進んでいたことが判明。
短い距離を羽ばたいて飛ぶグループに近いことが判明。
(下図は研究チームが発表した想像図)
(始祖鳥が羽ばたいて飛ぶ様子・想像図)
想像の翼
約1億5千万年前のジュラ紀という想像を超える長い時間の中で、
絶滅した恐竜の時代を経て、哺乳類の時代が訪れ、
20万年ぐらい前現生人類が出現した。
長い時間の中で、絶滅した種、
そして今、絶滅の危機にさらされている種。
永い地球の歴史からすれば、進化の頂点に立っている人間もまた
何時絶滅の危機にさらされるか誰にもわからない。
他の生物には及びもしない人間の知恵が
絶滅へのボタンを押してしまうかもしれない。
いやいや、きっと
人間の英知は今よりもさらに豊かな社会を創造するために
将来に向って「成熟」の階段を登っていくだろう。
始祖鳥のニュースを読みながらそんなことを考えた一日でした。
(2018.3.23記) (つれづれに……心もよう№77)
フロリダ州の高校で生徒ら17人が死亡した事件(2/14)。
前回③でも紹介したが、今年に入って18件の発砲事件。
2013年以降の銃乱射事件は、犠牲者がなかったケースも含めると290件の発砲事件が起きている。
学校安全対策としてトランプ政権は次の二点を発表した。
1.教職員の銃訓練の支援
2.銃購入時の身元調査の強化
よく読んでみれば、これは『学校安全対策』であり、銃規制を推進する政策ではない。
銃規制そのものにメスを入れない限り、学校社会や一般社会の安全など守れはしない。
銃乱射に対応するために、訓練された教職員との間に銃撃戦が起きてしまったら、学校は戦場になってしまう。
生徒を安全な場所に避難させることが教職員の務めではないか。
一部の教職員に銃を携帯させるというが、学校職員のことを指しているのか。
また、退役軍人や退職した警察官らを教職員に採用することを支援するとしている。
襲ってきた犯人に命を賭けて立ち向かう姿勢は、
「銃には銃で、目には目、歯には歯」という考え方になってしまう。
例え生徒の命を守るためといえ学校に、「戦場の論理」を持ち込んでしまえば、
武器の拡大に繋がりかねない。
銃社会の論理の根底には、「強いものが勝つ」という論理が潜んでいる。
銃の所持者が、自殺や他人に危害を加える可能性がある場合には、
裁判所の許可を得て銃を没収する法案や
犯罪歴のある者の身元調査システムを強化する案も検討されているようだ。
トランプ氏はこの「学校安全対策」が「抑止になる」と発言しているが、
「核の抑止」と同じで、問題の根源にあるものを排除しなければ、学校の安全は守れないと思う。
共和党がどこまで譲歩するかがカギになる。
銃の購入年齢は変わらない
一方、トランプ氏が明言していた銃の購入の最低年齢を18歳から21歳に引き上げることは新たに設置される学 校の安全に関する委員会で検討することになり、銃購入時の身元調査をネット上の売買など個人取引にも適用することも盛り込まれなかった。
銃社会の根幹となる一番大事なことが先送りされてしまった。
何故か。
共和党関係に多額の献金をしている「全米ライフル協会」(NRA)が強く反対しているからだ。
政権を担う共和党と経済界の癒着が現れたアメリカの歪んだ社会の一面を見ているようで嘆かわしい。
(終り)
(2018.3.20記) (昨日の風 今日の風№92)
※ 関連ブログ (よろしかったら興味のある方は読んでください )
銃乱射事件① 銃なしで命を守れるか 頻発する銃乱射事件(2018.01.28)
銃乱射事件② 銃なしで家族をどう守るの 「目には目歯には歯」(2018.01.30)
銃乱射事件③ 矛盾だらけの米銃規制 またも起きてしまった銃乱射(2018.02.18)
銃乱射事件③ 矛盾だらけの米銃規制
またしても起きてしまった銃乱射事件。
フロリダ州の高校で17人が死亡。
19歳の元生徒(退学処分)が容疑者として拘束。
使用された銃は自動小銃AR15で、容疑者は複数の弾倉を持っていた。
容疑者はガスマスクを着用。発煙筒に火をつけて火災報知機を鳴らし、
生徒が校舎外に逃げ出したところを狙い撃ちした(2/14朝日新聞)。
今年に入って18件の発砲事件だ。
米国の学校では2013年以降、
犠牲者が出なかった事件も含め290件の発砲事件が起きている(2018.2/16朝日)。
ケンタッキー州の試み
教師や学校職員が銃を校内に持ち込むことができるようにする法案が議会に提出された。
全ての銃乱射事件の元凶は、多くの人が銃を持つ(購入する)ことができる法律の存在が問題なのに、
銃の乱射による犠牲者をなくすために、あるいは生徒を銃の犠牲から守るために、
教職員に銃を持たせようとする。
原因を排除しないで生徒を護ろうとする社会通念はどこかおかしいと、私は思うのだが
アメリカ社会の中には次のような考え方も支持されているようだ。
「今さら規制を強めても手遅れだ。銃を持った犯罪者への対処は、銃を持ったものにしかできない」として、
学校の各階に武装警備員を配置するべきだ。
「手遅れだ」という考え方そのものが私には無責任な考えで、
まさに銃規制問題の行き詰まりを象徴する考え方だと思えてなりません。
なんだか、近未来小説の中の生きずらい社会が出現するようで恐ろしいと思いませんか。
でもこれは、近未来小説の話ではなく、現実に起こっている話なのです。
21歳にならないと酒が買えないのに、なぜ19歳になったら合法的に銃が買えるのか。
なかなか銃規制の法案の議論が指示されないのは、
ライフル協会から多額の献金が共和党に流れているという現実があるのでしょう。
全米ライフル協会(NRA)による献金は次のようです。(米メディアによる)
トランプ氏を支持する政治広告 ………………………………………………… 1140万㌦(約12億円)
大統領選時の民主党候補 ヒラリー・クリントン氏を批判する政治広告…………1980万㌦(約21億円)
トランプ氏陣営に ………………………………………………………………… 81万4千ドル(約8600万円)
共和党ライアン氏に…………17万2千ドル
〃 ルビオ氏に………… 17万6千ドル
〃 クルーズ氏に…………36万2千ドル
ラスベガス事件直後、バンプストック(全自動を可能にするアタッチメント)の製造・販売に避難が集中し、
民主党を中心に規制法案が議会に提出された。
しかし、NRAは法案に難色を示し、共和党は取り締まり強化が先と訴え、法案の審議は棚上げとなった。
NRAは依然として献金を続けており、ことし11月には議会の中間選挙があり、
銃規制の議論は一向に進みそうにない。
NRAからの献金が銃規制の法案の成立を阻害する要因なら、
献金のあり方にもメスを入れなければならないと思うのだが、
アメリカ社会ではそうした議論は起きないのだろうか。
さて、この問題一体どうなるのか。
次回は銃規制問題の最近の動きをお知らせします。
(2018.03.17記) (昨日の風 今日の風№91)
※ 関連ブログ (よろしかったら読んでください )
銃乱射事件① 銃なしで命を守れるか 頻発する銃乱射事件(2018.01.28)
銃乱射事件② 銃なしで家族をどう守るの 「目には目歯には歯」(2018.01.30)
映像のもたらす仮想現実
ドキュメント番組や報道番組
ドキュメント番組で戦争が出る。命がけで映した戦争の現場、或いは飢餓の場面が出る。それを、エア・コンのきいた部屋で、サンドイッチを食べ、コカ・コラを飲みながら見られるわけだ。 |
ドラマや映画と異なり、ドキュメンタリー番組には現実感がある。
逃げ惑う難民、砲弾で破壊され瓦礫となった街に暮らす人々。
不安と飢餓と非衛生的な生活環境が映し出される。
だが、ここまでだ。
開高 健ではないが暖かい部屋でぬくぬくと見ている。
「ひどいなぁー」と思う反面どこかに他人事いう思いが漂っていて、
今見たテレビの画面はすぐに忘却の彼方に沈んでしまう。
なにも解っちゃいないのに、
映像を見ただけで戦争の悲惨さを理解したような気になってしまう。
錯覚である。
誤解である。
リモコンのボタンを押せば、すぐに映像が飛び込んでくる。
だがこれは現実ではない。
遠く離れた平和な日本で寝ころびながら眺める映像は、
無意識なうちにどこか他人事として処理してしまう。
かつて3.11の映像をテレビで眺めたときも、
圧倒的な自然の驚異の前になすすべを亡くした被災者の姿を見て、
息を呑んだことがあったが、ここまでだ。
あの時、
遠く関東の地にあって、轟音とともに地面が揺れ動き地面に這いつくばった恐怖。
屋根のぐし瓦が崩れ落ちたのを見たときの被害者意識の方が、現実的な不安や恐怖だった。
視覚に訴える映像が、
他人事に感じられるのは、
現場の緊張感や恐怖が臨場感を伴って語感を刺激しないからだろう。
仮想現実なのだ。
映像で見た津波の恐怖よりも、
数か月後に現地を訪れたときの現実感の方が遙かに大きかった。
現場の空気が肌に突き刺さり、瓦礫の匂いが鼻孔を刺激する。
被災した人々の悲しみが空気を通じて漂ってくる。
これが現実だ。
「(テレビの映像を見て)一番悪いのは、それだけでその国の戦争がわかったような気になってしまうことだ。
何もわかっちゃいないのに、わかったという気を起こさせるのが、テレビは他のどんな媒体より激しい。」
ジャーナリストとして、身体を張って戦場を駆け巡った開高 健の重い言葉である。
(2018.3.14記) (ことの葉散歩道№37)
読書案内「夜明け前」第一部(上) 島崎藤村著
新潮文庫2006年刊 第86刷
「木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。」
多くの人が知っている島崎藤村の「夜明け前」の冒頭である。
冒頭で有名なものには、「雪国」、「平家物語」などたくさんある。
個人的には、
「龍哉が強く英子に魅かれたのは、彼が拳闘に魅かれる気持ちと同じようなものがあった。」という
「太陽の季節」 の冒頭が好きだ。
「若い世代の圧倒的共感と大人の猛烈な反感の間に爆発的に誕生した、
真に新しい戦後文学の記念碑的傑作」と、当時のキャッチコピーは詠っている。
冒頭の有名な作品は、語り継がれるだけあって名作と評価されている作品が多い。
しかし、私の場合多くの冒頭部分は高校受験の国語の試験対策として覚え、
作品を読んだものは皆無に等しかった。
気持ちの中には、「なんて馬鹿々々しい問題を出すのか」という思いが強くあった。
時を経て、私はその一つひとつを読んでいった。
「平家物語」「方丈記」「源氏物語」「枕草子」「奥の細道」等々。
現代語訳で読んだものもあるが、一つだけ未読のものがあった。
それが、「夜明け前」だった。
一度は手に取り、途中で挫折した本である。
冒頭で示した描写が数ページ続き、前回はこの部分で挫折してしまった。
しかし、読み進んでいくうちに木曽路の宿場町の一つである「馬籠宿」の生活の様子が淡々と描かれ、
歴史の中に埋もれていってしまう「宿場」の生活が生き生きと描写されていることに気付かされる。
幕末から明治にかけて、
中山道・木曽路の「馬籠宿」の本陣・問屋・庄屋をかねる家に生れ国学に心を傾ける青山半蔵の目を通して描かれるこの大作である。
武士が築いてきた封建制度が崩壊し、
新しい時代の波が押し寄せ確実に来るのだ。
新しい時代か来るのだ。
半蔵は希望に燃え、時代の夜が明けるのだと期待に胸を膨らませる。
だが、半蔵の期待と裏腹に時代は意外な顔を見せ始める。
この歴史小説に登場する人物は、
市井に生きる人々たちで、歴史に名を残す人物や英雄は一人も登場しない。
島崎藤村自身の父をモデルにした、
幕末から明治の時代の変わり目に生きた半蔵の一生を描いた歴史小説である。
ストーリーの進展も遅く、大きな事件も描かれない。
かなりの根気と、幕末の歴史に興味がないと読破するのは困難なのかもしれない。
しかし、このことと小説の偉大さはまったく別のものである。
歴史的人物や英雄を描いた歴史小説は多いが、
名もない庶民(青山半蔵)の目を通して描かれたところに
この小説の特徴がある。
幕府の威信が揺らぐような事件が次々に起こる。
ペリー来航→日米和親条約→日米修好条約→安政の大獄→桜田門外の変→和宮降嫁等大きな政変が起きるたびに
木曽路は騒然となる。
京を目指して井伊家の家臣たちが半蔵の本陣に泊まる。
皇女和宮の婚礼の行列が木曽路を通る。
その度にそれらに携わる荷役人夫や荷馬の用意など少ない賃金で手当をしなければならない。
献金の割り当て食料の用意など多額の拠出が強いられる。
名字帯刀を許されるのさえ、多額の金を用意しなければならない。
そうした、細々したことが微に入り細にわたって小説は展開していく。
全四冊の内の一冊目は、騒然とした宿場の暮らしを描いて幕を閉じる。
(2018.03.12記) (読書案内№121)
春を詠う 短歌と俳句
日本海側や北日本の雪もどうやら終息に向かい、暖かい日が数日続いたと思っていたら
今日は又冷えた空気の寒い一日になりそうです。
しかし、障子の向こう側に見える陽の光は、明るく春の陽光を散りばめている。
庭の梅の古木も八分咲き。雀たちが餌場の餌を求めて飛び交う姿も春の訪れを感じます。
短歌・俳句の中から春を詠ったものを紹介します。
〇 廃屋の続く下北半島に雪の間(あわい)の蕗の薹(とう)見つ
……(秩父市) 畠山時子 朝日歌壇2018.03.05
日本最北端の半島。風の下北半島、雪も吹き飛ぶ。
天気の良い日には津軽半島のかなたに北海道が見える。
最果ての地にも遅い春が確実にやってくる。
〇 爛漫へ梅一輪の序曲かな
……(牧方市) 中嶋陽太 朝日俳壇2018.03.05
福寿草が咲き、クロッカスが咲く。やがて梅が咲く頃、春爛漫の幕が上がる。
「序曲」と言う表現に時の流れの中の自然の息遣いが聞こえてきそうな
「春、第一章」の歌です。
〇 春の雨野は沈黙を解き始む
……(神奈川県琴平町) 三宅久美子 朝日俳壇2018.03.05
しっとりと降る春雨に傘は不要です。「春雨じゃ、濡れていこう」。
差し出された傘を粋に手で押しやって一歩を踏み出す。
寒さに沈黙した柳の芽が、草むらの土筆(つくし)が顔を出す。
〇 ごめんねの言葉届かず春時雨
……(徳島県松茂町) 奥村 里 朝日俳壇2018.03.05
春時雨。日本語っていいな。「ごめんね」って呟く。
直接いえない意地と後悔。春時雨の中につぶやきが消えていく。
〇 あれからの重さこれからの長さふくしまの春かすんでゆれて
……… (福島市)美原凍子 朝日歌壇2015.4.6
2015年の作品です。原発事故。訳も解らずに放射能の恐怖から逃げた。
多くのものを失い不安に満ちた日々を送った。これから先どうなるんだろう。
先の見えない福島の春。
(2018.03.08記) (人生を謳う)
誰もいない
誰も笑わないから
壁を背中にして
一人で笑ってみる
正面のガラスに映った顔
笑っているはずの顔が
歪んでいる
午後の光の中で妙にそこだけが明るい
透明な大気の中へ吸い込まれていく私の影
誰もいなくなった部屋の中で
笑い声だけが漂っている
(2018.3.5記) (つれづれに……心もよう№75)
馬鹿の上塗り アルマーニ騒動 ③
何がいけないのか
愛校心、所属愛、学校に対する誇りが自己の存在と重なると、スクール・アイデンティティーが芽生えます。
このような、ある意味エモーショナルな心が、あるいは学校に対する思いが、薄れているのではないかと危惧しております。語弊を恐れずに申し上げますが、「自分は泰明小の一員であるから、そのようなふざけた行いはしない」と自戒できる児童を我々は育てたいのですが、保護者の皆様は、お子様の姿をどのようにお考えでしょうか。
(保護者向け説明文)
愛校心や所属意識を高め、泰明小としてのスクール・アイデンティティーを育てていきたい。
教育者の考えとしてはもっともなことだ。
しかし、そうした思いとは別に愛校心や所属愛が薄れていくことに校長は危惧している。
特認校としての性格が学校の特色を薄れさせているのかもしれません。
文中、「伝統と風格」が失われていく危機感を校長は嘆き、
アルマーニ標準服の採用に当たる考え方の景気を次のように述べています。
泰明の標準服を身に付けているという潜在意識が、学校集団への同一性を育み、この集団がよい集団であって欲しい、よりよい自分であるためによい集団にしなければならない、というスクールアイデンティティーに昇華していくのだと考えます。
「教育は内面の育成、醸成だと再三申し上げている」と言いながら、
アルマーニ標準服採用に踏み切った処に、
校長のあせりと一人よがりを感じます。
アルマーニ標準服を在校生が着ることにより、
「泰明小」のスクール・アイデンティティーの育成が成就すると考えるのは、論理の飛躍でしょう。
なぜ、独断専行してしまったのか。
教職員や保護者会のみなさんと、
「泰明小」のあり方について話し合う機会をなぜ作れなかったのか。
標準服を変えれば私の危惧することが消えるわけではありません。教育は、内面の耕しであり、そこに、学校教育の質が問われるべきであると思っています。
「 伝統と風格」が失われていく危機感のなかで、
「標準服を変えれば私の危惧することが消えるわけではありません」と理解しながら、
結果的には世間の批判の集中砲火を浴びてしまった。
組織の頂点に立ち、苛立ちと焦りに追われた管理者の孤独な姿が浮かび上がってきます。
「時代の変化を体感させつつ、泰明小学校の児童であるというアイデンティティを育成していくための一環」
「これまでの歴史や伝統を守りつつ、小学校での『英語教育の導入』や、『地域との密接な連携』という新しい教育プログラムの導入と並行して行われていく泰明小学校の新しい時代に向けた変化であり、進化でもある」
今まで引用してきた教育理念が、アルマーニ標準服の採用にいたってしまったのか。
非常に残念な思いでこのブログを書いています。
アルマーニ標準服の採用が問題なのではなく、
なぜそうせざるを得なかったのかが問題なのだと私は思います。
校長が抱いている危惧感は的外れではないと私は思います。
対処の方法が間違っていると私は思います。
なぜ、新標準服への切り替えを2017年秋まで公表しなかったのか、
なぜ校長が一人で決めてしまったのか、
なぜアルマーニ社なのか、
この問題に対する教育委員会の見解はどうだったのか。
こうした内容ばかりが報道され、
「伝統と風格」という教育の在り方にまで発展させた記事は見当たらなかった。
現象面のみを捉えて報道し熱が冷めてしまえば、
報道さえされないメディアの姿勢そのものにも問題がある。
馬鹿の上塗り
この騒動に上塗りするように、「泰明小」学童への嫌がらせが相次いでいるという(朝日新聞2/20夕刊)。
児童が通行人に服をつままれたり、
心無い声をかけられたりする事例が発生し、
従来見守り活動をしている教職員や保護者らに区教委職員も加わり、警戒を強化する。と記事は伝える。
馬鹿々々しい騒動の上に、馬鹿の上塗りをする大人がいることに激しい憤りを感じます。
最後にごく一般的意見として山梨学院大教授・荒巻重人氏のコメント(朝日新聞2/16)を紹介して終わりにします。
「公立校は本来、地域の子どもが経済的な制約を受けず誰でも通えるはずの学校。多様な家庭の子どもを受け入れ、意見に耳を傾けながら学校運営する中で校風や個性が作られる。校長の考えだけで決められたとすれば子どもの主体性は養われない」
(2018.03.02記) (昨日の風 今日の風№90)
馬鹿の上塗り アルマーニ騒動 ②
今回は校長の保護者への説明の全文を掲載する予定でしたが、
長い説明文になってしまいますので、要点を抜粋しながら騒動の問題点を考えようと思います。
原文は2017年11月17日付の「平成30年度からの標準服の変更について」と題した保護者向けの文書です。
特認校として本校を選択された保護者の思いと、学校側の思いのすれ違いを感じる。
説明文冒頭の導入部分の文章だが、更に
どのような思いや願いがあって本校を選択されたのかが分からなくて、思案に暮れることがあります。
泰明小学校という学び舎の気高さ。この伝統ある、そして気品ある空間・集団への凝集性とか、帰属意識とか、誇りとか、泰明小学校が醸し出す「美しさ」は保っていかなければと、緊張感をもって学校経営してきました。
しかし、私が泰明小学校の在るべき姿としての思い描いていることとはかけ離れた様子、事実があることも否めません。なぜ、本校を選択されたのですかと問い返したいと思う出来事や対応が多いこと、これが泰明の実態だったのでしょうかと、学校を管理する者として思い悩むこともしばしばです。
学校側の思いと、児童や父兄との思いがかけ離れている。と述べながらどんなことがどのように異なるかが、具体的に示されていないか単なる抽象論に終わってしまい、これを読んだ保護者は首を傾げてしまうだろう。
言動、もちろん、公共の場でのマナー、諸々含めて、児童の心に泰明小学校の一員であることの自覚が感じられないと思うことも度々です。もちろん、全員がそうだとは言いません。みそらの星賞などを設定し、この子ならばと推薦された児童が褒賞を受けることもあって、ほっとする面もあるのですが、それに反して、がくっと心折れる場面の多いことも事実です。
全文を読んでいて違和感を覚えるのは、「泰明の子らしく」とか「泰明小学校の児童はかくあるべきだ」とかまるで教育の理念から外れたような精神論が掲げられていてとても違和感を覚えます。
対外的にも「泰明小」そして「泰明の子」は注目されます。そういう衆目に答える姿であるかどうか、校長は危惧しているように思われます。こうした考え方から生まれてくるのは、やっぱり選民主義であり特権主義なのではないか。これはある種の差別化にもつながるのではないでしょうか。
泰明小は銀座の中の特認校なのにそんな意識がだんだん薄れてきていると危惧しているとも述べています。確かに学校は地域に開かれ門戸を広くすることが必要です。しかし、それは生徒たちに無理やり押し付けるものではないでしょう。
「どのように地域の特色を児童に理解させるか」これこそが教師や校長の大切な役目ではないか。地域性とか、愛校心が薄れていくことを、児童や保護者のせいにするのはおかしいのではないか。
① で少し触れましたが、「伝統と風格」を維持するということは、古きを改め新しきを取り入れるということです。過去のカビの生えた「伝統と風格」を頑なに守ろうとしてもそれは時代遅れという現実にそぐわない理念になってしまうでしょう。
「伝統と風格」が失われていくと危機感を抱くのであれば、教職員や保護者との話し合いの場を設け、率直な話し合いをすべきではないだろうか。上から目線の孤高の校長には無理な要求なのかもしれない。
(つづく)
アルマーニ騒動にいたるための校長の考え方を、「保護者への説明文」から抽出し、違和感を覚えることを述べてみました。次回は「アルマーニ騒動」のどこに問題があるのか具体的に考えていきたいと思います。
(2018.02.28) (昨日の風 今日の風№89)