雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

表現の自由 (イスラム国のテロに対抗する)

2015-01-30 15:30:00 | 昨日の風 今日の風

表現の自由 (イスラム国のテロに対抗する)

 イスラム過激派組織「イスラム国」の日本人人質事件は、身代金要求から人質の交換要求へと流動的だ。

しかも、対日本だけの問題だけでなく、ヨルダン国まで巻き込み、緊迫した状態が続いている。

 ISIL(イスラム国・イラクとレバントのイスラム国という英語の頭文字を取った。レバントとは地中海の東部沿岸地方)はサジダ・リシャウィ死刑囚と後藤さんの交換を要求しているが、ヨルダンは、「ヨルダン人パイロットとの交換で、死刑囚を交換する用意がある。パイロットの存命の証拠を求めているが、(ISILからは回答がない)」としている。

 それぞれの国の立場を主張し、後藤さん、死刑囚、ヨルダン人パイロットの解放をめぐって、日本、ヨルダン、ISILの関係の緊張状態が続いている。(日本時間午前11時事件の進展は見えない)。

 

 「人命を最優先に考える」でも「テロには断じて屈しない」

でも「ISILは理屈や人道主義が通る国ではない」。

 この事件が明るみに出てから、メディアは格好の材料が出てきたとばかりに、

 獲物を捕らえるハンターのように、ワイドショーは手を変え品を変えてその道の識者、専門家等々を登場させ、無責任な憶測や思い込みでテレビ画面を飾ってみせる。挙句の果てにミーハー的な人まで登場させて画面に花を添える。

 「表現の自由」という観点からは、どんなことを言っても許される、とこれは大変な思い違いである。

爆笑問題の太田光はテレビ番組「サンデージャポン」で、こうした報道の在り方として「黙ることが必要なときもあるんじゃないか」と警鐘を鳴らしている。

 明治学院教授で作家の高橋源一郎氏は、「表現の自由」を叫ぶ前にという題で、朝日新聞29日の論壇で次のように述べている。

 『テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、こんな時どうすべきなのか。

わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。もっと別のことが頭をよぎる。

 動画を見た。

オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について語る男の声をすぐ横で聞かされながら、

ふたりは何を考えていたのだろうか。その思いが始めにある。「意見」はその後だ』

   つまり、高橋氏は人間の根源的な「優しさ」の無いところで安易に「意見」いうべきではない。

太田光氏の発言も案外こんなところに真意があるのかもしれない。

 メディアに要請されたにわか識者や専門家・学者が、責任を伴わない「意見」を言い放ち、ミーハー的な花まで添えてのメディアの在り方に太田氏は警鐘を鳴らしたのかもしれない。 

 相手に対する「優しさ」や「思いやり」の欠けたところでの「意見」は言うべきではない。

 「表現の自由」の権利をはき違えてはいけない。「沈黙」し「黙って成り行きを見守る」ことも、表現の自由であることを忘れてはならない。

 その上で、適宜有効な「意見」を表明したい。

               (昨日の風 今日の風№18)

 

 

 

 

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読書案内 「アウトブレイクー感染ー」 ロビン・クック著著

2015-01-29 21:11:31 | 読書案内

読書案内

アウトブレイク-感染- ロビン・クック著

  1988年ハヤカワ文庫から刊行。27年も前の小説で、「エボラ出血熱」を題材にしたミステリー。

 近年西アフリカで流行し、このウイルスの恐ろしさは、致死率が25~90%と非常に高く、未だに治療法も確立されていない。

この「エボラ出血熱」患者が、ロサンゼルスで発生。そしてセントルイス、アリゾナ州、ペンシルヴェニアの地方都市、突然何の関連性もなく個人病院で発生する。

宿主さえわかっていない「エボラ出血熱」がどうして突然アメリカで発生し、地方都市を襲っていくのか。

疾病管理センターのウイルス学部の新米女医が、感染の謎を追いかける。

女医の奮闘に読者を引き込んでいく前半に対し、後半三分の一は、誰が敵で誰が味方なのか判然としないまま、必死に感染の謎を究明する女医に襲い掛かる殺し屋三人。

女医のマリッサは、殺し屋に追われながらも、感染原因の究明に奔走する。

このあたりから物語は、荒唐無稽の様相を呈してくる。そして、意外な結末が……。

 

 日本では国民皆保険制度が実施され、保健医療は充実している。

しかし、アメリカでは、健康保険の加入義務はなく、民間の保険会社が設定する保険への加入を個人意志で加入する。

または、各病院が設定している会員制保険制度に加入する。

治療費には多額の金額がかかる。小説はこの保険制度をキーワードにして「エボラ出血熱」を題材にしている。

 アメリカにも公的保険制度はあるが、65歳以上の国民、障害者、低所得者、米軍勤務者とその家族以外はこの制度を受けることができない。

        (2015.1.29)

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読書案内「張込み」 松本清張著

2015-01-25 11:56:01 | 読書案内

読書案内

『張込み』 松本清張著 (傑作短編集5)

 

(写真・新潮文庫1965年版松本清張短編集収録)

 

 

 文庫本にして三十数ページの短編小説。刑事の『張込み』を通じて、「女の性(さが)」がクライマックスの最終章で浮き彫りになる。

 

 女のやりきれない寂しさが浮き彫りにされる。

 

 罪を犯して逃亡しているのは、3年前に別れた昔の男だ。

不治の病に侵された男と女の詳しい関係は一切述べられていない。

「昔恋愛関係にあった」たったこれだけのことで張込みが開始される。

女にどんな経緯があって、二十歳も年上の吝嗇家で3人の子持ちと再婚したのか、小説では一切の説明を省いている。

 

女28歳、亭主48歳。

(三年も前に別れて、しかも人妻になっている女に未練があるものだろうか)。

一抹の不安を抱きながら、刑事の張込みは続く。

 

5日間の張込みを通して、「幸せそうには見えない女の日常」が、刑事の目を通して淡々と描かれる。

5日目に動きがあり、男女は密会する。

 

 そこで刑事が見た女は、この5日間の張込みで見てきた生気のない女とは別人だった。

『別な命を吹き込まれたように、踊りだすように生き生きとしていた。炎がめらめらと見えるようだった。

刑事は、男に接近することができなかった。彼の心が躊躇していた』。

 

 男は逮捕され、張込みは功を奏したが、小説はこれで終わらない。

 

 平凡な日常生活から逸脱しかける女が踏みとどまり、再び日常へ戻って行ったのは、張込みを終えた刑事の一言だった。

その後の女のゆくすえを案じて小説は終わる。

 炎のように燃え上がる刹那的な血の騒ぎに埋没するのか、平凡だけれど約束された日常に帰っていくのか。

含蓄の深い小説である。

 

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権力と暴力

2015-01-23 11:51:11 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道 権力と暴力

  作家の陳舜臣(ちん・しゅんしん)が21日死去した。90歳だった。

中国の歴史と文化に対する豊かな学識を生かした歴史小説やエッセーで知られる。

  1961年「枯草の根」で江戸川乱歩賞、推理作家としてデビュー。

67年には約3000枚の大作「阿片戦争」で歴史小説にも進出。

69年「青玉獅子香呂(せいぎょくししこうろ)」で直木賞。

 朝日新聞は1月22日の天声人語で「縦横無尽の膨大な仕事を残して、

骨太の作家がまたひとり夢を閉じた」と作家の死を悼み、天安門事件のすぐあとに彼が述べた言葉を紹介している。

 

 「中国の権力集団は、銃口によって政権を守ろうとしている。

政権を守るのは、じつは人心であることを知らない。なんという無知であろうか」。

 

 権力にはある種の強権力がつきまとう。

しかしこの強権力が、民意を無視し権力の維持のために行使されるとき、

権力は暴力性をもって別の生き物に変身してしまう。

 パスカルは

「力は正義なり、力なきもの正義にあらず」

と言ったが、政治に携わる者、力の使い方を決して間違ってはいけない。

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老人と海 (2) (2種類の翻訳本) 

2015-01-20 13:20:00 | 読書案内

老人と海 (2) (2種類の翻訳本)

 前回 福田本と小川本の冒頭部分の数行を引用し、その違いを比較してみました。翻訳者によって表現の違いがよく理解できたここと思います。

 小川高義翻訳本(光文社古典新約文庫)の帯には次のようなキャプションがあるので紹介します。                                                                   『従来この作品は、一種の活劇のように捉えられてきた。老人は獲物と格闘し、船上で叫び、大声で罵る。しかし作品本来の姿は、老人の内面のドラマを淡々と描いた、極めて思索的なものだ……』

 お気づきのように、「従来」で始まる前段が福田本で「しかし」で始まる後段が小川本である。

 巨大なカジキマグロが針にかかり、この大魚をものにした時には港を出てから三度目の太陽が昇り、48時間が経過していた。全長18フィート(5.4メーター)、重さ1500ポンド(675㌔)。老人の小舟は4.8メーターだから、船よりも大きなカジキを死闘の末に仕留めたことになる。その仕留める直前の描写を比べてみよう。

 福田本: 老人は玉のような汗を流している。あながち太陽のためばかりではない。魚が穏やかにゆっくりひっくりかえってくるたびに、かれは網を手もとにたぐりよせていた。もうふた回りもすれば、銛が打ちこめる距離になるだろう。だが、おれはやつを、できるだけこっちへ引き寄せるようにしなければいけない、かれは心のうちでそう思う、頭なんかねらうんじゃないぞ、心臓をぐさりとやっけるんだ。

 小川本:老人は汗をかいていたが太陽の生ばかりではない。ゆったりと魚が回るたびにロープを手繰り寄せていて、あと二周もすれば銛を突き立てる機会があると思っていた。だがじっくりひきつける。寄せる。寄せる。寄せる。頭はだめだ。心臓をねらう。

 同じ部分の翻訳だが、福田本は刺激的、感覚的な表現の文章だが、小川本は文節を短文で仕上げより簡潔に老人の内面を表現しようとしているのがわかる。そして、例に引いた文章の直後の翻訳はもっとその差がはっきり出ている。

 福田本:「落ちつけ、元気を出すんだ、爺さん」とかれは自分に向っていった。

 小川本:「あわてるなよ、じいさん」  

 福田本では「彼は自分に向かっていった」。と説明があり、自分で自分のことを励ますサンチャゴ老人の姿がイメージできる。小川本は一切の説明を避け、「あわてるなよ、じいさん」と飾りのないハードボイルド調の翻訳になっている。

 銛(もり)で突き殺し、巨大な獲物を小さな船にくくりつけ、港に帰る老人に次の試練が訪れる。鮫が現れ、戦利品に食らいつくのだ。老人は戦利品を守るために、鮫に向かって棍棒を叩き下ろし、死闘を繰り返し、翌朝、船が港に着くころ戦い敗れた老人に残された物は、骨だけになった戦利品の無残な姿だった。この小説のクライマックスである。

 福田本:「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」とかれは声に出していった、「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」それにしても、かわいそうなことをした、おれは魚を殺してしまったんだ、とかれは心のうちで考えた。いや、それどころじゃない、お前は窮地に追いこまれてしまった。そうだ、もう銛もない。

 小川本:「だが、人間、負けるようにはできてねえ。ぶちのめされたって負けることはねえ」だから魚には悪いが死んでもらった。さあ、これからが難関だ、というところで銛がなくなっている。

 外面描写で淡々と表現する福田本と余計な表現をそぎ落とし、センテンスの短い文で表現するハードボイル調の小川本。同じ原作本が翻訳者によってこれほど異なり、作品の持つ雰囲気も違ってしまうことがおわかりになれたことと思います。

 明け方、港に帰り着いたサンチャゴ老人。疲労困憊し、岩の裾の砂利の上に小舟をつけ、粗末な小屋のベッド倒れこみ、深い眠りに陥る。最後の二行は次のように書かれている。

 福田本:道のむこうの小屋では、老人がふたたび眠りに落ちていた。依然として俯伏せのままだ。少年がかたわらに座って、その寝姿をじっと見まもっている。老人はライオンの夢を見ていた。

 小川本:この道を行った先の小屋では、また老人が眠っていた。うつ伏せになったきりで、少年が付き添って座っている。老人はライオンの夢を見ていた。                                        

  原作の中に「少年」や「アフリカの海岸で寝そべるライオン」や「腕相撲」の話などが書かれていますが、いずれもこの小説に欠かせない、物語に深みを与える重要な部分になっています。興味のある方はぜひ読んでください。どちらの翻訳本も面白く読めます。

                                         (おわり)       

 

 

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エボラ出血熱 (6) ー感染者2万人超すー

2015-01-17 22:10:00 | 昨日の風 今日の風

エボラ出血熱(6) ー感染者2万人超す―

 世界保健機関(WHO)1月7日発表によると、エボラ出血感染者は9か国で2万747人、 死者は8235人に上る。

ちなみに、12/26の同機関発表では感染者1万9695人、死者7708人となっており、感染者の増加をくい止めることはできないようです。

 特に、西アフリカ参加国での被害が著しい。

 リベリア(死者3496人)、シエラレオネ(同2943人)、ギニア(1781人)になり、また、同機関によれば1月4日時点で医療従事者838人が感染し、495人が死亡したと伝えている。59%という高い死亡率です。

 赤道ギニアでは17日からサッカー・アフリカ選手権が開催され、大会は予選を勝ち抜いた15か国と開催国の16チームで争われ、エボラ出血熱が流行したギニアやマリも出場する。

 各国の選手団には医師が同行していると朝日新聞は伝えるが、会場で感染が広がった場合、現在の態勢では対応しきれないと、現地病院関係者は不安をあらわにしているそうです。
                           (昨日の風 今日の風№17)

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老人と海 (2種類の翻訳本) 

2015-01-16 21:45:00 | 読書案内

老人と海 ヘミングウェイ著(2種類の翻訳本) 読書案内

 再々再読。気力が減退した時、疲労こんぱいし気分を入れ替えたいとき、気ままに読んできた小説です。

 原作初版は1966年ですから、半世紀も前に発表された小説です。にもかかわらず今も若い世代を中心に読み継がれている、その魅力は何処にあるのでしょう。

 新潮文庫 福田恒存翻訳 1966年初版 大魚を相手に雄々しく闘う老人の姿を通して自然の厳粛さと人間の勇気を謳う名作。(裏表紙作品解説より)

 光文社古典新約文庫 小川高義翻訳 2014年初版 三日にわたる壮絶な闘いが始まる。……。決して屈服しない男の力強い姿と哀愁を描く、ヘミングウエイ文学の最高傑作。(裏表紙作品解説より)

 福田本では、「雄々しく闘う老人と、自然の厳粛さと人間の勇気を謳う」と表現され、大自然(海)で大魚や襲いくるサメと戦う活劇ドラマを推測させる。一方、小川本では、「屈服しない男と哀愁」と表現され、ハードボイルドの香りを感じさせる。「哀愁」という語句に静かな老人の闘志を感じる。以下、2冊の翻訳を比較してみたい。冒頭は次のような記述で始まる。

 福田恒存翻訳: かれは年をとっていた。メキシコ湾流に小舟を浮かべ、ひとりで魚をとって日をおくっていたが、一匹も釣れない日が八十四日も続いた。はじめの四十日はひとりの少年がついていた。しかし一匹も釣れない日が四十日もつづくと、少年の両親は、もう老人がすっかりサラオになってしまったのだといった。サラオとはスペイン語で最悪の事態を意味することばだ。

 小川高義翻訳:老人は一人で小舟に乗ってメキシコ湾流に漁に出る。このところ八十四日間、一匹も釣れていなかった。四十日目までは同行する少年がいた。だか四十日かかって一匹も釣れないとは徹底して運に見放されている、 サラオだ、と少年の両親は言った。スペイン語で「不運の極み」ということだ。

  比べてみれば一目瞭然。小川本は簡潔に読者に理解しやすいように、翻訳している。『徹底して運に見放されている』という訳文が、老人の現在の状況を的確に物語っている。次のような文章にも二者の違いが表れている。

 福田本:この男にかんする限り、なにもかも古かった。ただ眼だけがちがう。それは海とおなじ色をたたえ、不屈な生気をみなぎらせていた。

 小川本:どこをどう見ても老人だが、その目だけは海の色と変わらない。元気な負けず知らずの目になっていた。

 「不屈な生気をみなぎらせ」た目と「元気な負けず知らずの目」という表現は、これから展開される物語の雰囲気をよく表していると思います。

             (つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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加山雄三 「耐えに耐えたら力備わる」

2015-01-10 23:17:01 | ことの葉散歩道

加山雄三 逆境に学ぶ

 逆境に立ち、向かって心の大きさということを考えたことがあります。

心は船に似ています。

若いころの心は小さな船のように、ほんの小さなしけでもひっくり返ってしまいます。

しかし、失敗した経験を重ね、心が大きな船になっていけば、

多少の波なら「これぐらいなら平気だな」ということが体験的にわかってくる。

 試練は自らに課せられた運命だから立ち向かうしかありません。                                           朝日新聞1月8日加山雄三(歌手・俳優)談話から抜粋    

  予想もしなかったつらい事態に直面したとき、どのようにしてその困難(逆境)を乗り越えてきたか。この問いに対する考えを談話形式で答えている。「心の船」。とても分かりやすい例えです。失敗した経験を糧として、その経験の一つひとつが逆境を乗り越えるための肥やしになる、と加山雄三は言っています。

 そして、「試練は自らに課せられた運命だから立ち向かうしかありません」と断言するところに、決して順風満帆ではなかった彼の人生哲学が垣間見えます。77歳にして初めて言える「自信に裏打ちされた人生訓」と受け止めました。

 「人を大切にすることを忘れちゃだめだ。友達や愛する人が一人二人いるだけで、心はゆとりを失うことがありません」と、人と人のつながりの大切さも忘れてはいません。

                                                  ことの葉散歩道(8)        

      

 

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美輪明宏の名言

2015-01-07 11:00:00 | ことの葉散歩道

美輪明宏の名言

 自信がなくなったら、鏡を見なさい。

 ずうずうしく生き続けている自分の姿が見えるでしょう。

 今まで生きてこられたのだから、この先も十分に生きられる。

 美輪明宏さんらしい人生訓です。これはおそらく、新聞・雑誌などで展開されている「人生相談」の回答の一部と思われます。なんと小気味がよく、明快な名言でしょう。

 『ずうずうしく生き続けている自分の姿が見えるでしょう』。ずうずうしく生き続ける……、という言葉が、人間の生き方を反映しています。                                           自然を破壊し、動物の命を脅かし、戦争を繰り返し、私たちはやっぱり「ずうずうしく生きているんだ」と。

 人間は地上の支配者ではないが、生きていく限りこのずうずうしさから逃れることはできないと自覚することが大切ですね。

 

 

 

 

 

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英知の矢

2015-01-04 22:10:51 | 昨日の風 今日の風

英知の矢

  深遠な道理をさとりうるすぐれた才知……広辞苑より

 不安な社会的事象がたくさん起きている。

 例えば、阪神神戸大震災、雲仙普賢岳土砂災害、広島土砂災害、3.11東日本大震災の大津波と追い打ちをかけるように発生した福島第一原発事故による放射能被害、御岳山噴火等々枚挙にいとまがない。

 こうしたことが起きるたびに、「絆」、「人の心の温かさ・優しさ」などが報道され、

 私たちは「私も何かしなければ」、「微力な私にできることは」などと考える。

 考えてそれを実践する人、考えてはみたけれど結果として何もしなかった人、何もできなかった人。

時間だけが確実に流れていき、風化と忘却の中で、私たちは自分自身の日常の中に埋没していってしまう。

 

  何かが起きるたびに、動揺し、不安におびえ、感動し、人の温かさにほろりとする。

 人間っていいなぁ そして人間って弱い生き物なんだと思う。

 

 小さな幸せや家族の幸せを願うのは、人としてごく普通の欲求です。

しかし、これだけで終わってしまったのでは、ちょっと残念です。

 

 先人が築いてきた知恵や文化を私たちは大切に受け継ぎ、次の世代に受け継いできました。

過去の過ちは反省し、同じ過ちを繰り返さない努力を続けてきました。

 

 政治のなりいきも、経済の流れも、私たちにとっては決して他人事ではなく、

私たち一人一人にも小さな責任がかかっている。

                                 

このことをしっかりと自覚したい。

 

 少しでも生きやすい世の中を実現するために、私たちの先人は努力を重ねてきました。

こうした先人の築いてきた歴史や文化を受け継ぎ、

次の世代へ引き継いでいく責任を私たちは担っている。

 

 一人一人に託された英知の矢を放ち、

次の世代へバトンタッチしていく責任を私たちは忘れてはいけない。

             (昨日の風 今日の風№16)

 

 

 


 

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