表現の自由 (イスラム国のテロに対抗する)
イスラム過激派組織「イスラム国」の日本人人質事件は、身代金要求から人質の交換要求へと流動的だ。
しかも、対日本だけの問題だけでなく、ヨルダン国まで巻き込み、緊迫した状態が続いている。
ISIL(イスラム国・イラクとレバントのイスラム国という英語の頭文字を取った。レバントとは地中海の東部沿岸地方)はサジダ・リシャウィ死刑囚と後藤さんの交換を要求しているが、ヨルダンは、「ヨルダン人パイロットとの交換で、死刑囚を交換する用意がある。パイロットの存命の証拠を求めているが、(ISILからは回答がない)」としている。
それぞれの国の立場を主張し、後藤さん、死刑囚、ヨルダン人パイロットの解放をめぐって、日本、ヨルダン、ISILの関係の緊張状態が続いている。(日本時間午前11時事件の進展は見えない)。
「人命を最優先に考える」でも「テロには断じて屈しない」
でも「ISILは理屈や人道主義が通る国ではない」。
この事件が明るみに出てから、メディアは格好の材料が出てきたとばかりに、
獲物を捕らえるハンターのように、ワイドショーは手を変え品を変えてその道の識者、専門家等々を登場させ、無責任な憶測や思い込みでテレビ画面を飾ってみせる。挙句の果てにミーハー的な人まで登場させて画面に花を添える。
「表現の自由」という観点からは、どんなことを言っても許される、とこれは大変な思い違いである。
爆笑問題の太田光はテレビ番組「サンデージャポン」で、こうした報道の在り方として「黙ることが必要なときもあるんじゃないか」と警鐘を鳴らしている。
明治学院教授で作家の高橋源一郎氏は、「表現の自由」を叫ぶ前にという題で、朝日新聞29日の論壇で次のように述べている。
『テロにどう対処するのか、政府や国家、「国民」と名指しされたわたしたちは、こんな時どうすべきなのか。
わたしにも「意見」はある。だが、書く気にはなれない。もっと別のことが頭をよぎる。
動画を見た。
オレンジの「拘束衣」を着せられ、跪(ひざまず)かされ、自分の死について語る男の声をすぐ横で聞かされながら、
ふたりは何を考えていたのだろうか。その思いが始めにある。「意見」はその後だ』
つまり、高橋氏は人間の根源的な「優しさ」の無いところで安易に「意見」いうべきではない。
太田光氏の発言も案外こんなところに真意があるのかもしれない。
メディアに要請されたにわか識者や専門家・学者が、責任を伴わない「意見」を言い放ち、ミーハー的な花まで添えてのメディアの在り方に太田氏は警鐘を鳴らしたのかもしれない。
相手に対する「優しさ」や「思いやり」の欠けたところでの「意見」は言うべきではない。
「表現の自由」の権利をはき違えてはいけない。「沈黙」し「黙って成り行きを見守る」ことも、表現の自由であることを忘れてはならない。
その上で、適宜有効な「意見」を表明したい。
(昨日の風 今日の風№18)