雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

風の行方(4) 宮城県被災地を訪ねて(4)

2012-04-26 21:25:45 | つれづれ日記

東松島・観光松島と被災地区(2)

 野蒜(のびる)・大曲地区(1)

 震災後1年経過。

大きながれきは撤去されたようだが、更地には程遠く、

液状化現象による地盤沈下後の水たまりや、写真のように損壊し住めなくなった家が散在している。

津波は民家の二階部分にまでおよび、

廃墟の中をのぞいてみると、部屋の中は散乱し、足の踏み場もない。

津波襲来のすさましさがいまだに漂っている光景である。

写真手前の供花とペットボトルのお茶が痛々しい。

痛恨の供花はここでもいくつも見られ、胸が痛む。

左奥にはがれきの山が見える。

 

 海岸近くにはがれきを運ぶダンプが行き交い、クレーン車やブルトーザーが騒音と土煙の中で、

復興に向けて活動していた。

その向こう側には遠浅で穏やかな海が、

まるで何事もなかったように、春の日差しを浴び光っていた。

 

 夏には海水浴客でにぎわうはずだった海岸通りをゆっくりと車を移動させた。

 

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風の行方(3)宮城被災地を訪ねて(3)

2012-04-23 21:54:04 | つれづれ日記

松島・東松島(奥松島)(1)

 松島 

 名勝地松島に着く。観光客の人波を眺めながら、わずかに残る津波の痕跡を見つける。

 松島湾に浮かぶ大小の島々と、遠浅の海が津波をブロックし、

海岸通りに軒を並べる土産・飲食店や松島海岸駅、瑞巌寺、五大堂など、

他の地域に比べれば奇跡的に軽微な被害で済んだようである。

活気を取り戻していた松島である。

 

 東松島市・奥松島(野蒜(のびる)地区・大曲浜)

 惨憺たる状況が視界に広がり、唖然となる。

目の前に広がる海は遠浅で、波静か。

穏やかな海が嘘のように広がっている。

この海が1年前に牙をむいて襲いかかってきた。

わずか3メートル程の防波堤を易々と乗り越え、

海岸沿いに続く、美しかったであろう防風林の松林をなぎ倒し、

人々の生活を根こそぎ奪ってしまった。

 

東松島市HPの今年2月現在の被害状況は次のようである。

  遺体収容1047人、行方不明57人。

  家屋の被害(全壊と大規模半壊)11,029に渡り、これは全世帯の約73%にあたり、

  さらに、一部損壊を含むと14,547戸の被害になり、全世帯の96%となる。

  被害の割合でいうと、被災地第1位にとなる。

 

 野蒜、大曲地区は埋め立て地のためか、液化現象と地盤沈下が起こり、

海岸付近には、1年後の今も、塩水が低地に淀みを作っている。

 写真は船が防波堤を乗り越え、住宅地に半分乗り上げている光景である。

防波堤に沿って続く海岸道路は、地震の地盤沈下と津波の被害で破壊されている。

いまだ、海水の引かない水たまり。

 

 復興は程遠く、家屋の残骸と瓦礫が延々と続く。

絶句するのみ。

  

 

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「陸前高田の奇跡の松」その後

2012-04-18 22:57:04 | つれづれに……

 今年1月8日付けで私は「陸前高田の奇跡の松」について、

次のように書いて、ブログに記載した。

 

 『……海が盛り上がり、防潮堤を乗り越え、牙をむいて襲いかかってきた。

  町を破壊し、生きる力さえ奪い去って行った。八万本の松林を根こそぎ押し倒し、

  神は、たった一本の松を瓦礫の中に残してくれた。全てを失った代償にしては、

  あまりにも失うものが大きすぎた。そして、願いもむなしく奇跡の松は枯れた。

  苛酷な人生を強いることができても、生き残った人々の心まで奪うことはできない。

  奇跡の松は枯れてしまったが、人間の心は決して枯れることはない。

  ……立ち直っていく人間の希望に託す力を信じたい』

 

 立枯れた松のその後はどうなったのだろう。「奇跡の松」「希望の松」といわれ、

「復興のシンボルにしよう」、「希望のシンボルにしよう」などといわれた松が枯れてしまった。

現実は私たちのささやかな夢や希望も打ち砕いてしまうのか。

 次の記事が「奇跡の松」のその後を伝えています。

  (1)  名古屋で苗木育成 河村市長申し入れへ

      一本松の苗木を接ぎ木してつくった苗を受け取り、

      約10年かけて土壌に植栽できる50センチ程度まで育てる。

                                    (要点抽出) 毎日新聞1月10日配信

   (2)  「奇跡の一本松」つながった命 採取の種発芽■将来「現地へ」  朝日新聞(2012.4.12) 

          住友林業、岩手・陸前高田で津波から残った「希望の松」の後継者育成に成功(日経BP環境経営フォーラム)

                                                                  (2011.12.17)       

           「希望の松」の枝を採取し、接ぎ木、挿し木、組織培養などクローン増殖による育成を行ったところ、

       挿し木と組織培養は途中で枯れたものの、接ぎ木で3本のクローン苗ができ、順調に育っている。

       同時に、木の上に残っていた松ぼっくりから種子を採取して育てる方法も試み、18本の苗を得ることができた。

       この結果、合わせて21本の苗の育成を実現した。(要点抽出)

       現地に植えるのには、50センチ以上に成長させる必要があり、それには7~10年かかる。

       ちょうどその頃、復興計画が軌道に乗ってくる頃で、

       その時まさに「希望の松」は、

       希望のシンボルとして陸前高田の海岸の景勝地「高田松原」の故郷に還って、

       新たな生命(いのち)の継承としてよみがえるだろう。

 

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風の行方(2)宮城県被災地を訪ねて(2)

2012-04-14 21:55:39 | つれづれ日記

仙台空港近辺(名取市)(2)

   ARIGATO(アリガトウ)

 その日のうちに滑走路のうち1500メートルを確保し、

土砂や瓦礫の除去作業が完了し、自衛隊の防災ヘリの離着陸が可能になった。

 20日には米軍のMC-130万能中型輸送機で重機などを現地に持ち込み、

滑走路の一部使用が可能になり、C-17軍用長距離大型輸送機を着陸させた。

 

 以後、米軍が空輸してきた支援物資を陸自の輸送車両が運ぶ共同作業を継続して行い、

燃料や水・食糧の大量輸送が本格化し、

仙台空港は東北各地の被災地への支援物資供給の拠点となった。

 

 任務終了間際の2011年4月3日、

米空軍大佐ロバート・トス(沖縄県嘉手納基地所属)は、

同空港に着陸しようとした際、

滑走路から800メートル離れた砂浜に、

松の大木を並べたARIGATOのメッセージを発見した。

「苦境の真っただ中にありながらも、感謝の気持ちを示す日本人に心を打たれた」

と、ワシントン時事通信は、ロバート・トスの言葉を伝える。

 

 3月16日以後の3週間で米陸軍部隊など約270人が復旧作業に従事、

救援物資1,140トン、燃料約5万7000リットルが仙台空港経由で被災地に搬入された。

 

 仙台空港の管制業務は(2011年)4月1日に、日本側に引き継がれ、

同13日に旅客便の就航が再開された。

一部再開ではあるがねたった3週間での再開の裏に、

自衛隊、米軍の不眠不休の活動があったことを忘れてはならない。

また、後日判明した、「ARIGATO」のメッセージは一人の青年の行為によるもので、

彼は直接仙台空港の米軍支援部隊に行き、

感謝の手紙を渡し、

その際の米軍の丁重な対応に感動し、

「ARIGATO」のメッセージとなった、とのことです。

   ( 写真は被災当時の仙台空港)

                              (つづく)

       (次は松島・東松島(奥松島)を予定してます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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読書紹介「下山の思想」五木寛之著

2012-04-08 14:29:42 | 読書案内

読書紹介 「下山の思想」 五木寛之著 幻冬舎新書 2011年12月刊

 「人生指南の書」になりうるか。生きるヒントを発見することができるか。

裏表紙のBOOKデータベースによれば、

 『どんなに深い絶望からも人は立ち上がらざるを得ない。

すでに半世紀も前に、海も空も大地も農薬と核に汚染され、

それでも草木は根付き私たちは生きてきた。……』とあり、

私はこれを読んで「東日本大震災」を経験した私たちが、

苦しみや悲しみの中から立ちあがっていくにはどんな方法があるのかと、

期待に胸躍らせページを開いた。

 

 GNP世界第2位(2009年中国に抜かれて現在第3位)まで登りつめた日本社会ばかりでなく、

アメリカもヨーロッパ先進国も、国の在りようは行きつくところまで行きつき、

頂上(頂点)を極めた私たちの社会は、大きなひずみ(矛盾)を噴出させている。

 

 行く先の見えない不安定な社会をどのように修正し、解決していくか、

その方法が「下山の思想」だという。

「実り多き下山」と著者は言う。

決してマイナス思考ではなく、新たな高みへ上るためのプロセスとして、

極めた頂点から下りることが望ましいと……。

 

 「東日本大震災」とは全く関係のない内容であるが、次の一文が目をひく。

 『すでにこの国が、そして世界が病んでおり、

急激に崩壊へと向かいつつあることを肌で感じている……。

知っている。感じている。それでいて、それを知らないふりをして日々を送っている。

明日のことは考えない。

考えるのが耐えられないからだ。

いま現に進行しつつある事態を、直視するのが不快だからである。

明日を想像するのが恐ろしく、不安だからである。

しかし、私たちはいつまでも目を閉じているわけに入んない。

事実は事実として受け止めるしかない』。

 

 そうです、受け止める現実がどんなに苛酷な状況であろうと、

そこから目をそらさずに生きていくほかに道はないのです。

                               (評価:☆☆☆★★)

 

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風の行方(1) 宮城県被災地を訪ねて(1)

2012-04-04 22:57:17 | つれづれ日記

仙台空港近辺(名取市) (1)

 3月25日、止むにやまれぬ思いで、被災地に向かう。

津波に襲われた被災の状況を自分の目で確かめたい。

友人夫妻の願いを叶えるべく、朝、5時、我が家を出発。

北関東自動車道→常磐道→磐越道→東北道と車を進め、

仙台南道路際の名取川に沿って海岸に向かう。

 

 この川を津波が遡ってきたという。

いまだに川の水が濁り、1年前のすさましさの名残を残している。

近くに仙台空港があるからなのだろう、道路はよく整備されており、有料道路が多い。

 

 1年前津波は、海に近い空港をも飲み込み、空港は壊滅状態になった。

空港職員の知人は、水の引いた後、空港から避難を始め、

避難路の付近に横たわる多くの遺体を眺めたその日の光景が今も、

鮮明に脳裏に焼き付いているという。

 

 この空港は海岸から1キロメーターしか離れておらず、

津波は海岸の砂を巻き上げ、防風林の松林をなぎ倒し、

空港を含む仙台平野を襲った。

 高台などどこにも見当たらない。

ただひたすら遠くへ、津波に追われながらの逃避行。

名取市は1000名を超える犠牲者を出した。

 

 その日、仙台空港を襲った津波はすさましい勢いで仙台平野をなめつくしたのだろう。

『海岸部に遺体300人、空港屋上に1300人避難』とメディアは伝える。

『何千もの潰れた車両、折れ曲がった飛行機、根こそぎにされた木々、倒壊した家々、

水、砂、魚介などが散乱し、機能が停止した空港……』と、

米空軍大佐・ロバート・P・トス総合特殊作戦隊司令官は、

2011年3月16日に空港に到着した印象を語っている。

 

 日米二国間協議により、自衛隊、合衆国空軍、海兵隊、陸軍、海軍等が、

震災5日後の16日には、復興支援活動を開始した。

迅速な対応である。

「トモダチ作戦」を表明する米軍の活躍は、

目を見張るものがあった。

                                             (つづく)

 

 

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