雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

「虐待」報道に思うこと

2019-11-28 11:54:46 | 昨日の風 今日の風

  「虐待」報道に思うこと
 痛ましい児童虐待の死が報じられる度に、虐待の加害者(多くは親)は、
 「虐待ではなく躾(しつけ)」だったと弁明する。この場合二つのことが考えられる。

 ① 本当に「躾」と思っている。(躾と虐待の相違を理解してない場合が多い)
 ② 「躾」は自己弁護で実際は「いじめ」がエスカレートして「虐待」に発展してしまうケースです。

 多くの場合は②に相当する場合が多い。
 逮捕され最初の尋問で、「私は虐待をしました」と、ストレートに自白する加害者は少ない。
 この傾向は、殺人事件で逮捕された被害者が、
 「身に覚えがない」→「死体遺棄」を認める→「殺人を認める」という経路をとる場合が多いのと同じ傾向です。
 全ては自己防衛という自衛本能が根底にあるからです。
 
 さて、本題に戻ろう。
 「躾」という行為に、攻撃という刃が加われば、
 この逸脱行為は間もなく「虐待」という行為に変容していきます。
 「いじめ」や「虐待」は初期の段階で解決しないと、
 暴力行為を伴いどんどんエスカレートしていきます。
 例えば、一度叱って効果がなければ、次は声を荒げさらに暴力行為に進んでいく。
 暴力行為も回を重ねるごとに過激になっていきます。
 往々にして、虐待は密室で行われる場合が多く、悲劇を敵な結末を迎える場合もあります。

 加害者にとっては、虐待を躾と思い込み、
 時には、虐待の隠れ蓑として利用する場合もあります。
 ここに、虐待やいじめがなかなか表面化せずに、根絶できない難しさがあります。
 児童相談所だけを責めるのではなく、
 児童相談所、医師、警察等の機関が協力して事に当たらなければ解決は難しいケースが増えています。
 
 虐待は弱者の心に傷をつけるような楔(くさび)を打ち込んでしまい、
 取り返しのつかないことになってしまう事例がたくさんあります。

 小さな命が奪われたとき、
 メディアは虐待に至る過程を競って報道します。
 「小さな命が理不尽に奪われた」のですから、
 「虐待死に至る過程をできるだけ詳しく知りたい」というのは、多くの人が望むところです。
 当然のことながら、メディアの論調もこのことに集中する傾向にあります。
 このこと自体が悪いことではないと思いますが、記事を追う姿勢にもう一つ工夫が必要かと思います。

 小さな命が奪われたことに、多くの人の関心が集まります。
 なぜ小さな命が奪われてしまったのかを追求するメディアは、ごく少数に限られる現実があります。 
 つまり報道は被害者の側面を洗い出すことに集中し、
 加害者の心の内を解明するような取り組みをするメディアが非常少ないと感じられます。

 法整備、児相等の公共機関の見直しなど虐待防止のための改革は、必要なことです。
 だが、このような事件が起きてしまった裏に潜む、
 加害者の心の闇、加害者を生んでしまった社会の在り方についての報道が少なく感じます。
 このことに目をつぶってしまっては、
 私たちの社会が安心して暮らせる社会にはならないと思う。

 人間のこころの闇をみつめようとする姿勢。
 さらに、社会の底にひそんでいる「闇」に光を当てる姿勢が必要と思われます。

 一連の虐待報道を見て、感じたことを私流にまとめてみました。

(2019.11.30記)        (昨日の風 今日の風№104)

 

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読書案内「断碑」(短編)松本清張著

2019-11-23 21:32:49 | 読書案内

 読書案内「断碑」(短編) 松本清張著
  報われない人生を「反骨」と「執念」で生き抜いた男がいた。

  人生とは、「思い通り」にいかないものだ。
  むしろ、思い通りに行かないことのほうが多く、
  時にあきらめ、ときに目標を変えて、
  人生行路を歩んでいく。
  決してよどみに沈んだ病葉のように、
  朽ち果て、一生を暗い水底で終わってしまうわけではない。

  たくさんの思い通りにいかないことがあっても、
  それ以上に楽しいこともあったのに違いない。
  入試 卒業 就職 結婚 子供の誕生…
  親離れと子離れ。
  年を経て、穏やかになるのか、頑固になるのか
  人の一生は、
  その人が生きた境遇や親から受け継いだ「血」によっても違ってくるのだろう。

  短編小説「断碑」のなかで松本清張が描いた考古学研究者・木村卓治は考古学の
才」に恵まれ、

  非凡な見解を持っていたが、学歴がないゆえに学会から冷遇され続けた卓治は、考古学会という
  閉鎖社会に孤高の戦いを挑み続け、その才能を認められることなく鎌倉市極楽寺の仮寓で結核により、
  34歳の生涯を閉じる。

  木村卓治にはモデルがいた。
  当時の原始社会には既に貧富の差と階級が存在していた」という説を唱えた在野の考古学者・森本六爾(ろくじ)が
  モデルであるが、学歴も人脈もないため、学界から冷遇され続ける。
  清張は「断碑」のなかで次のように述べている。
  当時の考古学者は誰も木村卓治のいうことなど相手にする者はなかった。
  ……黙殺と冷嘲が学界の返事であった」と。

  森本六爾(ろくじ)

  若くして苦労をし、学歴社会の中で無念の人生を歩まざるを得なかった清張は自分の人生を
  森本六爾(木村卓治)の人生に重ね合わせて表現したのだろう。

  清張が描いた木村卓治は考古学上の恩人に対しても、学問上の理論は一切の妥協を認めず、
  対立する相手を糾弾し、歯に衣着せず攻撃した。
  そうした常軌を逸したような行動に、
  彼はますます考古学学会から疎んじられ孤立していく。

  今日では常識になっている、
  弥生式時代が農耕社会であり、一種の階級・支配社会の芽生えた時代であることを主張しても
  当時の考古学学会はこれを黙殺した。

  清張の描く木村卓治は清張自身の人生を反映し、いささか誇張された部分はあるが、
  大きく外れることはない。

  学歴のなかった木村卓治(森本六爾)にとって、
  学会とか学閥などといわれる閉鎖社会への戦いを挑まざるを得なかった彼の立場を思えば、
  仕方のない生き方だったのかもしれない。

  最後に鳥飼かおる氏の森本六爾に関する一文を紹介します。
 
  

   
  森本は、押しが強く周囲を慮る気持ちに欠けた性格が災いしたことから、
  自ら敵を作ってしまい、自身のよりどころだった考古学界に受け入れられる
  ことな
く、32歳の若さで亡くなることになってしまった。
  森本は言うまでもなく、考古学
に限らず、多くの「学者」に与えられる博士
  号などの学位、大学や博物館の中に自身
の研究室・チームを持つこと、学会
  で華やかに顕彰されることなどといった「結果」は何も残してはいない。


 松本清張の「断碑」の最期の二行は次のように記されている。

 
 昭和11年1月22日に息を引いた。シズエ(妻)死から二カ月後のことであった。三十四歳。
 遺品は埃を被ったマジョリカ焼きの茶碗と菊版4冊分の切り抜きがあっただけだ。

 あまりにも寂しい孤高の研究者・森本六爾の最期である。
 (文中妻の名前をシズエとしているがこれは清張の創作によるもので、実名はミツギ)

清張は森本六爾の最期を「孤高の死」として表現することによって、
才能があるにもかかわらず、
学歴がなくいずれの学閥にも属することのできなかった六爾の孤独な人生を描きたかったのだろう。
そしてそこに六爾の生涯と清張自身の人生の重なり合う部分に思いを馳せていたのではないかと思う。

 しかし、森本六爾がすっかり学会や世間から葬り去られたわけではない。
彼の生地である奈良県桜井市には六爾夫妻
を讃える大きな石碑が立っている(写真)。


 

 市のホームページは六爾夫妻を次のように紹介している。

 旧「大泉」バス停の南に碑がある。

森本六爾は考古学の鬼才と称され、「考古学研究」を発刊。内助の功もあり、次々と新説を発表。
唐古遺跡や航空考古学など、彼の研究が没後に的中し、我が国考古学界の先覚者とたたえられている。
 松本清張の作品「断碑」は森本六爾をモデルにしたものです。
20歳から32歳の没年まで、10冊の単行本と160余篇の論文があり、
「日本農耕文化の起源」や「日本原始農業新論」は不朽の名著です。


顕彰碑裏面

日本考古学の鬼才、森本六爾君は明治三十六年三月二日この地に生まる
独学にて考古学の研究に没頭し若年にして前人未到の「日本原始農業」を著し天下にその説を問う
しかるに研究その緒につきしのみにて昭和十一年一月二十二日逝く、享年三十二才
ミツギ夫人は福岡県の生れ、昭和三年結婚内助のほまれ極めて高かりしも夫君に先立ち同十年十一月十一日永眠、享年三十二才

共に若くして考古学に殉ず、まことに惜しみてもなほ余りあり
ゆかりの地、唐古池の発掘調査は昭和十一年十二月に始まり君の予見適中したるも相共にその成果を見ることなし
嗚呼(ああ)二粒の 籾 もし 成長し、結実しあらば 今日 考古学会の盛況を 思ひ 君の早世を悼むと共に 偉大なる功績を顕彰せむと この碑を建立す

奈良県立畝傍中学校同窓、奈良教育大学名誉教授、堀井甚一郎 撰書櫻井民大学 文学散歩の会 建立 昭和五十六年三月吉日


(市のホームページ及び顕彰碑裏面でも森本六爾の没年齢を32歳としているが、明治36年生まれで昭和11年没が正しいとすれば、六爾は34歳でなくなったことになり、32歳は誤りと思われる。)

 
  
在野に埋もれた森本六爾を木村卓治としてよみがえらせ、「断碑」という短編に表した清張の功績も大きいですね。

清張が「風雪断碑」を改題し「断碑」として
発表したのが1954(昭和29)年
 顕彰碑の建てられたのが1981(昭和56年)。

清張が「断碑」を発表してから実に27年の歳月が流れています。
この「断碑」の存在なしに、顕彰碑の存在を語ることはできないのではないかと私は思います。

          「断碑」とは、「割れて欠けた石碑」という意味ですが、世間に顧みられることなく風雪に埋もれていく
                 森本六爾の功績をイメージしているようです。

           書籍情報:清張の短編集 或る「小倉日記」伝所収 新潮文庫・傑作短編集(1) 平成14年12月 第62刷

 

          

    (2019.11.23記)   (読書案内№145)




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アスリートとスポーツ

2019-11-15 15:51:58 | つれづれに……

アスリートとスポーツ
 
東京5輪を一年後に控えて開催側の準備も徐々に整ってきた。
 この段階で突然、マラソンと競歩の会場が東京から札幌に変更になってしまった。
 変更の理由は
 「開催地の気候的条件が、
 選手たちにとって過酷で健康を損なう恐れがある」ということらしい。
 しかし、「札幌に決定」と公式発表まで小池東京都知事には何の相談・打診もなかった。
 全くの蚊帳の外ということだ。
 当然のことながら事前に相談・打診をすれば都民の代表である都知事としては絶対に譲れない内容だ。
 変更案に対する懐柔案を出し、
 対抗姿勢を堅持するだろう。
 
 だから外堀を埋め内堀をひそかに埋めたうえで、説明をする。
 

 「もう決定したことです。」
 言われてしまえば、返す言葉がない。
 後は「蚊帳の外」に追いやられた
都知事としての体面をどう保って、
 相手の言い分を承諾するか。
 この会場変更の幕引きの対応を誤ってしまえば、
 都知事の面子が丸つぶれになってしまう。
 そのことだけは何としても避けたいと思う都知事でした。

 「長」と呼ばれ、トップに立つ者の立ち位置はいつも孤独だ。
 部下も仲間も信頼の絆で結ばれているかに見える関係でも、
 いつ何時袂を分かつかわからない。

 「昨日の敵は今日の友」という言葉があるが、
 「昨日の友は今日は敵」などということも珍しくない。
 「寝首をかかれる」という現実も珍しくない。

 安心のできない日々を過ごさなければならない孤独との戦いが続く。

 アスリートたちの挑戦は孤独だ。
 切磋琢磨し一緒に練習に励んできた中も、器量が拮抗すればライバルになる。
 自分を奮い立たせるライバルであり、決して敵ではない。

 長く苦しい孤独の戦いだ。
 その上、選手生命は短い。
 現役を引退した後、関連スポーツの世界で生きていけるアスリートは非常に少ない。
 記録という実績だけでは、生きていけない。
 経験に裏打ちされた技術と人を引き付ける魅力がなければ、
 尊敬される指導者にはなれない。

 組織を牛耳り、スポーツを利権獲得の手段として利用し、
 スポーツ界を追われた人を私たちは何人も見ている。


 有森裕子は言った。

 「自分で自分をほめたい」と。
  1992年バルセロナ五輪マラソンで銀メダル。
  その4年後、アトランタ五輪で銅メダルを獲得
  目指した金メダルは逃したけれども、2大会連続女子マラソンで獲得した有森は言った。
  「メダルの色は銅かもしれませんけども……。
  終わってからなんでもっとガンバレなかったのかと思うレースはしたくなかったし、
  今回はそう思っていないし…。
  初めて自分で自分をほめたいと思います」

  苦しい練習と自分との孤独な戦いに勝った人の言葉の意味は重い。

高橋尚子は言った。

  「夢は持ち続ければ叶えられる」と。
  
  2000年シドニー五輪    金メダル 五輪記録
  2001年ベルリンマラソン  優勝   世界記録

   努力と精進を重ねた結果として獲得した輝かしい実績を持つ彼女の言葉には
   重みと説得力がある。

  円谷幸吉は自らの命を絶った。
   「父上様母上様三日とろろおいしゅうございました」
   
   あまりにも悲しい遺書が痛ましい。

   1964年東京オリンピック。
   55年前のことだ。
   
   代々木の国立競技場に2位で戻ってきた円谷。
   だが彼は3位で円谷を追ってきたイギリスのヒートリーに抜かれ惜しくも3位に。

   4年後、1968年メキシコオリンピックに国民の期待は大きくなる。
   期待が大きくなればなるほど、円谷はその重圧に押しつぶされそうになる。
   彼は頸動脈を両刃の剃刀で切り、自らの命を絶った。



   頑張れ!
   孤独な戦いに挑むアスリートたちよ。
   
   目指す金を逃したとしても、金が人生のすべてではないのだ。

   (2019.11.15記)       (つれづれに…心もよう№96)
   
   

 


 

 







 

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何かに追いかけられて…

2019-11-02 06:00:00 | 昨日の風 今日の風

何かに追いかけられて…
 

   
    私たちは物心ついた時分から、
   「戦争だ」
   「非常時だ」
   「一億火の玉だ」
   「復興だ」
   「経済成長だ」
   「国際化だ」と、
   いつも、追いつけ追い越せと何かに駆り立てられ、
   時の流れに遅れまい、
   落伍するまいと急き立てられる想いで生きてきた。

                       色川大吉 「ある昭和史」より


   激動の昭和は、
  焦土と化した国土の復興から立ち上がるための
  なりふり構わぬ経済活動に皆が邁進した時代だつた。

  「企業戦士」などという言葉が、
  誇らしげに語られた時代でもあった。

  同じような言葉に、「モーレツ社員」などと言って、
  会社のためになりふり構わず、
  家庭や個人を犠牲にして働く男たちがもてはやされた時代だった。

  

  さて、平成時代はどうであったか。

  平成元年(1989) ………… ベルリンの壁崩壊
      3年(1991) ………… 湾岸戦争勃発
     7年(1995) ………… 阪神・淡路大震災
     12年(2000) ………… 三宅島噴火
     13年(2001) ………… アメリカめ同時多発テロ
     26年(2014) ………… 御嶽山噴火

     平成の時代と重なって忘れられない悪夢のような事件が発生。
     オーム真理教の一連の事件だ。
     事件を起こした者たちは大まじめで自分たちの社会を作るために
     殺人も厭(いと)わず正当化したところに救いがたい社会の亀裂を感じます。
     そして、平成に起こった忌まわしい事件は、
     平成のうちに決まりをつけ早く忘れたいとでもいうように
   平成30年(2018) ………… 松本元死刑囚をはじめ13人の死刑が執行された。

  平成の時代は、低成長が長く続き社会の中で経済のかじ取りを担うような大きな会社が
  企業倫理に反するような不祥事を起こし、不祥事の隠ぺいなど社会問題にもなった。
  ブラック企業などという不名誉な看板を担がされた企業もたくさんあった。
  労働力不足も一向に改善されない。
  価格競争のはてに、労働者にとって職場環境は過酷になっていく。
  販売価格を低く抑えれば抑えるほど、労働者の賃金が抑制されてしまう。
  低価格設定の裏で泣くのはいつも労働者だ。
  「労働力不足と低賃金」という問題を解決できなければ、
  経済の回復は望めない。
   

     
  経済活動を基盤とする社会システムは、
  頂点目指して這い登る自由競争という階段を、
  高み目指して昇りつづけなければならない。
  
  
  競争の階段には上限がない。
  
  ピラミッドの頂点にたどり着いたら、
  繁栄と安心が迎えてくれるわけではない。
  更なる競争相手が現れ、
  この凌ぎを削る競争社会を、
  弱肉強食の社会ととらえることには抵抗がある。
  世界の平和や社会の安定が、
  経済社会の目指す方向ならば、
 
  せめて共存共栄ととらえたい。

  
      花が最も美しい時を迎えたときから、
  すでに美しさは滅びの予感を漂わせ
  凋落の坂道を下り始める。

  果てのない競争社会の中で私たちは
  
  時にストレスを抱え、
  時にひと時の幸せに生きる喜びを感じながら
  生きている。

  いつも何かに追われているような焦燥感がある。
  それは、
  
  社会そのものが時間の中を漂流する小舟のように揺られ
  流動しているからなのだろう。

  平家物語や方丈記に謳われた無常観を私たちは心の底に抱えている。
  
  だが、パスカルが瞑想録の中で述べているように
  人間は「風に揺らぐ一本の葦」であるけれど、「考える葦」だという。
  
  歴史を見れば、時々間違った方向に進むこともあるが、
  人間の英知は努力し、軌道修正をする力を持っている。

  NHK世論調査によれば平成の時代は
      「
戦争がなくて平和な時代」だと79パーセントの人が回答している。
  世界全体を眺めれば、いつもどこかで戦争の火種がくすぶっているのだが
  とりあえず「日本では」という条件付きの解答なのだろう。
  しかし、一方では
  「社会的弱者にやさしい社会」と回答した人は3パーセントだった。

  平和であるけれども、
  余裕のない、生きずらい社会の存在があることを私たちは忘れてはならない。
  「幸せ」感も、私的で「囲い込み」の幸せが蔓延し、
  多くの人が享受できる幸せではないと考えなければ健全な社会とは言えない。

  災害国日本では災害が起こるたびに、「復旧」「復興」が合言葉のように言われるが、
  「心の復興」こそが必要な時代なのではないか。

  何かに追いかけられるような焦燥間の漂う社会は生きずらい社会です。
  
  
  令和の時代が穏やかで、やさしい社会であることを願いたいですね。

  

   

   (2019.11.01記)    (昨日の風 今日の風№103)

 

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