感謝を忘れずに (ことの葉散歩道№40)
食前観
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母の教えでもあった。
感謝。
特に、食べ物への感謝は厳しく教え込まれた。
米粒一つと言えどおろそかにしてはいけない。
食べるものがあるから 今日を生きられる
食べ物に感謝し、
両手を合わせることによって
今日一日生きられたことを 感謝する。
全ては食べものへの感謝の気持ちから始まる。
感謝を忘れずに (ことの葉散歩道№40)
食前観
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母の教えでもあった。
感謝。
特に、食べ物への感謝は厳しく教え込まれた。
米粒一つと言えどおろそかにしてはいけない。
食べるものがあるから 今日を生きられる
食べ物に感謝し、
両手を合わせることによって
今日一日生きられたことを 感謝する。
全ては食べものへの感謝の気持ちから始まる。
無駄な努力なんってないんだ (ことの葉散歩道№39)
お寺さんを参拝した折にいただいてきました。
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結果論で片づけてしまえば、「結果の出ない努力は無に等しい」ということになる。
あまりにも味気ない考え方だ。
そうではあるけれど、
競争社会で生きていくためには、結果が伴わない努力は痛々しい。
でも、救いになるのは
報われぬ努力や挫折が
苦労とか
痛みという感情のスパイスで味付けされ
人生の深いところで
人格というかけがえのないものを育てくれるということだ。
そうだよ!!
報われぬままに光るその光が
いぶし銀のように優しく光る時がきっと訪れるのだ
その時
あなたも私も
人生って素晴らしいと思えるに違いない
(2018.4.26記)
読書案内「桜守」 水上勉著
新潮文庫 昭和51年4月刊 平成7年第16刷
他に、木造建築の伝統を守って誇り高く生きる老宮大工を描いた長編『凩』を併せ収める
昭和43(1968)年に書かれた小説。
50年も前に書かれた小説だが、今読んでも少しも古さを感じない。
4月の桜の季節には是非読みたい小説のひとつです。
何度も読めば、新しい発見があり、年齢とともに受け止め方も違ってくる。
追記:
「桜守」の弥吉は創作された人物だが、弥吉が先生として慕う桜学者の「竹部庸太郎」には、実在のモデルがおり、御母衣ダムの湖畔に移築された樹齢400年の老桜の挿話は、事実に基づいた話であり、現在も「荘川桜」として、春にはダム湖に沈んだ村の象徴として爛漫の花を咲かせ、往時の出来事を彷彿とさせています。
(2018.4.25記)
失敗したっていいんだ (ことの葉散歩道№38)
天台宗のお寺さんを拝観した。
入口にさりげなく置いてあったチラシ。
人生は |
簡単明瞭だ。
人生は
生きてきた過去を
消すことはできないが
やり直しはできる
明日はきっと
いいことがあるよと……
そうだ!!
失敗したっていいんだ
そう思うと
気持ちが楽になり
仰ぎ見る観音様のお顔が
なんと優しく見えたことか
♪ 奮闘努力の甲斐もなく
今日も涙の
陽が落ちる ♪
「寅さん」
明日があるよ
頑張ろう!!
故郷の田園風景
さくらつつみの桜も、すっかり花をおとし、潮の引くように人波が消えていった。
今は、ウオーキングをする人や、
犬を連れた人たちがチラホラ静かになった遊歩道を散策している姿が見られます。
桜並木の向こう側に広がる田園の広がりが少しずつ春の色に変わっていきます。
山の色も川のせせらぎも、日一日と春色に染まっていきます。
川のほとりの堤防沿いに2㌔ほど続く桜並木のほぼ真ん中あたりにこんな文章が刻んである。
農村の生活とは
かくも忙しくめずらしく
おもしろく
活気があるものなのか
田園に広がる空は
かくもあざやかに美しく
変化するものなのか
蒼々とした冬の空
横たわる雑木林
枯れた葉のざわめき
自然とはかくも変化にとみ
詩情に満ち満ちた
ものなのか
森田 茂
森田茂氏は洋画家で、文化勲章受章者でもあり、名誉市民でもある。
画家の感性が切り取った農村の風景だ。
絵具をキャンパスにたたきつけるような画法の中に、重厚で奥の深い作風は一見の価値がある。
絵の中に物語性を追求した作風が好きだ。
参考作品「黒川能(熊野)」 黒川能(知盛)
(2018.4.11記) (石仏・仏像・塑像等№4)
いじめ 相変わらず「保身の術」
いじめ問題が表面化すると、
相変わらず「見ぬふりをする」、
「気がつかなかった」などの学校や担任の無責任な行為が改善されないことがわかる。。
校長は自分が在任中に問題を起こしたくない。
担任は「知らなかった」ということで責任逃れをしようとする。
いじめが、被害児童の両親等により表面化され、社会的な問題として報道されない限り、
解決の糸口が見えない。
「自己保身」という厄介なものがあるから、「隠蔽」の体質がいつまで経っても改善されない。
教育に携わる者が、自己保身に囚われてしまえば、
その時点で「教育の理念」はなし崩しに失われてしまう。
生徒との信頼関係もなし崩しに失われてしまう。
教壇に立って、どんな正しい教育理念を語っても、
信頼関係の失われた現場では、言葉だけが空回りしてしまう。
最近の「いじめ」報道から2題を紹介します。
① 神奈川県茅ケ崎市立小学校
いじめで不登校になったと両親が訴え、担任は学校の聞き取りに、いじめに気づかなかったと説明。
学校側(校長)もこれを認めた。
しかし、第三者委の調査によれば、担任だった女性教論は、「いじめを見て見ぬふりをした」と説明。
調査が進むに従い教師としてあるまじき行為が判明。
「注意するのが面倒になった」と告白。
4年生の男子児童(10)は、学校に通えなくなり、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。
第三者委は、担任が適切な対応をせず、学校も組織的な対応が不十分だったと報告書を市教委に答申した。
② 沖縄県豊見城(とみぐすく)市の小学校
「日常的に繰り返されたいじめが自死の主たる要因の一つ」と、第三者委は調査報告書の答申を公表。
小学4年の男児(9)は、
自殺を図る直前に学校が行った定期アンケートに「いつもいじわるをされている」と記していたが、
学校はこのことについて具体的な対応を取らなかった。
もう少し具体的に紹介すると、「いじわるされている。どうすればいいんですか」。
児童のSOSだ。
命の叫びだ。
これに対して学校は「トラブルであり、いじめではない」と判断し、何の対応も取らなかった。
一歩譲って「トラブルであり、いじめではない」と判断したとしても、
トラブルの内容すら把握することなく放置した無神経な姿勢は決して許されない。
定期アンケートてあるが、規則通り、マニュアル通りに実施して、
実施したという実績だけを残すようなアンケートなら全く意味がない。
児童は担任にも相談していたが、学校は具体的な対応を取らなかった。
「これまで学校や市教委から誠意のある対応はなかった」と、遺族はコメントしている。
第三者委員会は調査報告の答申書の中で、適切な対応を怠った学校側を
「自らを正当化し、保身を図る行為であり、教育者としてあってはならない」と厳しく批判している。
学校という密室の中で繰り広げられる、「正当化と自己保身」が無くならなければ、
児童の健全な発達をうながすことはできないし、基本的な教育の 充実は望めないと思います。
(2018.4.9記) (昨日の風 今日の風№91)