雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

願わくは

2015-09-30 17:00:00 | 願わくは

 

願わくは……

 

 

 

 

 

 

 わが家のお月見。

 ススキもカルカヤ(吾亦紅)も、この日を楽しみにしていた孫たちと一緒に採ってきました。 

 

 「お月さまの中にはウサギさんがいてお餅つきをしています」などと話をしながら、

いつも思うことは、

一体こうした話を何歳まで信じてくれるのか。

 

 一年生の孫は、

夜空に輝く金色の月をしげしげと眺めながら、

「じいちゃん、ぼくにはウサギさんがお餅をついているのが見えるよ」という。

 

 わたしは、「じいちゃんには、ウサギさんが尻もちついているように見えるんだけど」と。

 

 

 この子が大人になったとき、

自分の子どもにも同じような話ができる大人になってほしいと思う。

 

 かつて、10年ほど前、私の兄がなくなった時、

「じいちゃん、荘平おじちゃんはお星さまになっちゃったの」と、

問いかけた孫も丁度6歳ぐらいだったか。

 

 トンビが輪を描いて飛んでいた空は、どこまでも碧く、安曇野の風は頬に心地よかった。

 

 

 運命のいたずらか、その孫は14歳で早逝してしまった。

 

 

 私は打ちのめされ、生きる気力さえなくしてしまったが、

わずかずつ立ち直ることができたのは、

彼が残してくれた、たくさんの思い出が、

楽しかった日々を思い出させ、

彼の在りし日の姿をしっかりと抱きしめることができたからだ。

 

 

 成績や結果でしか評価されない今の風潮には、さみしいものがあります。

おおらかで、人の気持ちや優しさや哀しさを素直に受け止めることができる、

そんな大人になってほしいと思う。

 

 駆け足が皆より遅くてもいい、忘れ物をしたっていいじゃないか。

 

 できないことはできない、わからないことはどうしてと素直に訪ねることができる子どもは、

まっすぐに育っていきます。

 

「ばぁちゃんの作るごはんがいちばんおいしいよ」この言葉に70歳を過ぎた妻は救われます。

 

柔軟な心を持っていれば、可能性は無限に広がっていきます。

 

 

 紙でつくったウサギが赤い紙の布団の上で、月を見ていました。(写真)

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延命治療の疑問

2015-09-27 08:00:00 | ことの葉散歩道

延命治療の疑問   ことの葉散歩道(12)

延命は誰のために

終末状態になっても次から次へと薬剤が投入されている父を見ているうちに、「もう父にとって医療はいらないのではないか」という考えが突然、わき起こってきた。

※ 「看取りの作法」香山リカ著 祥伝社新書

 著者の父が昏睡状態に落ちり、著者をはじめ母も弟も父の最期が近いことを覚悟した。

おそらくまもなく、敗血症性ショックと呼ばれる状態になり、血圧が低下して……という死の経過をたどることになるのだろう。

 医師である著者は冷静に父の最期を看取ろうとする。父親は、家に帰り、生活の匂いやテレビの声や孫の走り回る声などを聴きながら、「最期」を迎えることができ、心穏やかに臨終を迎えられたのではないかと、著者は記している。

 心電図計が接続され規則的な機械音が聞こえる。人工呼吸器はとても苦しそうです。点滴のチューブが何本も繋がれ、昏睡状態に陥った「最期の時を迎えた人」にとつては、とても残酷で、これが人間の「最期」なのかと思うととてもやりきれない。

 回復の見込みもなく、ただ「最期の時」を待つだけだったら、もっと穏やかな「最期」があってもいいような気がする。

 しかし、医学的な知識もなく、患者に対して医療的ケアを何もできない私たちにとっては、老衰死以外は在宅で「最期」の看取りをすることはできない。

 私は、在宅ケアの延長線上に“在宅死„という選択肢があってもいいのではないかと思う。

 それには現在の病院中心の医療体制を改め、ターミナルケアにも病院と在宅、どちらかの場所を選ぶ選択肢があれば、「人間らしい最期」を迎えることができるのではないか、と思う。

 最近は、「延命治療」を望まない人が増えている。

また、病院生活で疲れ、家に帰りたい、と望む患者さんも多いようである。

 クスリ漬け、機械漬けの病院中心の医療の在り方を変えていかなければ、

「尊厳ある人間の死」は望めないように思う。

(2015.9.26記)

 

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映画「天空の蜂」 (2) 救出作戦

2015-09-25 16:00:00 | 映画

救出作戦はこの映画のハイライト

原発は壊れない″という安全神話に立脚した原子力ムラの立てる対策では、無策のまま何もできない。二重三重の安全装置で設計された原発には、放射能漏れなど起こるはずがない。従って近辺住民の避難勧告など必要ない。避難勧告することは、自らが築いてきた"安全神話"を放棄することになる。打開策のない協議会に一石を投じるのは、高速増殖炉原型炉の設計者・三島の次の言葉だ。日本地図の関東から広島までをペンでぐるりと囲み「もし、放射能漏れが起きれば、日本は数百年ここを捨てることになるかもしれません」

 設計者の言葉だけに真実味と重味がある。

 原発の安全性をどう守るのか。国民への発表はどのようにするのか。打開策の見出せぬまま時間だけが過ぎていく。

 ヘリの墜落まで残り時間4時間。ヘリに閉じ込められた子どもの救出作戦が始まる。圧倒的スケールと迫力で観客を緊張させる映像は、ハリウッド・アクション映画と比べても遜色ない。救出対象が子どもという設定にも感情移入が容易にでき、緊張感は極限に達する。

 高度800㍍でホバーリングするヘリから子どもが落ちる。地上に向かって落ちていく子ども。救出作戦失敗か。次の瞬間……。(ここから先、ネタバレになるので、興味のある方は映画をご覧ください)

  ヘリの設計士(江本洋介):ヘリ開発に没頭し家庭を犠牲にしたが、今、自分の子どもがヘリの中に取り残され、次第に父の威厳と子どもとの絆をとりもどしていく。

 原発の設計士(本木雅弘):過去に子どもを失い、それを契機に離婚をし陰のある人物設定。

 錦重工業総務部社員(仲間由紀恵):犯罪者につながりを持つ女。

  犯行目的は何か。原子力発電に多くの課題を盛り込んで、クライシス・サスペンスは、最後のクライマックスを迎える。

 タイムリミットは3分。ヘリは燃料が尽きて原発の上に墜落してしまうのか……。

  原発の安全神話は、犯罪者の前に崩れていく。

 電力の供給は地方の犠牲の上に成り立ち、電力の安定を享受し、目の前にある危機を見て見ぬふりをする大衆を「沈黙する群衆」と表現する。

 現代社会に警鐘を鳴らす2時間18分の作品。

 

 

 

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映画「天空の蜂」

2015-09-23 22:05:02 | 映画

 映画「天空の蜂」(1) 息もつかせぬサスペンス

 映画の冒頭から、緊張で息もつかせぬ映像が展開する。1995年夏5年以上の歳月をかけて開発完成した、自衛隊に配備予定の超大形ヘリコプターの領収飛行というお披露目の式典の直前、テロリストによって奪われてしまう。

 粉塵を舞い上げ、遠隔操作で格納庫から出ていく冒頭のシーンからおそらく観客は画面にくぎ付け状態である。巨大な最新型ヘリが飛び立つシーンは圧巻。偶然にも紛れ込んだ少年を乗せたままヘリは、標的となった稼働中の原子力発電・高速増殖炉「新陽」の上空800㍍でホバーリングを始める。同時に犯人は政府をはじめとする関係機関に脅迫状を送り付ける。

  強奪犯からのメッセージはこうだ。

「日本国内に存在するすべての原子力発電施設を停止し、ふたたび起動できない状態にせよ。従わなければ、大量の爆発物を積んだビッグB(大型ヘリ)を原子炉に墜落させる。燃料が無くなるまで、あと8時間。あなた方の賢明な決断を期待する。″天空の蜂″」

 偶然にヘリに取り残された少年の救出作戦と強奪犯の要求を承諾するのかどうか、政府、救出作戦を検討する自衛隊特殊班、犯人逮捕に向けて捜査を展開する警察。

 緊迫した状況の中で、観客のボルテージは一気に上がり、最後までこの緊張感は継続する。

 導入部の概要ですが、仕事と家族、父と子の絆等たくさんの課題を提示したまま、緊張感は一気に上がっていく。

  子ども救出劇はこの映画の大きな見どころであるが、次回に掲載します。

 

 

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愛する人を失う

2015-09-18 11:58:44 | ことの葉散歩道

 愛する人を失う   ことの葉散歩道(11)

「俺は……あいつに救ってもらったんだ」助けてもらった、ではなく、救ってもらった、と星は言った。

 ※ 新聞小説「春に散る」沢木耕太郎著

 

朝日新聞朝刊に連載中の小説より引用。

 元ボクサーの星が、つい最近亡くなった妻の遺影を前にして、40年ぶりに訪ねてきた広岡に言う台詞だ。

落ちぶれて、輝いていた昔の痕跡は何もない。

愛する人を失った悲しみがあまりに大きく、星にとって彼女がいかに大きな存在だったか想像できる。

 

 狭いアパートの一室。

まだ設(しつら)えたばかりの形ばかりの祭壇に彼女の位牌と遺影が飾られ、

その状況が愛するものを亡くした星の失意の胸中を十分推察できる。

そして、星の述懐は続く。

「あいつと出会わなかったら、俺は今頃どうなっていたかわからない」

作者はこうした星の状況を次のように述べる。

 

 ある意味でそう言える女性に出会えた星は幸せだったのだろう。

だが同時に、その幸せは失うことでさらに深い悲しみを生むものでもあったのだ。

こんなことになるのだったら、出会わなかったほうが良かった。

悲しみが深い分だけ、思い出も深く、「どうして」「なぜ」と自問自答する星の姿が目に浮かぶ。

失う悲しみを味わわないためには、最初から関わりを持たなければいい。だが、果たして、それでいいのだろうか。よかったのだろうか……。星を訪ねてきた広岡が心の内で考える場面だ。

 

 ボクシングから遠のき、生活が乱れ、女から女へ渡り歩くような自堕落な生活を続ける星は、

彼女に救われ、中年を過ぎて初めて優しさに触れ、生きる糧を見つけることができた。

 

 過ぎた過去は取り戻すことも、修正することもできない。

失ったものの大きさを思い、途方に暮れる星だが、

「救われた女」に報いるためには、辛い現実を克服し、現実を修正していく以外に道はない。

星が立ち直るための辛い道ではあるが、

彼女が最後に残した試練だと思う気力があれば、

星は必ずこの現実を克服することができる。

 

 星よ、輝いていた青春を思い起こせ!!

 

(2015.9.18記)

  

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自分を追い込む

2015-09-13 15:30:00 | ことの葉散歩道

ことの葉散歩道(10)    (2015.9.13)

繊細な心

 自分をどれほど追い込んでもよい。しかし、他人を追い込んではならない。

※ 連載小説 「春に散る」沢木耕太郎著

 朝日新聞朝刊に連載中の小説(9月8日付)から引用。

ボクシングジムで将来を嘱望された広岡が、チャンピオンを夢見た仲間たちを40年後に訪ね歩く場面。

ジムの会長が練習生たちに言っていた言葉を広岡は思い出す。さらに、記述は次のように続く。

「それが共同生活をしていく上での鉄則だ。深追いはするな。他人を深追いしていいのはリングの上だけだ」

 苦しい立場に追い込まれるほど、越えなければならない壁が厚いほど、

それを跳ね返し、再び立ち上がる強靭なバネ持った人がいる。

じっと耐えながら起死回生の立ち上がる時をうかがう。

それはまさに、リングの上で戦い、コーナーに追い詰められ、

ダウンを奪われそれでも立ち上がり対戦者に向かっていく強い意志を持った人だ。

 

 だが、こういう強さを他人に求めてはいけない。

にはそれぞれ両親から受け継いだDNAがあり、育った環境がある。

(くじ)けやすい人がいても「ダメ」な人と評価することはやめたい

 

 自分の生き方を他人に押し付けてはいけない。

人それぞれに、生きたいように生きればいいのだから。

 

 自分流の生き方を自信を持って貫いて生きればいい。

だから、他人の人生に深く入り込んではいけないのだ。

深追いはやがてお互いの人間関係にひずみを生じさせる原因になる。

 

 「他人の人生にどこまで介入すればいいのか」とても難しい課題なのだが、

 当事者同士にはこの介入の度合いが見えなくなってしまうときがある。

 

私たちの日常生活は、リングの上の戦いとは異なり、

優しさと柔軟性を持っていなければ、豊かな人生を築いていくことはできない。

他者の生き方を認めることが、ひるがえって自分の人生を容認してもらうことになるのだ。

 人それぞれの生き方を認める繊細な心があれば、人生はもっと彩り豊かに楽しいものになっていく。

いろいろの人がいて、その数だけいろいろの人生があることを忘れてはいけない。

 

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誰が国を守るのか

2015-09-11 22:30:00 | 積極的平和主義

誰が国を守るのか(1)

 専守防衛と集団的自衛権

 戦後日本の安全保障政策の大転換をしようとする安倍政権はその基本理念を、「国民の生命を守りつつ世界の平和と安定のために積極的に取り組む」としています。

これが積極的平和主義です。

 でも、平和主義になぜ「積極的」という冠を載せたのでしょう。

まるで私たちの国が、「平和」に対して何もしてこなかった。

アメリカとの安保条約という大きな傘に守られ、何かあっても同盟国アメリカが守ってくれるからという安心感のもと、安穏とお仕着せの平和に甘んじていたとでもいうのでしょうか。

 

 憲法9条は、「戦力を持たない」、「交戦権は認めない」と明記してあります。

「自衛隊は戦力か」という解釈の問題で、過去に違憲ではないかと争われたことがありましが、

合憲だということで現在に至っています。

 自衛隊は専守防衛の組織だから、有事に際して国民の生命や財産を守るための必要最小限度の実力組織であって、普通の軍隊のように海外で武力を行使することはできない。

 同盟国のアメリカが戦闘行為をしている戦場で、集団的自衛権が行使できれば、

自衛隊は外国の陸海空軍となにも違わず「戦力」を持ち、

集団的自衛権の大義名分を旗印に掲げて「闘う集団」=軍隊として機能することができる。

 ここが、問題なのです。

 我が国を「戦争のできる国」にしては絶対にいけない。

しかし、今問題になっている「集団的自衛権」は、自衛隊を専守防衛の組織ではなく、

同盟国の安全が脅かされた場合、自衛隊は闘う集団として、

戦争に参加することができる組織にするという意図が含まれています。

 戦後70年、平和憲法を守り育ててきたその根幹が今音を立てて崩れようとしているのです。

集団的自衛権の行使には、

「武力には武力を」、「目には目を歯には歯を」という対立の姿勢が見え隠れしています。

そこでは、人間の「英知」を賭けた話し合いの解決という理念が遠ざかってしまいます。

 再び世界が、戦火の渦に巻きこまれれば、一番の被害者は、力を持たない民衆であることは、現在、過去を問わず、多くの戦争が示しています。

 集団的自衛権は、危険で容認しがたい考えです。 (2015.9.11記) (つづく)

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「妊娠で解雇」

2015-09-07 16:10:00 | 昨日の風 今日の風

妊娠を理由に女性職員を解雇

   男女機会均等法に基づき茨城県の違反病院名を公表(厚労省)

 ニュースの概要。今年2月、正職員だった20代前半の看護助手の女性が、院長に妊娠を告げたところ、院長は後日、「妊婦はいらない。明日から来なくていい」と述べ、解雇したという。(朝日新聞、日経新聞9月5日付他)

 女性は茨城労働局に相談し、労働局長や厚生労働相名による解雇の撤回を求める是正勧告を行ったが、院長は「均等法を守るつもりはない」として従わなかったという。

 このためこの病院名を公表した。公表制度は1999年からあったが、公表にいたったのは初めてという。

 厚生労働省が公表したのは、茨城県牛久市の医療法人「医心会」の牛久皮膚科医院【安良岡勇(やすらおかいさむ)院長】。

 機会均等法は妊娠や出産を理由として労働者を解雇したり降格させたりするマタニティーハラスメント(マタハラ)を禁じている。マタハラそのものへの罰則規定はないが、労働相の是正勧告に従わない場合は事業所名を公表できる。

 「医」は「仁術」というけれど、人の命を預かる医療法人の前述のような行為は許せません。怒りと共に、医療に携わる人(この場合は経営者)の職業倫理にも劣る経営方針である。「妊婦はいらない」と言うけれど、あなたは誰から生まれてきたのですか。経営者たるもの、経営の努力を怠ってはいけません。経営者は自分の職場で働く人があるから、経営・運営が成り立つのです。人間はパーツではありません。簡単に交換はできません。こんな職場からは、有能で優しい人材は育ちにくいのではないだろうか。傲慢経営には社会的制裁もやむを得ないと思います。これはブラック企業の一つですよ。

 マタハラ被害の実態 マタハラ被害者でつくるマタニティハラスメント対策ネットワークによる「マタハラ白書」より抜粋。

  〇 切迫流産で安静にするようにと診断を受けた際、直属の上司から「けじめをつけろ」と退職を強要された。

  〇   妊娠中勤務が深夜までになることがあり、仕事量を減らしてほしいと求めると「そんな社員はいらない。アルバ          イトになるしかない」と、契約内容の変更を強要された。

 〇 「子育てしながらの仕事は無理がある。辞めたら?」といわれた。

 〇 「残業できないなら戦力外」と言われた。

                                    (2015.9.7記)

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読書案内「聞かなかった場所」松本清張著

2015-09-06 17:10:00 | 読書案内

読書案内「聞かなかった場所」

  松本清張著 光文社カッパ・ノベルス1971初版

(写真は角川文庫版 光文社版は絶版)

 農林省課長補佐の浅井が妻の急死を知ったのは神戸の出張先の宴席の最中だった。

冒頭から興味をそそられ、一気に読んでしまう書き出しだ。

彼女は外出先で心臓麻痺を起し、代々木の化粧品店に倒れこみ、医者が駆けつけた時には息絶えたという。

結婚7年目を迎え、八つ年下の妻・英子を浅井は愛していた。

代々木の坂の多い場所は、妻の口からはついぞ聞いたことのない場所だった。

心臓の弱かった妻がなぜ坂の多いあの街に行ったのか。

どんな用事があったのか。

小さな疑問が浅井の心の中で増殖していき、やがて一つの仮説が生まれる。英子に男がいたとしたら…。

 

 「夫婦生活の隙間風が妻の心から潤いを奪い、妻が愛の充足を夫以外の男に求める」という話は、

小説の題材によくあるが、それが自分の身の上に起こることなど想像もしなかった浅井だったが、

よく考えれば思い当たることがないわけではない。

 

 この小説の面白いところは、当の本人はすでに死亡して、問いただすことができない。

死んだ妻の生前の行状を、下級官僚の浅井が掘り起こしていくというストーリー展開だ。

やがて、男の影が現実の姿となって現れた時、妻は本当に化粧品店で絶命したのか。

新たな疑問が浅井の脳裏に浮かぶ。

ここまでが前半。

 後半は、浅井は男を問い詰め、謝罪を要求するが、意外な事実を口にする男。

このあたりから、被害者(?)浅井と加害者の(?)男の関係が逆転していく。

単なる不倫物語に終わらないのが松本清張の小説です。予想もしなかった殺人事件。誰が誰を殺したのか。        

 浅井が農林省の職員であることも、この事件の重要なポイントになっていて、最初からきちんと組み立てられた人物設定。

 

逃げる犯人、自動車のライトに照らされた犯人の姿が逆光になって暗闇に浮かぶ……。

犯罪の終幕を予測させるラストの一行が小気味よい。                (2015.9.6記)

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