雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

敗れてなお潔し(3)・猫ひろし男子マラソン 負けても明日があるぞ

2016-08-30 17:00:00 | 昨日の風 今日の風

 敗れてなお潔し(3)・猫ひろし男子マラソン 負けても明日があるぞ
  
 
  カンボジア代表の猫ひろし(滝崎邦明)が、
 念願のオリンピック男子マラソンに出場し、見事完走した。

 成績 2時間4555
 完走者140名中139位の成績だった。

 最下位争いの名勝負(?)
 ゴールまで1㌔を切った辺りで、追い上げて来たヨルダンの選手に追いつかれる。

自分が最下位だと思って走っていた猫は「こりゃ負けられにゃー」といったかどうかはわからないが、
歯を食いしばって加速する。

ヨルダンの選手も必死に猫に食らいついて離れない。

最後尾の二人のデットヒートは、ゴール地点の大型スクリーンにも映し出された。

一位の選手がゴールしてから37分。
スタンドは大歓声に包まれる。

猫がゴールする。
そのあと23秒遅れでヨルダン選手がゴールし、スタンドの観客を沸かせた。

 二人は抱き合って互いの健闘をたたえた。

 
 「東京五輪に向けて頑張りたい 」と、ランナー猫ひろしは39歳の小さな体に
 闘志を燃やす。

 メダルや成績にこだわるアスリートの中にあって、
 猫はしなやかに、サラリと世間のしがらみを捨ててみせる。


  皆が同じ方向を向いて、
 放たれたリチウム風船のように仲よく飛び立っていく世の中にあって、
 猫(滝崎邦明)のように個性的で、自分の思ったことに筋を通す生き方は
 素晴らしいと思います。

 一人ぐらいは、違った方向へ飛んでいく人間がいても悪くはない。
                              (2016.8.29記) 

 

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敗れてなお潔し・陸上女子5000㍍予選

2016-08-26 17:00:00 | 昨日の風 今日の風

敗れてなお潔(いさぎよ)し リオ・オリンピック
             陸上女子5000㍍予選

 勝者のメダルを抱え、美酒に酔い満面の笑みを浮かべるメダリストたち。
 だが、勝者の裏には多くの敗者が涙を呑んで去って行く。
 映像にもとらえられることなく、インタビューもなくひっそりと場外に消えていく。
 たった一人の勝者の裏に、数えきれないほどの敗者が存在する。

 スポーツの歴史も常に、勝者の記録によって書き換えられる。

 敗者はいつも、無念の涙を流す。

 スタートラインは同じだ。
 勝者の栄光を目指して、
 孤独なアスリートの努力がまた始まる。

  さて、敗れて潔しの話です。 
 それは、女子5000㍍予選2組で起こりました。
 
レース中、集団の中でニュージーランドの選手(ニッキ・ハンブリン)が転倒した。
 後ろを走っていたアメリカの選手(アビー・ダゴスティノ)も巻き込まれて転倒。
 先に立ち上がったのはダゴスティノだった。
 
 ダゴスティノは先に転倒したハンブリンを見捨てなかった。
 ハンブリンを助け起こし、こう言ったという。
 「これはオリンピックだからゴールしなきゃ」(外電)
 「立って立って。完走しなきゃ」(朝日)

 ちょっとニアンスは違うが、ダゴスティノの言った言葉の直訳だと思われる。
 「立って立って。完走しなきゃ」の方が臨場感が伝わってくる。
 「オリンピックだからゴールしなきゃ」は、
 オリンピックの意味を読者に解りやすく伝えるための意訳だと思える。

 
二人は互いに支え合いながらレースを続ける二人。
今度は、励まし声をかけたダゴスティノが足の痛みで、トラックに倒れる。
ハンブリンが励まし、互いにもつれるようにトラックを走る。

 完走した二人。
 結果は16人中15位と16位だった。

 互いの抱擁が、どんな言葉よりも重い意味を持っている。

「助けたのは本能。私が助けたというより私の中の神様が助けた感じ。一瞬の事だったけど、
世界中で共感を呼ぶなんて」。
 ダゴスティノの言葉がさわやかに世界を駆け巡った。

金色に輝くメダルよりも、輝きを放ち、かけがえのない貴重な行為は、
彼女たちにとって生涯の宝物になるだろう。
    
  「 敗れてなお潔し」である。



  
 

 

 

 

 

  

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人生のイメージ(2)どんな人生を望むのか

2016-08-24 11:00:00 | つれづれに……

二つの人生のイメージ(2) どんな人生を望むのか

直線的な人生」を駆け抜けてきた団塊の世代に待っていたのは、
老いと、孤独の中で「こんなはずではなかった」という悔恨の念だった。

「 円環的な人生」イメージでは、
誕生→幼少期→若年期→青年期→壮年期→老年期を経て、
生まれてきた場所に戻っていく、という人生観である。

 ただひたすら直線的に走り続けるのではなく、
成長発達のそれぞれの段階で、
なすべき役割を果たし、
次の成長発達期へと繋いでいく流れがあり、
それぞれの成長期に成すべきことを成し、
充実感を味わうこともできる。

私たちが築いた文化や社会的規範は次の世代につないでいく義務と責任があります。

 与えられた生を自分流に「生き」て、
次の世代につないでいくという、
世代を超えた人生観が、ここには見える。

 競争社会の中では、
走り続ける辛さと、
追われる焦燥感がいつも付きまとう。
レースを降りてしまえば役割を果たしたぬけ殻だけが残る人生はさみしい。

 百人いれば、
百通りの人生があるが、
走り続けて終わるハツカネズミのような人生よりも、
海の中でゆったりとたゆたうマンボウのような人生を生きることができたらいいと思う。

 (海を見つめる老人の背中には、過ぎていった人生の懐かしさと哀愁が漂っているように思えます。人生っていいなー
  写真はフリーイラストより)

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人生のイメージ(1) 直線的な人生と円環的な人生イメージ

2016-08-22 14:09:03 | つれづれに……

二つの人生のイメージ(1)

 信濃毎日新聞2014.8.12の論考2014「帰っていく場所を求めて」の中で、千葉大教授・広井良典氏が次のようなことを述べている。解りやすい記事なので紹介します。 

人生イメージを二つに分けるとすれば、「直線型」と「円環型」に分けられる。

 『直線的な人生イメージとは、
人生をすべて「上昇、進歩、成長」といった意味合いでとらえるもので、
それ自体は意味あることだが、
これだけでは「老い」や「死」がどうしてもネガティブな存在になってしまう。
 これに対し、円環的な人生イメージとは、
生まれてから幼少期、若年期、壮年期を経て、
大きく弧を描いて元の場所に戻るような人生理解をいう。』 (太字・引用部分)

生まれた時から、
競争社会で育ち、
学業成績、学校、就職と続き、
社会に出てからは、
「上昇、進歩、成長」とかなりハードな上り階段を登りつづけなければならない。

 上昇気流に乗った「成長」は、
やがて、成長を停止し「衰退の道」を歩まなければならない。
日本が輝いていた時期、
1960年~1970年、いわゆる高度経済成長期である。

 人も物も生活環境もハイスピードで変化していった。
高速で走る日本丸に乗り遅れないようにするには、
ひたすら走り続けなければならなかった。
上昇気流に乗り、進歩し、成長することが美徳だった。

 「勝者」と「敗者」という対立する図式も競争に拍車をかける。
成長の先には誰もが望む「幸せの楽園」があるはずだった。
しかし、成長の果てに現れたものは、
疲労と虚飾に満ちた社会だった。

                                   (つづく)
(2014のブログを加筆訂正し、二回に分けて再褐します)

コメント (2)
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供養花火・ふる里の花火

2016-08-16 18:48:14 | つれづれに……

供養花火・ふる里の花火
              つれづれに……心もよう№41

 ふる里の花火・2016.8.6

 

 夏のこの時期全国いたるところで花火大会が開催されています。
でも、やっぱり「小貝川の花火」です。
打ち上げ花火1000発ぐらいの小さな花火大会で、
仲間たちと話をしながら、夜空に浮かぶ大輪を眺める。
大きな花火大会にはない穏やかさがあります。

 小貝川に架かる成田橋と養蚕橋の間に小さな木の橋がある。
「深見橋」である。
地域の人々にはなくてはならぬ橋です。
人や自転車のみが通行できる小さな橋だ。
村落から村落へ抜けるための大切な橋だつた。
車時代になり、今ではその役目も終わったようです。
辺りに人家はなくひっそりと架かる橋の趣がいい。
せせらぎの音が心地よく響いてくる。
昼間は前方に筑波山の美しい姿が眺められる。

一昔前にタイムスリップしたような橋である。

 また、勤行川に架かる「下中山橋」も同様に趣のある橋の一つです。
「深見橋」同様木でできた小さな橋です。
集落のはずれにあり、この橋も地域の人々には隣の集落に行くには欠かせない橋のだったが
車社会の時代では、忘れ去られた存在です。

この二つの橋付近であおぐ花火はまさに「ふる里の花火」です。

 

 今年はTさんが大腸がんで7月に逝去されました。
奥様を残しての旅立ちでした。
10年以上もの長い間、介護を要する奥様を支え続けたTさんのけなげな生き方が偲ばれます。

 平成26年にKさんを亡くして以来の23人目の哀しいお知らせです。
Kさんも温厚で、優しく認知症で車いす生活の奥様を10年以上も介護され、
無理を重ねたせいでしょうか、がんが発見された時には余命数カ月だったそうです。

 Tさんも、Kさんも一生懸命奥様の介護に専念し、老いて病に倒れた奥様を残しての旅立ちでした。

 人生は無常です。
 無常ではあるけれども、
 命の灯を燃やしながら奥様の看病と介護につくされたTさんとKさんの生き方は、
 私たちに感動という素晴らしい生き方を示してくれているようです。

 例年のように、鬼籍に入られた方々のご冥福と、
皆さんの健康を祈願して『供養花火』を揚げさせていただきました。
                             合掌

 

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児童文学 「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(4) 魂の救済

2016-08-11 21:54:20 | 読書案内

児童文学 「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(4)

魂の救済
 一人きりの力のむなしさに水島は愕然とします。

「私はその時、ビルマの戦場に置き去りにされている仲間の死体を、
そのままにして帰るわけにはいかない」

手紙にはそう書かれていました。

「一人も漏れなく、一緒に日本へ帰ろうという同胞の言葉は今も忘れません」

しかし、
置き去りにされた仲間の死体を見てしまったからには、
「私は、それを諦めなければなりません」
「私はビルマに残ります。そして、皆様が懐かしくなったら、竪琴をひきます。
長い間お世話になりました。皆様の
幸福を、心からお祈りします」

 兵隊たちは、
肩を抱き合い、
ある者は泣き、
ある者は、
かすかに見える陸地を眺めながら、
水島上等兵のことを思い浮かべました。

船上の兵隊にはその時、あの懐かしいメロディが聞こえてきたように思えました。

   互いにむつみし、日ごろの恩
   別るる後にも、やよ 忘するな
   身を立て 名をあげ やよ 励めよ
   今こそ 別れめ、いざさらば

 船は懐かしい祖国日本に向かって、ビルマを離れていきました。
波の音と風の音が船上の兵隊たちを静かに慰めているようでした。
                        (おわり)

参考文献

ビルマの竪琴 竹山道雄著 新潮文庫 (写真)

アニメ日本の名作ビルマの竪琴 金の星社 

弓兵団インパール戦記 井坂源嗣著 光文社NF文庫

 以上の文献を参考に脚色しました。

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児童文学 「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(3) 地獄を見た水島上等兵

2016-08-09 15:15:53 | 読書案内

児童文学 「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(3) 

地獄を見た水島上等兵

 
しかし、呼びかけられたお坊さんは、
黙って顔を伏せ、何も言いません。
皆はがっかりしました。
その時です。
ビルマ僧は傍らの竪琴を取り、奏で始めたのです。

 ポロローン ポロローン

 あの懐かしい音色が聞こえてきたのです。
それは、水島上等兵が、部隊にいたときいつも奏でていた懐かしい音色でした。
もう疑う余地はありません。

 「水島!」「おーい水島!」「一緒に日本に帰ろーっ」

 しかし、ビルマ僧は何も語りません。
一度も振り返らずに、日が落ちた夕闇の中に消えていきました。
ビルマ僧が奏でた、「仰げば尊し」の別れの曲のメロディが、
いつまでもいつまでもみんなの耳に残っていました。

 翌日、兵隊たちは、収容所を出発して、
日本に帰る輸送船に乗り込みました。
兵隊たちの思いは複雑でした。

「あれは水島に違いない。しかし、なぜ水島は何も言わなかったのだ」
兵隊たちは、
このままビルマを離れていってしまうのが、心残りでなりませんでした。
「水島
!」「水島!」と心の内でつぶやきました。
はるかに遠くなっていく陸地を眺めながら甲板に集めた兵隊の前で隊長は、
一通の手紙を読み上げました。
それは、あのビルマ僧、
いいえ、水島上等兵の長い長い手紙だったのです。

「隊長殿、戦友諸君。私は、どれほど皆様を懐かしく思っているかわかりません。
どれほど日本に帰りたいか。
しかし、帰るわけにはいかないのです」と、その手紙は書き始められています。

 降参しない日本兵を説得に行った水島は、
負傷し、
道にはぐれ、
戦場を彷徨っていました。

 そこで見たものは、
冒頭に述べた無謀な作戦の犠牲になった白骨化した日本兵の骸でした。
死体に群がる鳥やうじ虫が戦争の悲惨さを物語っているようでした。

「同じ日本人として、いや、人間としてこれらの亡骸を見捨てていくわけにはいかない」
死体を集めて、焼き、土を盛って丁寧に埋葬し、
兵隊らしく、
そのお墓に向かって敬礼をする水島上等兵でした。

いったい、ビルマにはこのような場所がいくつあるのでしょう。
     (2016.8.6記)             (つづく)

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児童文学 「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(2)

2016-08-07 11:39:19 | 読書案内

児童文学 「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(2) 

日本へ帰れるぞ! 一緒に帰ろう!

  これからお話しするのは、
ビルマという熱帯の国で終戦を迎え、
からくも生き残ったある日本兵・水島上等兵の物語の、さわりの部分です。
1945年、長く続いた太平洋戦争は終わり、
日本は敗戦国になった。
 
 多くの兵隊が現地に残り、捕虜となった。
水島上等兵は、隊長の命令で、降伏しようとしない日本兵の説得に向かいます。
だが、その後いつまでたっても、水島は戻らなかった。

 そんなある日、部隊の前に、水島そっくりのビルマ僧があらわれました……。
黄色い衣を着た、まだ若い僧でした。
手には托鉢のための器を持ち、肩には、目の覚めるような緑のオウムが止まっています。

 「あっ、あれは水島ではないか」
 「水島上等兵
!
 「水島上等兵
!
 「おい、水島
!水島だろう」

 皆が声を掛けましたが、
この水島に似たビルマ僧は、何も答えず、
捕虜になった兵隊たちの前を両手を合わせ、
無言で、
うつむき加減に通りすぎて行きました。

 夏も終わり近くなったある日のこと。
一人の兵隊が、息を切らしながら、走ってきて言いました。

「日本へ帰れるぞ
!命令が出たんだ。出発は三日後だ!

 夢にまで見た祖国日本に帰れるのです。
みんなは、手を取り合って喜びました。

 「あれほど、帰りたかった日本に、やっと帰れる」。

 肩を抱き合い、
生きて帰れることをみんなで喜び合いました。
その時、兵士のひとりが思い出したように言いました。


「そうだ、あの水島に似たお坊さんがもし水島上等兵だったら、一緒に日本に帰れるのに」

 しかし、連絡の方法もなく瞬く間に、
2日間が過ぎてしまいました。
明日には日本に帰る船が出る。

水島にはもう会えないのだろうか。

 その日の夕方です。
「あの坊さんが柵の外にいる」誰かが叫びました。
それは、あの日確かに橋ですれ違ったお坊さんでした。

「水島―っ」 
誰かが叫ぶと、他の兵隊たちも思い思いに叫びました。

「水島
!我々は明日、日本へ帰るぞぉー」
「一緒に帰ろう」                       
            (2016.8.4記)           つづく

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読書紹介「ビルマの竪琴」に見る水島上等兵の気持ち(1)

2016-08-05 14:15:29 | 読書案内

児童文学 「ビルマの竪琴」に見る
            
水島上等兵の気持ち(1)

8月。
お盆。
 死者の御霊が帰ってくる時期だ。
同時に終戦71年目を迎える時期でもある。
8月には例年、太平洋戦争関係の本を読むことにしている。
「黒い雨」「野火」「火垂るの墓・アメリカひじき」「白旗の少女」などを取り上げてきたが、今年は、
「ビルマの竪琴」を取り上げた。
ビルマ戦線とは
 この物語は、
インパール作戦で命を失った兵士たちの「魂の救済」というのがひとつのテーマになっています。
                                インパール作戦は、
インドとビルマ、今のミャンマーとの国境地帯で展開された作戦です。
1944年、終戦の1年前に行われた作戦です。

 日本軍はすでに劣勢になっていた戦局を挽回するために、
国境のアラカン山脈を越えてイギリス軍などの連合国側の拠点インパールの制圧を試みます。
中国の背後の支援ルートを断ち中国軍の弱体化を計り、
一気に戦局を逆転しようとする意図があったようです。

 9万の兵を投入し、
作戦完了までに費やす時間を、
大本営は
3週間足らずと踏んでいたから、
兵士一人に支給された食料は
20日分、240発の弾薬、6発の手榴弾だけだった。
それでも背負う背嚢は
40㌔にもなった。

 食料も武器の補給もなく、
蒸し風呂のようなジャングルや泥水の中を、
そして、
2000㍍級のアラカン山脈を越えるのは、
まさに死の行軍だった。

 補給のない山の中で、豪雨や風土病に見舞われる過酷な戦場を行軍した。
だが、作戦は失敗しました。
傷つき疲れ果てた敗軍は、
飢えと病に苦しみながらの退却でした。

 倒れるものは見捨てられ、
川を渡れぬものは置き去りにされ、
闘いにかりだされた多くの兵士が、
敵との戦いで命を落とすのではなく、
飢餓と疫病で倒れていきました。

9万の兵士のうち、実に8万の兵士が亡くなったと戦記は伝えます。

 倒れた兵士の骸は、累々と続き、白骨の連なりと化します。
その退却路は、
「白骨街道」とか「靖国街道」などと言われました。

 戦争は、
人々の胸に、深い傷と悲しい思い出を残します。

戦争はいつも、過酷で、悲惨な現実を私たちに提供します。

           (2016.08.04)         つづく

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料理 Kの妻が遺したレシピ

2016-08-03 12:27:34 | ことの葉散歩道

料理
       ことの葉散歩道№31

一回目はレシピを見ながら作る。
二回目はわからないところだけ見て作る。
三回目はできるだけレシピを見ないで作る。
四回目は記憶のままに好きなように作る。
 それでその料理はその人のものになる。
※ 朝日新聞小説「春に散る」沢村耕太郎著

 

 

 


 

 Kが妻を亡くしてから3年がたった。
末期の癌が発見され余命3カ月と診断された。
梅雨空の雨を眺めながら
「晴れるといいね。そしたらKさん私を海に連れて行って」。
 細く弱々しい手のひらでKの手を握りしめてKの妻は言った。

 二人の生まれ育った湘南の海が見たいとKの妻はささやいたという。
どんな事情があったのかは知らないが、
人口5万人ほどの小さなこの町に流れて来た二人。

 飲んだくれで、
 意志の弱い、
 それでいてめっぽうお人好しのKに惚れたのだとKの妻は、
 はにかむ様な微笑みを浮かべて言った。

 願いをかなえる前に逝ってしまった妻を前にしてKは号泣した。
二人でやっていた小料理屋をたたみ、
Kは昔の飲んだくれになってしまった。

 3年が過ぎ、Kは立ち直った。
飲んだくれで堕ちていくにはKは年を取りすぎていた。

 ある日、
彼ら二人を支えた常連たちを集め、
長年支えてくれた皆さんにお礼かたがた、
妻の供養をしたいという。

 提供された料理の全てが、
妻が残した料理のレシピを見ながら彼が作ったのだと言う。
目の前に並べられた料理の品々は確かに、
Kの妻が元気だったときにメニューに載せられたものだった。

  だが口に運ぶと微妙に味が違う。
見た目は同じでも、
Kの妻が作った品とは味が違う。
舌に馴染まない。
口に放り込むと、
舌の上をじんわりと広がって行く何とも言えない満足感がないのだ。

  舌鼓を打つという感覚がないから、
酒も舌の上に広がらないでストンと喉を通り越してしまう。

 おそらくこの違いは、
Kがレシピにとらわれ、
自分の味を出せなかったということなのだ。

 冒頭の「一回目はレシピを見ながら作る」の域をKはそのまま踏襲したにすぎなかったのだ。

 Kの妻の思い出と匂いの残るこの店をそっと抜け出し、
私はKが本物の料理人になるまでこの場所に通い続けることになるだろうと思った。

 それが、亡くなったKの妻への供養にもなると、
私は思いながら路地を抜け、長い坂道をゆっくり上った。
                    (2016.08.03記)

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