雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

今日のことば(5)  「嘘」(2) 「嘘のスパイラル」

2024-04-17 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(5)  「嘘」(2)
  「嘘のスパイラル」 
「嘘の誘惑に対して」(前回続き)
嘘は一つでは終わりません。
嘘を隠すための嘘
嘘を正当化するための嘘をつくことに必ずなるからです。
そして、やがて何が本当の自分なのかわからなくなってしまう。
それほど寂しいことがあるでしょうか。

嘘をついても見抜かれなかったと
ほくそえんでいる人がいるなら
それは大変な錯覚というものです。
なぜなら
嘘をつくたびに
心は傷つき
魂はカルマを深くしているからです。
やがて
嘘をつくことにも慣れ
恐れもなく痛みもなく
嘘と同化してしまうのです。
         ※ カルマ(Carma)  人間が持つ心の奥に存在する「業」で、宿命とも訳され、「因果応報」という言葉がある。
                  善悪どちらのカルマも、それぞれの応報(結果)が導かれる。

  「
嘘」についての考察がわかりやすく、ていねいに述べられてきた。
このあと、著者が最も言いたかった言葉が続く。

人は誰でも
自分に嘘をつけない心を持っています。
良心――。
あるがままの事実を温かく見守の心
あらゆるものを大切にする心
あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心
嘘はこの良心の働きを奪い、眠らせてしまいます。
嘘は良心の窓を塗りこめてしまうのです。
愛の光
いのちの光
そして
生かされている事実を見失わせてしまうのです。

   「嘘依存症」という病気があるのなら、水原一平氏の行為は最も信頼に値する大谷翔平を裏切り、
  申し訳なかったと謝罪する気持ちではなく、不正が露見しても「口裏合わせ」を依頼して、
  この期に及んでなおも自己保身を図ろうとする行為は正に、「ギャンブル依存症」以前に、
  「嘘依存症」の最たるものと思わざるを得ません。

  「あるがままの事実を温かく見守の心」を喪失し、「あらゆる存在の前に謙虚に自分を置く心」
  を見失ってしまい、嘘によって「良心の窓を塗りこめてしま」った愚か者の末路を見るような思いです。
  
  私たちに一番大切なことは、
  「生かされている事実を」忘れない生き方ではないかと思う。/
  私たちは、生きているのではない、この世界に「生かされている」のだ。
  自然に生かされ、人と人の絆に生かされ、決して傲慢になってはいけない。
  
   日照りの時は涙を流し/寒さの夏はおろおろ歩き/
   みんなにでくのぼーと呼ばれ/
   褒められもせず/苦にもされず
   そういうものに/わたしは なりたい
                 (宮沢賢治・雨ニモ負ケズ)

       どこかで、宮沢賢治の生き方に繋がるような高橋佳子氏の言葉です。
  世間のしがらみの中でたくさんの余分と思われるものを背負いながら生きている私たちには
  なかなか難しい生き方かもしれませんが、そういうものにわたしはなりたい。

   (今日のことば№5)           (2024.04.16記)

 

 

 

 

 

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今日のことば(4)  「嘘」(1) 

2024-04-14 06:30:00 | 今日のことば

 今日のことば(4)  「嘘」(1)

 嘘の誘惑に対して

  何気なくついてしまう嘘。

   責められるのが嫌で
   馬鹿にされるのが嫌で
   除け者になるのが嫌で
   愛想をつかされるのが嫌で
   誉められたい一心で
   認められたい一心で
   立場を守りたい一心で
   つい、言ってしまう嘘
   ないものをあるがごとく、やったことをやらなかったごとく
   吹聴したり、隠したりする。
   恐怖心からの嘘
   虚栄心からの嘘
   投機心からの嘘
   嘘は、何気ないものであっても
   最も恐ろしい誘惑の一つでしょう。
        (新祈りのみち 至高の対話のために 高橋佳子)
著者・高橋佳子氏について私は知らない。
 引用した「ことば」は800ページ以上もある単行本のなかから引用した。
巻末のプロフィールによると、幼少のころより、人間は肉体だけでなく、目に見えないもう一人の自分――魂からなる存在であることを体験し、「人は何のために生まれてきたのか」「本当の生き方とはどのようなものか」という疑問探究へと誘われる。現在68歳。
 哲学者、宗教者、霊感の強い人などそのどれにも属するような雰囲気があるけれど、
一定の枠におさまり切れない人のように思う。

  何気なくついてしまう「嘘」は、人間の感性の「最も恐ろしい誘惑」の一つでしょう、
と読者に投げかける。窮地に陥ったとき、何とかそこから逃れたいという思いで「嘘」をつく。
一度ついた嘘に、これをカバーするためにまた嘘をつく。
嘘のスパイラルに陥ってしまえば、取り返しのつかない人生の破滅が待っている。
 嘘によって窮地を脱出したように思えても、嘘はもつれた糸をほぐすようにほころび、
心の傷口を大きくしてしまう。
 
多くの政治家が、嘘の轍(わだち)に足をとられ政治生命を絶たれるのを見てきた。
「記憶にございません」ということばに託された「嘘」。
「嘘をついているのではありません。記憶にないのです」という大ウソ。
人間として恥ずべき行為で政治姿勢を問われ、倫理観を問われているのに、
「記憶にない」と、人間として政治家として絶対に忘れてはならないことに記憶は味方しない。
都合の悪いことを忘却の彼方に追いやるほど、人間の心は便利にできていない。
 嘘をついてでも、
名誉と地位を守りたいと何ともあさましい人間の自己防衛本能だ。
「嘘の誘惑に負ければ、破滅が口を開けて待っている」


♪せめて一夜の夢と 泣いて泣き明かして 
 自分の言葉に嘘は つくまい人を裏切るまい
 生きてゆきたい 遠くで汽笛を聴きながら♪
              
(アリス 「遠くで汽笛を聴きながら」)

  嘘をついたら楽になれるのに、悔し涙かもしれない辛い涙を流して
若者は「嘘はつくまい 人を裏切るまい」と、青春の荒野をさまよう。
嘘の誘惑に負けない青春の旅立ちを謳う名曲である。

 (今日のことば№4)             (2024.3.13記)

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今日のことば(3)  「目」 観察眼と感性

2024-04-09 11:54:12 | 今日のことば

今日のことば(3)  「目」 観察眼と感性
   最近小説をあまり読まなくなった。
   特に小説部門においては、シリーズ物が多く、
   これはこれで気軽に読めて楽しい読書時間を過ごすことができるが、
   読んだ後何も残らない。
   出版事情にもよるのだろうが、人気作家のシリーズ物は当たりはずれがなく、
   読者が付きやすく、版を重ねる予測がつく。
   人気シリーズになれば、一番労力を使う「主人公」の人物設定など、
   シリーズで培養された人物像に基づいて話を進めることができ、
   ストーリーの筋立てに専念できるメリットがある。
   シリーズものは一定の水準を維持した「小説」を書き、量産もできるメリットがある。
   だが、安易にストーリーの面白さに重点が置かれ、
   深みのない物語が乱造される危険性も持っている。
   
   代わりにノンフィクションをよく読むようになった。
   伝記物もよく読む。随筆などもよく読んでいる。
   これらのジャンルは、執筆者の『感性と観察眼』が見事に結晶し、
   著作に当たっての書き手の本気度が示されるから、
   読者の私もぐいぐい著作の中に引き込まれていく。

   今日のことばは、向田邦子のエッセイ集、『父の詫び状』からとった。
   ありふれた日常生活を見つめる作者の目は、優しくどこかにユーモアを含んでいる。
   読んでいて疲れた気持ちが落ち着きをとり戻し、
   いつの間にか作者の著作の世界に引き込まれている自分に気づくことになる。

   エッセイ集『父の詫び状』から動物の「目」についての文章を紹介します。

    動物園へ行って、動物の目だけを見てくることがある。
               ライオンは人のいい目をしている。虎の方が、目つきは冷酷で腹黒そうだ。
    熊は図体にくらべて目が引っ込んで小さいせいか、陰険に見える。
    パンダから目のまわりの愛嬌のあるアイシャドウを差し引くと、ただの白熊になってしまう。
    ラクダはずるそうだし、象は、気のせいかインドのガンジー首相そっくりの思慮深そうな、
    しかし気の許せない老婦人といった目をしていた。
    キリンはほっそりした思春期の、はにかんしているのかもしれない。だ少女の目、
    牛は妙に諦めた目の色で口を動かしていたし、馬は人間の男そっくりの悲しい目であった。
    競走馬でただ走ることが宿命の馬と、はずれ馬券を細かく千切る男たちは、
    もしかしたら、同じ目をしているのかも知れない。

     このエッセイは、「魚の目は泪」という題で400字詰め原稿用紙で18枚に及ぶ長い内容だ。
    表題から連想するのは芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を連想させる。

    46歳の晩春、平均寿命50歳未満と言われた江戸時代芭蕉は、
    後に芭蕉庵と呼ばれる千住の住まいを他人に明け渡し、
    「前途三千里」の奥の細道の旅へと旅立ちます。
    芭蕉の門弟や友人、芭蕉を経済的に支えた杉山杉風など多くの門人、知人たちが見送りに来た。
    「春が過ぎてゆく千住の別れに、芭蕉を慕う人々が悲しんでいる。春の別れを惜しんで鳥が啼き、
    魚だって目に涙を浮かべている」。
     春の別れを惜しむ芭蕉の胸中にはきっと、生きては戻れぬかもしれない旅寝の健康への不安と、
    俳聖への路を極めたいという決意があったのだろう。
    
     期待を込めながら、冒頭に目を通す。
    「子供のころ、目刺しが嫌いだった」魚が嫌い、鰯が嫌いというのではない。魚の目を藁で突き通す
    ことが恐ろしかった。見ていると目の奥がジーンと痛くなって…

     芭蕉を期待していたのに、いきなり「目刺し」の目が嫌いだと、読者の度肝を抜く。
    で、話は次のように展開していく。
     網にかかったカタクチイワシは、日差しにさらして一気に煮干しにする。生きながらじりじりと陽
    に灼かれ死んでゆく、そう思ってよく見ると一匹一匹が苦しそうに、体をよじり、目を虚空に向けた
    無念の形相に見えてくる。
     さらに、魚の目についての記述が続く。
    目が気になりだすと、尾頭付きを食べるのが苦痛になってきた。
   …鯵や秋刀魚の一匹付けがいけない。母や祖母にくっついて魚屋に行く。
   見まいと思っても、つい目が魚の目に行ってしまう。どの魚も瞼もまつ毛もない。
   まん丸い黒目勝ちの目をしている。
   とれたては澄んだ水色をしているが、時間がたつにつれて、
   近所の中風病みのおじいさんの目のような、濁った目になる。
   焼いたり煮たりするとこれが真っ白になるんだ、と思うと悲しくて、
   なるべくお刺身や切り身にしてもらうように、それと
なく頼んだりただをこねたりする。
   
    次から次へと魚の目についての話が展開される。
   芭蕉さんの有名な句はいつ出て来るんだと思うころ、芭蕉さんが登場する。
   「行く春や鳥啼き魚は目に泪」
   芭蕉大先生には申し訳けないが、私は今でもこの句を純粋に干渉することができない。
   次の文章で作者はさりげなく、その理由を述懐する。塩が振られたざるに並べられた魚の目が、
   泣いたようにうるんでいるように見えるし、
   「鳥が啼く」を思い浮かべれば、祖母の飼っている十姉妹が日差しを浴びてさえずる場景を浮かべてし
   
まう。
    ここまで話を進めるのにまだ、全体の五分の一しか進んでいない。
   漁師に打たれて木の枝から落ちて死ぬ直前の猿の目の話になり、
   日本人形の目の話になり、鳥の目の左右上下に動く目が嫌だと言い、猫の目の観察になる。
   最後はある男の足裏に出来た「ウオの目」の話で落をつける。
   最後の二行は次のようにつづられている。
     行く春や鳥啼き魚は目に泪 
    この人にとって、俳聖芭蕉のもののあわれは、わが足元なのである。 
  向田邦子は話の展開がうまい。言葉が紙の上で踊るように生き生きとしている。
  鋭い観察眼と感性が読者を捉えて離さない。
  芭蕉の句が、魚の目の話になり、動物の目の話に進み、最後の落は足裏に出来た「ウオの目」
  で落ちをつける。ウイットにとんだ筋運びは、読者を飽きさせない。

   
映画雑誌編集記者を経て放送作家となった作品には「だいこんの花」「七人の孫」「寺内貫太郎一家」
  「阿修羅のごとく」などいずれも庶民の暮らしを描いて人気ドラマになった。
  1956年8月航空機事故で急逝。才能の花開きを予感させる作家の惜しまれる死だった。
  享年51歳。     
                              (2,024.4.9記)

 

 

 

 

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今日のことば(2)   電車の中で

2024-03-17 06:30:00 | 今日のことば

今日のことば(2)   電車の中で
 電車で、一人の乗客が鼻水を手で拭いては、座席になすり付けていた。
 わたしはいややなと思った。
 周りの人も、いかにも迷惑やなという顔で見ていた。
   でも、同じ言葉を繰り返し呟いていて、話が通じなそうなその人に、どうしようもなかった。
   
だれもなにも言わず、ただ、いやそうな顔をしながら見ていただけだった。
 そのとき、おばあちゃんが、その人にティッシュを渡して、よかったらこれを使ってくださいと言った。
 その人は受け取って洟をかんだ。
 わたしはびっくりして、恥ずかしくなった。
 迷惑だと思うだけで、その人の気持ちを考えてなかった。
 困っていたのはわたしじゃなくて、その人だったのだと初めて気づいた。
                          (中脇初枝著 小説『伝言』から) 
   
   自分の視点から、視点を変えて相手の立場になってみると全く別のものが浮かんでくる。
   発想の転換である。
   自分を主体にしてものを考えることを習慣化してしまうと、
   ものの見方がや考え方が偏ってしまう。
   習慣は惰性になり、いつの間にか他人を傷つけていることに無頓着になってしまう。
   そういう過ちを私たちは、日常生活の中で何度も繰り返し経験しているのかもしれない。

                 
                 小説『伝言』について。
                 満洲・新京で暮らす女学生、ひろみの視点で語られていく。
                 「尽忠報国」。女学生でありながら、お国のために勉強もせずに、
                 精を出し、お国のために辛い労働に従事する。でもどこか変だ。
                 「五族協和」と言いながら、中国の人が築いた土地に「満州国」を無理
                 やり築く。「長春」という素敵な街があるのに、「新京」という名前
                 に勝手に取り換えてしまう。やっぱり何かが変だ。
                 永遠に失われた、もう、どこにもない国、満州国

                 欺瞞だらけの戦争。
                 あの場所で見たこと、聞いたこと、
                 そして、わたしに託されたことを、わたしは忘れない。
                 『伝言』とは、作者が小説に託した中脇初枝氏の思いである。
                                   講談社 2023.8 初版
   

 

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今日のことば 国際女性デー いまだ残る女性器切除の習慣

2024-03-13 06:30:00 | 今日のことば

今日のことば 国際女性デー いまだ残る女性器切除の習慣
  新しいカテゴリーです。新聞、雑誌、本、ドラマなどで
  心に響いたことばをアップし、できればアップした理由などを載せたいと思います。

  国際女性デー 3月8日
    女性の地位向上、女性差別の払拭等を目指す国際的な連帯と統一行動の日。
   1975年に国連が記念日として制定しました。
   そのルーツは、1900年初頭にアメリカ・ニューヨークで起こった、 
   女性の参政権や女性労働者への差別撤廃運動にまでさかのぼるようです。
    女性の権利を主張し、女性差別を払拭する運動は、時代の変遷の中で各国で起きましたが、
   国連が1975年に『国際女性デー』として提唱し、局地的な女性の地位向上運動ではなく、
   国際的な運動として認知されるまでに、70数年の時間がかかったということです。

    さて、それでは我が国の女性の地位は世界で何番なのか。
   これをジェンダーギャップ指数と言います。
   日本は146カ国中125位(2023年)ということになります。
   残念なことに2022調査の116位から順位を9つ落としています。
   指数は、「政治」「経済」「健康」「教育」の4項目で査定されます。
   項目別の日本の指数を見てみましょう。

   【政治】138位 【経済123位 【健康】59位【教育
】47位 総合で125位
   政治社会ゃ経済社会への女性の進出が低いということは、
   日本では男女平等と謳いながら、社会通念が家事や育児がまだまだ女性の役割と根強く残り、
   男性が子育てなどで育児休業を取りずらい労働観なども、
   男性優位の考え方が払拭されずに残っていることの表れと思います。
    
    封建時代から明治時代へと新しい国家が誕生したが、
   維新を牽引した社会は従来の男社会の中で育ってきた男達だった。
   それでも、近代社会の中でほんの一握りの女性たちではあるが、
   女性の社会的地位向上に活躍した女性がいたことを忘れてはならない。
   樋口一葉、平塚らいてう、与謝野晶子、津田梅子たちである。
   
G7(主要7カ国)の順位を見てみましょう。
  ドイツ(6位)
  英国(15位)
  カナダ(30位)
  フランス(40位)
  米国(43位)
  イタリア(79位)
  日本(125位)は最下位。

 ここまで調べてくると上位の国が気になります。
   1位 アイスランド 
   2位 ノルウェー 
   3位 フィンランド 
   4位 ニュージーランド 
   5位 スウェーデン  

  ニュージーランドを除く上位国は、北欧の国々です。
 北欧は寒いけれども自然環境の豊かな国々が多い。
 4位のニュージーランドは日本の年間平均気温よりは低いが、自然が豊かである。
 女性の位置が高いのはどうも、自然環境と関係がありそうです。
 ただし、ニュージーランドは犯罪率が高く安心して住める国かどうかという点では疑問が残ります。
 日本の犯罪発生率と比べてみましょう。
  強盗……38倍 侵入窃盗……20倍 性犯罪……21倍 (日本大使館発表)
G7の国々が意外と女性の地位が低いのには驚くます。
文明や経済が発展し豊かになっても、
豊かさに比例して女性の地位向上が上昇するというものでもないようです。

 女性器切除 2.3億人が経験(ユニセフが報告)
                   (朝日新聞2024.3/10)
 ユニセフ(国連児童基金)8日、国際女性デー合わせて報告書を発表。
記事の内容は残酷で悲惨である。
2億3千万以上の少女と女性が、女性性器切除を経験している。
しかも、2016年比で約15%増しで、約3千万人の増加だと記事は伝えている。
こうした行為は出血が続き、感染症や不妊に苦しんだり、最悪の場合死亡のケースもある。

 国連総会は2012年に禁止する決議を採択したが、報告書が示す通り、改善の兆しが見えない。
 女性性器切除(Female Genital Mutilation)=(FGM)は、
 アフリカや中東、アジアの一部で現在も行われている習慣(社会的規範)だが、
 古代エジプト時代にはすでに始まっていたようです。
 年齢的には幼児期から15歳までの少女に行われるようです。
 大人の女性になるための通過儀礼とされ、結婚の条件になっている場合もある。
 しかし、FGMには医学的な根拠はなく、女性への肉体的、精神的な損害が大きく、
 利益はないと言われている。
  地域別FGMの例は次の通りです。
   アフリカ 1億4400万以上
   アジア  8千万人以上
    15~49歳の全女性を国別にみた場合、ソマリアが99%と最も高く、
                     ギニア95%
                     ジブチ90%となっている。

   「女性は結婚するまで処女を保ち、結婚して家庭に入るもの」

         という観念が根付いているようです。
  男性の妻となる資格を得るためにはFGMを受けなければいけないという、
  女性を男性の従属物として考えるような男性優位の思想も見え隠れしているのです。
  また、次のような考えもあるようです。
  FGMを行うことで、女性の性的衝動を抑制し、
  女性のセクシュアリティを管理するという目的もあります。
  女性が性行為に快楽を感じることを悪とし、
  FGMをすることで女性が結婚するまで純潔や処女を保てるという考えのもとに行われてようです。

法律で禁止されている……
 現在、アフリカのFGMが行われている28か国中22か国では、法律により禁止されています。
 しかし、法律を作るだけでは、
 長い歴史の中で人々の間に根づいた意識を変えることができていないのが現状です。
 さらに、女性が結婚を通して男性に経済的に依存することで生計を立てていくことが常識となっている地域では、
 FGMは女性が生きていくための手段にもなります。
 FGMを受けなければ女性は経済的にも生活できないのです。

 長い間の人間の生活習慣の中から生まれてきた社会的通年は、
法律で規制しても、なかなか改善できません。
「生きる」というのはどのようなことなのか。権利の平等などという意識が育たない社会で、
権利の平等や精神の自由を謳っても、人の心は簡単に変わらい。
FGMは減少しているが、ソマリアやギニア、ジブチのようにこの国で暮らす90%以上の
女性が
FGMを受け入れざるを得ない現実をみると、
根絶するためには、更に長い時間を要します。

(今日のことば№1)       (2024.03.12記)

 



    

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