雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

妻が認知症になったら ② 砂川啓介

2018-08-16 22:02:56 | つれづれ日記

妻が認知症になったら ② 砂川啓介

  砂川氏の死去後に対面したのぶ代さんは、
  棺の横で「お父さん」と言ってポロッと涙をこぼしたそうです。
  大半のことは忘れてしまっても、「お父さん」のことだけは覚えていたのですね。
  短い短い「お父さん」との最後のお別れだったとichigo-milkさんは伝えています。
 
  介護に一番必要なのは、愛情です。
  愛情が認知症という垣根を乗り越えて、
  残存機能を働かせ、二人を結びつけるのでしょうか。
     (2018.8.16記)     (つれづれ日記№73)

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妻が認知症になったら ① 砂川啓介

2018-08-16 18:57:46 | つれづれ日記

妻が認知症になったら
      砂川啓介インタビュー
               (ラジオ深夜便・2016.4号より)

   佐川啓介さんはNHK幼児番組「うたのえほん」の初代「たいそうのおにいさん」として長く務める。
 妻・大山のぶ代はアニメ「ドラえもん」の声優として有名。
 砂川氏は妻・のぶ代が認知症を患っていることをラジオで公表。家政婦と共にのぶ代自宅で介護していた。
 その介護の様子を「娘になった妻、のぶ代へ」とし、老老介護の様子を公表した(2015.5)。
 2016.4月砂川氏は尿管がんの治療のために、のぶ代を老人ホームに入所させる。
 2017.5月には入院を余儀なくされ、脳梗塞を併発し同年7月11日死去、享年80歳

 このインタビューは2016年1月に放送されたものです。時期的には、
 「娘になった妻、のぶ代へ」を上梓してほぼ1年後である。

  
妻の異変
 アルツハイマー型認知症の診断を受けた時には、現実を受け入れがたい思いがあったが、
考えてみれば異変は確かにあったようです。
2、3前に言ったことをすぐに忘れてしまうとか、
怒りっぽくなって人間が180度変わってしまった。
「そんなはずはない!」そんなはずはないという思いが強かったようです。

 言ったことをすぐに忘れ、同じ話をくりかえす。そのことを「おかしい」とも思わなくなる。
高齢による物忘れとは全く違うパターンです。
忘れたことを気にならない。しかし、忘れるたびに周りからそのことを指摘されたりすると、
だんだん気が重くなるのでしょうか、無口になり、当然周りとの会話の数も少なくなってきます。
自分の意思を「思うように相手に伝えることができない」。「相手が理解してくれない」。
此のいらただしさが、行動の変容につながり、時には相手への暴力に繋がって来るようです。

 やがて、のぶ代さんが長年務めた「ドラえもん」のことも分からなくなり、排泄、幻覚、徘徊などに振り回される日々が続いたのでしょう。
とてもとても、老老介護の二人ぼっちの環境ではどうにもなりません。
介護される側も、する側にとっても、辛く厳しい状況が続きます。
孤立無援の状況での老老介護の先には、破滅という辛い現実が待ち構えています。
行政的な援助や周りの人たち(血縁者等)の支援が必要になってきます。

 福祉的支援は申請主義の立場を持っていますから、当事者が無知であったり、支援を拒否した場合にはなかなか難しい局面を迎えてしまいます。
「自分の妻は自分が面倒を見る」という選択も難しい選択です。
老老介護の果てに、介護する方が心身ともに疲れ、先に逝ってしまう例も珍しくありません。
介護の現実を見極め、「施設入所」の選択も仕方のないことと思います。

 砂川氏の場合は、自分が体調を崩したことが原因でのぶ代さんの施設入所を考えたようです。
「病気の君を置いて先には死ねないよ」と言っていた砂川氏でしたが、冒頭に述べましたように
先に旅立ってしまったのは、砂川氏でした。

 

 

 

 

 

 

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ブログ紹介 「TRITON」大人少女戦士の無限戦記

2018-06-09 21:57:58 | つれづれ日記

「大人少女戦士」と名乗る女性。
年齢不詳、職業は介護福祉士。
職業に対するプロ意識は強く持っている。
既婚者なのかどうかは不明。
アップされるブログには不思議なイメージ写真が添えられている。
この写真見たさに訪問するときもある。
 
文章は短い。
時によっては単語のみ。
この人の文章には何ものにも左右されない個性が輝いている。
良いものはよい嫌いなものは嫌い。
いつでもはっきりと自分を主張する。
自己主張することによって周りとの摩擦を起こすときもあるのだろうが、
そんな摩擦はまったく気にしない生き方が素晴らしいと思う。
興味のないものには、全く関心を示さない。
孤高の大人女戦士である。


 彼女のプロフィールだが、これが本当の彼女の姿なのかどうかも解らない。
自己紹介の欄には次のように書かれている。
『見たいのは世界の果てのそのまたむこう』。
遠くを見つめる目と整った鼻筋と小さな唇が戦士への想像力を掻き立てる。
TRITONというブログタイトルを持っている。
「トリトン」はポセイドンの子で半人半漁。ほら貝を吹いて波を沈めたり、波を立てたりする。     

 彼女の詩を紹介しよう。
詩のタイトルは「forest」 (「森」という意味)

森に惹かれるのは
そこで生まれたからだ
海に惹かれるのは
そこに帰りたいからだ
山に惹かれるのは
そこに本当の自分がいるからだ


彼女が描いている森はこんな森なのか。

人間を寄せ付けない、日差しさえ遮るような深い深い森で彼女は生まれた。

     掲載をこころよく了承していただいたので、紹介しました。
            (2018.06.09記)

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新年の挨拶

2018-01-01 21:58:40 | つれづれ日記

今年の年賀状
    

新しい年が
   喜びに満ちた
      年になりますように

                                  (ふるさとの山)
  

 平成30年正月
日本海側は軒並み大雪注意報が発令されているのに、
関東地方は、
窓辺から差し込む日差しが春のようにやわらく、優しい。
おたふく南天の赤い葉が日の光をあびて、
小さな幸せを感じられるような元日です。

 老いの坂道のアップダウンを、ゆるゆると焦らず意地を張らずに歩んで行きたい。

                                     (穏やかな一日を窓辺で過ごす初春)

   

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「死刑、覚悟できている。だけど…」

2017-11-13 19:06:12 | つれづれ日記

「死刑、覚悟できている。だけど…」

 人を殺しておいて、本当に覚悟ができているのか。

「一日も早く死刑にしてほしい」

  青酸連続不審死事件で殺人罪などに問われた筧(かけひ)千佐子被告(70)に対し、
京都地裁は7日、死刑判決を言い渡した。

「明日の夢もなく、ただ死刑の日を待つのみ」

8月以降、朝日新聞記者が34回にわたって京都拘置所で面会をしたり、
はがき等で通信を交わした記録である。
この二つの発言を見れば、
今は、粛々と判決を待つのみだという気持ちの表れかなと思われる発言だ。

だが、紹介された彼女の発言は許し難い、自分本位の発言に変化していく。
判決前の接見で得られた発言。
「死刑になることは分かっている。
覚悟はできているの。
だけどね、私も人の子やからね。
本当はまだ生きていたい」

高齢の男を手玉に取り、青酸連続死の殺人罪に問われた筧千佐子被告だ。
ここには、
殺人という罪の重さも、
かけがいのない命を奪うという身勝手な自分を悔いる気持ちなど微塵も感じられない。
自分の金銭的欲望のために何人もの人の命を殺め、
表の顔は「覚悟は出ている」と装いながら、
裏の顔がひょいと顔を出す。
「人の子やからね」「本当はまだ生きていたい」と本音をのぞかせ、
罪の意識など微塵もない。

「あなたを愛した人が目の前で倒れて苦しんでいる時、
ほんの少しでも可哀想だという気持ちはわかなかったのか」

記者の誘導尋問にしばらく沈黙した筧被告の答えはなかった。
7日、京都地裁の判決が出た同日午後の面会記録。

「まだ生きていたい。
控訴をして、
それでもだめならあきらめがつく。
笑って死んでいくよ」。


「覚悟はできている」という発言と裏腹に、
「まだ生きていたい。
控訴を」すると本音を言う心の裏には、
「生」に対する未練が見える。
この期に及んで「笑って死んでいくよ」と見栄を張る筧被告が哀しい。
最後まで、虚構の心中から逃れられない被告はあわれだ。
             (参考:朝日新聞11/7夕刊 11/8朝刊)

                                          (2017.11.11記)       (つれづれ日記№70)

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人生の最期

2017-10-30 18:00:00 | つれづれ日記

 人生の最期
      
      この文章は2010.07.13に発表したものですが、

      亜母のブログ(ぽんのんの2)さんに送ります。
      母の死を見つめながら、私は「人生の最期」を
      以下のように迎えられたらいいなと思い、
      7年前に記した文章です。

      終末期においては、「ありがとう」の一言だけでも
      最期のメッセージとして残したい思いは、私だけでなく
      多くの人の望むことなのでしょうね。  


   母は90歳で他界しました。その時、私には母を失った喪失感はあまりなく、
 むしろ、私が3歳の時に他界した父のもとに
 やっと、母はみまかうことができたのだと、
 そして、その父のいる彼岸のもとへ送ることができたのだという
 安堵感が私にはありました。

 葬儀の日は
 なぜか「ほっとする」ような安堵感にとらわれ、
 母を送ることができました。

 老化が進み、病と闘う母の姿は
 いじらしく、いとおしく感じられ
 日に日に幼女に還っていく母の手を握り締めながら
 「おふくろ、今まで十分頑張ってきたのだから、もう頑張らなくてもいいよ。
  親爺がそこまで迎えに来ているから、早く行ってやれよ」

 これが、母に対する私の精一杯の愛情の示し方だったと、今でも思っています。
 当時、上記のような私の言葉に、兄姉は「何ということを言うのだ」
 と随分と叱られたものです。

 いつまでも、たとえ一分、一秒でも長生きしてほしい。
 子どもとしては、当然の感情だと思います。
 しかし、私はそうした願いの中に「生きている者のエゴ」を感じるのです。

 臥している者にとって、「生を全うするだけのエネルギー」が残っているのかどうか。
 命のともしびが、今まさに消えようとするときに、
 「お母さん、頑張って、しっかりしなきゃだめよ」とは、私は言えないのです。

 むしろ、死の不安や恐怖をいかにして、軽くできるかという精神的なサポート
 こそが必要なのではないでしょうか。

 こういう視点に立って、ターミナルケアの考え方が存在するのではないかと思います。

 人生の最期のひと時を、病院のベットの上で、最新の医療機器に囲まれ、
 愛する人や親しい人に「ありがとう」の一言もいい残せないで、
 命の終焉を迎えるなんて、私は絶対に認められない。

 私ばかりでなく、たくさんの人たちが
 わが身の「人生の終末」を
 「ありがとう」の一言を最期の言葉として、迎えたいと考えていることと思います。

 遺される者の「エゴ」も改めなければならないことですが、
 医療行為もまた、物理的な「延命措置」だけの「終末治療」は改善しなければ、
 「命の重さ」と「医の倫理」がバランスよく保たれた「豊かな人生の終わり」は
 実現しないと思います。
 

 
 
 

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ど派手な成人式

2017-01-17 11:00:00 | つれづれ日記

ど派手な成人式
   これでいいのか 寛容すぎないか

 各地で行われた成人式。
 門出ともいえる式典を、粛々と開催した自治体もあり、
 創意工夫の跡が見られ、好感の持てる映像を流したテレビメディアもあった。
 特に報道にあったような親から成人した子へのメッセージを壇上で読み上げ、
 参加している子供に感動を与える自治体の成人式は、好ましく思われた。

 一方、沖縄や北九州における成人式のように、ど派手な成人式も相変わらず後を絶たない。
 数年前までは、こうした成人式の在り方をどちらかというと、
 批判的にとらえた報道が多かったが、
 ここ数年、批判的な報道が減少し、
 「こんな成人式もありますよ」的な報道が目立つようになった。

 市長さんや市会議員の皆さんが、形式的な祝辞を述べる成人式は
 参加者を飽きさせてしまうから、それを聴く成人の方もうわの空で、私語か多くなってしまう。

 あてがいぶちの成人式ではなく、自分たちの成人式をどのように開催したら、
 門出の成人式が意味のあるものになるのか、考えなければならないだろう。

 どんな成人式を開催したいのか、
 主催者だけの判断では参加者の心を捉えきれないところまで、
 世代間の溝は深くなっているのだろう。
 参加者としての新成人にも、自分たちの「成人式」という自覚と責任感を持って臨んでほしい。

 「成人式を終われば、みんな普通の人に戻るんです」
 ど派手な成人式を行う町で拾った声です。
 「この日のために、コツコツと貸衣装代を溜めて、一生に一度思い出に残る馬鹿騒ぎをしたいのです」
 「地域の伝統だから……」
 「とにかく、大勢が集まるなかで目立ちたい」
 
 地域の伝統、仲間意識、門出の記念に等々の意見が多く見られた。
 こんなことが、「ど派手な成人式」として認知されるなら、
 誕生祝いも、入学式や卒業式もみんな門出の記念なのだから、
 ど派手に関係のない他者に眉をひそめられるような門出の式を行えばいい。

 社会全体の雰囲気が、多少不愉快なことがあっても、
 目をつぶって暗黙の裡に認めてしまう。

 寛容すぎはしないか。

 「認められないものは、認めない」という姿勢が弱まっているような気がして不安です。

 派手な衣装で着飾るのも否定はしません。
 でも、落ち着いたスーツ姿もなかなかいいものだと思います。

 ちなみに、私の成人式は、貧乏学生でスーツも買えないし、
 故郷にいる老いた母にスーツ代をせがむのも忍びなく、
 その日は、故郷の成人式を思いながらの少し寂しい成人式だったが、
 当時発刊されたばかりの「ヘミングウェイ全集」の第一巻を記念に購入しました。
 今では、色あせた本が、若かった頃の私を投影して
 書棚の奥でひっそりと時を刻んでいます。

 寛容すぎる社会は、やがて成長を減速し、
 住みずらい社会の到来のきっかけとなるでしょう。
 そうならないように未来社会に向けての責任と努力を
 一人ひとりが持つことが肝要なのではないでしょうか。
                  (つれづれ日記№69) 
                            (2017.01.16記)

 

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寒波襲来

2017-01-15 20:41:16 | つれづれ日記

寒波襲来

   寒波襲来で、日本海側の地域で大雪です。
 関東の我が家では、雪が降りませんが、とても気温が下がり、
 時どき冷たい西風に舞って、風花が流れてきます。
 
 万葉集にも歌われたわが郷土から仰ぐ筑波山は雪の気配もありません。

 
 「でも、寒いなー」
 絵本作家の いもとようこ さんの狐が寒さをコラえているようです。
 この人の絵やお話はやさしくて、ほっこりしているところがとても好きです。

 このやさしさ ほっこり感を保育園の子どもたちに味わってほしいと絵本を読むのですが、
 子どもたちはアンパンマンやカイジュウやオバケが出てくる題材が好きなようです。
 
 それでも、いもとようこさんが持っている雰囲気を伝えたいと、
 三冊のうち一冊は必ず読んであげることにしています。

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流されない…

2017-01-08 15:15:40 | つれづれ日記



時流に流されず、
言葉を噛みしめ
自分に正直に、
嫌なものは嫌だと言える様な道を歩みたい。
なかなか難しいけど……

 年頭の挨拶を、年賀状の中に上記のようにしたため、自分への戒めとしました。
 何分、タガが外れてしまうと、易きに流れていってしまうので、
 少しきついタガをはめました。

 「流される」 時流に流される。 雰囲気に飲まれる。付和雷同。
        あまりにも流されることの多い日常です。

    12/31付のブログ「流されていく… このまま流されたくはない」にも書きましたが、
 社会全体が「何とかなるさ」とつぶやきながら、流されて行ってしまう気がしてなりません。

 「流されない」視点を保ちながら、自分の考えはきちんと伝える努力をしなければ、
  将来の社会に責任を持つ社会を作ることはできない。
  私ひとりが、声高に叫んでみても、何も変わらないかもしれません。

  でも、ぶれない視線で社会を見つめる人が一人でも多くなれば、
  社会を包む雰囲気はだんだん変わっていくではないか。

  成熟社会の上に、どっかり胡坐をかいてしまえば、
  成熟は爛熟へと進みやがて退廃そして消滅へと進んでいくことは、
  歴史が証明しています。

  「社会全体は絶えず成長を続ける」
  成長が停止した時、社会は混乱の波にのまれてしまうといわれていますが、
  私には、社会の成長がどこまで続くのかわかりません。

  成長の過程で、緊縮、減少社会があってもいいような気がしています。
  『緩やかにトーンダウン』する社会があってもいいのではないかと言う思いもどこかにあります。

  私たちの社会はあまりにも早いスピードで成長してきたような気がします。
  社会を牽引していく『幸福号』は、多くの人に幸せ感を振りまき、
  一見豊かで明るい未来に向かって進んでいくように見えます。

  でも、小さな幸せを作って来た核家族は、
  その昔家族が持っていたたくさんの家族機能を喪失してきました。
  結果、人と人のつながりが薄れ、格差社会が生まれました。

  人口減少社会、少子高齢社会、労働問題、保育問題、貧困の連鎖、原発問題、積極的平和主義。
  どれをとっても、一朝一夕には解決できない問題が山積しています。

  これらの問題は、政治がもう少し前を見据えた政策を展開していれば、
  回避できた問題もたくさんあるようです。

  与党も野党も、そして多くの国民もあまりに今そこにある効率と利益を求めすぎたきらいがあります。
  
  私たちはぶれない視点で、揺るぎのない社会を作ることに協力もするし、我慢だってできるのです。

  「和して同ぜず」(論語)
   人の意見をよく聞き、理解をするが、自分の意志もまた大事にする。
  社会の一人ひとりが、心がければ、「住みよい社会」は実現可能ではないだろうか。

  念頭に当たり、穏やかな正月を迎え、
  「流されない」想いを述べてみました。
                                (2017.01.08記)





  

 
 

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ドクターXについて

2016-12-09 11:00:00 | つれづれ日記

ドクターXについて

 ドクターXが高視聴率を維持している。
群れを嫌い 
権威を嫌い 
束縛を嫌い 
自らの経験とスキルのみを武器に生きる一匹狼のフリーランス外科医大門未知子。
荒唐無稽のドラマだが20%代の高視聴率をたたき出す原因は何処にあるのだろう。

 有能な外科医だが非常識。
空気読めない。
日常の常識というルールから逸脱しているが、
やりたいことを自由にやって生きていける。

派遣される病院には味方はいない。
孤立無援のフリーランス外科医だ。

思いきり丈の短いスカートを履き、ピンヒールで病院内を闊歩する。

たった一つのよりどころは、
大口開けて好きなものを食べ、
「名医紹介所」で師匠や紹介所の仲間たちと好きな麻雀をする。
大門未知子にとって心の癒される唯一の場所だ。

 「私、失敗しないので」、
「…いたしません」など大門のキャラクター作りにも一役かっているフレーズも人気の一つ。

水戸黄門の印籠に等しい役どころであり、
テレビドラマ「半沢直樹」の「倍返しだ!」のフレーズと同じ役どころだ。

 医師の立場を離れた大門未知子はまるっきりアホになる。
こんなところにも、人気の秘密が隠されている。

一種の変身願望である。
手術に関することは、一歩も譲らず、妥協を許さない。

私たちは生活の中で、
沢山の妥協や我慢をしながら日常の中に、
穏やかさと小さな幸せを手にしようとしている。

反対意見を述べ、
相手を批判するようなことを言えば、
陰湿な個人攻撃や、
陰へ回っての悪口などに合い、
辟易してしまう。


 日常の中で起きる生きづらさとは全く無縁な場所で自信に満ち、
「私、失敗しないので」と生きていける未知子に、
私たちは心に淀んだ「憂さ」を晴らしているのかもしれない。

                     (2016.12.08記)

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