きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

気動車

2012-10-03 22:00:00 | 徒然に2010-2013
先日、ウチで取っている地方紙に鳥取聾学校写真部の記事が載った。
素人が恥の上塗りのように云うのもどうかとは思うが、彼らの写真は、決して時間を切り取るだけのものではなく、被写体とのコミュニケーションの中で成立している。表情があり、味がある。きこえない、しゃべれないことだけが(しゃべれないというのは随分昔のとらえ方なんだが・・・)ファインダーを覗いて風景に対峙することへの特性を生み出しているわけではないと思う。そこに聞こえるとか聞こえないは、基本的にはない。
鳥取聾学校へは、もう二十年近く前にとある研究会の全国大会で出かけたことがある(その大会では研究発表もした)。確か働き始めて3年目。岡山から急行で中国山地を越えた。今でも時々お世話になるSさんと一緒だった。いろいろなことをどん欲に吸収しようとしていた時期だった。確かその時に入手した写真集が「水あそび」だったと思う。デジタルの前の時代。今改めて写真集を見ると、ラフさの中になかなかこんな表情撮れないなと思う作品がやっぱりあって、すごい。そしてその時の記念講演は、こうした大会では珍しく、この「業界」とは関係のない徳永進さんというお医者さん。この方の著書には、本当に影響を受けた。何が縁かは本当によく分からんなとつくづく思う。

ところで、写真の左端に「気動車」という冊子がある。これは鳥取とはちょっと関係ないが、ずっと残っているというか引っかかっているというか、まあ影響された絡みで。
富山ろう学校の生徒の短歌集。
印象に残っている歌が何首かある。書籍のタイトルに使われた「ろうあ者は機関士にはなれないか・・・」の句もその一つ。
自分の思うべき道に進めなかったという結果は、いろいろな人がいろいろな形で経験しているだろう。彼らだけではない。それでも恥の上塗りのように云うなら、それが様々なプロセスを経て自分で悟った結果なのか、初めから門戸が閉ざされていたからのかでは全く違う。

せめてスタートラインに立つ時ぐらいは同じにならんかな、と思う。