きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

単に「できる」だけでは維持できない

2018-01-03 15:50:45 | 脊髄内血管腫との邂逅
年末年始、外出したり排泄で苦労したりして身体がお疲れモードらしく、昨晩は早めに寝たにもかかわらず今朝はなかなか起きれずしかも身体のあちこちが痛い。

昨日の帰省は、年末のに比べて「何とかなった感」よりも「なかなか難しい感」の方を強く感じた。確かに家にも入れるし移動もできるし、おまけに玄関前の段差解消のために、同じ高さの台まで用意して歩行器が使えるようにしてくれたりしていたのだが、ちょっとしたことをしようとすると、もの凄くエネルギーが必要だったり、必ず家人の助けを得なければならなかったりする分、まあいいか止めとこうという感じになってしまった。
結局、単に「できる」というレベルのADLでは駄目で、「楽にできる」というレベルでないと(快適にまでいかない)普通の生活は(すら)難しいということなのだろう。
トイレに行く、ということは生命維持に必要だから力入れて頑張って移動をするのは仕方がない。でも、テレビの横のリモコンを取るとか冷蔵庫の飲み物を取るとかについては、必要不可欠な訳ではない。このレベルの細々したことがどうしても今の状態では力を入れたり集中しなければできない。ただ、こうしたことを全力で何度も繰り返し行うとなるとなかなか気分的にはしんどいだろう。
何となくは分かっていたが、今回、一時帰省してそして病室に戻って、淋しい感よりもホットした感の方が強かったのは事実。
これは、年末の1度目の帰省とは感じ方が違うなあと。この辺りが、当事者も周りの人もストレスなく過ごせるための環境整備が必要なのだなと改めて感じた次第。だから、やはり家の中は4点式歩行器だけでなく車椅子での移動も考えないかんのかなということも思った。これからリハの先生と話し合いながらこの辺りはいろいろ試してみることになるのだろうが。

因みにこれ、儂のテリトリーである「聞こえる」こととか「コミュニケーション」のこととかに置き換えても同じこと。分かり切っていることかもしれないが案外当事者でないと気がつきにくいことも同じことのように思える。

今日はリハが早めに終わった(15時)のでまだ走れるが休養することに。年末年始忙しかったからまあいいか。