きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

家族雑考、家雑考

2018-01-19 07:13:54 | 徒然に2018-2020
先日のこと、田舎の親が儂の身体のことについて「過剰な」希望を持っているらしいことが分かる。現況が理解できていない訳ではないのだろうが、正直面倒くせえなあと頭を抱える。このことに限らず、身内のことにしても一般的な出来事についても家族というのは面倒くさい面がある、というのは実のところ何かに付け思っている。ただ反面それがないと重しが利かないというか、自分が制御不能になるような気もしている。

少し前、下重暁子の「家族という病」を読んだ。

ネットでの情報によると対論を張っているのが金美齢の著作「家族という名のクスリ」らしい。
それは手元になかったが、たまたま買ってからずいぶん寝かせていた山本一力の「家族力」を平行して読む。これは家族論としてはあまり参考にならなかったが、先日読んだ伊集院静といい、作家というのは世間の感覚とは少し外れていないとできないんだなあとつくづく感じた。そういう意味では面白かった(山本が何かに付け賞賛するのが先日大ごとがあった富岡八幡宮でこれは別の意味興味深い)。

その山本の本は、それまで雑誌掲載された短くて軽い随筆が主なので、そこから論旨を読み取るにはやや強引にならざるを得ないが、スタンスとしては、やはり家族の力や家族の良さを強調する、いわば「一家団欒」派であり、家族やコミュニティの力の素晴らしさを感じている様子が伺える。儂なりにとらえれば昭和的だなと。ただここまでに至るのはそれまでの生い立ちに拠るところも多いようには思う。家族の力を力説する人に限ってその経歴は破天荒である。儂に言わせれば「おっさん迷惑ばっかかけて何云うとんぞ」という感じ。
儂など、家族とて他の家族に迷惑掛けてはいかん、という考えを持っているぐらいだから、困ったときは助けるとか頼って欲しいという下重より、ある部分では融通が利かない面があるようにも思う。その点で山本には既に反発している。
自分のせいで集合体の成員である家族がいろいろな可能性を摘まれるということは耐えられない。だからできるだけ世間体も気にするし、所謂真っ当な生き方もする。そういうもんだと思う。ただそのことが苦痛であるかといわれればそうでもないし反面見返りとかも期待してはいない。だから家族なのだと云われるかもしれない。
ただそれって家族でなければならないか、というと意見は一つではない筈である。下重もその辺りを「家族に血のつながりは関係ない」としているが、血のつながりを意識するが余り、過度に排他的になったり、信頼できるのは身内だけとかいう妄信的な感情につながったりということは実際にある。血のつながりにそこまで過剰な幻想抱いてどうするのだろうと思う。

話は飛ぶ。で、家族は基本的に個の集合体である(それ以上でもそれ以下でもなく幻想を抱くものではない:幻想を抱きがちだからこそ敢えて)と常々考えている儂自身は、下重の家族論は結構共感する部分は多い。金の著書は読んでいないが、アマゾンの紹介文には「メディアや学界などで仕事をしている関係から公的な立場を与えられた彼女たちが、ちゃんと結婚をし、子供をなし、家族という共同体を営み、社会を支えている人たちの生き方を批判する。これを傲岸不遜と言わずして、なんと言おう」とあるが、『ちゃんと結婚をし、子供をなし、家族という共同体を営み、社会を支えている人』という概念そのものが幻想ではないか。百歩譲って家族という形の一類型であろう(にすぎない)と思う。形としての集合体を成している以外に「ちゃんと」結婚して・・・というのは今のご時世において、やや狭過ぎやせんかと。ただ、狭すぎるけれどもそれが多数派の価値観を持っている以上、話は確かに厄介である。
例えば(また話は飛ぶ)、日本語の不思議さに、「お父さん」「お母さん」の呼称がある。また「旦那さん」「主人」「家内」などの呼称もある。前者は、相対的な呼称に過ぎないのに、家族を呼ぶときに半ば固定化している点、また、後者は、意味的に昔の家族概念を未だに引きずっている点、どちらも不思議である。儂自身は、前者は使わないが後者は外向けに使うことがある。これは通りが良さそうな相手に合わせて使う。中途半端ではあるが事実である。

家族を自慢したり家族の話題しかない人はろくなことがないみたいなことも下重は述べているが、同感である。相手との関係や話の流れ等によっては絶対とはいいきれないが、まず相槌が打てない。ただこれが多数派ではある。ここが軽視できない。
で、全然本質に迫れないままに、話を変える(言い訳ををすればここまで踏み込む予定はなかった)。

儂はといえば、下重の家族論に共感しつつも現実の家族像に逆らえない部分もあり、割合現実的なところで迷うことは多い。

迫り来る実家の扱い(処分)とか墓の問題がある。

未だに法事とか檀家とかの心得を知らない。

こういうのが一番いいと思っているぐらいであるから。本当に。

家族を論じるのに実家とかお墓を論じるのは筋が違うのだろうが、家族の形はフレキシブルに考えられても、その延長線上の問題は、案外囚われている。これがあるから家族を考える上での制約は当然起こる。
今後、それでも家族の標準型は変わっていくように思うのだが、多数派の見方はなかなか崩れないだろう。

家族だからの見返りのない無償の愛が必ずあるかというとそうでもない。それがない家族の形もあるのだと思う。
ただ、儂自身は、縁あって家族になったのだから情はある。ただ、例えば働くのが家族のためとかそういうことは考えてない。強いて云うなら縁があったからである。それに、見返りは求めてないけど結果として随分良い想いもさせてもらったことも事実、ある。
そういうこともあって、自分としては、せめて迷惑かからんように見守っていけるような位置にこれからもいたいという、それだけである。

家族と言うより家になってしまった気もするが、結局切れないと言うことでもある。
相変わらずまとまらんが、この先まとまるかというとそれもなあ、なのでここに上げる。

で、原稿打った後でよくよく考えてみれば。

こういう系統読んで考えた方が、まだ深く考えることができたのかもしれないと。

自分はその場で一緒に経験することが前提でないのに充分幸せを感じるという(一緒のことをしていなくても空間を共有しているという感覚はあるのだろう。だからかもしれない)、これも、昭和の家族の形だなあと。
面倒くさいけど仕方がないなあとやっぱり思う。

そういえば今日は1号の誕生日だった。こういうことをしっかり覚えている、覚えている習性が身に付くのも「家族」の力かもしれんなと思った。
ぐたぐたと綴った割に、これが最も本質をとらえているのかもと思ったり。