そこそこの厚さのある本だったが、なにしろ1ページ毎の紙の厚みがあって実際は180ページ程度の本で直ぐに読み終えてしまった。
「なぜ、あなたは ここにいるの?カフェ」ジョン・ストレルキー(イシイシノブ訳)竹書房
ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」に感じとしては似ている。
ただソフィーはファンタジーとして、哲学の歴史を段階を経て説明しているが、この本では作者ジョンが遭遇した不思議なカフェでの体験を後日、本にしたという体裁をとっている。
内容は、私はなぜここにいるのか?<存在のための目的>を各々が考えてみようじゃないかということである。
一度、真面目にこの命題について考えてみると、その後の、あらゆる時・場所・場合でふ~っとこの質問が頭の中に浮かんできてしまうという。
まあ、人はその人生の「今」を、本当に生きたいように生きていない。いつかそれが出来るまで我慢するのだと言いながら、不本意な生活(生き方)をそのまま続けていく。いつまでそうするつもりですか?などと、やたら問いかけてくる内容なのである。
ちょっと面白かったのは、主人公が憂さを晴らしに休暇をとって車でハイウエイを走行中に前方でタンクローリーの事故があり大渋滞となるところだ。
先日の旅行で、私も実際おなじような車両事故に遭遇して、高速道路の高架部分で動けなくなってしまった。
話が違うのは、この本の中ではパトカーがやって来て、「選択肢は2つあります。一つはこのまま有毒物質を洗い流すまで1~2時間このまま待つこと、二つ目はUターンしてICまで引き返し一般道へ降りること」と説明するところである。
高速道路でUターン??などと思って読んでいたら、主人公はUターンすることを決心し中央分離帯を逆走してICまで戻るのである。
米国のハイウエーってUターン用に中央分離帯にレーンが設けられているのかな?等とまあこの前の実例に照らして首を捻ってしまった。
結局主人公は道に迷って、ガソリンも残量が半分を切って引き返しも出来ず、かなり危険な状態になった所でポツリと灯りのともっている場所に車を乗り入れる。
そこが「なぜ、あなたはここにいるの?カフェ」という奇妙な名前のカフェだった。
その後の話の進展は、納得出来る人と同じくらい納得出来ない人もいるのではないかと、ふと思ってしまった。
西洋の哲学を扱う本を読むと曖昧さを排除する論理的な思考こそが最上のものだという風にグイグイ押してくる感じがある。
東洋的な(日本的?)曖昧さを排除するのだ。迷ったり遠回りの人生を送ったり無駄だと思える体験や嫌々ながらやる(やらざるを得ない)生活も、ひっくるめて人生だ、人それぞれというのなら人の生き方にいちいち論理を振りかざすなと言いたくもなるが・・・。
文明のよって立つ規範となるものの考え方が少し違うという違和感のようなものを常に感じる。
論理が常に曖昧の上位に位置しこれを圧倒する。これが西洋史であり世界史だ。
確かに家畜は人間に食われるために神が使わされたという彼らの考え方は結果的に正しいし論理に矛盾は少ない。
しかし、食われる家畜の命に無常を感じてしまうのが日本人なのだ。ファジイなのだ。
八百万の神々や、一木一草に生命が宿ると信じる曖昧をもって最上とする民族には、この哲学や一神教の宗教はなかなか手強いはずだ。
まあ、いずれにしても正解は創造主のみが知るということか。
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