白雲去来

蜷川正大の日々是口実

ハードボイルドなミステリー小説を読んだ。

2010-03-24 12:28:04 | インポート

三月二十三日(火)晴れ。

 まだ寝ているうちに、下の子供が学校から帰って来た。子供は昼食、私は朝食を一緒に食べてから、事務所へ。本当は、二十日までに書き上げなければならない原稿があるのだが、準備不足で、一日、また一日と延ばしているうちに、身動きが取れなくなった。頑張らなくては。

 古い読者で、千葉に在住の方から、横浜、いや神奈川県警が舞台となっている、ハードボイルドな小説、「越境捜査」(笹本稜平著・双葉社)をご恵送頂いた。ミステリーで、かつハードボイルドな小説など読むのは久しぶりの事である。その小説に描かれているのが、ほとんど横浜なので、私に送ってくれたのだろう。

 金融詐欺事件の十二億円が消え、それが神奈川県警に保管され、一部が裏金として使用されているという、訳ありなものだが、筋も良いし、テンポも良く、とても楽しく読ませて頂いた。寝る前に布団の中で読んでいたが、読み終えるのが惜しくて、毎日、少しずつ読むようにしていた。読みかけの楽しい本がある時は、家に帰るのが早くなる。といっても最近は、余り出かけないので、本を読む機会が多い。昨夜も、食後に、「いいちこ」を飲みながら、「幕末バトルロワイヤル」(野口武彦著・新潮新書)を読んで、気がつけば深夜一時。慌てて布団に入った。

Img776 ※オイチョかカブの面白さです。


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機関誌の整理に精を出しています。

2010-03-23 20:02:56 | インポート

三月二十二日(月)晴れ。

 昨夜、早めに寝たためか六時に目が覚めてしまった。朝食は、サリーから頂いた「五目寿司」子供達の大好物である。休日だというのに、上の子供は部活で出かけて行き、私は、午前中一杯、自宅で機関誌の編集を行なった。

 午後から戸塚の「ダイエー」に子供服の買い物。ついでに、昼食もダイエーのレストラン街でとった。夕食後は、機関誌の在庫整理と表紙や内容をパソコンに入力の作業を行なった。これが中々面白くて、焼酎のロックを片手に、延々深夜二時過ぎまで行なってしまった。

 私の機関誌は、初期のころが「大悲ジャーナル」。その後、現在の「燃えよ祖国」となった。本当は、昭和六十一年が第一号だが、翌年から平成二年まで社会不在を余儀なくされたので、復刊の第一号の発行は平成三年の一月である。

1 ※復刊の第一号です。写真をクリックしますと大きくなります。私の戦線復帰直後ということもあってか、獄中者ばかりですね。

 七号までは印刷所に出していたが、その後経費の関係で、コピー機による手作りとなった。当時は、パソコンなど使えず、ワープロによる作業なので、今思えば、まあ良くこんな程度のものを出していたのかと、赤面の限りである。

 パソコンを導入して、何とか読むに耐えうるものが出来たのは四十九号からである。「燃えよ祖国」と改題したのは、平成十三年の一月号、通巻百七号からである。現在製作中のものが百七十五号。何とか、十九年も出し続けている。これも偏に、有料購読者の皆様のご支援の賜物と衷心より厚く御礼を申し上げます。

 今まで、各号にどのような記事が掲載されていて、在庫がどの位あるかを整理していなかったので、ファイルメーカーというソフトを使って整理している。ついでに表紙のインデックスも作ってみた。

Photo ※97号~120号のインデックスです。

 こうしておけば、表紙の写真もダブらないし、在庫のないものも一目で分かる。また、大切な原稿が整理できて良い。何でもっと早くやらなかったかと言えば、早い話が、パソコンになれていなかったからである。

 今後共、鋭意努力を致しますので、ご指導と、ご支援のほどを何卒宜しくお願い致します。


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誕生日、「人生五十九、功無きを恥ず」。

2010-03-23 19:17:57 | インポート

三月二十一日(日)春分の日。晴れ。

 野村先生の「天の怒りか、地の声か」の中にも書かれている、元総理で、先の戦争を「侵略」と断じ、「国会謝罪決議」を行なったバカ殿こと細川護熙のご先祖の、細川頼之が作った有名な漢詩に「海南行」というものがある。

人生五十 功無きを愧(は)ず
花木(かぼく)春過ぎて夏已(すで)に中ばなり
満室(まんしつ)の蒼蝿(そうよう)掃(はら)えども去り難し
起(たっ)て禅榻(ぜんとう)を尋(たず)ねて清風(せいふう)に臥(が)せん

 今日は、私の五十九歳の誕生日である。本来ならば、今年還暦を迎える人と同い年だが、早生まれのため来年が還暦となる。若い頃は、この早生まれで、同級生より一歳若いということが、年下に見られて嫌だったが、この歳になると、誕生日は、正に冥土の旅への一里塚。従って、一歳若いと言うことが、何か得をしたような気持ちになる。しかし、ついに恩師の晩年の歳を越えてしまった。正に「功無きを愧ず」を実感する今日この頃である。

 有り難くも、私の誕生日祝いを佐藤邦夫、和代夫妻、と言うよりも、サリー夫妻と言った方が分かりやすいか、そのサリー宅で、お祝いのホームパーティーを開催して頂いた。

 ちなみに、サリーも三月生まれと言うことで、まあ合同の誕生日会である。一時過ぎに、松本佳展君と小枝ちゃん。カメ&アコちやん等が、わが家に集合。サリー宅へ向う。後輩のS君夫妻は、近くなので直接サリー宅へ。

 サリーの手作りの料理が山のようにあって目移りして、嬉しい悲鳴を上げた。途中から、古い友人の成田功君も合流して、総勢十一人もの人たちが集まり楽しいパーティーとなった。

P1000008 ※サリー夫妻からのバースディケーキ。

 私は、途中から二時間ほど寝てしまい、目を覚ましたのは八時近く。「稲庭うどん」でしめて解散。有難うございました。

 また、今日の日の為に、「フクイのカレー」を送って頂いた、読者の福井さん。美味しいエクレアを送って頂いた岐阜の細川先生。バースディケーキを頂いた志村馨、小森正春の両君。芋焼酎を送って頂いた、爆発五郎さん。タラコに筋子、イカの沖漬けを送って頂きました札幌の石澤浩文君。皆さん有難うございます。この場をお借りいたしまして、心から御礼を申し上げます。


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お墓参りへ。

2010-03-22 12:11:44 | インポート

三月二十日(土)晴れ。夜来より強風。

 今日は、野村先生の月命日。わが家に、志村馨、彼の息子、小森正春君らが来訪。私の家族とともに伊勢原へ。お彼岸と連休が重なり、道路は何処も大渋滞。高速が動かないとのことで普通の道で行ったが、何と二時間半もかかってしまった。

 浄発願寺への道は、花の道でもある。今は、辛夷や木蓮、ユキヤナギなどが咲く、いわば「白い季節」である。これから桜、ツツジが美しい道となる。ちなみに夏は、百日紅、先生のご命日近くは、曼珠沙華、いわゆる彼岸花が咲き、カメラを持ったハイカーで狭い道が渋滞する。

 お寺に到着後、皆で先生のお墓を清掃。住職の話では、前日にご婦人が来訪したとのこと。先生のお墓に手を合わせ、ご皇室の弥栄と一門の恙無きをお祈りした。その後、私の両親のお墓に詣でる。一ヶ月ぶりの挨拶を済ませ、家族の無病息災を亡き両親にお願いした。

P1000006

 帰りは、高速を利用した。やや混みで一時間半ほどでわが家着。さすがに疲れて、二時間ほど昼寝した。

 夜は、夕食時に軽く飲んだ。食後は、ツタヤディスカスで借りた、「北辰斜めにさすところ」を見た。これが思ったとおり良い映画で、久し振りに日本映画に感動した。 

 映画『北辰斜にさすところ』製作委員会公式サイトより転載した、制作ノートを紹介してみたい。
 
その映画の舞台は鹿児島。旧制第七高等学校「造士館」(現在の鹿児島大学)校庭のファイアストーム。 青春を謳歌した寮生活、五高(現在の熊本大学)との年に一度の野球対抗戦・・・ そして、あの戦争。 “激動の昭和時代”を生きた男達が、いま映画づくりに立ち上がりました。 日本文化や精神性、学校教育の衰退が叫ばれています。もう一度、家族や国のあるべき姿を考えたい。
  名作「ハチ公物語」のほか「遠き落日」「ひめゆりの塔」などを手がけた神山征二郎 監督による、三國連太郎、緒形直人、林隆三ほか出演の映画『北辰斜にさすところ』 の九州ロケが、今年4月から11月にかけて熊本県や鹿児島県を中心に行なわれました。
  北辰とは北極星の別名で、”北辰斜めにさすところ”とは、北極星を斜めに見上げる 南国の地という意味で、七高寮歌(第十四回記念祭歌)の冒頭に出てくる歌詞でその 寮歌の名前にもなっています。

 いい映画でした。機会がありましたなら、是非見て下さい。

1008_img_1


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クロマグロなんて食べなくとも国は滅びない。

2010-03-22 11:23:13 | インポート

三月十九日(金)晴れ。

 午前中は事務所で仕事。テレビでは、「地下鉄サリン事件」や「国松長官狙撃事件」の特集を行っていた。平成七年の三月二十日に起こった、地下鉄サリン事件の時は、まだ赤坂に事務所があった頃で良く憶えている。事件が起きたのは、通勤ラッシュのピークである午前八時ごろ。霞ヶ関駅周辺は大パニックになった。

 幸いなことに、私が事務所に入るのは、いつも午前十時。新橋から地下鉄に乗り換えて赤坂見附で降りる。新橋に着くのは九時半ごろ。事件から一時間半が過ぎたといっても、新橋も赤坂見附周辺も異様な雰囲気で、混乱していた。当初は、オウムによるテロとは誰もが思わず、ガス漏れとの話が伝わっており、帰りは、タクシーで新橋駅まで行った。

 その後のオウムをめぐる騒動は、当事者ではないので、一般の傍観者と同じである。笑い話であるが、当時、女房が使っていたパソコンが、オウム関連のマハポーシャ製のノート・パソコンであった。現在は、故障して修理の出来ないまま、事務所の倉庫に眠っている。

 午後から、子供を送りながら、松原商店街の「魚孝」にて「マグロ」を買った。クロマグロがワシントン条約の規制から外れて、多くの日本人がホットしているが、そもそも、そんな高級マグロは、「食べる」ものではなく、「つまむ」もので、ガキやロクに味も分からぬ、若い者が食べるような魚ではない。回転すしの流行で、ガキ共が、一人前に、「マグロ」を食べるようになったが、これこそ亡国の極み。

 我々が子供の頃は、マグロなどは、正月ぐらいしか口にしなかった。すし屋などは子供の行く処ではなく、みやげに頂くものは、殆どが「かんぴょう巻き」の寿司。クロマグロなんぞ食べなくても、マグロの種類はいくらでもある。クロマグロか南マグロかなんて、食べて区別の付く者はほとんどいない。「マグロを食べなくてはならない」なんて言う、日本人の驕りこそ反省すべきである。

 夜は、友人が来訪して、我が酔狂亭にて酒。手作りのものは「キンピラ」のみ。後は、惣菜を持ち寄り、「晴耕雨読」と「いいちこ」で十一時まで。


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