白雲去来

蜷川正大の日々是口実

また大破・轟沈してしまった。

2010-06-10 07:18:43 | インポート

六月八日(火)曇り。

 午前中に「大吼」の最終校正を終えて、大行社の本部に向う。「大吼」の打合せや、諸々の会議を三時まで。事務所に寄ってから帰宅。

 

  鎌倉は、小町通りにある、和紙の専門店「社頭」の菊岡ノンコさんから、頼んでおいた私専用の便箋が届いていた。以前、何かの折に頂いたものだが、生来の悪筆である私でさえ、とても書きやすい和紙の便箋である。ノンコさんいわく、「最近はこうした和紙の職人が少なくなった」とのこと。大事に使わせて頂きます。

 

  そのノンコさんのご尊父は、詩人であり、小説家でもある菊岡久利先生である。昨年は、菊岡先生の生誕百年を記念して生まれ故郷の青森近代文学館において「菊岡久利生誕百年」の特別展が開催された。その折に、ノンコさんが講演したものや、菊岡先生に関する資料を、ノンコさんのご好意で「大吼」に掲載させて頂く。

 

  ちなみに菊岡久利先生の名は、師であった横光利一から、菊池寛、岡鬼太郎、久米正夫、横光利一の名前から一字ずつとって名づけられたそうだ。

 

  夜は、炉端焼きのお店「花笠」にて、蜷川政経懇を開催。清水常二氏を偲ぶ会のようになった。後輩と、関内へ転戦。仕上げはサリーの店へ。しかし調子が出て、野毛の「ヒロミの店」へサリーたちと繰り出し、一時近くまで飲んでしまった。


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誤った伝聞が一人歩きをしていた。

2010-06-09 21:17:24 | インポート

六月七日(月)曇り。

 そろそろ梅雨に入るので、気持まで憂鬱になる。午前中に歯医者。終了後は、ランドマークのスタバで、「上海歴史散歩」を読む。そこに興味深いことが書いてあった。

 

 それは、上海のバンドと呼ばれる河沿いの街並に沿って黄浦公園が続いている。(と言っても、地図を見てのことだが)解説によれば、黄浦江の河原を埋め立てて一八六八年に造られたそうで、当時は外灘(バンド)公園と呼ばれていた。(注「バンド」とは、いわゆる楽団のことではなく、bundと書き、「海岸通り」という意味である。かつて横浜の山下公園脇、現在のドンキホーテのある場所にあったのが、その「海岸通り」を意味する「バンド ・ホテル」だった。余談ではあるが、そのホテルに宿泊した作詞家の藤原洸が作ったのが淡谷のり子の歌った「別れのブルース」である。原題は「本牧ブルース」だったそうだ。その歴史のあるバンド・ホテルの跡地にドンキホーテなんか作りやがって、本当に金儲けしか知らない田舎者のすることは始末が悪い。)

 

 その旧外灘公園は、かつての植民地支配の象徴ともいえる外国人専用の公園で、悪名高き「犬と中国人は入るべからず」という看板が建っていたことでも有名である。

 

 その「犬と中国人はー」の看板だが、本当は、公園運営規則が数ケ条あって、「犬を連れてきてはいけない」、「外国人専用にて中国人の立ち入り禁止」という項目は別々に書かれていて、決して、中国人と犬を同列に扱ったものではないと言うことを知った。誤った解釈が、一人歩きしてきたわけだ。だからと言って上海や香港の植民地化を正当化するつもりはさらさらない。

 

 その気になって、スタバでつい長居をしてしまったせいで駐車料金で、スタバラテを五、六杯飲めるほどになってしまったのが大失敗。

 

 夜は、今夜も家飲みの禁を破って、札幌の社友の石澤博文君が送ってくれた特大の甘エビで一杯やった。いやはや酒好きにはたまらんですネェー。


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一日、自宅に居た。

2010-06-07 19:04:38 | インポート

六月六日(日)晴れ。

 珍しく今日は、日曜日だというのに、自宅から一歩も外に出なかった。午前中から「大吼」の夏号の最終校正を行なったり、それが終われば、「燃えよ祖国」の編集である。いつも遅れ遅れで、読者の方達には、正に平身低頭である。

  夜になって、何とか一段落したので、禁を破って家で一杯やった。仕事の段取りよりも、嬉しいことに、知り合いから大好物のカツオが送られてきたのである。昼食は、カツオで刺身定食とし、夜は、もちろんカツオで一杯やった。

 

 私は、カツオは、断然生姜とニンニク、そして長ネギをふんだんに切って食べる。ニンニクは、なぜかチューブに入っている、「生ニンニク」が合う。切る前に、カツオにニンニクをたっぷり塗って、その上から白髪ネギを沢山載せる。今の季節は、茗荷も良い。少し厚めに切って、生姜醤油で食べる。至福の時である。のんびりと、伴野朗の「上海伝説」(集英社文庫)を読みながら、ゆっくり飲んだ。

 

夜、藤井厳喜先生より電話あり。夏の参議院選挙で、「たちあがれ日本」から立候補するとのこと。皆さん、応援を宜しくお願い致します。

 


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無名烈士の八十六年忌法要に出席。

2010-06-06 15:17:08 | インポート

六月五日(土)晴れ。

 天気予報では、午後から雨、と言うことで、空を見上げたら曇っていた。十時、松本佳展君来訪。今日は、正午から青山墓地にある無名烈士の碑の前での法要があり、私も呼びかけ人の一人として出席した。

 

 無名烈士とは、大正十三年の五月三十一日早朝、赤坂の米国大使館となりの空き地において、米国の排日移民法に抗議して自決した、氏名不詳の烈士の事である。

 

 その自決に感動した頭山満翁らが発起人となり、青山斎場において、三万余の参加者を集めて追悼祭を挙行した。今年は、その烈士の自決より八十六年目を迎える。頭山満翁の子孫である頭山興助先生のご尽力で、戦後途絶えていた慰霊祭が復活した。幸いに天気予報がはずれ、真夏日となった慰霊碑の前で粛々と法要が執り行われた。

Dscf2052 ※法要の様子。慰霊碑の題字は頭山満先生の揮毫によるもの。

Dscf2053 ※ご焼香をする頭山興助先生。

 

 終了後は、南青山の蕎麦屋「藪」で直会。この店は蕎麦はもちろん酒のつまみも美味い。昼間から蕎麦焼酎を飲んだ。

 

 意見交換が始まり、尊敬する山浦嘉久先生が、先日の韓国の哨戒艇の撃沈事件は、米国の原潜の仕業、と仰っていた。確かに、産経新聞などでも、山浦先生説を裏付けるように、海上自衛隊幹部の話として、水深の浅い場所から魚雷を発射することは、とても高い技術が必要で、比較的技術度の高い、日本の潜水艦でも難しく、北朝鮮の潜水艦乗組員の熟練度に驚いている。というような記事も出ていた。

 

 しかし、私は、米国の原潜の仕業とは、にわかに信じがたい。それは、現地で捜査なり、当事者達に取材したならともかく、日本にいての資料だけでは、断定すること自体に無理があるのでは、と思ってしまう。確かに、言われてみれば、米国の仕業であり陰謀のような気もする。民族派を代表するような頭脳の持ち主である山浦先生がそう仰るのだから、それなりの根拠があるのだろう。それでもブッシュの時代ならともかく、オバマ政権になって、そんな冒険主義的なことを実践するのだろうか。

 

 もし、米国の仕業ということが、ばれた時に、米国とその国民の受けるダメージは計り知れない。恐らく、国際社会からそっぽを向かれ、国連も安保理も、米国の言うことなど聞かなくなるだろう。国際社会は、陰謀が渦巻いているのは良く分かる。先日のドバイにおけるモサドの暗殺事件などは、その氷山の一角かもしれない。それでも私は、無学ゆえ、決定的な証拠や科学的な裏付けのない理論は、参考にはするが、そのまま信じることはどうしても出来ない。何かと勉強になった直会であった。

 

 その後、有志で近くの「ライオン」に転戦。夕方に帰宅。そのまま寝てしまった。


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「実話ナックルズ」の編集長と一献会。

2010-06-06 12:33:35 | インポート

六月四日(金)晴れ。

 今日は夜六時から、関内駅にて「実話ナックルズ」の久田将義氏と待ち合わせての一献会を催す。久田氏は、「実話ナックルズ」の編集長であったが、このたび局次長という幹部となった。その報告とお祝いを兼ねた食事会である。

 

 思えば、久田氏とは長い付き合いをさせて頂いている。色々と一緒に仕事をさせて頂いたが、最初の出会いは、夏原武さんによる野村先生の特集だった。この出合いから、夏原さんや久田さんとの個人的なお付き合いが始まった。その後は、亡くなられた三浦和義さんや植垣康博さんとの鼎談や、民族派関係の取材など。

 一時期、ナックルズを離れていたが、カムバックしてから、また一段と雑誌が楽しくなった。私も編集者の端くれとして、見習いたいと思っている。

 

 南京街で、飲茶とも思ったが、昼間にお客と支那ソバ屋に行ったので、久し振りに関内のすし屋「写楽」にした。私は、すし屋に行くと、寿司をほとんどつままない。酒の肴専門で、刺身や焼き物をつまみに酒を飲み、仕上げに、かんぴょう巻など食べておしまい。従って、格式のあるすし屋では嫌がれるので、いつも馴染みの店に行く。伊勢佐木町にあった、好きなすし屋が銀座に行ってしまったので、最近は、この「写楽」か、自宅近く、永田の交番裏の「徳よし」、あるいは、その三軒隣の「浜一」に行く。

 

 「徳よし」は、以前は、吉野町にあった地元では知られた名店。ここの嬉しいのは、座ると、何も言わなくとも、お好みで、ツマミがタイミング良く出る。やはり寿司はほとんど食べない。

 

 「浜一」は、私の中学の三級先輩のオヤジがやっている。ちなみに、オヤジの妹さんは、同級生である。

 

 久田さんは、洋酒党で、仕方なくビールを飲んでいたが、私は焼酎のお茶割り。お茶は、寿司屋で出す濃い目の粉茶がいい。その後、一軒転戦してから、お決まりのサリーの店へ。残念ながらサリーは風邪で休み。サリーパパは、若いネェちゃんと同伴で飲みに行ったとの事。留守を守るのは、マリちゃんで、従って今日は「マリーズバー」である。

 

 そのマリちゃん、明日の朝五時羽田発のアシアナ航空で、二泊三日のソウルへ行くとの事。値段を聞いたら、何と一万九千円。凄いですネェー。

 

 十一時前に、久田氏を関内駅に送って帰宅した。


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