白雲去来

蜷川正大の日々是口実

「毅然とした対応」ってどんな対応なの?

2012-09-20 17:51:37 | インポート

九月十八日(火)晴れ。

 テレビのニュースを見るのが嫌である。朝起きて、せっかくいい気分でいようと思ってニュースを見ると、中国の反日暴動や尖閣諸島海域への圧力。これまで我が国が行った対中援助や様々な友好的な努力を全く無視している。「そんな国と国民」と言ってしまえばそれまてだが、すく隣に十三億もの国民を抱えた国が存在することを否定できないし、戦争をするわけにも行かない。

 

これからは、対中政策と言うものを大きく見直さざるを得ないだろう。当然だが、依存度を減らす努力や、防衛の備えも見直さなければならない。これが「冷静な対応」と言うものだ。政治家がこのような主張をしても国民は、その政治家を支持するのではないだろうか

 

良く、政治家が「毅然とした対応」を口にするが、具体的にどのように「毅然」とするのか示してほしいものだ。例えば、「毅然として〇〇の対応をします」とか、言ってほしい。まあ政治家の、「善処します」とか「〇〇します」とか言うのは、「しません」と同義語だから仕方ないか。

 

今日は、一日出かけずに真面目に仕事をしていた。頑張って休肝日。そういえば、「鰹」について調べていたら、芭蕉の「鰹」について詠んだ、有名な「鎌倉を生きて出でけん初鰹」の句碑が戸塚の富塚八幡宮にあることを知った。そのうちに行ってみようと思っている。


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子供の誕生日にかこつけて「颯」から「やまと」へ。

2012-09-18 15:42:56 | インポート

九月十七日(月)雨のち晴れ。敬老の日。

まだ寝ている時に、愚妻が青森から帰宅。子供たちは心なしか嬉しそうである。玄関に国旗を掲げ、久しぶりに全員で朝食。秋刀魚の塩焼き定食である。朝食後は、伊勢原の浄発願寺にお墓参り。

高速は渋滞もなく、四十分ほどで浄発願時に着。この辺りは彼岸花の群生地としても有名なのだが、生憎と時期が早いのか彼岸花は見えなかった。ご住職に挨拶をしてから先生のお墓へ。一昨日に、大悲会の若い人たちが来て、お墓を掃除して言ったらしい。お花もまだ新しい。家族で先生のお墓に手を合わせてから、私の両親のお墓へ。ここも大悲会の人たちによってきれいになっていた。供えられていたコスモスが綺麗だった。今日は、下の子供の十四歳の誕生日。両親にこれまで恙なく育ったことを感謝し、手を合わせた。お墓のそばに埋めた、我が家に十年もいた二匹の金魚の「キンコ」と「カンコ」にもお線香を供した。

来月の墓前祭の簡単な打ち合わせをご住職とした。ご住職いわく「野村さんが亡くなられてから十九年。毎月欠かさずお墓参りをするのは、ご家族以外では、大悲会の人たちと、蜷川さんたちだけですね。ご苦労様です」。来たくても遠方などの事情で来れない人もいる。私たちは、そういった人たちの分まで、手を合わせている。

権太坂の「グラッチェ」にて、家族で遅い昼食。久しぶりにスパゲティーを食べた。帰宅すると、愚妻が昨日青森から送った荷物が届いた。義母が育てた「みょうが」「メークイン」「とうがらし」や地元の名産品の数々だ。みょうが好きの私としては嬉しい限り。

夜は、下の子供の誕生会を、藤棚の鉄板焼の「颯(はやて)」にて。参加はカメ&アコちゃんとヒデちゃんと我が家の四人の計七名。このお店は、値段も安く料理も美味しい。子供たちにはハンバーグと、自家製のパンを。このパンもめちゃくちゃ美味しくて、気をつけないとつい食べ過ぎてしまう。

Dscf4932※ハンバーグと自家製のパン。

食事が終わったところで、カメ&アコちゃんやヒデちゃんが差し入れてくれたバースディケーキで誕生日を祝う。

Dscf4933※有難うございます。

遅くなってはいけないので、子供たちを先に帰してから、後はいつものようにダラダラと飲む。その後はお決まりの「やまと」へ転戦。

Dscf4938_2

※「颯」です。西横浜駅から国道を渡って、ガソリンスタンドの脇を入ってすぐです。

Dscf4947_2※仲良しの「やまと」のご夫婦。

ヘロヘロになって帰宅。


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今は臥薪嘗胆。いずれ暴支膺懲せよ。

2012-09-17 16:00:48 | インポート

九月十六日(日)晴れ。

まだ三十度近い残暑の日が続いている。しかし、今年の夏は、一度もクーラーをつけずに終わりそうだ。扇風機でこの猛暑を乗り切ったのには、我ながら感心した。

今日は二人の子供たちも、何の予定がないのか、のんびりと家にいる。小さい頃なら、何処かへ連れて行ってとうるさかったが、今ではそんなことも無く、一人は勉強、もう一人は静かにヘッドフォンで音楽を聴いている。私は、パソコンに向かい、資料整理。余り会話はないが、一つ屋根の下にいることだけで、かなり満足している。昼過ぎになって、二人そろって「お腹がすいたぁー」と側に来る。愚妻は、今日まで青森の実家に帰っているので、お父さんが、お母さんである。おやつを兼ねて「大学いも」と「パンケーキ」を作ってあげた。

連日、怒涛のような酒の日が続いたので今日は、誓って休肝日とした。従って夕食は、日本蕎麦のみ。食後に、レンタルしておいた「マーガレット・サッチャー」を見た。サブタイトルは「鉄の女の涙」。彼女の人生にそれほど詳しくはないが、例のフォークランド紛争の折の決断。アメリカなどが仲裁に入ってきても「侵略には断固とした処置をとる」と言って、軍隊を派遣したその決断力。野田さんにも是非、この映画を見て貰いたいと思った次第。

中国で、反日暴動が広がりを見せている。どんどんやればいい。やればやるだけ中国の国際信用は失墜し、外国資本は、いつかは自分たち、と思って投資を躊躇し、中国から逃げて行く。日本企業と言っても、従業員は皆、現地採用の中国人。その企業が撤退したら、困るのはどちらの方か。日本の企業も、ベトナムやインド、あるいはアフリカの国とコミニュケーションをとって、シフトすべき時に来ているのではないだろうか。中国とは、ある程度距離を置いてお付き合いするのが最善の策のように思えてならない。あの十三億の市場は、確かに魅力的かもしれないが、その市場を人質にとられたり、反対に利用されたりする方のリスクの方が大きいように思う。

経済の専門家ではないので、日本企業が中国から撤退したら、日本がどのくらいのダメージを受けるのか分からない。無責任と思われるかもしれないが、新型の核弾頭を搭載したICBMを開発し、もはや世界有数の軍事大国となった中国に対抗するには、我が国の政治家も国民の意識も、軍備もあまりにもお粗末である。だから、ここは多少経済的にダメージを受けても、今は臥薪嘗胆、いずれ暴支膺懲に立ち上がればいい。

あの暴動をテレビで見ていて、戦前の「通州事件」(ウイキペディアで調べてみてね。)を想起した人も多いのではないだろうか。人間は時間と共に進歩するものだが、全く変わっていない。困ったものだ。孔子や孟子といった哲学者や司馬遷のような偉大な歴史家や多くの文人墨客を生んだ面影のカケラも今はない。共産主義とは怖いものだ。


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政治家に、国難という意識を持ってほしいものだ。

2012-09-16 16:03:56 | インポート

九月十五日(土)曇りのち晴れ。

上の子供は学校へ。朝食を作るのが面倒なので、昼近くに下の子供を連れて近所の「たつ屋」で、中華定食を食べた。午後から、友人とお茶。その後、事務所にて郵便物の確認をしてから自宅に戻った。

夜は、子供たちに、チキンライス、「たつ屋」で頂いた「炒麺」を食べさせてから、カメ&アコちゃんたちと一緒に藤棚の「一休」寿司へ。いいカツオが入ったとのことで、出して頂いたが本当に美味しかった。「マツタケの土瓶蒸し」が出て、季節を感じた。その後、「やまと」へ転戦。

常連さんとは、皆挨拶を交わす仲となった。寿司屋からの帰りなので、軽めにつまんで、一時間ほどで帰宅。

ニュースでは、中国の各地において反日暴動が起きていることを報じていた。ふと日本人は、本気で中国とことを構える気があるのだろうかと思った。尖閣に大量の漁船が出てきて、トラブルとなり、もし漁船を沈めてしまって局地的な戦争が勃発したら、国民は戦う気概があるのだろうか。

中国は、これ以上、国内の反日暴動がエスカレートすれば、次は、間違いなく対日強硬路線をとり、尖閣に対する過激な行動に出てくるに違いあるまい。日本人は、「あってほしくない」ことは、「絶対に起こらない」、と思っている。日本人の常識や思い込みなど、他国には通用しないと言うことを知るべきである。今は正に国難。早く選挙をして政治家の覚悟を聞いてみたいものだ。


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一水会の結成四十周年の記念式典に出席。

2012-09-16 15:23:26 | インポート

九月十四日(金)晴れ。

三時過ぎまで、自宅にて仕事。原稿の下準備など、やろうと思うといくらでも仕事はある。来年の野村先生の二十年祭に向けて、野村先生が、河野邸焼き討ち事件にて獄中にいる頃から亡くなられるまでに様々な媒体に発表なされた物を年代別にまとめてみたいと思っている。生前に、先生が出版した単行本は八冊。それ以外に、「獄中日記」や対談した「時代に反逆する」がある。

また、野村先生について書かれた本も多数ある。たとえば「人間ドキュメント野村秋介」や「死んでも男」、「ドキュメント新右翼」、鈴木邦男さんが最近出版なされた「遺魂・三島由紀夫と野村秋介の軌跡」などである。絶版になってしまった本もあるが、そういったものを系統的にまとめてみたい。また、週刊誌の対談などの中には、単行本の中に収録されていないものもかなりある。そのほとんどは手元にあるが、再度確認して大宅文庫などに行ってコピーを取ってこようと思っている。

そんなことを考えながら、四時に松本佳展君に迎えに来てもらい市ヶ谷の旧私学会館にて行われる一水会の結成四十周記念の式典に出席。会場で大熊雄次、隠岐康の両氏と待ち合わせ。会場には、鈴木邦男、犬塚博英、四宮正貴の一水会の結成当時の先輩方がおり、元楯の会の人たちや、地方から出席した方や、久しぶりにお会いする方など、何か、同窓会のような雰囲気があった。

会場には、五百人余の人たちであふれ、それこそマスコミで活躍している気鋭のジャーナリストの人たちが大勢来ていた。余り出席者が多いので、来ていると思われる友人がどこにいるのかさっぱり分からない。スマン、スマン、オスマンサンコンと一人ごちていたら、本当にサンコンさんがいた。

木村代表の挨拶に始まって来賓は、西部邁、田原総一郎、猪瀬直樹、小林節、頭山興助の諸先生が祝辞を述べ、現職や元の国会議員が十数名も檀上に登って挨拶。民族派の関係者は五分の一程度で、後は、一般の人たちかマスコミ関係者だった。その他、外国の大使館関係者や芸能人の方たちも出席していた。恐らく全盛期の野村先生のパーティーでもこれほどの顔ぶれの人たちの出席はなかったと、感嘆した次第。

結成以来、機関誌の発行、五百回を超す勉強会、イラクやロシアでの活動など、様々な評価はあろうが、とてもまねのできる事ではない。そういった積み重ねの結果が、今日の記念式典に出席された人たちの質と数であろう。

一水会の四十年の歴史を紹介する五分ほどのビデオの中で、亡くなられた阿部勉さんや野村先生の映像が出てきた。このドキュメント映像の方は、余り良い出来ではなかったが、四十年の歴史を五分で紹介するのは大変だったに違いあるまい。

松山から来訪した、矢野隆三さんと大熊、隠岐、松本の諸兄らと共に個人的な二次会へ。その後、一軒転戦して横浜に戻った。


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