白雲去来

蜷川正大の日々是口実

横浜マラソン。

2015-03-17 10:48:46 | 日記
三月十五日(日)晴れ。横浜マラソン。

今日は、横浜で初めての市民マラソン「横浜マラソン」が開催される。群青忌実行委員長の隠岐康氏や知り合いが参加するので、応援に出かけた。何せスタートが八時半。朝食もそこそこに家を出て横浜スタジアム前で志村馨君親子と合流。参加者が多いらしくコースの規制が厳しく道路の横断が出来ない。仕方がないので目印の日の丸を掲げてコースの反対側で応援した。結果的にはこの方が良く、恐らくコース側にいたならば隠岐氏を発見できなかったに違いあるまい。

主催者発表では二万五千人もの人たちが走ったらしい。見ていてもすごい人手、隠岐氏を見落とさないように、目を凝らしてみているだけで、人に酔ってしまう。次からは応援場所を打ち合わせしておかなければ、と思った次第。結局、私たちよりも隠岐氏に発見してもらい応援が出来て良かった。サリーたちも本牧で応援をしてくれたとのこと。

レースの終了後は、ロイヤルパークの中華料理で打ち上げ。隠岐氏の記録は二時間十五分×二とのこと。東京マラソン、テニアンでのトライアイスロン、そして今日の横浜マラソンと、レースが続いている。少しは見習うとするか。私は、マラソンのはしごならぬ、いつもの飲み屋のはしご。ロイヤルパークから野毛のイタリアン、最後は前里町の「だんらん亭」で〆。お疲れ様でした。※疾走する隠岐康氏。

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アメ横から銀座へ。

2015-03-17 10:04:19 | 日記
三月十四日(土)曇り。

昼過ぎから、家族揃って「アメ横」へ行く。なぜ家族でアメ横なのか・・・。難しいことは分からないけれど、そこにアメ横があるから。としか言えん。急に思い立ってアメ横の秘密基地、台湾料理の「新東洋」で昼食を、ということになったのだ。なぜそう言うことになったのか・・・。アメ横に新東洋があるから。としか言えん。

バスと電車を乗り継いでアメ横着。土曜日とあって人が凄い。何を買う訳でもなくお店の品物にきょろきょろしながら彷徨っているうちに「スカジャン」の老舗、大熊商会の前に出た。桃太郎君が店番をしていた。ご挨拶をしてから新東洋へ。子供たちはこのお店の名物の「ロー麺」。私と愚妻は、昼間から紹興酒の「女児紅(じょじこう)」を楽しむ。因みにこの酒は、中国の浙江省の習慣で、女児が誕生した際に仕込んだ紹興酒をその子が嫁ぐまで寝かし、結婚の際に嫁ぎ先に持参するということにその名が由来する。我が家は娘二人、酒を寝かすどころか、こちらが寝込まないように気をつけなければならない。

食後は、銀座へ。何を買うものでもないが、文具の「伊東屋」と「博品館」に行きたいと言うリクエストに答えた。有楽町で降りるのは久しぶりのことである。有楽町と言えば頭に浮かぶことが二つある。私たちの世代の人は、恐らく「貴方を待てば雨が降る。濡れて来ぬかと気にかかる」のフランク永井のヒット曲「有楽町で会いましょう」のメロディーが浮かぶのではなかろうか。そしてもう一つは、数寄屋橋の交差点で演説をしていた愛国党の赤尾敏先生のお姿である。日劇もなくなりすっかり様変わりした有楽町から銀座に向かう。浪人暮らしには全く縁のないブランド品の専門店のビルを無視して伊東屋へ。子供たちは初めてなので嬉々として店内を見て回っている。しばらくしてから博品館に向かう。

子供たちがいなければ「ライオン」で「アイスバイン」を肴に「黒ビール」をと恨めしそうにビルを眺めていたら、テレビの街頭インタビューに捕まった。酔いもあって気軽に応じたら、何と「お年寄りの残尿感」のインタビューだった。当然子供たちは私から離れて行った。ギャグをかましたので恐らく私の映像はNGとなるだろうが、そうなってほしいものだ。

酒と暑さと歩きでヘロヘロになって帰宅。一日低予算ビッグな企画で家族サービス。小市民を実感した一日でした。

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『愛国戦線』の「経団連事件特集号」

2015-03-17 09:09:09 | 日記
三月十三日(金)晴れ。

二日酔いでも寝ぼけていても朝食が待ち遠しい、そして美味しい。一日の内で朝食が一番好きだ。ちなみに今日の朝食は、サバの文化干しに大根おろし添え、ナスの味噌汁、キャベツの糠漬け。正調日本の朝食。

午前中に子供の付き合いで、大学の入学書類に添付する「卒業証明書」を取りに行った。途中で子供と仲良しの女の子をピックアップして学校に向かう。三年間子供がお世話になった学校をカメラに収めようかとも思ったが、気恥ずかしいのでやめた。

昼食は、子供と友達と一緒に東戸塚のダイエーのビルの中にある焼肉屋で「カルビ定食」を食べたが、まあ大人の食べるような物ではなかった。仕方がないか。食後は地下の食品売り場で買い物をしてから帰宅。その後は事務所へ。

次号の『燃えよ祖国』にて昭和五十二年の三月三日に野村先生らが同志と共に決起した、いわゆる「経団連事件」の際の「檄文」や先生の裁判における「最終弁論」を「付録資料」として掲載しようと思ってバックナンバーをむ探したのだが、どうしても見当たらず、結局二時間を探し物で浪費してしまった。整理整頓ができていないと猛省。

「経団連事件」を扱ったものでは、事件の翌年(昭和五十三年)の四月に発売された『愛国戦線』の通巻百四十号、「特集・経団連事件」が良くまとめられている。津久井龍雄・永田美穂・須藤久・丸山照雄・相田浩といった人たちの事件への所感。更に弁護団の「冒頭陳述」弁護団の「最終弁論」、東京地裁の「判決文」が掲載されている。私が発行した「大悲ジャーナル」時代の「経団連事件特集」もその『愛国戦線』を参考にさせて頂いた。その他の批評やマスコミ報道も含めて「特集号」を新たに作ってみたいが、百万円近い経費を必要とする。従って計画の段階で足踏みしているのが現状である。せめて資料整理ぐらいはしなければと思っています。

夜は、酔狂亭で月下独酌。比較的静かな日々を過ごしている。不如意の折は静かにしているのが一番である。

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『決死勤皇 生涯志士』

2015-03-16 14:08:03 | 日記
三月十二日(木)晴れ。

朝から「ピピッとコンロ」が壊れた。東京瓦斯に連絡をして修理を頼んだが、朝食はカセットコンロで調理。昨日、四年前の震災について考えたばかりなのに、「不便」にイラつく。まだ修業が足りないか。

正午近くに同級生の会社を訪問。思いがけずに子供の合格祝いを頂き、昼食もご馳走になる。深謝して事務所へ。四時に帰宅し、子供を連れて松原商店街へ晩酌の肴を買いに行く。魚幸でマグロを買った。これが大当たりで、あっという間になくなってしまった。余り美味しいものを手出すと売れ行きが良くてダメだ。次はもう少し安い物にしよう。

お世話になっている作家の山平重樹さんから『決死勤皇 生涯志士』三浦重周伝(山平重樹著・並木書房・1800円+税)をご恵送頂いた。事務所のポストには「三島由紀夫研究会」からも同じ本が届いていた。三浦重周さんと言っても一般の方はほとんど知らないかもしれないが、民族派の活動家、理論家としては知られた存在で、「憂国忌」を長い間執り行って来た方だ。個人的には、私の主催の勉強会に来て頂いたり、晩年では「日本を糺す会」でもご一緒させて頂いた。その三浦さんが亡くなれたのはのは、今から十年前のことである。詳しくは山平さんの本を読んで頂きたいが、一人の男が節義を全うした生き様が描かれており感動する。


平成17年初冬、風雪にさらされる新潟港の岸壁でひとりの男が割腹自決を遂げた。自らを責め抜くようにして絶命した男は、政治結社重遠社を主宰した「三浦重周」そのひとだった。卓越した理論と高潔な人柄で後進を育て、幾多の国士と刎頸の交わりを重ねていた三浦の自裁は、「信念」を貫くためか、「個性」に殉じたのか…。新左翼運動が猖獗を極める昭和45年、新民族派運動に身を投じた早大生の三浦は「三島事件」に慟哭し、その後、死の直前まで35年にわたって「憂国忌」の活動に深く関わる。本書は「決死勤皇 生涯志士」を座右の銘にした三浦重周の孤高の闘いをたどり、彼を取り巻く多彩な青年群像をいきいきと描く。民族派運動の苦闘の歴史をも俯瞰した著者渾身の力作!(表紙見返しより)

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大震災から四年か。

2015-03-16 13:35:29 | 日記
三月十一日(水)晴れ。東北大震災慰霊の日。

四年前の今日は後輩の結婚式に出席するために友人らと札幌にいた。空港に迎えに来て頂いた山本和八君の車で市内に向かう途中。運転をしていた山本君が「車が揺れていますよ。地震ですかね」と言うので、全く揺れを感じていなかった私たちは、「太り過ぎで眩暈がしたんじゃないの」などと軽口を言い合っていた。

札幌の商店街の中にある「牡蠣小屋」のようなお店に入って安着祝いを行っている時に、お店の備え付けのテレビを見ていた人たちから「おーっ」と驚きの声が上がっている。何かと思ってテレビを見ると、津波が押し寄せている所の緊迫した場面が写っていた。その津波は畑の上を通り、道路を走っている車を今にも飲みこみそうだった。私たちは、テレビの画面に向かって、「早く逃げろ」と叫んだ。

その後、地震に関する各地の様子が映し出され、地震の被害の大きさを知った。横浜のビルの壁が崩れ落ちたり、道路にひびが入った映像を見て、不安になり家族と連絡を取ったが、全く電話が通じない。明日の結婚式を地元の同志諸兄に託して横浜に帰ろうかと思ったが、飛行機会社にも連絡が取れない。そのうちに家族と電話が繋がり、全員の無事を知りホッとした。ホテルに着いても、中々寝付かれず朝まで震災に関するニュースを見ていた。

この震災の教訓。我が家では風呂水を、新しいのと入れ替えるまで捨てない。飲料水をペットボトルで常に半ダースほどストックする。懐中電灯や携帯ラジオを常備。(事務所にも予備を置く)もし何かあったら家族の集合場所を決めた。家さえ潰れなければ、アウトドアー用品が沢山あるので一月ぐらいはテント生活でも不自由しない。まあ最低この程度の「備え」はしている。全国に社友や同志が大勢いるので流通が復活すればそれほど困ることはないが、それもあくまで自宅にいた時のことだ。治にいて乱を忘れず、備えあれば憂いなしである。

追悼祭では、母親を津波で亡くした女性が追悼文を読んでいたが、思わずもらい泣きをしそうになった。大震災で亡くなられた方々にご冥福を。

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