(つづき)
今回はやや番外気味。
西鉄のサイトの「にしてつ時刻表」において、「行先番号別の運行路線地図から選択」で任意の地区を選び、「1番」を選んで表示された地図を「広域」にすると、画像のような地図が出てくる。
前回の「エンギモノ」で、飯塚地区の「1番」は"福岡、北九州、久留米など、他地区の「1番」と比べるとかなり地味な印象"と書いた。
このブログを読んでいただいている方の大半はおわかりのこととは思うが、ひとくちに、「西鉄の1番のバス」と言っても、福岡県内至る所に「1番」が走っていることがわかる。
そして、これら「1番」の相互間にはほとんど関連がなく、それぞれの地区の「代表」として活躍している(「代表」とは呼べない例外のケースもあり)。
同じことを「41番」でやってみると、福岡県を斜めに横切る、途中が少しだけ切れた直線が表示される。
福岡市中心部から雑餉隈までの「41番」と、二日市から杷木までの「41番」である。
これらの2路線にも、直接的な関係はない。
ただ、元をたどれば「天神~博多駅~二日市~甘木~杷木方面」を結んでいた「40番」がベースとなっているという点では「つながり」がある。
県内至る所に「1番」が走っているとはいうものの、西鉄バスの行先番号は「1から順に番号を付けた体系がいくつか存在する」というだけでは説明しきれない部分が多々ある。
その「体系」の外縁部や、2以上の「体系」がクロスオーバーするようなエリアにおいては、どの「体系」に属するかを一概には判断しづらい番号も多くなっている。
現在、二日市~杷木を走っている「40番」は、もともとは福岡都市圏の「体系」に属していたが、福岡市中心部に乗り入れなくなっても「40番」のままであり、福岡市内には新たに全く別の「40番」(博多駅~板付7丁目)が登場しており、もともとの「40番」は、宙に浮いたような状態にある(あくまで「体系」という観点から見た場合の話)。
二日市~上西山を走る「24番」も、番号としては異質であり、もともとは飯塚地区の「体系」に属していたのではないかという推測もできる。
宇美~太宰府の「4番」も、もともとは二日市地区の「体系」に属していたが、今や、宇美地区の「体系」(空港循環線など)の一構成員としたほうがよさそうな気もする。
結局のところ何が言いたいのかがわからなくなってきたが、西鉄バスの行先番号は、単なる「番号」ではなく、その数字が持つ意味を直接・間接に伝えている「名前」的な側面が多分にあって、それが面白いなぁと思うのである(いつもぼやーっと考えていることを文章化しようと試みたが、いまいち伝わりづらいですかね…?)。
(つづく)
今回はやや番外気味。
西鉄のサイトの「にしてつ時刻表」において、「行先番号別の運行路線地図から選択」で任意の地区を選び、「1番」を選んで表示された地図を「広域」にすると、画像のような地図が出てくる。
前回の「エンギモノ」で、飯塚地区の「1番」は"福岡、北九州、久留米など、他地区の「1番」と比べるとかなり地味な印象"と書いた。
このブログを読んでいただいている方の大半はおわかりのこととは思うが、ひとくちに、「西鉄の1番のバス」と言っても、福岡県内至る所に「1番」が走っていることがわかる。
そして、これら「1番」の相互間にはほとんど関連がなく、それぞれの地区の「代表」として活躍している(「代表」とは呼べない例外のケースもあり)。
同じことを「41番」でやってみると、福岡県を斜めに横切る、途中が少しだけ切れた直線が表示される。
福岡市中心部から雑餉隈までの「41番」と、二日市から杷木までの「41番」である。
これらの2路線にも、直接的な関係はない。
ただ、元をたどれば「天神~博多駅~二日市~甘木~杷木方面」を結んでいた「40番」がベースとなっているという点では「つながり」がある。
県内至る所に「1番」が走っているとはいうものの、西鉄バスの行先番号は「1から順に番号を付けた体系がいくつか存在する」というだけでは説明しきれない部分が多々ある。
その「体系」の外縁部や、2以上の「体系」がクロスオーバーするようなエリアにおいては、どの「体系」に属するかを一概には判断しづらい番号も多くなっている。
現在、二日市~杷木を走っている「40番」は、もともとは福岡都市圏の「体系」に属していたが、福岡市中心部に乗り入れなくなっても「40番」のままであり、福岡市内には新たに全く別の「40番」(博多駅~板付7丁目)が登場しており、もともとの「40番」は、宙に浮いたような状態にある(あくまで「体系」という観点から見た場合の話)。
二日市~上西山を走る「24番」も、番号としては異質であり、もともとは飯塚地区の「体系」に属していたのではないかという推測もできる。
宇美~太宰府の「4番」も、もともとは二日市地区の「体系」に属していたが、今や、宇美地区の「体系」(空港循環線など)の一構成員としたほうがよさそうな気もする。
結局のところ何が言いたいのかがわからなくなってきたが、西鉄バスの行先番号は、単なる「番号」ではなく、その数字が持つ意味を直接・間接に伝えている「名前」的な側面が多分にあって、それが面白いなぁと思うのである(いつもぼやーっと考えていることを文章化しようと試みたが、いまいち伝わりづらいですかね…?)。
(つづく)
さて、もともと二日市地区のバスは宇美営業所の所管だったのではないかと思います。○に「宇」のマークのバス達が吉木線や二日市温泉循環の路線を走っていました。「太宰府―宇美」というのも、当時は「二日市―関屋―宇美」であり、その半分くらいは、松川折り返しでした。
いつの頃からか、○に「二」マークのバスが走り出すようになり、どうも西鉄駅前の操車所を営業区か車庫扱いとして一般には「二日市営業所」と言うようになったようです。その後で原に正しく営業所ができ、それからずい分経って、分社化され二日市交通、西鉄バス二日市となったと思います。
これらのバスは全て「二日市線」と総称されており、無番であり、番号が割り当てられたのは、二日市交通になってからではないでしょうか。
ただ、「二日市―上西山線」は、元々冷水峠を越えて飯塚と結ぶ路線であり、飯塚営業所の所管であったと思います。○に「飯」マークであったと記憶しています。昭和の終わり頃には、朝倉街道からの飯塚行きが1日1往復だけ残っていました。勿論、上西山折り返しの便も含めて、無番です。
これも二日市交通に束ねられることになり、飯塚までの便はなくなりました。24番という番号が割り当てられたのも、この頃だと思います。
分社化の前に一旦新設の二日市営業所の所管となったか否かは定かではありません。
40番に番号が割り当てられたのは、もっと古く、おそらく昭和40年代だったと思います。(あまり自信はありません)その頃に、上り便の行先表示が、「福(天神)岡」から、「山田・博多駅経由天神」に変わり、「都市間長距離路線」から「近郊路線のうちの長大路線」へと意識が変わったものと思います。
板付線は、麦野経由も金隈経由もどちらも7番でしたが、ずい分後になって、41番、43番という番号が割り当てられました。
44と45、47と48などの双子的な番号の割り振りもこの前後だったと思います。(46番はちょっと古い。)42と49はもっと新しい。
>もともと二日市地区のバスは宇美営業所の所管だったのではないかと思います。○に「宇」のマークのバス達が吉木線や二日市温泉循環の路線を走っていました。「太宰府―宇美」というのも、当時は「二日市―関屋―宇美」であり、その半分くらいは、松川折り返しでした。
もともとは宇美営業所の管轄だったんですね。
昭和58年頃の時刻表でも、宇美~関屋~二日市~吉木方面へ運行される便が数便ありますので、その名残なのかもしれません。
おっしゃる通り、このころはまだ全て無番でしたので、番号が固定されない分、いろんな系統を設定できたのかもしれませんね。
>ただ、「二日市―上西山線」は、元々冷水峠を越えて飯塚と結ぶ路線であり、飯塚営業所の所管であったと思います。○に「飯」マークであったと記憶しています。昭和の終わり頃には、朝倉街道からの飯塚行きが1日1往復だけ残っていました。勿論、上西山折り返しの便も含めて、無番です。
>これも二日市交通に束ねられることになり、飯塚までの便はなくなりました。24番という番号が割り当てられたのも、この頃だと思います。
なるほど…。ということは、「24番」が飯塚地区の連番と考えるのは無理があるのかもしれませんね。
「24」という数字はどこからきているのか…謎です。
>44と45、47と48などの双子的な番号の割り振りもこの前後だったと思います。(46番はちょっと古い。)42と49はもっと新しい。
「47」と「48」はその通りだと思いますが、「44」と「45」はもう少し後だったかもしれません。
南本町経由も「45」だったのが、あるとき「44」に変わった記憶がかすかにあります。
「42」と「49」は新設時の記憶があります。
当初は「42」「44」「49」という、「忌み番号」を飛ばして番号を付けていたのが、後に番号が足りなくなって、これらにも手を付けざるを得なかったということではないかと思っております。
麦野経由と金隈経由が「41」「43」と、番号がとんでいる訳が今わかりました。なんと、30年ぶりくらいか、いや、もっとか…
「7」番から分かれた時、「42」を空けたのは、西鉄がきっと新たな関連路線を考えているのに違いない、と思ったのですが、長く欠番のままで、やっとできたと思ったら、全く関連のない新路線に割り振られたので何がなんだかわからぬまま、今まで過ごしておりました。(笑)
南本町経由の「44」は、筑紫通りが大牟田線を越えて全通したのを契機に路線が敷かれたと思いますが、確かに当初は「45」で、諸岡線(井尻経由と南本町経由)と時刻表に記載されていたように思います。
それにしても、筑紫通りと大牟田線の立体交差は、今後大牟田線の連続高架化には支障となるのでは…東京の西武池袋線では同じようなケースで、数年かけて立体交差の上下を入れ替えるという大工事をしましたが、筑紫通りの立体交差は周囲が建て込んでいるので、無理かな。結局電車はあそこだけ地平に降り、上がったり下がったりを繰り返す構造になるのかな…
「忌み番号説」は、あくまで個人的な見解であり、おっしゃるように「42」として板付地区の関連路線を考えた可能性もあるのではないかと思います。
過去の番号をみても、必ずしも「4」や「9」などを避けて付けているとはいえない面もありますし…。
なお、筑紫通りは、大牟田線の高架により、陸橋を廃止して平面化される計画になっています。
調べ物をしておりましたらこちらにたどり着きました。
「1番」といえば、
私がよく利用する「51番 柏原~九大病院・県庁前行き」なのですが
赤坂門のバス停を越え、明治通りに入ると
「1番」に変わるのですが
それが毎回小さなギモンになっています。
県庁からの下りは最初から51番のままなんですけど;
なんなんでしょうかね~
コメントありがとうございます。
この春から、都心部を走るバスは番号の統一が行われるようになりました(3/16と3/18の記事に詳しく書いています)。
赤坂門から先は、
県庁・九大方面行きはすべて「1番」、
博多駅行きはすべて「3番」となり、
そのほかでもいろいろと「統一」が行われています。
これまでは、都心部から県庁方面や博多駅に行くバスが、全く同じルートであるにもかかわらず「1番」「12番」「13番」「51番」…など複数の番号が存在したのですが、それをひとつにまとめることにより、都心部からバスに乗る人にとってわかりやすくしたものです。
一方、下りは「行先」がそれぞれ異なるため、番号の統一はしていません。
この方策については、賛否両論あるようです。
今後とも、よろしくお願いします。
・・・ほんとだー 知らなかったです・・・。
喉の痞えが取れました。
ありがとうございました!!!
ちなみにわたくしはK局リスナーです。
お役に立ててよかったです。
>ちなみにわたくしはK局リスナーです。
おお!そうなんですね。
最近はラジオ関係のことはあまり記事にしていませんが、以前はK局のこともいろいろと書いてますので、もしよかったらごらんください。