新年一発目の記念競輪となった立川記念。東日本での開催ですが今日の決勝(動画)には,東日本からはひとりしか進めませんでした。
やや牽制気味の発走から荒井選手がSを取って前受け。村上選手が4番手に入り,神山選手は近畿中部を追走。7番手に浜田選手という周回になりました。
残り2周のホームから浜田選手が上昇。そのまま緩めずにバックで荒井選手を叩き,このラインが出きりました。村上選手と荒井選手が4番手を争う態勢になりましたが,打鐘から村上選手が発進。ホームでは浜田選手を叩き,このラインが出きっての先行。これを荒井選手が早めに捲って出ると,番手の山口選手,逃げた村上選手本人の抵抗を凌いで捲りきり,このラインで直線勝負。番手から差した紫原選手が優勝。荒井選手が2着に残り,3着も島田選手で九州の上位独占となりました。
優勝した福岡の紫原政文選手は,今開催は4日間とも荒井選手の後ろを回り,4日間とも差して1着という完全優勝。基本的には荒井選手が強かったともいえますが,本人の調子もかなりよかったのではないかと思います。記念競輪は久しぶりで,おそらく1998年12月の岐阜記念以来の優勝と思われます。
明日は船橋記念です。一応は力でプライドキム◎,ディープサマー○,シルヴァーゼット▲。しかし最大の注目はジルディーディー△で,あとベルモントギルダー△。
スピノザの哲学では,基本感情は喜びと悲しみ,そして欲望です。よって,働く限りでの精神に関する欲望も,これら三種類の欲望のいずれかです。これが第三部定理五九を証明する際の大前提となります。
本来はこの定理は,働く限りでの精神から,喜びという感情と欲望という感情は生じると証明されるべきです。しかし現在の考察の流れの中では,働く限りでの精神からは,悲しみという感情は生じ得ないということだけ導き出せれば十分ですので,ここではその線に沿って,いわばこの定理を消極的な観点から証明することにします。
働く限りでの精神とは,どんな精神であれ,その精神が能動的であるということを意味します。よってこれは第三部定義二により,ある精神が十全な原因である場合を意味します。そこで,ある精神が十全な原因となって,悲しみという感情が結果として生じると仮定してみます。
第三部諸感情の定義三により,悲しみは,大なる完全性から小なる完全性への移行ということを意味します。したがってこの仮定は,ある精神が十全な原因となって,この精神が大なる完全性から小なる完全性へと移行するという意味であることになります。しかるにこれは不条理です。なぜなら,第三部定理七により,どんなものも,それ自身の完全性すなわち実在性を維持することが,その現実的本性として備わっているからです。この定理は当然ですが精神にも妥当します。よって,ある現実的に存在する精神が,十全な原因となって,その精神の完全性を低下させるということはないのです。つまり精神が能動的である限り,悲しみという感情は生じないということになります。
これは逆に考えれば,人間が悲しみを感じるのは,自分自身が感情に対して十全な原因となっていないからであるということを意味します。すなわち僕たちは僕たち自身が自分の感情に対して部分的原因であるにすぎない場合,いい換えれば,僕たちが受動的である場合にのみ,悲しみという感情を抱くということになります。
やや牽制気味の発走から荒井選手がSを取って前受け。村上選手が4番手に入り,神山選手は近畿中部を追走。7番手に浜田選手という周回になりました。
残り2周のホームから浜田選手が上昇。そのまま緩めずにバックで荒井選手を叩き,このラインが出きりました。村上選手と荒井選手が4番手を争う態勢になりましたが,打鐘から村上選手が発進。ホームでは浜田選手を叩き,このラインが出きっての先行。これを荒井選手が早めに捲って出ると,番手の山口選手,逃げた村上選手本人の抵抗を凌いで捲りきり,このラインで直線勝負。番手から差した紫原選手が優勝。荒井選手が2着に残り,3着も島田選手で九州の上位独占となりました。
優勝した福岡の紫原政文選手は,今開催は4日間とも荒井選手の後ろを回り,4日間とも差して1着という完全優勝。基本的には荒井選手が強かったともいえますが,本人の調子もかなりよかったのではないかと思います。記念競輪は久しぶりで,おそらく1998年12月の岐阜記念以来の優勝と思われます。
明日は船橋記念です。一応は力でプライドキム◎,ディープサマー○,シルヴァーゼット▲。しかし最大の注目はジルディーディー△で,あとベルモントギルダー△。
スピノザの哲学では,基本感情は喜びと悲しみ,そして欲望です。よって,働く限りでの精神に関する欲望も,これら三種類の欲望のいずれかです。これが第三部定理五九を証明する際の大前提となります。
本来はこの定理は,働く限りでの精神から,喜びという感情と欲望という感情は生じると証明されるべきです。しかし現在の考察の流れの中では,働く限りでの精神からは,悲しみという感情は生じ得ないということだけ導き出せれば十分ですので,ここではその線に沿って,いわばこの定理を消極的な観点から証明することにします。
働く限りでの精神とは,どんな精神であれ,その精神が能動的であるということを意味します。よってこれは第三部定義二により,ある精神が十全な原因である場合を意味します。そこで,ある精神が十全な原因となって,悲しみという感情が結果として生じると仮定してみます。
第三部諸感情の定義三により,悲しみは,大なる完全性から小なる完全性への移行ということを意味します。したがってこの仮定は,ある精神が十全な原因となって,この精神が大なる完全性から小なる完全性へと移行するという意味であることになります。しかるにこれは不条理です。なぜなら,第三部定理七により,どんなものも,それ自身の完全性すなわち実在性を維持することが,その現実的本性として備わっているからです。この定理は当然ですが精神にも妥当します。よって,ある現実的に存在する精神が,十全な原因となって,その精神の完全性を低下させるということはないのです。つまり精神が能動的である限り,悲しみという感情は生じないということになります。
これは逆に考えれば,人間が悲しみを感じるのは,自分自身が感情に対して十全な原因となっていないからであるということを意味します。すなわち僕たちは僕たち自身が自分の感情に対して部分的原因であるにすぎない場合,いい換えれば,僕たちが受動的である場合にのみ,悲しみという感情を抱くということになります。