スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

スピノザ 実践の哲学&第五部定理二二

2014-06-13 19:09:32 | 哲学
 『スピノザと表現の問題』が,ドゥルーズの徒弟時代のスピノザの哲学の研究の集成であるとするなら,後にドゥルーズ自身がひとりの哲学者として認められるに至った後,自身の哲学的立場からスピノザの哲学を研究した集成が,『スピノザ 実践の哲学』です。『スピノザと表現の問題』が発表されたのが1968年。『スピノザ 実践の哲学』の方は1981年ですから,その間には13年の歳月が流れていたことになります。
                         
 6章に分けられています。ただし第一章はスピノザの生涯に関する概説。『スピノザ入門』では,スピノザがラビになるべく教育されたというのは事実ではないと示されていますが,ドゥルーズがこれを書いた当時は,まだそれが正しいとされていたようで,そう説明されています。ただこうした誤りは大した問題ではありません。それから第四章は『エチカ』の主要概念集となっています。「観念は表象する」という,かつて僕が用いた語句は,この部分で使われています。
 これらのふたつはドゥルーズの哲学思想の表明とはいい難く,実質的にこの本の主要部は残るよっつの章から成り立っているといえるでしょう。第二章はモラルとエチカの相違について,そして第三章は悪についてで,この第三章が僕にとっては最も示唆に富む内容でした。第五章は『知性改善論』が未完成となった理由についての論述で,ドゥルーズのいうところは分かりますし,全面的に間違っているとはいえないと思いますが,ただこの理由だけで,その未完成を十分に説明できるとは僕は考えないです。
 第六章は「スピノザと私たち」という題名。この本が実践の哲学と名付けられたのには,この章が大いに関係しています。実践ということはスピノザ自身にとって,思想そのものよりも重要であったかもしれません。そのことが現代の人間にとってどのような意味を有するのかということが,主要なテーマです。
 原著は旧版と新版があり,新版化される際に印刷上の誤植と遺漏があるとのこと。日本語版は修正されていますが,新版のフランス語版はもとより,英語版やドイツ語版はそれがなされていないとのことなので,手にする場合にはお気を付けください。

 第五部定理二九備考の前提になっているのは,第五部定理二三備考だけではありません。現実的に存在する有限知性が事物を持続の相の下に認識するのは,その有限知性が持続の相に存在するからです。一方,事物を永遠の相の下に認識する場合には,その知性自体が永遠の相の下に存在するからだと僕は考えます。いい換えれば,現実的に存在する有限知性が事物を永遠の相の下に認識する思惟作用は,その有限知性が持続の相の下に説明される限りにおいて成立するのではなく,永遠の相の下に説明される限りにおいてであると僕は考えます。
 知性とは観念の総体のことであり,観念は第二部公理三にあるように思惟の様態の第一のものです。なので現実的に存在する有限知性が,持続の相の下に存在するばかりでなく,永遠の相の下にも存在しているということは,第二部定理八系から明らかです。そしてこの限りにおいてその知性が事物を永遠の相の下に認識することが可能であるということは,第一部定義八説明の永遠性と持続性の峻別の仕方から,そうでなければならないように僕には思えるのです。
 現実的に存在する人間の精神にだけ目を向ければ,それが永遠の相の下にも存在しているということは,第五部定理二二で表明されています。
 「しかし神の中にはこのまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する」。
 これは,一般に事物の本性が永遠の真理でなければならないということに注意するなら,第一部定理二五から帰結させられます。人間の身体の本性の原因は神の本性なので,第一部公理四により,人間の身体の本性の観念のうちには,永遠性を表現する神の本性の観念が含まれているからです。また,僕のように無限性を把握するなら,現実的に存在する人間の精神の本性を構成する観念対象ideatumがその人間の身体であるという第二部定理一三に注意する限り,人間の精神が神の無限知性の一部であるということを示している第二部定理一一系からも証明できています。とりわけこの系は,現実的に存在するあらゆる知性に妥当するので,人間の精神に限らず,あらゆる精神についての証明にもなっています。
コメント
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